umbrella for umbrella #陸
ロータリーの西側に接している駐車場をさらに西へ行った所にある、短く急な坂を下った先のテニスコートで、緑のフェンス沿いに教室への帰途を辿るのは2年3組、4組の女の子たちだ。
火曜三時間目の体育科目がつい先ほど終わり、縦長になった列の先頭は開けっ放しのフェンスの扉から短い急勾配を足早に歩いていく。彼女らは、授業終了10分前に始まるはずの後片付けよりも先に教室に帰ろうとして、檻多田先生からきつくお灸を据えられたのだ。きっと今はそのことをネタに、そそくさと退散しつつ被害妄想を根拠にした悪態を仲間内で吐き合っていることだろう。
何が彼女らをそうさせるのか、私には半分ほど理解しかねる。体育の授業は汗と恥を掻くから早く帰りたかったという理由には同意するが、檻多田先生がキモいから早く離れたかったという理由には同意できない。
陰に収まりきっていない彼女らの陰口を耳にして嫌気がさして、不意に、隣を共に歩く友達の首に掛けられたタオルを目に入れる。ちらっと後ろを見ると、歩を緩めていた甲斐あって最後尾はワタシたちだ。
ワタシはそこで、用意していた台詞を述べる。
「あ、タオル置いてきちゃった」
そうやって強引に友達を引き剥がして、先に帰らせて、ワタシは体育の時にタオルや水筒などを置いているベンチへ近づき、わざと置きっぱなしにしていたタオルへは一瞥もくれずに通り過ぎる。目的は、檻多田先生との信頼関係の構築。
フェンスの出入り口からテニスコート4面分を駆け足に進んで、一番遠いコートの一角で片付けをしている檻多田先生の元へと向かう。こちらに背を向ける先生の足元には、乱雑にラケットが入れられたメッシュコンテナがあって、先生はそれを持ち手が左右交互になるように揃えている。
「あの、檻多田先生、ラケット片付けるの手伝いましょうか?」
驚いたように振り返る檻多田先生。女子の平均身長であるワタシと目線の高さが合う。
「っおおぉ、蓮向井、手伝ってくれるのか……次の授業、大丈夫なのか? 三組は数学だろ? 二年の数学は授業の前にやることが沢山あるって他の生徒から聞いたんだが……」
「ワタシは今日は大丈夫です」
笑顔で答えて、メッシュコンテナの外に放られたラケットを一つ拾う。
「授業前の課題は番号順なので。それに体育はかなり早く終わるので余裕はあります」
「はは、そうか。他の授業に支障が出てないなら良かったよ。時間だけじゃなくって、体育は体が疲れるからな。なるべく疲労は持ち越さないようにって思うんだけど……難しい。運動するのが体育なのにな」
静かに語る檻多田先生の口調からは、どこか哀愁を感じる。生徒か、或いは親か、若しくは他の教師にクレームでも入れられたのだろうか、「体育で疲れると座学で集中できない」みたいなクレーム。体育科目を下に見たようなクレームを。
ワタシはラケットを先生に渡し、先生は受け取ったラケットを整然と並べていく。自分の醸し出す雰囲気に気づいたのか、取り繕うように声を張り、元気を演出する。
「いやぁ、ありがとう、蓮向井。ここ暫くは授業でテニスが続くけど、どうだ、テニスは楽しいか?」
ニコニコとした無邪気そうな表情で訊かれて、ついつい本音を言い漏らしてしまいそうになる。
ラケットを拾い上げ、先生に手渡す。
「たのし……いです。ラリーが続いた時なんかは特に」
「それなら良かった。学校でやる勉強は堅苦しいのが多いからな、体育で存分に羽を伸ばせよ〜。授業だから技術面の指導こそするけど、一番は楽しむことだ。学校は嫌なことが多いからな。俺も学生時代はそうだった。だから、一つでも通う理由や学校を続ける支えになれるようにって、少しでも楽しい学校生活にできるようにって、そう思いながら授業をしてる」
最後のラケットを青のメッシュコンテナにぴったり嵌め入れて、檻多田先生はボールが入ってる別の籠の上にラケット入りメッシュコンテナを重ねる。
「なんか、あんまり生徒にする話でも無かったか? 今の話。ははっ、ま、いいや」
照れくさそうに白い歯を見せる檻多田先生は、重ねた二つの籠をよいしょと両手で持ち上げる。
「じゃ、俺はこれ用具入れまで片付けてくるから。手伝ってくれてありがとな。おかげで一人でやるより早く終わったよ。ほら、早く帰んないと次の授業始まるぞ」
用具入れは第一体育館の脇にある小さな物置で、駐車場までは一緒に歩くことになる。そう思っていたのだけれど、檻多田先生はどうやら、ワタシを先に行かせるつもりらしい。両手で掴んだ重いはずの籠で、ワタシの背中を押すようにして急かしてくる。
ワタシは周囲の目を考えて、それにノっておくことにした。二年生女子の大半からの嫌われ者と一緒に歩いているところを見られたら、今後の活動に影響が出かねない。活動というか、日常生活が地獄に変貌するだろう。暗黙の仲間意識からハブられるのは、何を差し置いてでも避けなければならない事項だ。
