憂鬱な朝 #壱
青い牛乳の缶がロゴマークのコンビニを通り過ぎて、まばらに列を成した人々の後ろに付く。信号を渡ったことでできた前方の人だかりは、全員が体育会系の大学の行進に憧れてるかのように器用に縁石もない白線だけの歩道に列を作る。白線だけではあるものの、広めの側溝が下を通っているため歩道の幅自体は二人並んで歩いても車との接触の危険はない。
とはいえ、そこに自転車が加われば話は変わってくる。軍隊みたいな行進の難易度も、道路脇の危険度も格段に跳ね上がる。自転車に乗ってる連中は信号を渡る時点で先行するので歩行者にとっては関係ないが、自転車を押してる連中は道路脇の狭い狭い空間における空間占有率が異常に高い為他の人間より注意する必要がある。具体的には、歩行者による無理な追い越しとか、逆に譲って先に行かせるとか。場所を取る存在に列内の場所移動を強いるのは極力やめた方が良い。寧ろ危険や迷惑になりかねない。
先行した朝の自転車乗り達はと言えば、この先に待ち受ける斜度そこそこの坂を走り切る為に交差点を過ぎてから急ぎ足で加速を始める。サドルから腰を浮かせ、立ち漕ぎで全体重を左右のペダルに片方ずつかける姿は、さながらゴール目前のヒルクライマーだ。そんな日常に潜むクライマーもどき達を生徒の送迎車は迷惑そうに白色の破線を大袈裟にはみ出しながら進行する。対向車線からは我が子を送り終えた親が、今度は自らの職場の開始時刻に間に合うように法定速度を軽く超えた速度で向かってくる。見てるだけで肝が冷える光景は1年半が経った8月末の今でも相変わらず肝を冷やしてくる。
事故がないのが摩訶不思議で、学校の七不思議に入ってもおかしくない。
青と白がトレードカラーのコンビニが面した交差点を背中に、校門へと吸い込まれていく列の最後尾でスマホのスリープモードを解除する。
そこで、前方を歩いていた女子二人組の内、道路側をスマホを弄りながら歩いていた女子が、左のプリンと同じカラーリングの髪を弄っている女子に話しかけた。
「ねぇねぇ、ウチらの学校に七不思議ってあるの知ってた?」
思わず何も含んでいない口から何かを吹き出しそうになる。唾を飲み込むタイミングじゃなくて良かった。もし唾を飲み込んでいたら気管支の変な所に入って盛大にむせていただろう。
しかし、心を読まれたみたいな同学年のギャル達の話題は普通に気になる。
ふと気になって開いたスマホのロック画面に映る爬虫類系vtuberグループのイラストと現在時刻を流し見て、自然な仕草で用済みの極薄長方形をポケットに戻す。自分がグループごと推す所謂箱推しなことは置いといて、現在時刻は登校時間5分前、8時10分だった。
五歩ほど前方で気怠そうに会話を始めた彼女達は、公立ながら売りにしている自由な校則を最大限に活かした髪色で、夢のあるオカルト話に花を咲かせている。
「なんか昨日彼氏から肝試ししようって言われてさー、夜の学校ってだけでも怖いのに七不思議まで聞かされて昨日寝れなかったんよー」
「えー、私そんなの聞いたことないよー。てか、体調だいじょぶなん?」
「マジ眠いわ。マジ寝落ち通話彼氏と遅くまでやり過ぎちゃったわー」
退屈な日常に刺激を求めて始めたオカルト話ではなく、オカルトをダシに使った惚気話だった。畜生、そんな事のために聞き耳を立てたわけじゃない。吊り橋効果か何か知らないが、自分達のひと時の色めきの為に深夜の学校を利用しないでくれ。隣のプリン頭が引き攣った笑顔をしているのが後ろ姿からでも分かる。喋り口調も動きも心なしかぎこちない。そういう色恋の自慢は友達の中でもできる相手が限られているだろうに。
学校までの上り坂、その途中に不自然に位置する大手全国チェーンの塾の前に来る。確か正式名称は水耕高校西教室だったか。コンビニ-学校間にある坂道の中間に立つその塾は周囲には他に住宅しかない学校西側近辺にて少々浮いてる存在、な気がする。
また、今現在登校している水耕高校に最も近い塾である為、水耕高校の生徒を狙った立地なのかと考察するが、近すぎるが故に逆に客足が遠のくような気もする。自分は塾に通ったことがないので雰囲気など分からないが、学校の人間関係と塾の人間関係は別にしたい人とかいるのではないだろうか。後は近過ぎると気持ちの切り替えができない人とか。少なくとも自分はそういうタイプなので、間違ってもここには通わないだろうなと通りかかる度思う。つまり、登下校の度思っている。ある意味思い出深い場所だ。
