血鎖
1
「動物園とか、水族館とかに行くとなんで私が生きてるんだろって思うの」
一緒に壁に寄りかかっている同年ぐらいの女が腐ったような目で展示に群がっている客衆を睨みつけている。
いくら経っても民衆は減らない。
ペンギンがよちよちと歩いている。アクリル板が取っ払われているため、他の水族館とは違ってより近くに感じられ、目の前の鳥類が生きているという感覚を実感できるのだ。
ところで、ペンギンの語源には二つの説がある。「pen-guyn」説と「pinguis」説だ。「pen-guyn」の方は元々違う鳥類の名であり、ペンギンもその鳥類と一緒に呼ばれることでペンギンと呼ばれるようになったということらしい。一方、「pinguis」の方は鳥類の体型から呼ばれるようになったという前者とは打って変わってシンプルなものである。
「俺はpinguisの方がいい」
その方がいい。
「君、一人?」
思いかけず、首を捻る。そこには空気と混じってしまいそうなほどに雰囲気がない過剰に痩せ細った女が隣で壁に寄り掛かっている。
紺色のセーラー服の上にパステルカラーのパーカーを羽織っている少女の顔には白い眼帯がつけてあるのだ。今年の九月は異常気象であるが故に暑く、黒や紺の服では日光を吸収してしまうだろう。彼女はそんなボンネットで目玉焼きを焼けそうな日に首から下を隠している。とても見ていて苦しいものだ。
「ああ、まあ一人だけど」
「一人じゃ心細いからさ、一緒に回ってよ。あそこのカフェで何か買ってあげるから」
「中学生に施しを受ける気はないぞ」
「施しじゃない、雇ってるだけ。あと高校二年生」
彼女はカニのように両手で作ったピースを動かしている。指の細さ、慎重の低さにその童顔、そしてショートに荒く切り取られた髪型からは中学生どころかそれ以下のような印象を受けざるを得ない。
「まあ、いいよ。じっくり見てられるのなら」
そこからは水族館の中にあるカフェでクロワッサンとコーヒーを頼み(代金は彼女に支払ってもらった)、ちびちびとアイスコーヒーを口にしながら先ほどいたペンギンを二人で眺めている。不思議と居心地が悪い気はしない。
「お前も一人なのかよ?」
「うん、お母さんは妹に夢中だから」
岩石を丁寧に研磨するように彼女は少しずつ食べ進めているクロワッサンを飲み込んでからそう呟く。
「はあ」
こいつ、結構面倒くさい事情を抱えていそうだ。触らぬ神に祟りなし。今日いっぱいの関係で終わろう、それがいい。
カウンターを挟んでペンギンと反対側にいるクラゲをじっと見つめていると頬のあたりに一つの視線が突き刺さってくる。もしかしなくても彼女のものだろう。
「気にならないの?」
「何が?」
思わず怒りを孕んだ声で返してしまう。
「いや、私を見た人はみんな『大丈夫?』とか聞いてくるけど……君はそれがない。少なくとも他の人にはなかった」
「別に、危険な香りがするところにわざわざ首を突っ込むほど勇気がないだけだ。初対面で会ってそれ以降顔を合わせないであろう人のことを知っても仕方ないだろうが」
異常なまでの彼女の指の細さは木の枝を彷彿とさせるものでどうにも不穏な雰囲気しか感じられないのである。
「そういうもの?」
「少なくとも俺はそうだ、他人のことは知らん」
持論だが、他人のことばかり考えていると自分の存在が希薄になっていくに違いないだろう。日本社会に生きる以上避けては通れないけれども。
「動物園とか、水族館とかに行くとなんで私が生きてるんだろって思うの」
「唐突な人生相談は止めろ。今の糖分が消し飛ぶだろうが。食ったならまだ見てない方行くぞ」
コーヒーが入っていたカップとクロワッサンの包み紙をダストボックスに放ってさっき見ていたクラゲの水槽の方に彼女を連れて行く。
彼女が張り付くようにして見ている円を描く半透明のそれらがふわりふわりと傘を動かしている。
「クラゲの肉体の90%以上が水だというのはそりゃあ有名だけれど、クラゲは結構悲惨な境遇にいるのは知ってるか? 毒針がついているのにも関わらず普通に食べられるし、家にされるし、乗り物にされるし。そもそも大きめの獲物を捕まえたら消化するまで全然動けない」
ふと、クラゲの群れに向いていた彼女の方へ目を移す。彼女はいつの間にかじっとこちらに意識を集中させてしまっている。彼女は目をパチリと動かして惚けたようにして目を合わし動かない。
「すまん、退屈だろ?」
