錦色の笑顔2/2 #伍
人が溢れた三叉路を、人混みを掻き分けて通る。ゆっくり進行する人だかりから逸脱して先を急ぐ。
「すみません、すみません」
人の輪を乱す行為をしていることに謝り倒しながら、階段を登り始める。肩と肩が当たり前に触れ合う大渋滞区域は今しがた通り過ぎた。階段には上下層の移動をしたい人しかいない。
けれど、人が多いことになんら変わりはない。
変わらず平謝りを口先でしつつ、比較的人の少ない真ん中を頭を下げて這うように登っていく。
階段に貼られた注意書きや宣伝のポスター、ここぞとばかりの勧誘ポスターには目もくれず、ただひたすらに着実に段を登って行く。段を飛ばせない、走れないもどかしさに心を削られそうだ。
心に追いつかない体を焦燥感が支配する中で、逆に心は浮いた時間に冷静さを取り戻し出した。
二階に着いたとしてどうする?
見えた人影は二つ。蜷伝千風ちゃんと、蔦土万くん。
位置関係的には、登り切ったらまず、蔦土くんに声を掛けなければならない。階段側に蔦土くんがいて、その向こうに千風ちゃんがいるから。……いや、私たち三人は周囲に隠れて秘密の会議を行っていたわけだから、別に千風ちゃんにだけ用事がある体で話しかけても不自然ではないのか。周りの目を気にして、ただのクラスメイトをスルーするのは不思議ではない。
ただし、その選択肢を取るのは千風ちゃんが急を要する時でかつ、蔦土くんが不要な時だけだ。
基本は蔦土くん→千風ちゃんの流れで合流して、三人で何処か人のいない所に行き、話を聞く。
基本ってか、理想かな。
往々にして不測の事態には不測の事態が重なるものだ。
千風ちゃんが一人……
私は昨日激励したことへの後悔と自己憎悪を、無理くり心の床下収納に押し込んで、自分でも気持ち悪いくらいに清々しいほどの他人行儀な予測を立てる。
断られたんだろう、彼女は。
昨日あれだけ落ち込んで、相談してきて。
心機一転、持ち前の素直さを取り戻して、意気込んだ矢先。
……
この胸の痛みは共感なんて呼べない。言葉を尽くすほどに軽く感じられる。
そしてあの場にいたもう一人——蔦土くんは大きく目を開いていた。その理由が、千風ちゃんが一人でいたから、ではないことは分かっている。
彼の目は千風ちゃんを見ていなかった。
千風ちゃんの向こう、千風ちゃんと同じものを見て驚愕に立ち止まっていた。
二人が目を奪われた衝撃的な光景。
それを見なければ、知らなければ、どんな順番で話しかけるかも、どんな言葉を掛けるかも決められない。
まずは現場の把握。対策も行動もそれからだ。
私は状況が変化する前に駆けつけたいと逸る気持ちで二階の床を踏む。幸い、階段ほど人で溢れていない。南廊下の西端まで、人の間を縫ってなんとか見通せる。
人の数はそこそこの南廊下を視界に入れて、瞳を左右に揺らす。
近場に蔦土くんを発見した。
次いで数人分奥に千風ちゃんを見つける。
更に奥、人通りのある廊下で立ち竦む二人の視線の先————下階からでは捉え切れなかった場所で、私は美しくも尊い笑顔の二者を見た。
彼女らは南廊下の反対端で、職員室の裏の壁に貼ってある文化祭仕様の校内マップを眺めつつ、微笑み称えながら喋っている。
一人は特徴的な耳飾りをした男の子で、もう一人は近所の高校の制服を着ている、落ち着いた雰囲気の女の子。
野世十和くんと、恐らくは彼の彼女だった。
美しくて、麗しくて、崇高で、高潔な、見惚れてしまうあの笑顔には、敵わない。
あぁ そうか そうだったのか
なんで気づかなかったんだろう
なんで気づいてあげられなかったんだろう
悔やんでも悔やみ切れない思いが、体を満たし、爪の間まで埋める。
しかし、今は私情を優先してはいられない。
遠い二者の、鼓膜をくすぐるような声に欹つ耳を戒めるように撫でて、瞳孔を掴んで離さない景色に欹つ目を意地でも引き剥がす。
千風ちゃんを見やると、未だ呆然としているようで、一歩も動いていない。あの光景から直接的にショックを受けたのは彼女だ。
しかし、だからと言って、真っ先に彼女に寄れない理由が、彼女より手前に、私の目の前にあった。
蔦土くんはゆっくりと後ろを向いて、その場を後にしようと一歩踏み出す。顔は俯いていて、表情が見れない。
声を掛けるべきと知りながら、なんて声を掛けようか迷い、懊悩していると、どこで私に気付いたのか、蔦土くんは顔を上げずに一言告げた。
伏せて、歩き、すれ違い様、
「一人になりたい」
呟いて横を通過した瞬間、嗅覚が反応した。
焼け焦げた匂いだった。模擬店や屋台で火事が起きたわけではないと、直感的に、本能的に理解した。
妬いて
焦がれた
苦々しい匂いが。
鼻をツンザクような、嫌な匂いが。
鼻腔に充満して、嗅覚の一つ一つをがっしりと握った。
思いがけず、両手で鼻を覆う。
それはどうしようもなく、恋の匂いの類いだった。
悪臭で、異臭で、激臭で、信じたくなかったけれど、紛れもなく、間違いなく、間違いようもなく、恋を見失った匂いだった。
