ハープの音は優しさか #参
九月も中旬。ボクは四方が校舎に囲まれた中レンガを、茹だるような日射に突き刺されながら登校している。
今日は久々の猛暑日で、東の屋上から顔を覗かせて頭部だけを熱くする朝日に鬱陶しさを感じる。紫外線を浴びせるなら、どうせなら全身にして欲しい。体だけ校舎の影に覆われて比較的涼しいのは、なんだか疎ましい気持ちになる。
周囲には登校ラッシュ時間を避けて登校したい、ゆとりのある朝を過ごす同志たちが、互いに干渉し合わない距離感でぽつぽつといる。
そう言うと、まるでボクが毎朝、朝のルーティン動画みたいな優雅でお洒落なひと時を過ごしているかのように聞こえてしまうが、残念なことに現実はそんなことはない。ボクの実際は、目覚ましに叩き起こされ、朝食を義務感で食し、学校を恨みながら持ち物を確認し、鉛みたいに重い手で玄関のドアノブを捻る。という、中学から変わらないルーチンワークだ。
さて、そんな感じでいつも通りの憂鬱な朝の気分に浸っていると、予期していた通りポケットに仕舞ってあったスマホが振動した。毎週木曜日の朝は、決まって登校中にスマホが鳴る。これもまた週間のルーチンワークと言えよう。
ボクは中レンガのド真ん中に生える常に八分咲きの桜の木を見上げずに、習慣のように落ちた花びらを踏みつけて先を急ぐ。念の為言っておくと、故意にではない。そうしなければ足の踏み場もないほど桜の絨毯が敷き詰められている為だ。
話は逸れるが、そう言えば桜の木は八分咲きで満開だと春先の天気予報で言っていた。全部の蕾の開花を待っていたらその前に散る花が出てきてしまうから八分咲き=満開という理屈らしい。なるほど確かに、春夏秋冬で姿を変える普通の桜も、十分咲きということは絶対に起こり得ない現象だ。蕾が一斉に揃って花開くというのは、蕾が付く時期とか日の当たり方とか、その他諸々の自然条件の確率を天元突破して漸く起こり得る、神だけが起こせる神秘的な現象に相違ない。散るも咲くも、中レンガの永遠に花やぐ桜の木とて変わらず行うことだ。咲けば散るのは言わずもがな、散った分咲くのが水耕高校の萬年桜である。八分咲き二分散りを休みなく繰り返し続ける。なんだかそれは、永劫の栄華を誇っているようで形だけのハリボテのような、ドライフラワーのような、生命の刹那の美しさを態々欠いてしまったような感じがする。咲き誇る姿だけでなく、散ってゆく儚ささえも評価される桜の本質を、著しく歪めてしまったような。有り体に言うなら、表面的な美しさに囚われているような……。
ボクは逸れた先の話題に俄かにセンチになりつつも、落ちた花びらをちりとりに乗せ半透明の燃えるゴミ袋に詰める用務員さんを横目に通り過ぎる。それからなるべく桜の花びらは踏まないように(花びらの比較的少ないところを踏むように)して、下駄箱の並んだ玄関に入る。
大抵の学校がそうだと思うが、背の高い下駄箱が仕切りのように立ち並ぶ玄関は死角の宝庫である。割りかし、人と人との接触事故が頻発する場所だろう。
何が言いたいのかというと、つまりは、井世界部の連絡をこっそり見るには適したスポットということだ。ボクは左右を靴箱に挟まれて、それでも人に見られないよう素早くスマホを取り出し、指紋認証と暗号キー、顔認証の三重ロックを手早くクリアする。さらに、後ろ方向を背中で隠し、前方向を頭で隠すようにして見慣れたホーム画面を覗き込み、井世界部専用のアプリケーションを開く。一番上に出てきた木曜日のグループには、予想通り数件の通知があった。
タップすると、毎度のごとく一井先輩が朝の当番を終えたことを報告していた。
<二の次
木曜日の当番無事に終わりました。
@上にも下にもいる さんにお聞きしたいことが二つあるのですがよろしいでしょうか?
<上にも下にもいる
二人とも朝の大羊退治ありがと〜
聞きたいことってどしたん?
