7 婚約者
また預言。
慣れつつある感覚に、ジネヴラは気が遠くなる。
先日登城した後、疲れはてて動けなくなってしまったほどだ。
三日ほどごろごろして、漸く神殿のなかを動けるようになったのだ。
だがそんなことはお構いなしに、不快感と共に多幸感が襲ってくる。
あの神経伝達物質が、内在性オピオイドが悪さをしているのだ。
カシェルがアデラと歩いている。
アデラはまるで恋しているかのようで、カシェルはそれに戸惑っているが、それでも、どこか嬉しそうに微笑んでいる。
ジネヴラの胸がチクリと痛んだ。
ダリル王子が、二人をみている。
彼もアデラが好きだったのだろうか。
彼はジネヴラを同志と言っていた。
ならばこの痛みを、彼も共有できるのではないかと、バカなことを考えてしまう。
急に反転したなかで、アイザック王子がダリル王子を襲った。
ダリルはそれで気が振れてしまい、そして、マヨルカ国は戦争を起こしていく。
何故かそれはカシェルが引き起こしたのだと、そして彼は捕らえられて。
そして翻る、虎と熊の旗。
『ふたたびそなたに目印を渡そう。白く清き鳥は私の化身。その時は私を追いかけるが良い』
預言が訪れるのは唐突で、そしてすぐに対処しなければならないものだとジネヴラはわかりはじめていた。
ちょうど用事もあったので登城するつもりではあった。
その時はこんな障害が現れるとは思いもしなかった。
「お前があの聡明なアデラ王女に嫉妬してるっていう朗詠師か?」
やたらに気障なポーズをとり、くるくると回る茶髪の男に、ジネヴラは城門を越えたところで通せんぼされた。
「あ、あの。貴方は?」
「見てくれは中の上。ねえ、どうしてそう愚かなのかな。それは身分を弁えてないせい?知恵遅れで身の程を知らないから?それとも自信過剰?あれ?」
男はジネヴラが持っている紙袋をちらとみて、ずかずかとジネヴラとの距離を詰めた。
茶色の髪に同じ色の瞳の男に、ジネヴラは見覚えがあった。
先の催しで雛壇にいた、主役の美丈夫のはずだ。
断言できないのは、何処かそのときと彼の雰囲気が違うせいだろうか。
「ふぅん。クッキーか?甘いにおいがする。もしかして男に貢ぐために持ってきたのか?」
「これは。お礼に持ってきただけです」
「なんのお礼なんだか。体を捧げたお礼?こんな色気のない身体だ。抱いてもらうだけでありがたいってことか」
彼は茶色の瞳を歪めて、ジネヴラを嘗めまわすように上下に視線を動かした。
あまりに下賤な物言いに、ジネヴラは言葉を失った。
最初は何を言っているかわからなかったが、品定めするかのようなその視線もあって、漸くわかってきた。
「その風変りな髪の色と金の妖しい瞳で、王子と騎士を篭絡したのか?気味が悪くて俺のタイプじゃないが、フリーク趣味ならそういうの、あるかもな」
黙っていると、男はジネヴラから紙袋を奪った。
「返してください」
取り返そうとするが、ジネヴラのほうが背が低い。
男は乱雑に紙袋を振って挑発した。
かさかさと、袋の中身が動く音がした。
「媚薬でも入ってるんじゃないか?これ。味ききしてやるよ。何か期待してるのか?はは、本当に身の程を知らないらしい」
男から紙袋を守るため背伸びして不安定なジネヴラの手を掴んで、男が自分の方へ引き寄せる。
紙袋が地面に落ち、軽く高い音、恐らく中身が損壊した音が響く。
「なんだ、思ったより胸あるな。は、ほっそい腰。まあまあそそるか」
ぴたりと密着し、男の手がジネヴラの身体をまさぐる。
不快感から、ジネヴラは必死で身を捩るが、びくともしない。
「やめてください、やめて」
「抵抗してるつもりで誘ってんだろ。いいね、ちょっとはその気になる」
耳元に生暖かい息を吹きかけられ、悪寒がはしる。
同時に服を捲られて、ジネヴラはひゅ、と息を飲んだ。
悔しくて視界が歪む。
這い上がってくる手に、吐き気がして目を閉じる。
弛んだ涙腺から、一粒涙が溢れた。
「彼女を離せ」
後ろから引っ張られる感覚がして、ジネヴラの体が男から離れる。
驚いて振り返ったジネヴラの視線の先には、ダリル王子がいた。
「アイザック王子。城内でふしだらな真似はよしてください。まして貴方はアデラ王女の婚約者。アデラ王女にも失礼では?」
アイザック王子と呼ばれた茶髪の男は、おどけたように肩を竦める。