やばい まずい 放置したらダメだ
絶対に。
最優先は千風ちゃんじゃない、蔦土くんだ。
何がなんでも引き留めようと、初めから意味を成さなかった両手を顔面から離して、振り向きながら彼のもとに手を伸ばす。
不幸中の幸いにも、蔦土くんの歩みは遅く、一歩踏み出しながらだったことも功を奏して、彼の袖を掴めそうになる。
が、しかし。
ぞわり
首筋が粟立った。
あ あぁ あぁあ 最悪だ
出没してしまった。怪井が、出たんだ。
束の間、そして、最悪は重なる。
「あ、あの、ねぇ……商井ちゃん……だよね? それと、蔦土くん?」
泣いていそうな震えた声が、背中に置かれる。
後ろ姿だったからか念の為の確認を差し込んできたのは、再度振り返るまでもない、千風ちゃんだ。
もはやこの悪寒が怪井発生によるものなのか、はたまた現状に下した脳の危険信号なのかも曖昧模糊にぼやけてしまっているけれど、それでも確かに判断できることが一つだけある。
この結果は、完全に私の失態だ。
不幸中の幸いはなかった。「災難は続くものだ」と先人が有難い金言を残してくれたように、不幸に不幸は重なる。
現状を最も的確に表す言葉があるとするならきっと、不幸中の不幸だろう。
全ては私が招いた悲劇だ。野世くんに彼女がいる可能性を考えなかったこと然り、野世くんを文化祭に誘う提案に賛同したこと然り、中途半端に蔦土くんを関わらせたこと然り。
もっとやりようがあったはずだ。
早めにどこかで気づけたはずだ。
こうなる前に何かが違えば……
降り頻る後悔と並列思考で、現状打破と名誉挽回のために脳がフル回転する。
最中、蔦土くんが動き出す。さっきよりは早く足を踏み出し、先程と同様に一言だけ残す。
「すみません、用事があるので」
逃げるように去っていく彼を追うことはせず、静かに見守る。別に面食らって動けないわけではない。
刻一刻と変わろうとする状況に追いつく為に、情報の処理は高速で行われている。今やるべきことがそっちじゃなくなっただけだ。
言ってしまえば、蔦土くんはもう最優先ではない。彼自身によるお願いと、怪井がすでに発生したこと、この二つがあるからだ。「一人になりたい」と本人から直々に告げられてしまってはそれを優先せざるを得ないし、一度怪井化してしまったなら事を急ぐ必要もない。現時点では、手の打ちようが無いのだ。
一つも手立てが無いわけではないけれど、それも今ここでは出来ない。
今は出来ることをする。私とは逆で彼の行動を意外に思っているだろう千風ちゃんに、まずは返事を。
私はくるりと振り向き、千風ちゃんの目を見る。
「あ、千風ちゃん」
彼女は精一杯、笑顔を取り繕っていた。誰が見ても分かる苦笑いで、歪んだ瞼を細くして哀情を奥に押し殺していた。
引き攣った口角が私の胸を締め付ける。
ここであの現場を知らぬフリはできない。情動的な理由もそうだけど、千風ちゃんはまだ手の施しようがあるから。
言葉を取捨選択する中で、きっと頼ってくれたのであろうまだ怪井になっていない千風ちゃんの心情と向き合う。
謝りたいけど、駄目だ。優しい彼女にとってはそれが一番現実を突き付けられる行為だから。
励ますのも、違う。深い哀しみに暮れた今は前を向きたい気分じゃないことは想像に難くない。
共感は、もっと違う。悲しい心境は理解して貰いたいだろうけれど、それは決して哀しさを共有したい訳じゃない。どんな同感の言葉も今は安っぽくなって、神経を逆撫でするだけだ。
相手を貶す言葉だって、全然違う。彼女は優しいから、傷も癒えないままに庇おうとするだろう。
慰めるのも、相応しくない。彼女は耐えていて、そこに本人の意思があるなら尊重すべきだ。現実を他人が勝手に突きつけるのはお門違いだ。
けれども。
側にいて欲しいことは分かる。頼って、話しかけてきたのだから、それは間違いない。
そして、誰よりも先に私たちに声を掛けた。一番近くにいた知り合いだったからかも知れないけれど、事情を知る私たちの名前を呼んだということは、ただ誰かと一緒にいたいわけではないのだ。
なんでもない日常生活に戻って、気を紛らわせたいだけじゃない。
事情を知る私たちと一緒にいて、少しずつ少しずつ受け入れ難い現実を受け入れたくもあるはずなのだ。
必要なのは、気分転換と気遣い。
熟考した末に、そう結論付けて、ようやく口を開く。いつも通りの口調を、強く意識しながら。
「…………その、さ。文化祭、一緒に回らない? 私、奢るよ」
たった一つの悲哀を押し潰す為に喜怒哀楽を失った眼が、一瞬で喜色に染まる。
か細く、震えた声が返ってくる。
「っうん。……それじゃあ、奢られようかな……」
千風ちゃんの手を取ると、冷凍保存されたみたいになっていた。
それをほぐすように柔らかく握り、伝播してくる冷気ならぬ凍気に心を砕く。
東棟方面、屋内飲食店が並ぶエリアに足を向ける。
彼女からは、純粋な悲恋の匂いがした。




