頭痛のやまない午後3 #弍
リーンと、鈴虫の鳴き声が夜の林に響き始める。
妊娠したが、相手は分からない。
これで、万が一の、将来を見据えての計画的な受胎だという可能性は排除された。望まない妊娠であることがはっきりと分かった。
念の為に用意していたおめでとうを胃液に浸けて、間を取りすぎない内に言葉を発する。
「……そっか。辛かったよね、なんて、今の今まで知らずに過ごしてた私が言うのも変なんだけど、でも、何か困ったことがあったら遠慮しないで頼ってね。力になれるように精一杯努力はするし、話すだけでも良いから」
門ちゃんは頷き、震えた声で微かに返事をする。
「私は、部活の先輩と後輩の間柄だけど、門ちゃんとは友達で、いつでも味方のつもりだよ」
だから、辛かったら吐き出して欲しい。悩んでたら相談して欲しい。
私は、怒ったりしないから。
「このことを知ってる人は他にいる?」
「クラスの友達に話して……」
夜風が、林の中を撫でるように流れる。
「……それだけで、あとは、分かんないです……」
漏洩経路は、そこか。
本人としても、よっぽど信用して話しただろうに、まさか他学年の私まで拡散されるとは思ってなかっただろうな。噂の流れ方としては私の場合だいぶ特殊ではあるが。
けれど、二年生の茹でだこちゃんまで噂が広がったのは事実である。
「妊娠してるのは確定なの?」
「妊娠検査薬で、陽性って出て。生理も来てなくて」
夜に吸い込まれそうなほど小さな声が、淡々と答える。
「病院には?」
「……行ってないです」
ならば、まだ門ちゃんの勘違い、検査薬の誤りという億が一の可能性が捨てきれない。それに、具体的で正確な週数も把握できない。
選択肢は多い方が良いと、先生はよく言う。それに倣うのなら、刻一刻と選択肢が狭まっていく現状を何もせずにいるのは相当まずい。
「相手には心当たりもない?」
門ちゃんは、心を開いた相手にはたまに無遠慮・無神経と思える態度を取るが、そうじゃない相手には総じて人見知りを発動する。
そんな彼女が、誰との子か知れなくなるほど関係をたくさん持っているとは思えず、言いたくない知られたくない事情があって秘密にしているような気がするのだ。
案の定、門ちゃんは言い渋るように目を瞑る。
「どうなの?」
やがて、根負けした門ちゃんは覚悟を決めたように口を開く。
「……その、心当たりなら、ふ、二人」
心当たりが二人。つまりは、浮気していたということだろう。
もっと多い人数と関係を持っていると身構えていたので、ちょっと拍子抜けしてしまったが、しかしそれでも外見や初見は大人しそうな門ちゃんにしては意外と言える。
意外と言える、というか、びっくりしすぎて冷静になるぐらいだ。
聞いといてあれだが、そっか浮気してたんだ、と若干ショックだ。
「そっか。その相手には妊娠について話してるの? 片方だけでも」
一応、聞いておく必要があるだろう。分かりきってはいるが。
「いえ。どっちにも話してないです」
まあ、そうだよね。どっちの子か分かんない状態で本命の人には話してあります、とか言われても反応に困るが、これはこれで良い方向にも進んではいない。
「連絡は取れるの?」
「片方とは音信不通で、もう片方とは取れてます」
それなら、連絡の取れる方と一緒に病院に行って、その人との子供なのか調べてもらうのが理想的だ。いや、あれって父親いなくても誰の子なのか分かるんだっけ。
そう、あやふやな知識で提案しようとすると、門ちゃんが耐えかねたように堰を切った。
「私、自分のせいだって分かってます。言われなくても、自分の責任で孕んじゃって、裏切られたってこと。分かってます。私が引き起こして私が被ることなのは、よく分かってます」
暗闇に涙声が、自責の念が響いて、私は自分の行為を強く恥じる。
「ごめんね、色々と不躾に質問しすぎちゃった。本当にごめん。責任の追及とか興味本位ってつもりはなかったんだ」
あまりに自分本位だった。暗がりに立っていることを理由に、門ちゃんの気持ちを汲み取ろうとしなかった。
「私も、捲し立てるように、急に、言っちゃってごめんなさい」
鈴虫たちの冷ややかな音色が、私たちの間を満たす。
それからどちらともなく歩き出し、校舎東の林を抜け、部室の棟の裏を静かに進む。裏手の砂利道から、校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下を跨ぎ、人も車も少なくなった敷地内のロータリーへと着く。
私は、長らく続いた無言を裂く。
「鍵、そろそろ返しにいかないとだから、顧問のところ行ってくるね。ごめんね、こんな遅くまで呼び止めちゃって」
「はい、先輩、お疲れ様でした」
「うん、お疲れ。また明日」
そう言って私は職員用玄関へと足を向ける。