塾を通り過ぎ、校門まで続く坂道も本格的に傾斜が傾いてきた頃、前を歩くギャル共の内、隣の彼氏自慢に若干ピキり出したプリンが正面に何かを発見する。
「あ、あれオリタタじゃね?」
そう言って、恐らくは人差し指を差し(後ろからでは右肘が上がった動作までしか分からなかった)、隣の彼氏持ち茶髪に確認を促す。
「げっ、マジじゃん。うーわ、サイアクだわー」
道路側を歩く明るい茶髪はスマホから目を上げて、視界に捉えた不幸にがっくりと肩を落とす。
続けて、「今日はもうずっと鬱だわ。授業全部寝よー」と放たれた言葉に心の中で、それは夜更かしして彼氏と寝落ち通話してたからだろ、と思わずプリン頭と同じツッコミをしてしまった。因みにプリン頭は「それは彼氏と寝たからでしょ」と言っていた。自分より辛辣どころか事実がだいぶ歪められている。友達って怖い。
真ん前で檻多田先生に対する罵詈雑言(個人的にには言いがかりなように思う)を垂れ始めたカラフルな奴等を他所に、遅ればせながら自分も釣られて坂の頂上を見上げる。
身長は成人男性にしてはあまり高くなく、フィットし過ぎず緩すぎないジャージに栗みたいなソフトモヒカン。
確かに校門前で挨拶をしている人物は檻多田先生だった。
先生方が毎朝代わる代わる校門の前に立って朝の挨拶運動をする挨拶週間。それの今日は三日目だったことを挨拶運動に励む檻多田先生を見て思い出す。
そうか、今日は檻多田先生が当番なのか。
おはようおはようと、自転車に乗る生徒や徒歩の生徒、俯きがちな生徒や友達と喋る生徒など、十人十色に校門を潜る全校生徒に等しく人間らしい挨拶を掛けている姿は、遠目からでも先生の人柄が窺える。
高校で定められている登校時間の終了が迫り、時間ギリギリにしか行動できない数多くの生徒が殺到している中で機械的に繰り返すだけの挨拶にならないのは、一重に先生の凄まじい技量が為せる技なのだろう。
ああいう、登校時間に追われて小走りに登校する人間はきっと長期休みの課題も懲りずに毎回追われているのだと思う。あれだけ先生方が長期休み直前に計画的に課題を熟すことの重要さを説いているというのに。
まあ、この理論に当て嵌めると今急いでいない自分は長期休み最終日、日が沈んでから重い腰を上げつつも決して急ぐことなく休み明け初日の朝までペンを動かしているタイプになるのだけど。
いやぁ、本当に答えを写してる深夜のこれ以上ない虚無感といったらない。家族は寝静まり、机のライトが手元の溜まり溜まった怠惰という名の罪だけを照らすあの悔しさというのか。そして罪を雪ぎ続けて完徹で迎える朝日の絶望感。家族が起き始めて朝食の匂いが漂うのを、無意味と知りながらもうあと一秒だけ遅くなってくれと願う切なさ。遮光カーテンから滲む太陽光の強さに焦らされて感じる無力感。本当に、本当にこれまで幾度もおんなじ苦しみ方をしているというのにまた繰り返してしまうのはなぜなんだろうか。なぜ失敗から学ばないのだろう。もしや同じ轍を踏みつけ過ぎてその形の跡になっているのだろうか。だとしたらこれから一生自分は長期休暇の度に身を削る思いをすることになる。
それは嫌だなぁ、なんて小1の読書感想文みたいなまとめをしていると前方の悪口大会がヒートアップしてきていた。
おいおい、その辺にしとけよ。もう結構距離近いぞ。聞こえてたら後々面倒なことになるんだから、と注意を内心に留めておく。直接は言わない。言って一層面倒臭くなることは目に見えているから。
何より、面倒事は暫く懲り懲り。丁度一週間前に開かれた学校行事のクラスマッチで骨の折れる思いをしたばかりだ。
ここで前方の会話に聞き耳を立てていることについて一応断っておくと、断じて特殊な趣味があるわけではない。これは部活動の一環である。
『井世界部』という、名前からして少々特殊な部活動の活動内容に学内の情報収集が組み込まれている。なので、職務上盗み聞きは仕方がないのだ。何より、今行われている前方の会話は勝手に聞こえてくるのだから致し方がない。因みに井世界部は誤植ではない。
とは言え、井世界部に入部以前から他人同士の会話を清聴することはあったけど。独りぼっちは学校では何かと暇なのだ。暇潰しに参加予定の無い会話をラジオ代わりに聞くのは割とあるあるではないだろうか。そう考えると聞き耳に関しては部活動と習慣が五分五分と言うのが正しい。
だがしかし『井世界部』の存在は信じて欲しい。学校の裏で暗躍する井世界部は決して集団生活における拠り所を作れなかった独りぼっちが生み出した憐れな妄想や幻想の類ではなく、本当に実在する非公認非公式秘密裏の部活動である。