「いや、まあうるさいなとは思ったけど面白かった……かも?他の人はみんな自分か私の話しかしないから、聞き飽きた」
彼女はさらに「せっかく水族館に来たのにさ。」と続け、次の水槽に向かって歩いていってしまう。
「いっつも、可愛いねとか偉いねすごいねとか言ってくれるんだけど。私のどこが偉いとかすごいとか、わからない。こんな私が……。」
「お前がどんなコンプレックスを抱いていてどういう経緯で今の状況にいるのかは知らないし知ろうとも思わないけれども……」
照明に当たってそれ自身が光っていると錯覚するほどのメテフィラはのらりくらりと円盤状の水槽で流れのままに流れている。
「……お前はお前なりになんとかしてるんだろ?」
「まあ、そうだけど……」
彼女は語尾を篭らせて俯いてしまう。両手を合わせて手を揉む彼女の姿はさながら母の存在を見失った幼児のようである。
彼女の姿はなぜだか目が離せないものだ。数センチの段差に躓いただけで骨が折れてしまいそうなほど華奢な体を見ていると自転車に乗る練習している膝小僧を赤黒くしている小学生を傍観している気分に近い感情が表れるのだ。
「年金、AIによる職種の減少、環境問題。自分のことですらやりきれないのにも関わらず、大人は無責任にもそんな問題を未来ある俺たちに押し付けてくる。まあ、だからと言って俺たちはどうすることもできないし、大人になってもそれらの問題が綺麗さっぱり無くなる保証はないわけだ。」
クラゲたちが集結している空間を最後に最上階を周り終えたのでエスカレーターで一気に一階に降りると最初に目にしたニホンウナギやキタサンショウウオなどの展示に戻ってきた。
「自己肯定感があろうがなかろうが、裕福であろうがなかろうが、同年代の人間は皆が同じ状況にいる。同じクラスとか部活とか職場とか同じ環境なら尚更。人間だって生き物だ、完全に約束された生なんてあるわけない。人は『幸福はいつか来る』なんてことを信じて必死に努力して勝ち取ろうとするけれど、その『いつか』はいつどこで来るのか誰も知らないし本当に来るかもわからないんだよ」
彼女はお土産コーナーで物色する彼女は後頭部を見せたままである。
「ええっと、つまりは明日隕石が飛来して人類が滅亡するかもわからないから今を全力で生きろってこと?」
「いつ死ぬかわからないんだから諦めろってことだ」
彼女は自分の返答に投げやりに返事をして足早に会計に向かう。耳が痛かったのだろうか、それともつまらない男のつまらない話につき合わせてしまったのだろうか。
あの痩せ細った体からは恐怖のようなものを感じてしまう。あの内包しているであろう闇を見ているとひょっとすると自分もああなってしまうんじゃないかと思ってしまう。ああはなりたくないな、と。
ここに留まっていても仕方がないので、さっさと水族館から近くにあるカフェに足を運ぶことにした。
「ん、これあげる」
彼女が俺の手に乗せたのは金属製のキーホルダーである。彼女の手にもあるエイを模したそれは照明が当たって煌めいている。
「いや、別に」
「いいから!」
そう無邪気に微笑む彼女はそれを財布に付けて見せつけてくる。カフェオレをチビチビと飲みながら彼女はこちらに期待するように首を揺らす。
そういえばさっきもコーヒーを飲んだなとは思いながらも自分も口をつけ、メタルキーホルダーを元々入っていた袋に仕舞う。
「……何か言いたいことがあったら言ってみろ」
「ええ、いや!君と話したら楽しかったから……また会えないかな?」
彼女は俺に目線を合わせたり外したりを繰り返している。
他人の顔を顔色を見る、という行為は自分の中でも癖になりつつあると思う。どれだけ突き詰めても他人との不干渉に生きることは不可能に限りなく近く、現代ならば尚更そうだと思う。それでも他人の目線というのは鬱陶しく精神を削りにやってくるのである。
大方、自らが放つ敵対心のせいであろうが。
「まあ、いいよ」
「やったぁ。じゃあじゃあ、連絡先交換しようよ」
先程、クラゲを見ていた時とは裏腹に彼女は天真爛漫と形容するに値する笑顔を浮かべている。
「そういえば、名前すらも聞いてなかったね。私は布野秀華、よろしく」
「杢代淡海だ、よろしく。今、電源をつけるからちょっと待ってくれ」
ポロンという軽い音と共にスマートフォンのメッセージアプリに彼女のアイコンが追加される。
「そういえば高校はどこなんだ?」
「……鶴の杜」