半袖ジャージでは肌寒い夜、私は自分勝手に人を傷つけた自分を猛省した。
***
正門から校舎を見て、ロータリーの左奥にあるのが職員用玄関だ。生徒用玄関がロの字型校舎の内側、中レンガを通って使用されるのに対して、職員用玄関はロの字型校舎の外側、左下の角っこから使用される。
その左下の角っこに入り、外靴を脱いで靴下のまま階段を上る。職員室は今上っている南西階段の二階部分からほど近いので、わざわざ生徒用玄関まで内履きを履きに行くこともない。靴を履いてないことについて職員室でとやかく言われるだろうが、放課後の職員室というまったり空間において怒鳴られるほどの説教はないだろう。
内履きを履いていないことによるたった数ミリの日常との高低差が、なんだか気分を浮つかせる。なんというのか、物理的に浮いてるように錯覚させる。
勘違いされると困るが、別に非日常にウキウキしてるわけではない。私はそんな、さっきの今で浮かれるほど生きやすい脳味噌はしていない。
床面のひんやりとした感触を靴下越しに感じていると、上階からこそこそした笑い声が聞こえてきた。
「ねね、見た? あの時のあいつの顔」
「見た見た。あいつまじで面白いわぁ。早く死んでほしい〜」
「それな〜。死ぬ時はうちらの前で死んでほしいわ」
二階への上り途中にある踊り場で、三人の女子サッカー部とすれ違う。ジャージの色からして全員二年生か。部活の練習着ではあるものの、学年ごとにデザインが異なっているので判別がつけやすい。部によっては部活全体でデザインとカラーを統一してる場合もある。
階段を上りきり、真っ直ぐに職員室へと向かう。中に入って、音楽性の違う吹奏楽部の顧問の先生へ鍵を返して一言二言交わしたのち、退室する。
「あ、病井ちゃん。遅くまでどうしたの?」
「あ、里竹ちゃん。えっと、私は部活の鍵を返しに。里竹ちゃんこそどったの?」
職員室に一礼して出たら、でっかいノートとプリントの束を抱えた里竹ちゃんに会った。出入り口を塞がないよう一歩避けた位置に移動しつつ、会話を続ける。
「私は推薦の勉強で先生に渡された過去問を提出しに」
「もうやったの?」
「うん。これから提出だよ。さっき終わったところだから」
「へー、今日までの提出?」
「ううん。今週中にって授業終わりに渡されたやつ」
「へ? まじで? すごいね。勉強熱心だ」
「えへへ。まあ、推薦狙ってるし頑張らないと」
「その大きいノートは? それも課題?」
「これは小論文の練習ノートだよ。課題みたいな感じで出されるの」
「ほえー、小論文かー。大変なんだね」
「うん。でも、必要なことだから」
「そっか。私も頑張らないとな勉強」
井世界部にばかり気を取られてしまっては、人生の大事な選択というやつを失敗してしまうかもしれない。
じゃあ私提出してくるね、バイバイ。と世間話を切り上げた里竹ちゃんにバイバイと返して、私は南西階段へと歩を進める。
人生における大事な選択かぁ。と、夜の学校に相応しく考え事に耽る。
と。耽って階段を降りると、左手首のアクセサリーが存在感を放ち始めた。
存在感。
人によっては、嫌悪感だったり、幸福感だったり様々だけど。私にとっては存在感以外のなんでもなく、強く主張するように意識が左手首のアクセサリー、手錠型の腕輪へ持っていかれる。
二つの繋がった輪っかが存在感を放ち始めたということは、近くに怪井が発生しているということだ。近く、というか、世界が異なっているので近いとか遠いとか無いと思うんだけど。
私は、運良く南西階段を下りきった直後だったので、急いで防火扉に触れる。
周囲に人はいない。階段の上からも続いて人は下りてこない。
一呼吸おいて、私は井世界へのパスワードを呟く。
ムカクヒツトモエ
***
赤いラインの入ったジャージを身に、大きな鎌を背負って井世界に降り立つ。井紋のアイテムである手錠型のブレスレットは、怪井出現のアラートと井世界に来るためのパスポート、二つの役割がある。
井紋のアイテムの検知範囲はさほど広くないので、すぐ近くにいるはずなんだけど……あ、いたいた。校舎一階の西廊下、校長室の前にオタマジャクシ?の怪井が数匹いた。
うげぇ いつ見ても怪井は気持ち悪いなぁ
目玉の親父から胴体を取って瞼をくっつけたみたいな見た目のそいつらは、揃った動きでこちらを見やる。おまけに尻尾まで生やして、本当にオタマジャクシみたいだ。
あの気持ち悪さは怪井以外の何者でもない。と思い、鎌を構えて近寄る。
しかし、オタマジャクシたちは警戒する様子もなく、ただただこちらを眺めたままだ。
窓ガラスを割るでもなく、校舎を破壊するでもなく、何をするつもりなのだろう。
警戒心と攻撃の意思を剥き出しに、鎌の届く距離までやってきても、それらは微動だにしない。
そのまま鎌を横薙ぎに振ると、一瞬で蒸発してしまった。
一体なんだったんだ?
