マスカレードマスク
「少年! 悩み事かな!」
突然視界に現れたその女は、見開いた真ん丸の眼と大きな笑みを携えて、耳鳴りする程の声でそう言った。ブランコに座り俯いた俺が驚き後ろにすっころぶ、下が土で助かったと言うべきだろうか。
「あっはっはっはっは! 良い転びっぷりだな少年! カメラを持っていない自分が恨めしい!」
こうなった原因を作った張本人が、腹を抑えて笑っている。住宅地の中にある公園から、町中に響いて行きそうな笑いっぷりだ。
「くっそ……なんだよお前!」
痛みを堪えて立ち上がり、そこでようやく目の前の女をはっきりと見た。
160cmの俺よりも低い、小柄な体格の女、というより女の子。ざっくりと偏り短めに整えられた黒髪。着ているのは、多分隣町の制服か? 限界までまくり上げた袖、短めのスカート、ところどころに見える擦り傷。いわゆるスポーツ少女らしい雰囲気を、ありありと放っていた。
「ふふ、私はしがない通りすがりのスポーツ少女だ! 悩んでいる人を放っておけない性分なもので、思わず声をかけたのだ!」
「うるせぇよ! 声がデカい!」
「それはすまないな少年、少し声量を抑えるとしようか」
「あとその少年とか言うのをやめろ! オレには名前がちゃんとあんだよ!」
「それは待つんだ少年」
頭に手を添え、空いた手で止めるように促すポーズを取る不審者。名探偵みたいな決めポーズに顔が引きつった。
「は?」
「これは君を案じての措置なのだよ、少年」
「なんでだよ」
「見たところ、君は人には言い辛い悩みを抱えているのだろう? 友人にも、親にも」
「…………」
「沈黙は肯定だよ少年。しかし悩みと言うのは誰かに打ち明ければ存外に軽くなるものさ。そこでどうするべきか分かるかな、少年」
「……どうすりゃいいんだよ」
「見知らぬ誰かに打ち明ければ良いのさ。それが最善。そして私はそれにうってつけと言う訳だ!」
「ふーん……」
「見ての通り私は隣町の人間だ。私は名前を名乗る事をしないし、逆に尋ねることもしない。顔を知っただけの真っ赤な他人という訳さ」
言いたいことはまあ分かるが、キザったらしい物言いとポーズが煩すぎる。
「……呼ぶのに困るだろ、それじゃ」
「私は少年と呼ぶし、君も少女と呼ぶといいさ。お嬢さんでもスポーツウーマンでも、美少女ちゃんでも構わないぞよ」
「なんだよぞよって」
ふふーん、と胸を張る少女。完全な変人に絡まれてしまった。不審者案件待ったなしだ。
「どうでもいいけど美少女ちゃんよ」
「それを選ぶとは、乙女心をわかっているな少年!」
「茶化してんだよ。もう6時になるぞ、帰らなくていいのか。隣町なんだろお前」
「む、それはそうだな。では今日は帰るとしよう。来週の、今日と同じ火曜日の5時にまた私は現れる。その時話す気になっていたら、打ち明けてみたまえ少年よ」
「二度と来るな」
「そうそう、隣町に来て探そうったってダメだそ、名前を知らないんだから探すのは至難の技だろう。いやしかし、私のような美少女ならすぐ見つかってしまうだろうがな!」
「はよ帰れ」
はっはっはと高笑いする美少女ちゃんに吐き捨てるようにそう言って、オレは公園を出た。気になって振り返ると、あの美少女ちゃんがにこやかに手を振っている。俺と同い年くらいなのに、振舞いは小学生のようだ。暗がりなのに眩しさを感じた俺は、それに振り返す事無く家に帰った。
「ただいま……」
鍵を開け、習慣として染み込んだその言葉を呟く。俺の言葉に、誰かが返事をしてくれる事は無い。ただ蛍光灯が付いてない廊下の闇に沈んでいくだけ。リビングの上に置かれたコンビニ弁当と、今日も夜勤だと告げる書置きだけが、俺を出迎えてくれる。
テレビを点ける。今の時間はクイズやバラエティー番組しかない。バラエティの笑い声は、一人しかいないこの家によく響いた。俺はテレビから聞こえる笑い声が嫌いだ。作った笑いが嫌いだ。自分みたいで嫌気が刺す。出演者同士の仲のいい笑いが嫌いだ。それを羨ましいと思う自分に嫌気が刺す。チャンネルが一周したところで、俺はテレビを消した。弁当を食べる音だけが部屋によく響く。それにまた嫌気が刺して、半分残った弁当をゴミ箱に突っ込んだ。
布団に潜り込んで、今日のアイツの事を思い出す。色白で、活発そうで、うるさくて。美少女ちゃんと自分を言うだけあって、顔はそこそこ可愛い印象があった。何よりあんな眩しい笑顔は久々だった。笑顔はどんな人でも輝かせる仮面だ。顔が悪くても笑顔なら良い印象が持たれやすい。だからアイツと会った時に感じた心拍数の増加も、きっとそのせいだ。
「ぃよお立里原」
「…………」
次の日の学校、最速で嫌な奴に会ってしまった。俺より高い背丈を存分に見せつけるように、見下ろす目線を向ける男子。同じクラスの人間であり、俺が憂鬱な気分になってしまう一番の原因、伊比坂。
「今日も一日宜しくなぁ」