「お嬢様学校じゃねえかよ」
「まあ、私はただの落ちこぼれだけどね」
そんなどうでもいい話を少しして、二人は別れることになった。
家に戻り、鍵を開けてたった一足の靴を揃える。
そういえば、あのキーホルダーがあったなと思い、淡海は自室のコルクボードに刺さっている画鋲にそれを引っ掛けてじっと親指と人差し指の枠に納める。
彼の部屋には机と敷布団があるだけで壁には小さなコルクボード以外取り付けられておらず、数年も変わっていない無機質な空間である。
必要な時以外、電源をつけていないので気づかなかったが、格安スマホのメッセージアプリから一通の着信が届いているのが淡海の目に留まる。画面に表示している「よろしく」の四文字とスタンプを眺めながら布野へ鸚鵡返しを送信してする。リビングまで移動し携帯を放ってキッチンまで足を運び、いつもの通り二人分の夕飯の支度を済ましている間に十八時が過ぎてしまった。
「布野秀華か。少し、親しくし過ぎただろうか?」
彼女に説教じみたことを言ってしまったのではないだろうか。客観視した彼女との会話を思い出すたびに顔を赤くしてしまうほどに後悔している。彼女も自分のことを鬱陶しいとか面倒臭いとか思っているのだろう。
そこで突如、待っていましたと言わんばかりに携帯のバイブレーションが耳に入る。液晶を覗くと通知画面には布野の二文字が添えられているのだ。
三から四行の文章には彼女の学校で学祭があるということが載せられている。ちょうどその日は自分も学祭なので休めばいいだろう。
一人分の夕食にサランラップをかけてもう一人分の皿に手をつける。虫の羽音でさえも聞こえてきそうなこの空間が肌を刺し、人形のような彼女のことを想起してしまう。
「それにしても鶴の杜か、遠いなぁ」
身分を知った途端、彼女の目の前で透明な何かが阻んでくるように思えた。
2
「着いてしまった」
字駅から徒歩十五分のところにある私立鶴の杜学園。流石、中高一貫のお嬢様学校ということもあり、皆高級そうな衣服を身に纏っている。実際、自分の場違い感が否めない。
字駅に到着する前に電車内で「教室で待っている」というメッセージを受け取ったが一度も訪れたことのない建物内、さらにはそこが女子校であるのは一つの拷問ではないだろうか。
懐疑の視線に当てられながら彼女のクラスに割り振られた教室に向かうため、建物内に足を踏み入れる。土足で入れるのはラッキーだ。
他人の領域に入るという行為は神聖かつ汚穢なものである。神社に足を踏み入れる時も一礼してから入り一礼してから去るものだし、勝手に他部族の領域に足を着くなんてことをしたら命に関わることだってあるのだ。そういえば吸血鬼も他人の家は許可なしに入ることができないという一説もあったか?悪にも境界線がなければ裁くことすらままならない。ともかく人である以上何かを区切らなければいけないだ。
そんなどうでも良い戯言を脳内に充満させているうちに目的の教室に辿り着く。
「ええ……」
そこに広がっていたのはメイド喫茶だ。そこで働いているのはタジタジで不慣れなJKではなく無駄のない所作で客をもてなす、まさに正真正銘の給仕さんそのものである。
「あっ!杢代くん」
教室の入り口からひょっこり顔を出していた布野が姿態を露わにしてこちらに向かってくる。彼女は自分とは違ってクラスの一員として機能しているようでお嬢様学校らしくしっかりとした生地をした正当なメイド服である。
「思ったよりちゃんとしてるのな」
「え、悪口?」
「褒めてんだよ。とりあえずどこ行くとか決めてんのか?」
「いやぁ、実は全然決めてなくて……とりあえずここで休んで行かない?」
学園内はどこも落ち着かないなどというわかりきった愚痴を飲み込みつつ、ある種一つの領域へ足を踏み入れる。窓際の二人が向かい合うようになる席に案内されるとウェイターはこちらに目線を何度か寄越して去っていく。
「聞いてなかったが、布野——」
「——秀華」
「は?」
彼女は僅かに上げていた口角を一直線に戻し、そう呟く。彼女の瞳は靄がかかっているようで体の芯から冷え込んでしまいそうなほどである。
「苗字じゃなく名前で呼んで。嫌いなの、苗字は」
「そうか」
黙っていても仕方がないので、メニュー表を開いて組んだ脚に乗せる。
「秀華、これは学祭で出すレベルじゃねえだろ」