「俺が責められるのか?そっちが誘ってきたんだ。俺は断ったのにどうしてもってな。お前だって同じクチだろ?」
「君の言っている意味が分からない」
ダリルは語気を強めて、アイザックを見据える。
「お前だって、この女に言い寄られて良い思いしてるんだろ?」
「馬鹿馬鹿しい…。そんな目で彼女を見ているのか、貴方は」
このまま理詰めにして排斥するのは簡単だが、外交として得策ではないことが、彼にはわかっていた。
加えて泣いて震えるジネヴラを前に、ダリルは優先すべきを弁えていた。
「根も葉もない噂に踊らされず、以後、身の振り方には気を付けた方がいいですよ」
ダリルは一刻も早くアイザックから離れようと、素早く踵を返す。
ダリルは落ちた紙袋を拾ってジネヴラの手をとり、彼女をアイザックから隠して歩を進める。
目指すのは先ほど不届きものに睨みを効かせたばかりの、庭園の方だ。
彼らが戻って与太話に話を咲かせているとしたら大下八郎ーー大した野郎、肝の座った逸材だ、雇っても良い位の気概だ。
彼はジネヴラの手をきつく握った。
一人残されたアイザックが、不機嫌そうに口もとを歪ませる。
「何だあいつ。カッコつけやがって」
アイザックは腹立たしげに地面を蹴る。
小さな石が生け垣に飛んでいき、どこかへ消えた。
「気に入らないな。アデラに捨てられたくせに。俺をバカにしやがって」
その声は、二人には届かなかった。
「大丈夫かい?」
「はい。すみませんでした」
ジネヴラを庭園に無造作に置かれた石の椅子に腰かけさせ、ダリルは柔らかに笑んだ。
緩められた瞳は優しい色で、ジネヴラはほっと胸を撫で下ろす。
「謝ることはない。アイザック王子は思ったより奔放な方のようだ」
ダリルの気遣いが申し訳ない程に心に染みて、先ほどの恐怖心が嘘のように引いていくのを、ジネヴラはしみじみと感じていた。
ふと、ダリルの目が何かをとらえて探すように動いた。
「これは」
「あ」
ダリルはジネヴラが握りしめていた袋にふわりと触れる。
バターと砂糖の甘い香りが、微かに漏れた。
ダリルは包み込むようにジネヴラの手を握り、その手からそっと紙袋を外させた。
「良い匂いがするね」
そういって、ダリルは手にした紙袋の中からクッキーを取り出した。
丸い形だったはずのそれは、所々欠けて歪になっている。
「だめです。汚いですから」
止めるより先に、ダリルはクッキーを口に放り込んだ。
素朴な甘味と芳醇なバターの香りが口腔内を満たして、嚥下すると鼻孔をシナモンが微かに通り抜ける。
「美味しい」
「ああ、もう」
ダリルは一口二口と食べすすめてしまうので、ジネヴラは止められないと諦めの混じった息を吐く。
悪戯っこのように笑うダリルに、ジネヴラは降参した。
彼女は気づけばダリルと一緒に笑ってしまっていた。
「私にくれたんだろう?ご馳走さま」
食べきってしまったダリルは、ペロリと唇を舐めた。
それは子供のようであり、大人のような扇情的な様相も伴った表情で、ジネヴラの心臓が早鐘を打つのも束の間。
ダリルは急いで食べたクッキーが気管にはいって、子供のようにジネヴラ介抱された。
ダリルとの会話は弾み、久しぶりにジネヴラは声をあげて笑った。
彼に渡したいものがあるから待っていて欲しいと言われて、断れなかったのはそのためだろう。
ジネヴラはダリルを待っていたが、羽音がして生垣の方へ近づく。
庭園内に流れる小川に白い鳥が水浴びをしていた。
預言で白い鳥が導くようなことを聞いた彼女は、しばらく水鳥に見いっていた。
「心細いの。側にいてカシェル」
はっと彼女の心を正気に返したのは、鈴の音のような声だ。
ジネヴラは首を動かして声の方をうかがう。
水浴びをしている白い鳥の向こうに、人影があった。
「アデラ王女、カシェル様」
ジネヴラは咄嗟に生け垣の中へ隠れる。
艶やかな支配者は、残酷なまでの美しさを称えてそこにいた。
「怖いのよ。父が狙われて…あの商人以外にも、誰かが私たちを狙っているという噂が絶えないわ」
金糸に彩られた紺の礼服、静かな闇を纏わせた騎士が、王女の手をとってかしづく。
「大丈夫です。城の警護を見直すよう団長も取り計らってくれました。私だけでなくサムソンもお側回りに配置されます。サムソンは不器用ですが、信頼できる勇猛な男ですから必ずお役に立ちます」