ニタニタと笑いながら校舎へ向かう伊比崎。こいつの狡猾な所は、目立つ場所では事を起こさない所にある。俺の通う学校は歴史の浅い中高一貫の進学校。学校全体の評判を良くする為に、なるべくいじめなどの事件は公にならないように気を配っている。濁さず言ってしまうと、目立つようないじめをしなければ多少は目を瞑るという事も起こり得る。この伊比坂という男子は、同じ中学2年生にしてもう悪知恵を身に着け、学校の特性を理解し、それを自分のストレス解消に存分に活かしているという訳だ。
俺の返事など待たずに、バシンと背中を叩きながら奴は先に行った。パーではなくグーによる一撃。あいつにとってはサンドバックへの軽い一発、周囲から見れば仲のいいスキンシップの一環。暴力だと言うのには絶妙に足りない一撃だ。
教室に着くと、茶色の机が又しても黒に濡れている。下品な罵詈雑言を、よくもまあここまで書けたものだ。そんな風に達観して受け止められれば、もう少し楽なのかも知れないが。
ニタニタと笑う伊比坂の顔がチラつく。その取り巻きも下卑た笑いを浮かべて同調している。相変わらず周りの奴らは知らないフリだ。治安の悪い地域のシャッターのような机に意気消沈していると、目の前の光景に影が掛かる。
「立里原、落書きは良くない、消しておきなさい」
声の方を向けば、そこにはこのクラスの担任、伊庭島の姿があった。手にはボロボロの雑巾とバケツを持っている。眼鏡の奥の釣り目が、これを使えと睨んでいた。
「まったく毎日毎日、恥ずかしいとは思わんのか」
明らかに他者の手による行為を、いかにも俺が自分でやったかのように話す伊庭島。元々高い声なのに、威厳を出そうとして無理に低く話している。それが授業で聞き取り辛いと言ってからというもの、こんな態度を取られるようになった。そもそもそれが無くてもこうはなっていただろう。こいつは出世を人一倍気にする男であり、学校の方針には信者の如く従うコバンザメ。俺がいじめられているという事実を嫌でも隠すのは目に見えている。
油性だったり水性だったりの落書をどうにかこうにか消した頃には、初めの授業は終わりを迎えようとしていた。しかしその間に誰かが声をかけたりだとか、そういう事は一切ない。みな我関せずを貫いている。それを責めようとは思わない。俺だって多分、逆の立場ならそうしている。
昼飯時になって、コンビニで買ったパンとおにぎりを持ち、教室を出る。俺が教室で食ってると伊比崎が煩い。俺にも周りのクラスメイトにも不愉快だ。なるべくアイツが来ないであろう場所を探して昼飯を頬張る。トイレにいたら上から水を掛けられかねないし。屋上への階段はすぐにバレる。結果世界一楽しくないかくれんぼをしなければならなくなる。
次の授業の予鈴が鳴る頃に戻るが、俺の机の上には落書きと、丁寧に置かれた花瓶があった。そこらから抜いたであろう野花がしなりと項垂れている。
「あっ! 立里原! 急にいなくなったから死んだのかと思っちまったよ!」
欠片も悪びれない様子でニタニタと笑っている。……しまった。財布を鞄に入れたままだった。急いで財布を確認するが、そこに入っていた金は無くなっていた。
「……お前」
「お、なに。金がねぇの? 貧乏人は大変だなぁ。あ、そういや臨時収入が入ってさ。カラオケ行くんだけどお前も行くか? あ、金がねぇか!」
自分がやりましたと、直接そう言わずに示唆する内容。取り巻きが元気にあざーすなんて笑っている。誰が見てもこいつがやったなんて分かるけど、その証拠が無い。証言してくれる人も、きっといない。
「煩いぞ、席に着きなさい」
どうしようかと思っている矢先、伊庭島が勢いよく入ってきた。こちらを見るなり、ツカツカと足音を響かせ寄ってくる。
「先生、こいつが「立里原。また落書きをしおって。全く、いつになったら学ぶのですか。消しなさい」
抗議をしようとしたら、それはすぐにかき消された。そうだ、こいつはそういう奴だ。俺がいじめに会おうとも、金を取られようと、多分、死のうと。なかった事かのように振る舞い、すべての責任を俺に押し付ける。そういう奴だ。
掃除道具はもう自分で用意しろ、そう吐き捨てると伊比崎は教壇へと戻る。やるせない気持ち、どうしようもない気持ちを抱えながら、掃除用具のロッカーを開けた。
いつも晴れる事のない憂鬱な気分を紛らわすため、公園のブランコに座る。ため息交じりに体を僅かに揺らしていたら、覚えのある声が耳に入った。
「やあ少年。また会ったな」
「……ちゃんと来るんだな、お前」
「私は約束を違える事はしないよ、安心したまえ」
あれから一週間の時間が経っていた事を、この不思議ちゃんの顔を見てようやく思い出す。俺の隣のブランコに座ると、そのまま語り掛けてくる。
「しかし、一層顔が辛気臭くなったじゃないか。大丈夫か少年」
「大丈夫だよ」
「目は雄弁に語ってくれるものだ。大丈夫じゃないだろう少年」
「分かってるなら聞くなよ」