公言なんてもっての外の、口外厳禁のマル秘井世界部。自分はそこの所属で、聞き耳を立てるのはそこの活動の一つということだ。
未だ残暑と言えない本格的な暑さが猛威を振るう中、学校敷地の正門方面を囲う生垣に感謝の念を送る。学校敷地に接した辺りから歩道には縁石が置かれ、上手い具合に生垣の影が朝日を遮って道端に涼やかさをもたらしている。
すると突然(本人たちにとってはそうじゃなかったんだろうが)、
「ああもう、地震が起きてあいつだけ死んでくんねーかな」
正面からどちらともなしにそう声が届いた。
……
喉元までせり上がって嘔吐するように吐き出しかけた溜息を喉を鳴らして轢き潰す。
それから、校門に到着する既の所まで檻多田先生の嫌いな箇所をお題とした山手線ゲームは続いた。
それにしたって、嫌われっぷりが凄惨である。
基本的には良い先生だと思うのだけれど、わざわざ聞こえていそうな距離で陰口を捲し立てるようにされ、目の前に来ればあからさまに黙って不快な空気を醸し出されるのは、逆に何か自分の知らない悪行を檻多田先生がやっているのではないかと疑ってしまう。
ギャル達は校門を潜り過ぎる為左に曲がり檻多田先生を真右に控えて、わざとらしく押し黙るようにして先程までの中傷を隠蔽する様子を隠そうともしない。
寧ろ、公に秘匿を知らしめることで攻撃しているようだった。
それに対しても檻多田先生は「おはよう、おはよう」と人数分しっかりと不穏な空気なんて1ミリも感じない、非常に人間らしい温かみを持った挨拶を前の二人に投げ掛ける。
檻多田先生が罵詈雑言に気づいてないってことはないだろうな。
だとしたら鈍感主人公にもなれないレベル。鈍感過ぎて話が一向に進まないだろう。
檻多田先生のとてもとても人間味溢れる朝の元気な挨拶に、自分はこれまでの大半の生徒と同様会釈で返す。お前も人のこと言えねえじゃねーかとか突っ込まれそうだが、内心申し訳なさを募らせているので勘弁願いたい。
ここで、檻多田先生のプロ意識にお応え出来ないことに謝意を感じていた所で、ヴヴヴ、と今日は放課後まで休憩のはずの精密機械が振動した。
校内では放課後以外使用禁止となっているので、檻多田先生を背後に備えているこの場所では安易に画面を見れない。取り敢えず学校敷地内入ってすぐにある体育館のトイレに足を向ける。
友達がいないのに一体誰から、と思われるかもしれないが友達はいなくとも部活動の仲間はいる。それも学校公認で自分が在籍している科学部のではなく、部活の申請書を提出する気はさらさらない『井世界部』のである。仲間と呼べるかは大半が顔も知らない人達なので怪しいけど。なんだったら、非公認で帰宅部と化している科学部も同じだけれど。
同じ組織に属して、同じ信念を掲げて、同じ目標の為に奔走するのに、顔も名前も知らない、知らされない仲間達。
部員同士の交流は部活動の妨げになるからと、部長が以前言っていた。部活内恋愛の禁止ならぬ、部活内交流の禁止とはブラック校則も戦慄する厳し過ぎる制限である。
しかし、そうは言っても禁止は禁止でも原則禁止というやつで、その禁を破った輩に対して厳罰とか厳重注意があるわけではない。最低限必要な情報交換等は自由にしてOKとも告げられている。
ただ、かと言って部の規律を考えなしに自分本位に蔑ろにする人間が集まる部活でもない。罰は無くとも、褒美もなくとも、その決まり事を守る意義を部員達は知っている。
体育館に二つあるトイレの、外から入る方に土足で踏み入れ、念の為和式の個室に鍵をかけて入る。
中は、道路と体育館の敷地を区切る並木によって日の光がほぼ遮られ、例え真夏の昼間でも電気を付けないと用も足せないほど薄暗い。土足が基本の、いかにも屋外にある風のトイレに閉じ籠る。
ポケットから現代の利器を万が一にも取り落とさないように握りしめて取り出す。便器の中に落下でもさせたらそれこそ今日一日鬱で寝るだろう。彼女いないのに。
指紋認証でロックを解除し、部活専用コミュニケーションアプリを開く。思った通り通知は井世界部のアプリからだった。連絡が来ていたのは厳しい交流制限のある中でもお互い顔を知っている間柄の人物からだった。
部活専用メッセージアプリの、とあるグループ部屋から@を付けて名指しで、ツチノコの薮という人物からメッセージが来ていた。
内容は、
@検討使 まさかとは思うけど今朝の怪井当番忘れてない?
だった。