メニューに書かれているのはホットコーヒーやモカブレンドと洒落た喫茶店でも見られるものばかりだが淡海の違和感はとあるメニューに釘付けである。コピルアクの五文字の横には他にメニューの二倍の値段が書かれており、それに度肝を抜かれない者はなかなかいないはずである。
「俺の感性が貧乏なのか?」
「私もやりすぎって言ったんだけど、みんな聞かなくてね。面白いでしょ?いつもと違ってね」
「まあ、そうだけどな」
ベルを鳴らすと給仕のうちの一人が注文を聞いてくれる。
「ホットコーヒーとアイスクリームがお一つですね。秀華ちゃん、彼のことは見てるから着替えてきたらどう?ちょうどお客さんいないし」
布野が裏方の方に姿を消す一方、接客をしていた一人のメイドが彼女の代わりに腰を下ろす。彼女は黒髪の布野と違って栗毛のボブカットにしていて自分の学校ならクラス内の台風の目となっているに違いないという確信を持てるほどの何かを持ち合わせている。
「あたしは浅見夏奈。あなた、名前は?」
「杢代淡海だ」
布野と同じ制服を着ている子——浅見は先程まで布野に向けていた好意とは逆に槍を構えるようにしてこちらを睨んでくるのである。
「ふうん。じゃあオウミ君、秀華ちゃんとは釣り合ってないってわかってる?」
「はあ?」
浅見はたかを括るように顎を上げ、先ほどの雰囲気とは裏返ったように睨むが、彼女が出す緊張感とは裏腹に淡海にとって素っ頓狂な者だった彼女の牽制は静かに流れていく。
「なんの話をしている?ただの知り合いに釣り合うか否かは関係ないだろう。勘違いをしているんじゃないか?」
「そういう問題じゃないの。そもそも秀華ちゃんは私たちと同じクラスにいるのはおかしいの」
浅見曰く、彼女は所謂社長令嬢という奴らしい。この学校ではカースト制度のようなものが残っていて令嬢と給仕でクラスが分かれており、扱いの差も明確なものである。
そう、このクラスが行なっているのはメイド喫茶——つまり布野秀華は社長令嬢であるのだが、給仕を職としている者に割り当てられるクラスに在籍しているのだ。
「それを部外者に言ってどうする?君らに比べたら俺は存在しないに等しいだろう」
「部外者だからよ、私たちじゃ彼女らに反抗することすることすらままならないの。流石に見てられない、釣り合わないとしても今の状況をなんとかしてくれればいいのよ」
彼女の口ぶりからして布野の待遇は決して良いものではないということは容易に想像できる。
あの眼帯はこの学校での負傷なのだろうか、それとも……。
「杢代君!待った?」
「いいや、全く。浅見さんと話してたからね」
不吉な思考が脳裏を過ぎるのを邪魔するように布野が以前会った時と変わらない服装でこちらに駆け寄って来る。
「夏奈ちゃん、杢代君のことを見ててくれてありがとう」
「うん、私も初めて会ったような人柄だから退屈しなかった〜。じゃあ、お仕事に戻るね」
二人は手を振り合って別れると、布野はこちらに向き直してさっきまで座っていた椅子に戻り、机の上にパンフレットを広げる。
「もうちょっとで三年生の舞台があるから観に行こうよ」
「ああ、お前に任せるよ」
パンフレット曰く、三年生の発表があるのはこの別館ではなく所謂坊ちゃん嬢ちゃんが在籍している本館で行われているらしく、俺は布野に着いていくことになった。
「秀華、何故お前は俺を呼んだんだ?」
目の前の彼女は淡海の声に足を止め、彼女の後頭部と淡海の胸に当たる。
「えっ……ああ、そうだよね。気になるよね、ハハ……」
「言いたくなければいい」
「えっでも……」
「そもそも知ったところでどうってこともない。俺に強制力なんてないからな。むしろ自分の学祭に出なくて良くなって感謝してる。一日中暇つぶしで歩き回ることになるからな、去年は5kmも歩いた」
孤立しているということではない。一言も話さない日があるわけではないし、クラスメイトと談笑したりすることもあるけれどその境界からはみ出す事はなく、「自由に二人組を作れ」などという指示を受けた時、たいていは一人あぶれることになる。そもそも小・中学に仲良くしていた奴も疎遠になってしまったので、高校でもそうなるのだろう。
正直、他人の名前も覚えられない人間が人並みの関係を築けるわけもないのだが。
「それでも杢代君は……」
布野は再び足を止める。先程の彼女とは違って下山した熊でも発見してしまったかのようにフリーズして動かずに目の前の少女と猫とネズミが向かい合うようになっている。もちろん布野の方がネズミである。