「分かってるから聞くんだ。君が少しでも楽になれるように。……どうにも放っておけない性分でね」
さあ話してみ給えよ、少年。キザったらしい話し方は変わらずのままだったが、その声色には慈しみが籠っていた。癪だった。自分と同じか、もしかすれば年下くらいの女の子に、そこまで見透かされているのが。それを嫌だと思う自分のどうでも良いプライドが。そしてそのちっぽけなプライドすら、一縷の望みにすがる気持ちに負けた事が、癪だった。
「……いじめを受けているんだ。笑えるだろ」
「笑えないさ」
「相手の親は有名な議員とかとコネがあるらしくってさ、学校は誰も味方してくれない」
「ご両親は」
「母親はいない。どこかに行っちまった。親父は俺を一人で育てる為にいつも仕事だ。そんな親父に迷惑は掛けられない」
「そうか…………因みにだが、少年がなぜ狙われているのか、心当たりは?」
「あいつが前にごみをポイ捨てしてるのを注意したんだ。それからだ、俺が的になったのは。俺が片親だから狙い易かったのかも知れないな」
ぽつぽつと話す俺の言葉を、彼女は真剣な眼差しで聞いてくれた。ふざけた言葉使いに合わない、真摯な態度だった。
「そうか。よく話してくれたな、少年」
「……ありがとな。聞いてくれて。美少女ちゃんの言う通り、少しは楽になった」
「それは何よりだよ少年。しかし、しかしだ。少年。私の言う助言に耳を傾けてはくれないか」
相談して終わり。そう思っていたのに、この子はまだ足を踏み入れてくる。俺がそれで終わらそうとしたのをそれとなく察知したかのように、話を繋いできた。
「助言、ってなんだ」
「君の父親には、相談した方がいい」
「……言ったろ。迷惑は掛けられないって」
「少年の言う迷惑は、いじめを相談する事による負担を指している。間違いはないかな」
「まぁ……そうだけど」
「だがそのままでは少年が潰れてしまう。母親を失っても一人で育てると決心した息子。その息子までも失ってしまったら。それも自分の気づかない所で、失ってしまったら。その心労は、私達の想像を容易く上回るだろうね」
「…………」
「大人は私達よりも沢山の経験と知識がある。頼ることで見える希望もある筈だ」
「……考えてみるよ」
出会い頭の印象とは同一人物と思えない程に、真っ当な発言。自分でも考えなかった訳じゃない。でもそれを否定する自分の方が強かった。誰かの後押し。それを俺は求めていたのかも知れない。
絞り出したような俺の返事にニヤリと笑い、美少女ちゃんはブランコから飛び降りる。少しバランスを崩しかけるが、どうにか体勢を立て直し、振り返った。
「一歩前進だな少年! 来週、吉報を楽しみにしておくとも!」
大手を振りながら美少女ちゃんは公園を後にする。また来週と、引き続きここに来るつもりらしい。わざわざ隣町まで来るのも大変だろうに、律儀と言うか何と言うか。だが、まあ、ここまで気にかけてくれた相手を無下にするのも気が引ける。ここは礼儀として、報告の為に来てはおくべきだろう。
家に帰る。飲まれそうな暗闇に明かりを灯し、リビングへ向かう。いつものように置かれたコンビニ弁当。いつものように敷かれた書置き。ゴミ箱は綺麗に片付けられていた。ため息を吐きながら弁当を温め、一人きりの食卓に着く。ふと書置きを見た。
『なにかあったのか』
……いつもと違う内容。何か察するものがあったらしい。いつもと違う言葉に、鼓動が速くなる。なんでもない、いつも通り、心配いらないよ。当たり障りのない返事を書けばいい。それで、父さんに心配を掛けなくて済む。
『会って話したい事がある』
書置きにそう残した時、気付いたら視界がぼやけていた。膝の上に暖かい雫が落ちている。ポロポロ、ポロポロと。拭っても拭っても留まらない。書置きが濡れてしまわない様にするので精一杯だった。
思いのほか腫れてしまった顔は、翌朝になっても戻る事はなかった。こんな状態で学校に行って、何を言われるだろうか。
そんな心配は不要だった。伊比崎は変わらずいじめを繰り返し、伊庭島は変わらずいじめを見て見ぬフリをする。クラスメイトの視線が、僅かながらに心配そうな色に見えたが、それで何かが変わる訳でもなかった。
変わらぬため息を吐きながら、家に帰る。弁当を温め、変わらぬ夕食を一人で迎えようとした時、書置きの内容が眼に入った。
『今週の土曜は一日休みを取った。ちゃんと会って話をしよう』
俺にも男心から来るプライドというものがある。二日も続けて泣く事はそれが許さない。そうカッコつけた事を言えないくらいに、泣きわめいた。
次の日からは何と言うか、とにかく希望に溢れていた。土曜になったら親父と会える。家に居てもいつも寝ている親父。いつも疲れ切った顔で寝ている親父と話が出来る。そう考えたらいじめなんてなんでもなかった。いじめを受けたのにあまり衝撃を受けていない俺に、伊比崎は少しイラついていた。