この二人というのは、一井先輩ともう一人、阿久田井という先輩らしいのだが、ボクは未だ会ったことがない。
<二の次
ありがとうございます。
一つ目は臨時の監視活動についてなんですが、先週に引き続き金曜日メンバーが来ませんでした。代わりに、先週にはなかった視線が今日はありました。もしかしたら先週は気づかなかっただけで金曜日メンバーの誰かしらの視線なのかなって思ったんですけど、上にも下にもいるさん的にはどうでしょうか。
二つ目は先日の部集会で話題に上がったオタマジャクシについてなんですが、今朝、足に似た突起を生やした個体と遭遇しました。実際に見たのは私じゃなくて風の前の芥さんなんですけど、上にも下にもいるさんはどう考えますか? 個人的には成長するタイプの怪井なのかなと思っています。
<上にも下にもいる
一つ目に関しては、金曜メンバーは極度の人見知りさんと重度のマイペースさんだから仕方ないとしか言えないなぁ
視線の正体は十中八九、人見知りさんのものだと思うよ〜
二つ目は、私も初耳情報だねー
聞いてたオタマジャクシの情報に合致しててかつ、突起が増えてたんなら成長型と見て間違いないけど、単純に似てるだけの別種の怪井の可能性もあるから、後で以前にオタマジャクシを見た人と容姿のすり合わせをした方がいいかもねー
<二の次
別種の怪井の可能性は盲点でした。
後でコバンシャチさんに確認取ってみます。
ありがとうございます。
<上にも下にもいる
良いってことよ〜
それよりも、アポ取るなら私が繋ごうか? チャットのやり取りだけだろうけど一応ね
あと部長にも一応報告しておくね〜
<二の次
そうしてもらえると助かります。
何から何までしていただいて、本当にありがとうございます。
<上にも下にもいる
いいよ、やらなくても良いこと勝手にやってるだけだしー
とりま時間もないし今はここでやめよっか
今日も当番張り切っていこう!
最後の「張り切っていこう」の末尾には、両手を振り上げていかにも張り切るって感じの顔文字が添えられていた。
監視活動のほうはボクには関係ないことなので無視するとして、オタマジャクシが成長の段階を踏んでいる、か。解消班的な見方をするなら、オタマジャクシの発生要因が成長した、ということになる。成長、つまりはストレスが大きくなったということで、その原因としては思いが更に強くなるか、数が増えるかの二択である。将来的に何個も段階を踏むようなら、後者の率が高い。人数が増えるのは殆ど際限ないが、思いというのはそう何度も深まるものではないからだ。どんなに苦しい思いも、辛い思いも、繰り返すだけでそれ以上大きくなることは滅多にない。苦渋の渦に飲み込まれ、繰り返すばかりも辛いは辛いが、しかし感情を一層の深みへと連れて行くほどではない。それに、怪井化した時点で既に並々ならぬものを抱えているので、もっと巨大なものを抱えるなんてことは稀中の稀だ。その点、ストレスを持つ人が増えるというのは、総合的なストレスの増え方としても非常に成長型と相性がいい。人数が増えた分だけ、ストレス値も増加する、増加したストレスの分だけ、怪井は成長する。実にシンプルだ。
前者が一気にズドンと爆増するのに対し、後者はじわりじわりと緩やかに増加する。
きっとオタマジャクシは後者のタイプだ。足っぽい突起という微細な変化なら、人数が微妙に増えたと推察できる。思いの微差は怪井に反映されにくいし。
とりあえずボクは人に見られるといけないので、用の済んだスマホを鞄に落とし込んで、引き上げた外靴に人差し指をかける。
ふと、井世界部のチャットを見たからか、今さっきまで自分が歩いていた中レンガ――裏側の世界のその場所で、ついさっきまで大羊なる化け物との戦闘が行われていたのだと考え込んでしまう。
井世界とボクらが呼ぶ、もう一つ世界――世界の裏側の、世界――。
井紋のアイテムを所持していないボクを含む解消班には、知っていても体験することができない非現実――。
見たこともない井世界を想像して、思わず肩の辺りから身震いをする。
と、不意に名前を呼ばれた。
「禍井、はよっす。なんか新情報出てた?」
後ろからボクの肩を叩き朝の挨拶をかましてきたのは、同じクラスで同じ卓球部の巨人、琴乃成行だった。クラスでも部活でも、琴乃より背が高い人はいない。
「おはよ。」
ボクは、ポンッと音が鳴りそうなほど軽く叩かれた肩に鞄をかけ直して、落とした内履きに爪先を入れる。
「音ゲーの新情報はまだかな。新曲追加の発表があったばっかだし」
内靴を履き終わり、琴乃が外靴を脱ぐのを待つ間、スマホを見られていたかもしれない可能性に人知れず冷や汗を流す。振ってきた話題的に画面までは見られてなかったから良かったものの、スマホいじってたのはバレてたか。これからはもっと細心の注意を払おう。
琴乃は靴箱の最上段に難なく手をかけて、内履きを履く時に潰しかけた踵を起こす。
「部活、なんか聞いてる?」
何とはなしに訊ねられ、思ったままに訊ね返す。
「いやなんも聞いてないけど。何かあったの?」
「特別何かってわけじゃないんだけど……そろそろ部内戦ありそうだなぁって。なんか唐突にごめん」
「いや別にいいけど。……そっか、あの顧問のことだし確かにもうそろありそう。ボクは部内戦ちょっと嫌だなぁ」