「アレェ、秀華じゃない。あんたがこっちに何の用よ」
目の前には彼女と髪色や目元が布野とそっくりの少女が布野を見下すように少し顎を上げながら腕を組んでいる。その彼女
「秀華、あいつ何者だ?」
「一つ下の妹の華蓮。私と違って優秀だから、見下してるの。本当に勉強も運動もちゃんとできちゃうから文句を言えないのがね」
妹のほうを見ていると「ああ」と浅見の言っていたことが体現されていることがわかりため息をついてしまう。
しかして、華蓮は明らかに秀華よりも金がかけられているのである。姉の方は上着を着ていても食っていないのがわかるほど脂肪のない身体だが、妹の方は姉よりも身長が頭一つ分高く、欧州のモデルぐらい抜き出た女性らしい丸みを帯びた体をしているのである。
『私たちと同じクラスにいるのはおかしいの』
浅見の言っていた狂気を垣間見ている気がする。才色兼備、文武両道のラベルが貼られているのであろうが彼女はその地位に少なくとも快感を感じているのだろう。
「秀華にはそんな下衆な男はお似合いね」
彼女の見下すように顎を上げるようにしてこちらを睨みつけて来る。
「俺は君みたいな人間を見て心底安心している。君は自分が優れていることを理解していながらも自分より明らかに劣っている人間のことを理解できない、または考えに入れることができないのだと思う。姉もひどいが妹もひどいな。社会に溶け込めず、自分の力はこんなものではないと過去の栄光に縋ってより一層社会と乖離することになるんじゃないか?」
正直、こんなものは負け犬の遠吠えに過ぎない。将来その可能性が当たるというわけではなく、鶴の杜に在籍している以上、所謂勝ち組であることには変わりないのだ。
「杢代君、気持ち悪いよ。何か恨みでもあるの?」
未来を輝いた目で見つめる者に共感することができない。頑張って報われる保証なんて1ミリもないし、子供の頃のような社会が大人になっても続くようには思えない。失敗するたびに溜息を吐かれ、自分に目を向けずにいる。母の声も忘れてしまった。
「いや?恨んではいないさ」
会話、服の擦れる音、足音、屋内から漏れるクラシック。耳に入る全てが雑音に感じる。
再び彼女の頭から爪先を観察すると華蓮と隣の小動物とはやはり正反対であることを痛感させられる。低身長で枝のような腕である秀華に比べて華蓮は肉つきが良く女性らしいものとなっていて身長も秀華よりも頭ひとつ高くなっている。二重によってぱっちりと開閉する瞳、朱くぷっくりとした唇、そしてまっさらな雪化粧のような肌をした彼女の姿は誰もが振り向くような美女と言われても全く違和感はない。黄金のようなオーラを放つ雰囲気は大したものである。
大したものと言っておきながら技能として人間として拙劣である自信があるので自分はそれに釣り合うほどの男ではないし、関係を持ってからのプロセスも浮かばないしで劣情を抱く資格すら持てないのである。
「お前がいるから布野家も苦労しているの。ずっとずっと私の足を引っ張って、お前さえいなければ完璧だっていうのに。……私の視界に入らないでって、あなたみたいのがいるからお父様もお母様も苦労しているのよ」
「で、でも」
腕を組む彼女は徐々に威圧感が増し、秀華の方も萎縮して自身の揉んでいる両手に目を向けたままになっている。
「あなたが邪魔なの。いっそ死んで——」
「——おい! それは言っちゃダメなやつだろ」
淡海は自身の気付かぬうちに右手で華蓮の左肩を、左手で右肩を掴み強引に引き寄せる。文字通り、目と鼻の先にある彼女の鼻先は淡海の口元に触れてしまいそうなほどである。
白いすじ雲が太陽を隠し、彼女の瞳が濁っていったように感じた。
「なぜよ、秀華ははっきり言って有害よ、有害。不器用どころじゃないんだから」
彼女は肩についたゴミを落とすようにして淡海の肩を利き手で払い落とす。
「ちゃんと生きようとしている人間が誰かにとって有害になるのは当然のことだ。君がこの学校に入学していなければ他の入学したい誰かが入れたわけだろう」
「あなたもそうだって言うの?」
「ああ、そうだよ」
母——瑠璃さんは昔から俺に対して常に冷徹な態度を取っている。「雄司さんなら。」と戻って来るはずもない父の帰還を待ち、彼という理想を俺に押し付けて来るのだ。俺という枷が瑠璃さんの自由を奪い彼女の華やかになるはずだった人生をモノクロに変えてしまったのである。