そして土曜日。期待に胸を膨らませながら、眼を覚ました。リビングに降りると、そこには父親が居た。まともに話をする時間も暫く無かった。しっかりと顔を合わせるのは何時ぶりだろうか。感慨にふけり思わず立ち止まった俺に、父は口を開く。
「賢治、朝食、一緒に食べようか」
「……うん!」
そこからは他愛もない会話を繰り広げた。なんて感じが、普通の家庭なんだろうな、とは思う。だけどここはそうじゃない。あまりに久々で、何を話せば良いかが分からず、ずっと言葉が詰まったまま。仕事の事でも聞けばいいのか、どうなのか。そもそもあの話を、どう切り出せばいいのか。ストレートに話してしまおうか。それともやんわりと言った方がいいのか。
そんな事を考えていたら、いつの間にか朝食を食べ終えていた。残った牛乳を飲み、父はコーヒーを味わう。朝食が終わってしまった。
「……それで、話したい事っていうのは?」
なかなか切り出せない俺を察した父の一言。柔らかく、優しい声色が、ゆっくりと体を包む。
自分の親に、本当に言っていいのだろうかと、余計なプライドが邪魔をする。迷惑をかけてはしまわないかと、余計な親切心が邪魔をする。
ちょっと、久々に話がしたかったんだ。ごめんね大げさに言って。
そうだ、こう言おう、これで行こう。会いたかったのは事実だし、俺くらいの年齢なら何も変じゃないだろう。
当初の目的とはなんら検討違いな発言をするべく口を開き、そして閉じて呑み込んだ。
言わなかったのは、あの美少女ちゃんの言葉が過ったから。
言わなければ、もっと悲しむ。
ここで逃げたところで、何になると。意を決して、声を。
「…………その、俺、学校で……学校、で………」
なんでだ、なんで出ないんだ。簡単だろ、いじめられてるんだ。だけだろ。何で、何でこんなに言えないんだ。おかしいだろ、言えよ、言えよ!
「大丈夫だ賢治、落ち着いて」
いつの間にか隣に座っていた父さんが、優しく俺の背中をさすっている。宥めるように、ゆっくりとした動きで、俺を支えてくれている。父親の温もりに溶けるように、俺は泣き出した。
「俺、僕、学校で虐められてて、暴力とか、落書きとか、もう、いやで」
言ってる事が段々とぐちゃぐちゃになっていくのが分かる。でも分かっていても変えられない。思いついた言葉を投げるような俺の話を、父さんはしっかりと聞いてくれていた。
「よく話してくれた。ごめんな、気付いてやれなくて。……ごめんな、辛い思いをさせて」
全てを話し終えた後、父さんは優しく俺を抱きしめてくれた。でもその腕は震えていた。何で震えていたのか分からないけど、俺はとにかく泣いた。あれだけ前に泣いたのに、まだこんなに流れるのかと、どこか冷静な俺はそう思った。
「わかった。こういう事に強い人を知っているんだ。その人に相談してみる。悪いけど、もう少しだけ辛抱してくれないか」
まだ待てと言うのか、怒りにも似た困惑の感情が溢れ出したが、それもすぐに収まった。父さんのあんな辛そうな顔を見たら、怒るなんて出来やしない。
いじめを告白した息子に向かって、もう少し耐えてくれなんて言うのがどんなに苦しい事か。俺が思う以上の苦しみを自ら被らねばならない事が、どれだけ残酷な事か。
「変わりと言ってはあれだけど、今日は好きなとこに行こう。どこがいい?」
「好きなとこ……ドライブがいい」
「ドライブ? それでいいのか?」
「どっか行きたくなったらその時言うよ」
「よし分かった。じゃあさっそく、でかけようか」
遊園地だとか、観光地とか、そういうのも考えた。けど、そういう場所は、その場所で遊ぶ事がメインになってしまう。俺は父さんと色々話をしたい。父さんの仕事の事とか聞いてみたいし、俺の最近の話も、いじめ以外の話もしたい。
助手席に乗り込み、シートベルトを締める。少し見上げるこの位置で、父さんの横顔を見るのは久しぶりだ。
しかし車を発進させ、暫く経たない内に話す口が止まってしまった。悔しい事に、ここ最近はあいつらのいじめのせいでその記憶しかない。もっと、もっと楽しい話をしたいのに。ついこの前から始まったような行動に、俺の会話が、記憶が塗りつぶされていたのが、また、悔しかった。
「……大丈夫だ、また楽しい話が出来るように、父さんがなんとかしてやる」
口ごもった俺の心境を、父さんはしっかりと読み取った言葉。暫く離れていても、やっぱり親子なんだなと思ったのは後の話。この時は嬉しくて嬉しくて、ただただ涙を零していた。
そうして暫く経ってから、ようやく涙腺が締まった俺は、あの美少女ちゃんの話をする事にした。自分の現状を告白する後押しを貰った恩人。いかに素行が奇人変人染みていようとも、恩人。話しておくのは礼儀といったところだろう。
「……僕がこの事を話そうと思ったのは、後押ししてもらったからなんだ」
「そうか。その人に感謝しないとな。誰に押してもらったんだ?」
「えっと、その…………美少女ちゃん」
「……美少女ちゃん?」
