頭は痛くない #弍
昨日の夜に二つ、メッセージが送られてきた。
一つは、明日の朝、耕織館で会いたいという、門ちゃんからのもの。
もう一つは……
思い返して、ふと林道のぬかるみに足を取られそうになる。昨晩から降り始めた雨は未だ止む気配なく、今は私の差す傘を打っている。
転びかけた私は、長靴に付いた泥が洗い流されないのを見て、再び足を動かす。
一緒に、思考が回帰する。
昨夜の晩御飯どきに、佐々井から一通の長文が送られてきた。見たこともないほど、沢山のいろんな配慮に塗れた文章だった。文章というか、文量的にはもう文書と言えた。
気配りに紛れて、メッセの本文はかなりぼかされていたけれど、逆にその気配りの多さが伝えたい真実を裏付けていた。
昨晩から何度も文章を読んで、何度も考えて、反芻して、反芻して、反芻した。
が、未だに思考の咀嚼は終わらないでいた。
噛み砕いても噛み砕いても、送られてきた内容は元のままで、形状記憶のガムをずっと噛み続けてる感覚だ。
日立に付き合ってる自覚は無く、ただの体の関係だけと思っている――
溜息も出なかった。出るほどに状況を飲み込めていないから。
否、飲み込めてはいる。情報を整理して、状況も整理できている。
ただ、飲み込んだ事実を食道全体が吐き出そうと悶えている。
心が受け入れを拒否している。
やりきれなさが現れても、すぐさま雨に洗われる。
雨の中、水溜まりを踏まないように、林道を一歩外れる。
耕織館付近まで来て外のベンチを見上げるも、門ちゃんはまだ来ていなかった。一応玄関の扉を確認したが、案の定閉まっていた。
できることがなくなり、なんとなくベンチの側まで歩く。無論、雨ざらし吹きっさらしなので座りはしない。
振り返って、来た道をぼんやりと眺める。
門ちゃんにはなんと話すべきだろうか。
そしていつ伝えるべきだろうか。今朝のタイミングだろうか。
あるいは、墓場まで持っていくべきだろうか。
……なんだか最後のはエゴのような気がする。
よくない考えを振り落とすように頭を振って顔を上げると、丁度門ちゃんが目の前まで来ていた。
「どうしたんですか? 虫でもいましたか?」
「ん、まあそんなとこ。おはよ」
言ってから、こんな雨の中で飛ぶ虫なんかいないということに気づく。
「あ、おはようございます。軒下行きません? 腕疲れちゃいますし」
門ちゃんは私の発言に引っ掛からなかったようで、淡い色の傘を横に揺らしながらそう言う。
「病井さんは雨好きなんですか?」
「んーん、そんなことないけど。どして?」
余裕で二人は立てる玄関前の軒下に移動し、傘についた水滴を落とす。
「ここに来ないでベンチの方にいたから」
「あー。気づかなかっただけだよ」
「そうですか。割と多いですよね、雨好きな人。病井さんもそのタイプっぽい感じします」
「そう? 私は好きでもないし嫌いでもないけど」
「あ、それめっちゃ病井さんっぽい。どっちの意見も持ってる感じ、すごい病井さんらしい」
「っぽいとか、らしいっていうか、私なんだよなぁ。私本人の意見なんだよなぁ。それで言うなら、そういうことずけずけ言ってくるのは門ちゃんらしいよ」
どっちの意見も持ってるって、優柔不断な八方美人て言われてるようなイメージで、全く褒められてる気がしない。
「私のこの性格を前に褒めたのは病井さんじゃないですか。悪口みたいに言われても効きませんよ」
「一学期の話じゃん。よく覚えてるね。っていうか。門ちゃんは昨日のことを話したくて呼んだんでしょ?」
このままでは朝の登校時間が終わると思ったので、急いで本題に舵を切る。
「あ、そうでした。だから朝に病井さん呼んだんですよ」
本当にうっかり忘れていたのか、門ちゃんは両手をパチンと打つ。
「私、昨日行ってきたじゃないですか。それでその、色々分かったことがあって……えと、何から話せば良いかな。あ、そう。まずは」
門ちゃんは笑顔を作って報告する。
「妊娠初期で、人口妊娠中絶は間に合うって言われました」
ほっと胸を撫で下ろす。
大丈夫だとは思っていたが、ちゃんと確証が得られて良かった。
「ただ、手術するなら早いほうがいいだろうってことで、明日、土曜日に手術することになりました」
門ちゃんは尚も笑顔のまま、元気にそう続けた。
「え、明日? 門ちゃんは大丈夫なの?」
私は詰め寄るような態度にならないよう、指先まで気を配りながら尋ねる。
「ちょっと不安ですけど、大丈夫です。お医者さんも優しかったし。お母さんに言われたのもありますけど、怖がって先延ばしにしても良いことないのは先輩に教わりましたから。自分で明日って決めました」
啖呵を切った門ちゃんの唇は微かに震え、傘を持つ手は必要以上に握りしめられている。