「あの人はもう俺のことを家族だと思っていないだろう。人は人である以上、誰かの邪魔になるんだよ」
「でも、そんなこと気にしてられないわ。私より優位に立てなかったということは私よりも落ち度があったってことでしょ。それを他人のせいにしないでほしいわ。私だってもっと憧れに近づくためにどうにかしようとしてるの」
彼女の言葉を聞くたびにやはりこの二人が自分とはいかにかけ離れた人物なのかを痛感させられる。
「俺みたいな奴はともかく、君みたいな“ちゃんとした人”は人との関係を大切にした方がいい。酔生夢死になるであろう男からの忠告だ」
いつの間にか、周りからは人がいなくなっており三人が集まっている形になってしまっている。
「あなたは逃げているだけよ。そうやってあなただけ自分のことを諦めるなんてどうかしているわ。……やっぱり、あなたたちお似合いよ」
彼女は一度腕時計を確認すると「この後予定があるの」と言って去っていった。舞台がもう少しで終わってしまう時間だったので別館に戻ることになった。本館の方はいいのか、と言ったが秀華にとっては息苦しいらしく浅見のいるクラスに戻ることになったのだ。
浅見も三人の話を聞いて溜息を吐いていた。瑠璃さんの横顔を思い出してからというもの、母親のことと布野妹の「逃げているだけ」という言葉が身体中を回って体が熱くするのだ。
今日は瑠璃さんがいつもより早く帰ってくる日だ。
3
「瑠璃さん、おかえりなさい」
声が震えている。手の汗も止まらないし、少し息も荒い。
「……」
「夕食できてるから一緒に食べない?」
「勝手にしなさい」
相変わらず瑠璃さんは久しぶりの会話にも関わらず冷徹であり、こちらに目を合わせることなく横切っていく。瑠璃さんを追いかけるようにして食卓に戻ると(玄関とリビング、食卓までの通路に洗面台がある。)すぐに味噌汁と白飯を装い向かい合わせになるように卓上に並べる。
薄い無地の寝巻きを身に纏った瑠璃が椅子を引くと淡海も対面になって座り、手を合わせて「いただきます」と呟く。
「最近、どう?」
「……どうって、別に何も変わらないわよ」
「そう、変わらないか。」
話を切り込んでも瑠璃さんはのらりくらりと躱すばかりで会話を拒むようである。やはり叶わないのだろうか。
「あ、あの……母さん。いつもありが——」
「——私のことは瑠璃と呼んでって言ってるでしょ‼︎」
瑠璃さんは眉間に皺を寄せ食器を叩きつけるようにして場をより一層悪いものへと変える。彼女は椅子を倒す勢いで立ち上がり、バンと食卓に手を付いて淡海に咆哮する。
「母さん、母さんって。私は私として生きていきたいの!お前のせいで人生棒に振ったんだよ!お願いだから私から私を奪わないで……」
「か、瑠璃さんが俺の母だということを否定しても俺の中では杢代淡海の母親なんだ。母さんの助けになりたいんだよ」
俺の口から空気が漏れ、肺が空になるのがわかる。
「それだったら、今すぐ私の目の前から姿を消して!お前の顔を見るとイライラするの」
「ええ、ああ。うん」
慣れている、慣れているはずだ。瑠璃さんの見下すような目も怒りを露わにした怒号も苛立ちを震わせる地団駄も全て知っている。知っているはずなのにそれはあまりにも冷酷で俺という株価が暴落していくように思えてしまうのだ。
淡海は食器をそのままにのそりのそりと自室に向かうと、鉛のように重い心身を携帯電話と共にベッドに放りそのままどうにも起きる余裕などなくそのまま意識を手放すことになった。
携帯電話のバイブレーションが睡眠を妨害することで意識を覚醒させる。モタモタと手の内で遊ばせながら秀華の二文字が表示されたそれを耳元に引き寄せるとそこからは予想とは裏腹な声が訴えてきた。
「もしもしぃ。杢代ですが?」
『杢代、杢代淡海なの?』
「まあ、そうだけど。何故、秀華の連絡先から華蓮の声がするんだ?」
『今はそんなことどうでもいいから字駅まで来なさい』
ブツンと通話が切れると土曜朝の日が淡海の顔を雪ぐ。真に目を覚ますために顔を洗い、着替えてメモを残してからすぐさま家を出ると信号で足を止めることなく最寄り駅まで辿り着くことができた。
早朝ということもあり、普通列車で字まで辿り着くと駅前のベンチに布野姉妹が座っているのを見つけた。
「こんな早朝から何だよ?」
「いやぁ、それがね……」
言葉を詰まらせた秀華は目を赤く腫れさせてさせている。華蓮の方には変化があまりないから姉妹間の喧嘩ではないだろうが。