「あー、まあ、分かるよ。なんか嫌だよねぇ」
一緒にテンションを下げて、どちらともなしに教室までの道のりを歩き始める。
部活強制参加という古いしきたりが残る水耕高校では、渋々嫌々部活に入る生徒はさして珍しくもない。ボクも琴乃もその類で、卓球部はそんな奴らの巣窟とも言える。男子だし、文化部じゃなくてせめて入るなら運動部だよなぁというレベルの気概の集まりだ。
けれども、そんなでも入ってしまえば部活である。なんだかんだでやる気はなくとも環境が合えば続けられる。ダラダラと練習めんどくせーとかぐちぐち言って始めながら、終わる頃にはダラダラと汗水垂らして今日も疲れたーなんて疲労と爽快半分ずつで口にするのだ。部活動なんて、大概そんなもん。嫌々初めて、嫌々終わる。でも二つの嫌々は全然別物で、毎回その繰り返しだ。
というような、部活に対するモチベーションの低さ自慢大会を二人で開催していると、別学年の下駄箱の間から、学校の怪談を噂する声が聞こえてきた。
「ねぇ、プールの噂聞いた?」
「プール? あー、あれだろ、井戸に使う水汲みポンプの話だろ? ××に聞いたよ。あれってマジなのか?」
「どうやらマジらしいよ。勝手に動いたとか、水が噴き出たとか」
「なんかいまいちピンと来ないんだけど、それって普通に起こることなんじゃないのか? ポンプ内の圧力的な何かで」
「それがさ、学校の七不思議の一つと内容がかなり被ってるんだよ。もしかしたら、今度は人間の血がプールいっぱいになるぐらい出てくるかも」
男女二人組の、暗い話題ながらもどこかに何かを期待しているような話し振りに爆散を願いつつ、風の噂で得た情報に一つ疑問を浮かべる。
プール? 水耕高校にそんな施設あっただろうか
怪談の内容もさることながら、自分の知らない場所が半年通った学校にあることにハテナが付く。水泳の授業はおろか、水泳部さえも存在しない水耕高校には、てっきり泳ぐ為の施設自体無いのだと思っていたのだけれど。
ボクは琴乃との会話の切れ目を探し、半ば強引に疑問を捩じ込む。
「てか、この学校ってプールあったっけ?」
突然の話題転換に一瞬だけ脳の処理が追いつかなくなった琴乃が、即座にこちらの意図を汲もうとする。
「ん? あ、あぁ。怪談噺? さっきすれ違った時に聞こえてきたやつね。プール自体はあるはずだよ。西校舎の西側にある筆耕館を、更に西に行ったところに。僕も直接行ったり見たりしたわけじゃないんだけど、入学式で貰った敷地内案内図と友達が体育祭の準備の時に使ったって言ってた証言から、なんとなくそこら辺にあるんだと思ってるよ。間違ってたらごめんだけど」
そうか、ボクが知らなかっただけでキチンとある施設なのか。得心が行った心で、詳細について訊いてみる。
「琴乃はさっきの話知ってる?」
「ごめんけど、あんまり知らないかなぁ。手押しポンプに関連する怖い話が流行ってるらしいって、それだけ。元々ホラーとか苦手だし」
「そういえばそうだったね。映画も真っ先にホラー系拒否ってた」
「夏休みのやつね。時期的にホラー系は絶対候補に挙がると思って先手を打っておいたんだよ」
まじムリ><みたいな顔をしてみせる琴乃。てことは、一年六組日陰者同盟で肝試ししようとか言ってプールに調査に行くのはできないな。まあ、ただの怪談噺程度ならストレスの元にはならないだろうし、寧ろ過ぎ去りゆく夏の最後のエンタメとしてストレスを解放してくれることだろう。
ホラーは別に井世界部の敵ではないし。
一階北廊下の下駄箱ゾーンを通り過ぎ、両側に並んだ引き違い窓に差し掛かる。そこで、左前の北東階段から降りてきた卓球部の副部長と目が合った。
「お、禍井と琴乃じゃん。丁度良かった」
おはようございます、と琴乃に続いて挨拶する。三人で窓の前に集まると、副部長が早速切り出した。
「顧問に雑用頼まれてさ。そろそろ部内戦やりたいから日にちの希望取って来いって。副部長の俺に頼むことじゃないよな。それで、部内戦やる日、今日と明日どっちが良い? 俺も本当にさっき言われたばっかでめんどくさいんだけど。どうする? 今選べなかったら放課後まででも良いんだけど」
早口で説明と用事を済ませようとする副部長は、時間を惜しむように、うちの顧問やる気は無い癖に指示だけは一丁前に出すからなぁ、とボヤく。ボクらは副部長に首で同意を示しつつ、各々に回答する。
「ボクはどっちでもいいですね」
「あ、そう? 一応俺の希望が明日だからどっちつかずの場合は強制的に俺と同じ方に票入れるけど」
「全然いいですよ」
「おっけー。禍井は明日ね。琴乃は? 日にちどっち良いとかある?」
「あ、僕も明日が良いですね」
「りょうかい。明日に二票ね。んじゃ、また部活で」
言って、副部長は玄関のほうへと駆け足にいなくなる。忘れ物でもしたんだろうか。時間は早いから、家が近いなら帰宅しても間に合うだろう。
正面に向き直り、ボクはアンケートを取る立場を利用して票を不正操作している副部長について、琴乃の見解を聞き出そうと猫背の上を見上げてみる。
と、まるで話を聞いてなかったみたいにぎこちなく愛想笑いを作る琴乃。
まだボクは何も言っていないのだけれど……
………………だけれど、琴乃が苦虫を噛み潰した直後のような笑顔を浮かべる理由に、心当たりが無いではなかった。