ワタシは背中を押されるがままに(接触はしておらず仕草だけである)駆け出し、檻多田先生より先にフェンスの外に出て、駐車場を友達の所へと走っていく。何台か教師の車を通り過ぎたところで、ふと、
……あ タオル忘れちゃった
言い訳に困るような、今更なやらかしに気づいた。
体育の終わりに、檻多田先生と初めて会話らしい会話をしてから一日が経過した。
曇り空が覗ける三階の化学実験室にて、本日は珍しく化学実験をしている。と言うのも、毎時間毎時間、教室での座学では飽きがくるだろうという化学科目の先生方の気遣いによって、実験をしない座学だけの時でも、他クラスとローテーションで化学実験室にて座学をして頂けるのだ。移動教室がめんどくさいという欠点はあるものの、環境を変えて学業に勤しめるのは、正直ありがたい。
そんな、座学をすることが多い化学実験室ではあるが、つい先程も言ったように、今日は部屋の名前通り化学実験をしている。遠い中学の時の記憶を頼りに、ガスバーナーへ安全に火をつけようと奮闘する同じ班の男子を、同じ班の女子全員で見守る。女子の中で誰かが「ガスバーナーこわーい」とか言い始めると、何故か女子の前でカッコつけたがる男子が出現する、あの状況である。
ワタシは暇を持て余して、他の班の様子を遠目に視察する。斜め前の実験机を使っている班が、マッチ棒を何度も点けては消してを繰り返して無駄に消費したのを化学教師に注意されて、ご立腹な様子で化学教師の嫌味を小声で言い合っている。
それを見て——先生を嫌う生徒という構図を目の当たりにして——昨日の檻多田先生スチューデントのチャットを思い出す。
部長による指示と説明、部員による質疑応答が数回あった内容を簡潔にまとめると、檻多田先生に関する生徒側のストレス解消を成し遂げる為に対抗馬を作り上げよう、という話であった。もっと分かりやすく言うと——口にするのも憚られるが——、檻多田先生ではなく別の人を嫌いになってもらおう、という作戦である。
檻多田先生を嫌う勢力が二年生女子を席巻している現在、檻多田先生を嫌うことは一部の二年生女子の間では一種の常識と化していてしまっている。これを覆すことははっきり言って、井世界部員の人数では無謀に等しい。時間をかければ無理ではないかもしれないがどれだけの時間を割くのか、というのが嫌われる代理人を用意することに抵抗がある部員から反対意見をもらった部長の言い分だった。反対意見と同時に提出された代案であった、直接的に檻多田先生って実はそこまで嫌う程じゃなくない? っていう噂を流すのは、余りにもリスクが大きい。当たり前の常識を真正面から否定して、鼻で笑われたり愛想を尽かされたりしては、元も子もない。
あと、これはワタシ個人の推測だが、井世界部員は自分の周囲のヘイト管理をちゃんとしているせいで、檻多田先生を嫌う人達との直接のパイプを持つ人物がいないか、若しくは少ないのだと思う。自分の友達が抱えるストレスは目に付きやすいし、目の届く範囲から率先してストレス解消に動くから、視野の範囲外のストレスにはめっぽう弱いのだ。
逆説的に、井世界部には女子サッカー部に所属している者がいないのでは? という推論が立てられるが、そこは今はどうでもいい。
話をワタシの考えではなく昨日のあった話し合いに戻すと、様々な意見が交わされた議論の末、部長が最初に提案した「直接的な対処法は無く、間接的に何か行動を起こすとした時に、最も効果的なのが囮役を作ることであった」という結論に至った。
次に始まったのは、それなら誰をその代役とするか、という参加したくない議論だった。ワタシは基本的に部長の意見には賛同するので今回もそうだったのだけれど、流石にこの議題の時は賛同した作戦が現実味を帯びてきて、文字を打ち込む指が画面上を彷徨うようになった。
他の部員もそうだったのか、この議題は思っていたより早く、呆気なく終わった。再び檻多田先生のようなことにならないよう、ストレスを散らす為に代役を複数人用意してかつ、ヘイトが分散し過ぎないよう立てる代役を予め決めて少数に絞っておく。その結果、二年生に関わりがある先生の中から、一部では嫌われているがまだ全体としては嫌われ者として認知されていない二人の先生が選ばれた。今後はヘイト沈静化後の檻多田先生も混ぜて、三人でヘイトが偏らないようにしていくらしい。
全くもって、嫌な会議だった。
と、そこで、ビーカーに薬品と水を入れてかき混ぜている班員から、働けよという意味の込められた言葉を放られた。
「あ、蓮向井ちゃん、もし暇だったらこれからする実験の記録しててよ」
優しく謝罪っぽいことを返して、全員に配られた実験記録用プリントに自分の名前を書く。文章を軽く読んで表を見、予習してきた内容と照らし合わせて、やるべきことを理解する。
しかし、実験の準備時間と結果が出るまでの待ち時間が長すぎて、またまた思考の世界に入ってしまう。
昨日のスチューデントの会議は部長が先の目標を発言してお開きとなり、直後、今度はティーチャーのチャットが動いた。おそらく“ケツアゴのワニ”さんも二年生の解消班なのだろう。ワタシはそれを察して、お互いマルチタスク頑張りましょう、という気持ちに一人なっていた。