やばい。あいつの説明、めちゃくちゃ困る。美少女ちゃんというより不思議ちゃんと言う方が似合うような存在、どう説明すれば良いんだろうか。
「えーと、順を追って説明するとね」
出会いから今日に至るまで、うんうんと悩みながら経緯をどうにか説明する。困惑の表情こそ浮かべていた父さんだが、それでもしっかりと聞いてくれた。
「つまり、隣町の親切な女の子が相談に乗ってくれたと」
「そういう事」
「しかし、あれだね、その、個性的な子だ」
「でしょ」
「うーん。でもちょっと心当たりがあるな」
「心当たり?」
俺の父親はそんな変人に心当たりがあるのか。
「ちょっと寄り道するけど、いいか」
「いいよ。どこいくの?」
「古本屋」
なんで古本屋? と思ったけれど今すぐ問いただす事はしなかった。どこか謎に包まれた彼女の正体に迫る事が出来るかも知れない。それを聞くだけで知ってしまうのは少々勿体ない。少しばかり心を躍らせながら、到着を心待ちにしていた。
「じゃあ父さんはその心当たりを探してくるから、何か欲しい物がないか見て待っててくれ」
「わかった。漫画のとこに居るから」
到着するとそう言って、父さんは娯楽小説のコーナーに消えて行った。何か面白そうな漫画でも無いかとうろつき、目ぼしいものを2冊見つけたところで、父さんが戻ってきた。
「見つけたぞ、その美少女ちゃんの心当たり」
そういって父さんは一冊の本を見せてきた。
「探偵マスカレードマスク。古いしそんなに知名度も無いけど、面白いぞ」
「それが、心当たり?」
「そうだ。読めば分かる」
探偵マスカレードマスク。父さんの言った通りに、持ってきた本にはそう書かれてあった。表紙に特に人物は見当たらず、仮面舞踏会用のマスクが描かれているだけ。シンプルイズベストと言うべきか、飾り気が無いと言うべきか。
「……分かった、読んでみるよ」
「賢治は欲しい本はあったか?」
「これかな」
「分かった、買ってくる」
「ありがと」
俺から本を受け取った父さんは、会計を済ませ買い物袋を俺に手渡した。自分が持っていた本に加え、一冊重みが増している。
「次、どこか行きたいとこはないか?」
「ん、そろそろお腹が空いたかな」
「よしわかった。ご飯にしようか」
それからはまたドライブして、ご飯を食べて、ドライブして。久々の事だったから、とても楽しかった。会話が弾んだとは言い辛い。けど、別に良かった。父さんが俺の為に一日を費やしてくれた事が、嬉しかった。
次の日になって、また一人の時間が始まった。俺はテレビを点けず、漫画よりも先に小説へと手を伸ばす。あまりこの類の本を読まない俺でもスラスラと読める文章。
探偵マスカレードマスク。本名正体がなにもかも曖昧な探偵が、老若男女ありとあらゆる変装を用いて事件を暴く。大まかなあらすじはそんなところだ。普通探偵と言えば、証拠やそれに基づく推理で犯人を追い詰めるものだが、この探偵は変装や揺さぶりによる心理戦に重きを置いている。一般的な推理物に比べて変わった切り込み方がウリのようだ。
それにしても、この探偵の基本の姿である、只利 悠。それが美少女ちゃんにそっくり。いや、美少女ちゃんがそっくりと言うべきか。キザな動きにセリフ。大げさだが芯を突く発言。なにかと首を突っ込みたがるお節介な性格。美少女ちゃんはスポーツ少女ではなく、文学少女の線が出てきた。次に出会った時、問いたださねば。
そんな事を思いふと時計を見ると、かなりの時間が過ぎている事に気が付いた。自分でも意外な事にかなりハマっていたようだ。小説を読み終わり、昨日の袋の残りに手を伸ばす。小説と漫画という媒体の違い故か、直ぐに読み終えてしまった。残りの時間をどうしようかと昼食を取り、考えた結果、俺は小説を再び手に取った。
そうして次の日も読み耽り、そのまた翌日。俺は足早に公園へと向かい、その人物の到着を今か今かと待ちわびた。
「おや少年、随分と早い到着じゃないか。そんなに私に会いたかったのかな?」
「なんで早く着いたと言えるんだ」
「足元を見れば、一目瞭然さ」
足元、言われて視線を向けると、踏み締めた跡が真新しく残っている。待ちの時間の忙しなさ、暇を持て余しブランコを漕いだ。そういった跡がありありと残っている。
「流石。探偵、只利 悠は違うな」
そう口にした瞬間、美少女ちゃんは眼を丸くした。そしてそのままこちらに近寄り、俺の手を取った。
「え?」
「少年も読んだのか! 探偵マスカレードマスク!」
俺のイメージしていた展開とちょっと違った。まさに探偵ものらしく、正体を見破られた美少女ちゃんは慌てふためく。そんな感じを期待していたんだけど……
「いやはや、まさか少年が同じ書を嗜む同士とは! いやはや喜ばしい!」
喜びの色を全面に押し出しながら、美少女ちゃんは握った手をブンブンと上下に振るう。漫画で見るような感極まった握手の仕方は、実際されるとちょっと痛い。