「ちょっと私が昨夜に失敗しちゃって家から追い出されちゃったの。」
携帯電話があるということはいつでも呼び戻せるということだが、その連絡がないということは彼女の身に何が起きても構わないということである。これは本当に深刻なやつだろう。
「奇遇だが、俺と同じだな。俺も昨夜に失敗した。自慢じゃないが成功したことはないがな」
「えぇ……。杢代君にそんなイメージなかったけど」
「俺のことを高く見積もりすぎだ、どこまで行っても中の下の男に何を言っても仕方ないだろう」
秀華は俯いていた顔を上げてこちらに視線を寄越してくれる。彼女の姿勢は水族館で会った時も丸く曲がっていて哀愁を感じてしまう。
「あの日もそうだ。父が蒸発してから母との仲は険悪だからな。気づいた頃には会話すらなくなってたし、目も合わないんだ。人と関わるのも下手だし口もうまく回らない。関われば関わるほど誤解が生まれ誤解を解こうとするたびに齟齬が生まれていく感じがする。向こうは俺の存在が邪魔なのさ。」
それでも瑠璃さんが別の男を持ち帰ってくることがないのは妙である。それほど父に執着しているのか、それともとっくのとうに鎮火してしまっているのか。真実は知りようもないが、少なくとも彼女が杢代淡海という重さを誤魔化し、沈黙を貫いていることは火を見るより明らかなのだ。
「ところで布野姉妹、俺を呼び出した理由を聞かせてもらおうか」
淡海の言葉に秀華の口がゆっくりと開くと現状までの経緯を大まかに語り出した。結果から言うと布野秀華は母親に勘当されたらしい。
そこを理解するには布野秀華の立場を理解せねばならない。布野秀華、鶴の杜学園高等部二年生に在籍している十八歳の女子高校生である。父親はとある証券グループのお偉いさんで秀華はその男の長女になるわけだ。基より彼女は鈍臭く空回りするタイプであるためうまくいかず失敗ばかりを積み重ねてしまうらしい。
その不器用さを優秀な華蓮と比べて、苛立ちを通り越してしまった彼女の母親は一度暴力を振るってからというもの、徐々にエスカレート。眼帯の原因も彼女によるものらしく、ついには家族という境界を越えさせるように仕向けてきたのだ。
「俺が口出すことじゃないだろ、俺は君たちと血縁でも特別な関係を持っているわけでもない。」
「秀華の内情を楽に話せる部外者があなたしかいないんです。秀華のクラスメイトに話してもそれ以上どうもならないでしょう。」
話したからといって現状の変化なんて起きない。たかが一高校生に彼女を救うことなど到底できるわけがないのだ。
「警察か相談所か、そういうところに頼るしかないだろう」
「できれば公には……。父の顔に泥を塗ることになってしまいます」
他人を理由に行動を起こすということは崇高で美しいことこの上ない。自分にはできない「誰かのために」という行動原理には賞賛を贈るだろう。しかしそこで自分を蔑ろにしてしまっては意味がないのだ。
「家族のことを大切にすることは良いことだが、その家族が自身に牙を向くなら臆することなく自分もそれに抵抗すべきだ」
自分がそれを言えた口ではないが。
「でも私は父のことも母のことも大切なんです、私以上に。」
「華蓮、秀華の現状をわかってくれよ。君は恵まれているんだ」
そう告げた時、黒塗りの車が三人の目の前で止まる。自動でドアが開くと中から一人の男が姿を現した。
「秀華、華蓮、帰ろうか。」
「お父様!」
その男は二人の方へ足を運んでいく。一瞬、こちらを睨むように一瞥するがすぐに視線を戻していく。
「君、名前は?」
布野の父は淡海から目を逸らしたままこちらに問いをふっかけてくる。
「杢代です。杢代淡海。ええと、杢目の杢に代替の代で杢代。名前は海水とか汽水とかのタンスイで淡海です」
「母親は?」
「流石に無関係の人間にそこまでの情報は……」
目の前の男はそこにいるのにも関わらず彼の顔は一向に見えず、遠く遠く思えてしまう。得体の知れない怪奇と遭遇しているようで淡海は思わずとも唾を飲んでしまう。
「じゃあ、質問を変えよう。君の母親の名前だ、君の母親は瑠璃という名前だったりしないか。」
「……!」
嫌な汗が体を覆う感じがする。
「あ……ああ」
開いた口が塞がらない。
瑠璃さんからの紹介があるわけでもないのに見ず知らずの人間から彼女の名が発せられるのには恐怖するしかないのだ。
「その反応からして君の母親は瑠璃という名であることは間違いないのだな、少し話をしよう。」