頬に影を落とす長い睫毛に縁取られ、憂いを帯び伏せられた眦。
桃色の頬は真白な肌を彩り、結わえられた長い髪が風に揺られて少しみだれる。
それを正すのは侍女の役割だが、アデラ王女の周囲にその姿はない。
王女自らお髪を直す愚行は侵さない。
彼女は隣に控えた騎士に目配せをして扇で髪を隠す。
カシェルはアデラの隠された髪を整え、優しい眼差しを向ける。
「どうかその憂い、我ら騎士にお預け願えませんか。貴方が曇られると国も曇ってしまう」
身体の何処かが軋む音がした。
王女は艶めいた視線をカシェルへそそぎ続ける。
その扇情的な様はジネヴラの恋慕をあざ笑うかのようで、カシェルはまんざらでもないのだろう。
彼は彼女が好きなのだから。
「ねえ、カシェル。離れないで」
「アデラ様。人目につきます」
「いいのよ。私にはあなたが必要なのだから」
ふたりは通じ合った恋人同士のように視線を交わし、体を寄せ合った。
それが限界だった。
ジネヴラは二人の姿が見えなくなるまで走った。
何処かで、カシェルの思いがアデラに届くことはないと高をくくっていた。
カシェルは幼少期にアデラに拾われたから、アデラを信奉している。
ただ拾われたわけではない。
罪人の捨て子として、奈落へ送られる所を拾われたのだ。
カシェルがアデラに心酔するのはその為だ。
だからこそ、アデラがカシェルを愛することはないと思っていた。
幾ら今は立派でも、元は最低下層。
最上位の王族が相手にしていい身分ではない。
それでも。
秘密の恋人になるくらいはあり得たのだと。
公式の夫婦になれなくとも二人が愛を結ぶ方法など他にあったのだと思い知らされたのだ。
動揺を紛らわすため突発的に体を動かしていたがしばらくして我に返ったジネヴラは、ダリルに待っていて欲しいといわれていたことを思い出して立ち止まる。
この所の王宮通いの甲斐あって、周囲を見回せば何処にいるのかおおまかに把握することができる。
頭を使ったせいか体が冷えてくると、何だか先程のカシェルとアデラにどうしてああまで心が乱されたのかと不思議になった。
(そもそも、私は神に生涯祈りを捧げると契約したの。彼を救う預言と引き換えに)
ならば、将来彼が誰かと結ばれるのを見守らなければ。
アデラであろうと誰であろうと関係ない。
彼はいずれ誰かと結ばれる。
アデラと結ばれるのであれば、彼の想いが届くのだ。
寧ろそれを歓迎、祝福してこそ。
ジネヴラにとっての最悪はカシェルが惨たらしい死を迎えることなのだから。
あれを回避できるのなら、結末がどうなってもいいのだ。
ジネヴラが振り返るとどこから現れたのか老人がちょうどよい大きさの石の上に鎮座している。
よほど気が動転していたのだろう。
老人に全く気づかず通り過ぎたらしい。
手招きする老人に彼女は近づいた。
「戻っても誰もおらんぞ」
彼女が首をかしげると老人はやれやれと言った風に首を横に振った。
「お前さんと一緒にいた王子じゃ。茶色い髪の男に連れていかれたぞ」
仔細がわからず首をかしげるジネヴラに、老人は呆れる。
「お前さんにさっき言い寄っておったじゃろうが。確か王女の新しい婚約者じゃなかったかのう」
「まさか」
「どこに行くんじゃ。戻っても誰もおらんと言ったじゃろう。やつはほれ、そこの小道を通って行ったわい」
青くなり走り出そうとするジネヴラに対し、老人はいたって落ち着いていた。
老人が指さした先は、刺繍花壇と泉水の脇にある背の低い緑のアーチ。
緑のアーチの向こうに細い道が通っている。
「おそらくじゃが、そっちには使っていない納屋がある。何もなければ良いんじゃが。早くいっておあげなさい」
老人の後押しに彼女は頭を下げて小道の方へつま先を向ける。
「ありがとうございます。おじいさん」
「そうじゃ。一つ忠告がある」
背を向けた彼女に、老人は声をかけて引き留める。
「お嬢ちゃん。譲っちゃいけないときは、ちゃんと言わんといかんぞ」
その老人は、そう言って笑った。
→→→→→ジネヴラの次の行動を、(以前選択した人物)と複数タイトルの組み合わせの中から選んでください。
以前に王子を選択した場合、(王子)の記載のある選択肢を選んでください。