「ちょ、ちょっと落ち着けよ美少女ちゃん」
「む、すまない。少々興奮してしまった……どうした少年、なにやら残念そうな顔をして」
思えば自分勝手なガッカリ感だが、それを相手に気取られた。じっと見つめる、一体何かと探る目線。しかしそれも一瞬、すぐさまに彼女は理解してみせた。
「ははん、なるほど。探偵モノから取ったキャラ付けの正体を見破ったからには、探偵モノらしく慌てふためいた姿が見たかったという訳か」
ドンピシャ。読心術でも持っているのかと疑いたくなる推理力。伊達に探偵を真似ている訳ではないと感心させられた。不覚にも。
「すげ、なんでわかった」
「同好の士としては、これくらい嗜みの内だよ少年。それで、テイク2をお望みかな?」
「いや、遠慮しとくよ名探偵」
見事な推察力に、俺もどことなくキザなセリフで返してしまった。それがなんだか可笑しくて、二人でその場で笑っていた。
「しかし少年、どこでその本を知ったのかな?」
「父親に教えてもらったんだ」
「む、という事はしっかりと話が出来たという事だな」
「ああ。相談もした。そういう事の対処に詳しい人が知り合いにいるから、その人に聞いてみるって」
「そうかそうか。吉報を待った甲斐があったよ」
「……ありがとな」
「ん? どうした少年、そんなに改まって」
「美少女ちゃんが後押ししてくれたから言えた、言う勇気が持てた。だから、ありがとう」
「当然の事をしただけの話さ。それに、終わった雰囲気を出すのは、少しばかり早いと思うぞ少年」
「そうだな、決着が着いてからだ」
「悪事を働く人間がしっかりと罰せられる。その当然の事が起きたら、改めて祝杯を挙げようじゃないか」
優し気な笑みを携えて、美少女ちゃんはそう言った。夕焼けに照らされて赤らんだ顔は、とても綺麗だった。
「さて、そろそろお開きの時間だ、少年」
「ああ、気を付けて帰れよ」
「他人を気遣う余裕が出たようだね、良い傾向だ。因みに少年、飲み物はどういうものが好みかな?」
「え? ああ、コーラ、かな」
「わかった、ではまた来週だ」
「あ、ああ。またな」
なんの質問だ、とか聞く間もなく美少女ちゃんは帰っていった。
深入りはしない間柄、その筈の二人の距離が、少しだけ縮まったような一日だった。同じ本を読んだというだけでああも喜ぶとは。事が終わったら、本の内容でも語り合おうか。他におススメがあるか聞いてみるのも良い。
それにしてもあそこまではしゃぐ姿、きっと滅多に見られないものなんだろうな。そう思う俺自身、滅多に見られない程に浮足立っていた。
その足取りのままに俺が帰宅すると、そこには父さんの姿があった。神妙な面持ちで待っている。触れる事が憚れるくらいには険しい顔だ。
「おかえり〇〇。話があるんだ。この前の土曜のことなんだが」
「ただいま。うん、聞かせてよ」
俺の返答を聞いた父さんは、ある物を取り出した。現金三万円と、USBのような物。イマイチ意図が読めず、自然と首が傾く。
「これはボイスレコーダー。カメラなら確実なんだが、それは難しいからこれで代用する。明日以降、この三万円を財布に入れておいてくれ。聞いた話だときっとそいつらはこの三万に手をつける。その犯行をボイスレコーダーで録音し、それを元に訴える」
……思ったよりも力技な気がする。でもそういう事に強い人物に聞いたのなら、有効な手立てなんだろう。
「……わかった。やってみる」
「レコーダーはわからないように細工しよう。それは父さんがやっておく」
「その、思ったよりも、力技だね」
「正規の手段を踏んでも時間もかかる、最悪逃げられる可能性すら出てくる。そうはさせない」
言葉の節々から怒りが滲み出ている。話す言葉はそうでもないが、息子の俺ですら感じる程に空気がピリ付いている。自分の子供が被害に遭ったとくれば、親はこうなるものなのだろうか。
細工を任せて鞄を預け、そして次の日となった。財布に三万円を。そして見えないように布で縫い付け隠したレコーダーを忍ばせて。そうしてその週の金曜日。財布から三万円が消えた。
『おいみろよ! こいつこんな大金もってるぜ!』
『え、三万!? ヤバ!』
『流石に三万はやばくない?』
『ダイジョブダイジョブ! どうせなんも出来やしないって!』
『ばれないばれな、あ』
『伊庭島先生……あの、これは』
『……あまりやりすぎないように。眼を瞑るのも限度がありますので』
『アザース』
……こうも見事に録音出来るとは思っても見なかった。担任の伊庭島は別で訴える予定だったけど、幸運な事に共犯の証拠が出来た。この分ならまとめていけそうだ。
そして次の日。連絡を取った結果、父さんがレコーダーを回収しに帰ってきた。
「ラッキーな事に、担任の声も入ってたよ」
「こんな事をラッキーと言うんじゃない」
冷たく、悲しい声だった。色々あって少しおかしくなっていた事を、その一言で実感させられた。