それが雨の寒さに耐えるためではないことは、きっと昨日初めて会ったであろう医者でも分かるはずだ。
「でも、明日行く前に病井さんに会えて良かったです」
門ちゃんは、傘を握る手に反対の手を重ねる。重ねて、それを見るように俯く。
「流石に学校は休みなさいってお母さんに言われたので、今日は後もう早退するんです。本当は丸一日休ませるつもりだったらしいんですけど、私が朝だけでも行きたいって言って来させてもらいました。このまま病井さんに何も言わずに手術っていうのも嫌だし、スマホで用件だけ伝えるのも違うなって思ったので。色々と今回のことで頼りにさせてもらったのに、会わないのは申し訳なくて。あと、その、、手術の前に一回会いたいなって思ったので」
傘を握りしめて震えた腕がか弱く見える。
私には、それが今の門ちゃんの全てな気がした。
私は言葉が出てこなくなり、門ちゃんを見ていられなくなり、傘を手放してぎゅっと包み込むように抱きしめる。
門ちゃんの全身は、恐怖や不安に冷えるどころか温かかった。
人肌の2倍温かかった。
「や、病井さん?」
「大丈夫だよ。大丈夫」
何も具体的でない、根拠もないただの単語を垂れ流してしまう。手術に対する不安は私にはどうにも出来ないと、そう言ってるのと同じだった。
門ちゃんは驚き、やがてゆっくりと落ち着きを取り戻していく。
鼓動が安定していくのを感じ取る。
「病井さん、ありがとうございます。私、大丈夫です」
背中を軽く叩かれて、私は離れる。
「私、怖いけど、それでもちゃんと、頑張って来ます」
門ちゃんは体から離れた私の左手を取って、力強くそう言った。
***
一時間目の英語の授業中、先生の解説を聞きながら私は朝のことを思い出す。
大丈夫だよ、と無責任に言い放ったあの瞬間を。
無責任な言葉を執拗に嫌う人間が世の中にはいる。分かりやすい例が、“がんばれ”を嫌う人間だ。彼らは、“がんばれ”は無責任な言葉だと主張する。遮二無二、無我夢中で、我武者羅に、限界突破してまで努力している人間に“がんばれ”なんて声をかけるなと、それ以上どう頑張るのかと、どう頑張らせる気なのかと言う。“がんばれ”と言った結果、怪我や精神病になったら、責任は取れるのかと。もっと言えば、“がんばれ”と応援することに意味はあるのか、応援すること自体がする側の自己満足なんじゃないかと。そんなことを言う。
それに対して私は、そんなことを考えてるお前らこそが自己満だろうと、今までそう思っていた。自己満足で、自己陶酔。自分はこんなところまで社会に気を遣っている、ある種弱い存在・立場なのだと周囲にアピールしていると、大体そんな風に見ていた。
だから、“がんばれ”なんて無責任でいいじゃないか。言葉なんて無責任でなんぼだろう。と、そういう考えでいた。
しかしながら、今朝私は門ちゃんを励ます時に放った「大丈夫」に責任が持てず、それを自分で責めた。
具体性がかけらもない「大丈夫」を言って、私は悔いた。
言い放った言葉が無責任なことを、とても不安に思った。
門ちゃんにはそんな言葉届かないんじゃないか、と。
責任のない言葉は、言葉の意味を見失うということを知った。
身を以て知った。
responsibleを含む英文をモジャモジャ頭の英語教師が読んだのを聞いて、責任感って大事だなぁとマーカーを引く。
結局、日立のことについて門ちゃんに言いそびれてしまったが、手術の前日だったので結果的には伝えなくて正解だった。
言っていたら、更なる不安を抱かせるのみだろうし。
このまま言えずじまいということはないにしても、今日ではないことは誰だってわかるし、今日以外ならいつでも等しく適した日に思えてくる。
あぁ、あと、男側を最後まで門ちゃんの側に用意できなかった。その役は全て私が請け負ってしまった。
勿論、こんなことになってしまった責任の一端は門ちゃん自身にあるけれど、妊娠した事実にだけ関して言うならば、日立ないしは雨さんにも責任はある。浮気した責任の所在が一人にある場合はあっても、妊娠した責任の所在はどんな形であっても両人にある場合しかないのだから。
特に望まぬ妊娠とあらば、責任は重く捉えなければならない。
門ちゃんもこれを機に、不貞を働いた罪の重さを知るべきだ。
責任や罪を負う覚悟がなければ、そんなことをしてはいけない。
覚悟があれば何をしても良いというわけじゃないのは、言うまでもないが。
言葉の責任や、行為の責任。
私は、一時間目の授業中、そんなことばかり考えていた。
書いたことを早速否定するのは気持ちが悪いですが、妊娠した時の責任の所在が一人の場合はあると思っています。
例えば無理やり強制的に、とか。