淡海はこくりと頷くとカルガモの子のように彼の後についていき、秀華らが入っていった後部座席に足を踏み入れた。
「自己紹介を忘れていたね、私は秀華の義父であり華蓮の父の布野大吾だ。君との話をしたかったのは他でもない。君の両親についてだ、どうにも君の顔が親戚に似ていてね」
前の方に座っている大吾という男は前を向いたままである。彼は中肉中背でどこにでも在そうだが、それでも時計やスーツ、ぴっちりとした七三分けからは近寄りがたい雰囲気を漂わせるものだが関わった時の物腰の柔らかさはその雰囲気を中和してくれるのだ。
俺という人間からするとそんな完璧人間は敵対心を向ける偶像の一つに過ぎないのだが。
「おそらくだが、淡海君と僕は遠い血縁なんだよ。杢代雄司——君の父親とは一度本家の葬式で会話したことがあってね、悪いが嫌な男だったよ」
「妻子を捨てた奴のことは別にかまいません。顔も覚えていませんし。今どこで何をしてるのかも定かじゃないです」
そういえば今日も学祭だったなぁとか思いながらも別にサボろうとも問題はないので考えない。あのどこへ行っても休まらない感じにはいい加減済々しているのだ。
「せっかくだから一緒に朝食を摂らないか?」
「お父様、なんか嬉しそうですね」
「ああ、秀華と華蓮が友人といる所なんて初めてだからなぁ」
大吾さんは先程の雰囲気とは打って変わってカラカラと笑っているが、その姿は娘とは全く違ったベクトルの人柄をしていて本当に秀華の血縁なのかと疑ってしまうほどである。
それから数分すると流れる風景は完全に止まり、淡海は触れるのも憚れる車を降りる。開けた景色には三階建ての大きな住宅が鎮座しており、普段校舎という比較的大きな施設を見ている身でも肺の酸素を漏らしてしまう。
手を洗って、布野姉妹と共に食卓に行くと案の定一人の女性が鎮座していた。「機嫌が悪いです」と書かれたような顔は初対面の華蓮と瓜二つなのでそこは血縁関係なのだなと思う。
彼女らの母親の逆鱗に触れぬようなるべく大人しく食事に参加することとなった。そういえば他人と食を共にするのは久しいものだ。母親ともなかなか会わないし文化祭の打ち上げも辞退してるしで機会を潰し無くしている。
食べ終えると流石にお暇させてもらおうと思い、立ち上がると
「淡海君、ちょっといいかしら」
と言われ彼女の母親に呼び止められた。
「ええ、特に予定もないので」
「あなたには悪いけど、娘たち特に華蓮とはあまり関わらないでほしいの。やっぱり悪影響になってしまうと思うから……わかってくれるかしら?」
彼女は発せられる柔らかな声とは裏腹に敵意的な目で睨んでくるのである。それを隠すわけもなく歯に絹を着せるわけもないのは情緒不安定な様子からいつ怒らせるかわからないのは爆弾の解除を任されているようであり首のあたりに冷や汗を伝わせてしまうのだ。
「貴方様の教育方針に首を突っ込むつもりはないですが、貴方が彼女らの成長の阻害になるならば頷くことはできません。可愛い子には旅をさせよ、とはよく言ったものですが廃れていない限り因習一つでは収まりきらないんです。」
「でも私はそのせいで潰れてしまったのよ。ほんと、嫌になるわ。」
目の前の女を見ていると沸々と怒りが湧いてくるのは何故かと思っていたがそれはあまりにも俺に似ていて鏡のようだからだ。母親への希望を捨てきれない俺と同じように彼女も何かへ縋りつこうとしているに違いない。
「あなたが俺に何をして欲しいのかはわかりませんし、俺が何でもして差し上げるつもりもないです。でも一つだけ確かなのはいつでも挽回へ向かえるということです。達成するのはいつになるかはわかりません。明日にはどうにかなるかもしれないですし一年、十年後になるかもしれません」
こんなこと俺が掛けていい言葉ではないだろう。挽回に向かおうともせず壁に当たれば回避してばかりである。人間として卑怯で臆病で無駄な欠落している存在こそがこの、杢代淡海なのだ。
二人の呼吸と秒針の音だけが埋め尽くす中、淡海の一言がその空間を切り裂く。
「それでは、失礼しました」
4
それから何事もなく帰宅した。何か目覚ましい変化があったわけでもなく誰かに何かあったとしてもそれは俺が何かしたというわけではなく彼、彼女ら自身が自分で成し遂げたからである。
一つ些細な変化があったとするならば連絡先が一つだけ増えたことぐらいだ。