「これを使って訴える。ただ持って行っても揉み消されかねないから、まずはSNSを使って事を大きくする。だがそうすると、暫くは〇〇の周りが煩くなるかも知れない。もしそれで学校に居辛くなったら、すぐに父さんに言うんだぞ。転校でもなんでもしてやるからな」
それなら最初から俺が転校すればいい、そんな考えが一瞬現れて、直ぐに消えた。
なんで俺があいつらの為に転校なんかしなくちゃならないという怒り、復讐しなければ収まらない父さんの心情を考えれば、自然とそうなった。
「一応、他の写真も撮っといた。その、落書きされた机とか」
「ああ……これも使わせてもらう。ごめんな、〇〇」
悲しい顔でメモリーカードを受け取った父さんは、重い足取りでどこかに出かけて行った。
そこからはもう速かった。日曜日にあの音声をネットの海に流したようだが、その日の内にあれよあれよと拡散されたらしい。学校や学年、名前を隠してはいたが、ネットの追求力は凄まじい。簡単に特定されてお祭り騒ぎのように燃え上がった。
月曜日は学校に着くや否や、もうてんやわんや。自習になったのは勿論の事、野次馬がチラホラと学校の周りを彷徨いている。中にはマスコミのような人影も。先生方はその対応で精一杯。午後からは休校となった。
俺はと言うと、初めて入る応接室で質問責めに遭っていた。なぜこんな事をしたとか、いつ録音したのかとか、こんな事をするなんて常識が無いのかとか。後半はもう質問の体を装った罵倒に過ぎなかった。
永遠にも感じる時間を黙秘してひたすら耐えていると、父さんが来てくれた。その横には、前に少しだけ見たことのある人が居た。確か、母さんがいなくなる前にちょくちょく来ていた人だ。
その人が来るや否や、形勢はまたたく間に逆転していった。冷静に考えれば学校側の怒りはただの八つ当たり、そこを的確にその人は突き崩していく。学校側がだいぶ気圧された頃、父さんが口を開いた。
「貴方達は自分の子供が同じ目にあったとして、同じ事を言えるんですか」
その一言が効いたのか、学校側はもう何も言わなくなった。
次の日も学校には行ったが、本当に行っただけになった。色々な対応でもう授業どころじゃないらしい。一旦教室に集まってすぐに解散。一つ言うことがあるとすれば、伊比崎達の姿を見なかった事ぐらいだ。この分だと当分、もしかしたら二度と学校には来ないかも知れない。
「おめでとうだね少年。なんとも迅速な勧善懲悪だ」
その日の夕方。俺から詳細を聞いた美少女ちゃんが、笑顔でコーラを差し出してくれた。
「ありがとな。まあ、殆ど大人がやってくれたけど」
「それでも少年は現状を打破するために行動を起こしたんだ。立派なものだよ」
カシュッ、とコーラを開ける。飲もうとすると、美少女ちゃんが開けたばかりの紅茶花伝の缶をこちらに向ける。
「祝杯だよ。喜ぶべき事の結末にね」
「ああ、乾杯だ」
溢れないように、優しく、缶を打ち鳴らす。
「……ぷはっ。しかし少年、しばらくは大変じゃないかな?」
「色々と大変な事になった。というかしたんだけどな。それでもまあ、時期に収まるさ」
「確かに。暫しの喧騒を楽しむのもまた一興ではないかな」
「俺は静かな方がいいけどな」
「ふふ、それは大変だ」
コーラの炭酸でゲップをしそうになるが、なんとか耐えた。祝杯のドリンクを聞かれていたとは。炭酸はやめておくべきだった。
「しかし忙しいのに、少年は律儀に私に会いに来てくれるとはね。この美少女ちゃんが恋しくなったのかな?」
そうだ。なんて言えれば、彼女の顔をもっと赤くすることが出来るんだろうか。
「後押ししてくれた人に報告しくるのは礼儀だろ。からかうなよ美少女ちゃん」
「ふふん、どうだかね」
「なんならお得意の推理でもしてみればいいさ」
「言うじゃないか少年。ま、それはまたの機会に取っておくよ」
飲み干した紅茶花伝をゴミ箱に軽快に入れ、美少女ちゃんは振り向く。
「ではまた来週だ少年。体調には気をつけ給えよ」
「ああ、美少女ちゃんもな」
夕焼けの中手を触り合って別れた俺達。しかしその翌週。美少女ちゃんは公園には来なかった。
美少女ちゃんと祝杯を挙げた翌日。来週来ないなんて知る由もない俺は、呑気に学校へと通っていた。ようやく騒ぎも収まる気配を見せ、平穏が戻りつつある。俺をいじめていた奴らがいないだけで、こんなにも晴れ晴れとした一日を迎えることが出来るなんて。素晴らしい一日だ。
だが周りはそうじゃないらしい。俺を見る眼に、警戒心や恐怖心が混ざっているのがよく分かる。ふと視線が合うと、フイと視線が逸れて行く。
少し、いや、その腫物扱いにかなりイラっと来たが、よくよく考えてみればそれが正しい反応なんだろう。なにせいきなりキレて周りに大声で悪行を言いふらした、そんな感じの事をした奴だ。自分もその巻き添えを食らってしまうかもと考えると、そうなるのも無理はない。