ティーチャーで行ったのは、報告会である。これには部長は積極的に参加せず、ほとんど静観していた。多分こちらは見張るだけで、基本ワタシたちに任せる心算なのだろう。丸投げされているかとも思ったが、部長のことだからきっと信頼してくれているのだ。
“ケツアゴのワニ”さん(以降、文体的に男の子っぽかったので彼と呼ぶ)は、一日目の昨日、檻多田先生と話せなかったらしい。代わりに女子サッカー部の子と話したらしく、女サカ内でも派閥があってそれごとに檻多田先生を内心どう思っているかが異なる、という聞き出した内容を報告してくれた。彼によると、女サカとしては全会一致で檻多田先生を凄惨に嫌悪しているが、少なくとも彼と話した子はそこまで悪く思っていない風だった、とのこと。女サカではない人に話すわけだから、その子がいくらでも猫を被っていてもおかしくはないが、しかしそこは同じ解消班として人を見極める観察眼を信用するとしよう。
一人残らず嫌っているわけではなく、現在の顧問との関係に疑問を抱いている人物がいるのなら、その事実はティーチャーのみならずスチューデントのほうでも心強い味方になる。何かアクシデントが起きた際に、間接的で回りくどいやり方では間に合わない可能性があるが、そこで直接的な仕掛けが可能になるのは大きなアドバンテージだ。
彼の言葉を借りるなら、「友達になっておいて損はない人物」ということだ。……確かにその通りだし概ね賛成するが、言い方がもうちょっとあるはずだ。
ワタシのほうの報告は、体育の終わりに檻多田先生と話した、ということだけで、今後に期待という風に終わらせた。
事実、もう少し話して、檻多田先生の上辺だけではない人柄を知らなければならない。
と、昨日の振り返りをしつつ、記録はしっかり取っていたら、実験を終えた班員から声を掛けられた。
「ねぇね、蓮向井ちゃんのプリント見せてくんない? ウチら実験してて記録とってないからさ」
どうぞどうぞ、と無心で書き記していた実験結果を他の班員にも見えるようにする。全員が書き写して、それぞれ実験結果を受けての考察も書き終わった頃、丁度チャイムが鳴った。実験プリントは今週末までに提出ボックスに入れおく必要があるので、今終わらなかった人は課題を持って帰ることになった。
ワタシは別の班で頑張っていた友達と合流して、実験結果と教科書の内容が合致しないことを嘆く友達の話を聞く。
そんな時友達を励ましながら、ワタシは内心、用意されているであろうテンプレートを意識して書いた考察に冷や汗を垂らした。
予習してきた教科書の内容を思い出して、ろくに実験結果なんて見ずに書いたけど、大丈夫だよね……?
暫くは、檻多田先生と話しては一日の終わりにチャットで情報共有、の日々が続く。
もちろん、参加している以上、スチューデントのほうの噂流しも良心の呵責に耐えながらやっている。こちらも何かしら共有しなければならないことがあった時には動くが、何もない日には人数が多いので動かない。
ここ数日、檻多田先生に関する生徒・教師、両サイドの様子を見ていて分かったことがある。
一つは、檻多田先生が生徒から避けられていることを知っているということ。それとなく話を持っていったら、本人から「俺は生徒から嫌われているからなぁ」という言質を取れた。そして、檻多田先生はその事実を、学生のヤンチャとして処理していることも分かった。学生時代の気の迷い、狭い世界で生きているが故の歪んだ嫌悪感。大人から言わせれば確かにその通りなのかもしれないが、本人が思っている以上に事態は深刻だった。
二つ目は、檻多田先生を嫌う生徒に害意が無いということ。当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、悪口を言う人間に悪口を言っている意識はない。悪口の意識があったら罪悪感も湧いてきて、何度も同じようにそしるわけがないのだ。仇なそうという敵意も、貶めようという悪意も、全くもって、一切合切、皆無で、絶無で、だからこそ遠慮容赦なく、逡巡することなく、非道徳的な誹謗中傷の数々を吐き出せるのだ。人間は筋力を100%出すと自壊してしまうから普段は無意識のうちに自制しているらしいが、それと同様、人に聞かせる言葉だって社会動物ゆえに脳味噌がどこかで歯止めを効かせているはずなのだ。それなのに、そのストッパーが今や彼女たちから外れてしまっている。
今回の件に関わる井世界部員が、みな一日でも早い解決の為に最善を尽くしていることは承知している。
だがしかし、今回はどう見積もっても1ヶ月以上はかかる。おそらく全員そう思っているはずだ。一筋縄ではいかない、そんなに長い期間かかるなら予測不可能なアクシデントが必ず起こる、ワタシはそんな風に思う。
何が起こっても解決に向かうように、万が一にも最悪な結末を迎えることがないように、万全を期さなければ——
そして、私たち井世界部は文化祭本番を迎える————