怪井化するということはそれなりに強い思いのはずなんだけど、浮いてるだけってのはあまりにも弱すぎる。
不自然だな。後で間井に伝えておこう。
私は来た道を振り返り、暗闇の深い井世界校舎を後にした。
***
来た時と同じく、紫の膜を通り過ぎて現世へと戻る。
ふう 疲れた
と言うほど体は動かしてないし、体力にも別に自信がないわけじゃないのだけれど、世界を渡るというのは精神的に疲れる。精神的というと心が疲れてるみたいな感じがしちゃうけど、体感としては体が疲れているに近い。
その疲れた体だからか、避けれるはずなのに人とぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさい」
私が言うと、眼鏡の男子は小さく「いえ」とそれだけ溢して去って行く。
なんか、ラノベの主人公みたいな見た目の人だな。
ぶつかった拍子に眼鏡がずれて、覗いた顔にそんな印象を抱く。
失礼だろうか? いや、でもこれを失礼なこととしたらそれこそいろんな人に失礼な気がする。
自分の中で失礼か否か議論が始まりかけて、慌てて頭を振る。
疲れているのだ。心身ともに。
今日は、取り敢えず怪井も倒したし月曜日メンバーとしてできることはやっただろう。
あとは間井に弱小怪井について報告をして帰宅だ。
職員玄関で靴を履き、スマホを明るくして外に出る。
外ではぱらぱらと雨が降っていて、傘を持ってきていないことに頭を悩ませる。
うーん、このぐらいだったら歩けるかなぁ。多分無理だろうけど、一応お姉ちゃんに車頼んでみるか。
井世界部以外で使うコミュニケーションアプリを開き、姉貴様という名前をタップする。
風が吹き、屋根の下にいる私に雨粒が垂れる。
あー、なるほど。だから頭痛かったんだ。
私は画面を歪めた雨粒に気づきを得た。
以下、病井さんが階段を下りながら耽った内容です。明らかに邪魔な気しかしなかったのでカットしました。あとがきにも載せるか悩むレベルですが悪しからず。(せっかく書いたしね)
***
人生における大事な選択かぁ。と、夜の学校に相応しく考え事に耽る。
ターニングポイントであることは間違いないとしても、受験が選択かと言われれば違う気はする。だって、最終的な選考権はこっちにないし。どの大学を受けるかどうかは選べても、選んだからって選ばれるわけじゃないのはここで改めていう必要のない至極当然のことだ。常識的なことだ。果てのない、終わりの見えない勉強をしたからと言って合格するものでもないし、選ばれる選ばれないの話をしてるのであれば、その時点で結局は運という文字に実力というルビを振っているだけのような気もする。勿論、そこに勉強をしていないという要素は絡んでこない。勉強はしてること前提で、その程度は判断できないということだ。ということは、つまりは勉強をするかどうかを選ぶ、ということなのだろうか。勉強をするか否かで、まず合否の問われる机上に上がれるかが決まると。なんだかややこしい。勉強をするかしないかが重要なのであれば、その選択は日常に無数に存在する。授業に出席するか。出席した上で精力的に取り組むか。10分休みにするか。お昼休みか。放課後か。通学中。食事中。トイレ中。いろんなところに転がってる勉強をするかしないかの選択肢を、常に拾い続ける人が受験に合格するのだろうか。いや、それでも最後には受験先に選ばれるかどうかなのだから、あくまで幾つもある勉強の選択は一要素に過ぎない。選択は積み重ならないし。だが、そういう意味なら、受験が人生における大事な選択と言われるのも理解できる。要は、無限にも思える選択の数々を、先生は人生において大事だとそう仰っていたのだろう。人生は選択の連続だから、一つ一つ後悔のないように大事に選びなさい、と。
…………そんな話だったっけ?
まあ、この他愛無い無駄な考えを総括すると、勉強をしたくない受験生の現実逃避ということだ。