まあ、いじめをされていた前の環境よりかは何倍もマシだ。これから受験も控えているし、高校に入ってしまえばどうとでもなる。周りの視線や感情を特に考える事もなく、俺は日々を過ごしていった。
「……あれ?」
次の週の火曜、いつものように公園に来たが、美少女ちゃんの姿が見当たらない。かくれんぼでもしているのかと呑気に探してみたが、どこにもいない。
「……終わり?」
俺の問題が解決したから、この集会ももう終わり。そういう事なのか? いや、美少女ちゃんはまた来週と言っていた。来る意思表明はしっかりとしていた筈だ。
目まぐるしく考えを巡らせようとして、やめた。冷静に考えれば、来れない日の一つや二つ、あったとしてもおかしくない。部活や塾、家の用事、突発的な原因だってある筈だろう。事故か何かでなければ良いけど。とにかくそんなに深く考える事じゃない。一時間以上公園で待ち惚けた後、その考えに至ったのであった。
翌日。村八分とは、こういう感じなんだろうかと思いながら教室に入る。恐れを抱いた視線と、直接は見ていないが意識はこちらに向けたクラスメイトが無言で俺を歓迎した。ここでバカみたいな声量でおはようといいながら肩を組んだら、その相手はどんな顔をするだろうか。もちろんそんなことはしないけど。
昼休みになり、屋上へと上がる。俺を見た他のクラスの生徒も、そそくさと距離を取る。事件が大々的に広まっているのが良く分かる。しかしからかってこないだけ十分だ。
「あの……」
「えっ!?」
パンに嚙り付こうとした瞬間、声を掛けられた。正直欠片も予想していなかった事態に声が上ずった。
「隣……良い?」
そう尋ねたのは、クラスメイトの美三坂 香子さんだった。小柄だが活発で、しっかりと自分の意見は主張する。そんな子だった覚えがある。肩程の長さに整えられた黒髪を揺らしながら、彼女は俺の隣に座る。
「……やめといた方がいいよ」
俺の意見を意に介さず、彼女は弁当箱の包みを解く。声色に反して強情だな。仕方ない、俺が移動するか。そう思い立ち上がったが、彼女は俺の服を掴み留まる事を強要した。強引だな、そう言いかけたが、無言で座り込んだ。彼女が何かを言いたいと、眼で訴えていた。
美三坂さんは弁当の蓋を開けようとした手を止め、口を開いた。
「ごめんなさい、立里原君」
「……なにが」
そんなこったろうと思った。半ば呆れた感情が露わになるような声色で、俺は問いを返す。
「立里原君のいじめ、見て見ぬフリをしていたこと。そしていじめが無くなった今も、立里原君を避けてたこと」
「いいよ、許すよ。はいこれで話は終わり」
相手の重々しさに対して、かなり軽薄に返してやった。どうせこんなの、自分が被害に会いたくないが為に行う謝罪に過ぎない。どうせこんなの、俺にはなんの意味もない謝罪だ。バカバカしい。自分が救われたいだけの謝罪を受け入れてもらおうだなんざ。
「待って! 本当に「だから許すって言ってるだろ。これ以上なにを話すんだよ」
努めてぶっきらぼうに返す。食べかけのパンをビニール袋に押し込んで、足早に扉へと向かった。
「立里原君!」
今更なんだって言うんだ。今何か言ってもらったところで何かが変わるなんて思っちゃいない。いじめが無くなっただけで良いんだよ俺は。何もしてこなかった癖に今になって話しかけてくるなよ!」
……どうやら途中から声に出ていたらしい。或いは最初からだろうか。どちらにしても、相手の驚いたような悲しんでいるような顔が、俺の言葉を聞いたと物語っている。あんまりにも強く考えた結果として、言葉になって出てしまったようだが、まあいい。むしろ好都合だ。
まだ何か言いたげな眼をした相手を睨みつけ、屋上を去った。去った事に後悔は無いが、どこで昼飯の残りを食べようか、そんな問題が残った。というより、俺はわざとそう考えた。
翌日。校内は相も変わらず、冷ややかな空気で俺を包んでいる。別にどうだっていいけれど。そんな中ふと思いつく。授業中、ふらりと俺が席を立ち、そのまま退席したらどうなるだろうか。ざわつくだろうか、厄介な奴が居なくなって安堵するだろうか。そう考えている俺が、なんだか変なテンションになっているのが、自分でも分かる。でも別にそれを止めようとは思わない。そうと決まれば決行だ。
ぎぎぃ、と椅子が床を擦る音が響く。先生を含めた全員が俺を見た。だがそれに構わず席を外す。
「た、立里原君! どうしたんですか!」
驚き慌てふためく先生。黙ってじっと睨みつけてやると、冷や汗をかいてそのまま縮こまっていった。その様子がなんだか可笑しくて、俺は一人で笑いながら教室を出て行った。
家に帰ろうかと思ったが、うっかり鞄を置いてきてしまった。もう一度授業を止めてしまうのは忍びない。昼休みになったらしれっと取って、そのまま帰ろう。
さてと、昼寝でもして待ちますか。やらないといけない事をほっぽり出してする昼寝は、また格別だ。
「立里原君!」
瞼を閉じていよいよ入眠という所で、邪魔が入る。声の主は美三坂さん。懲りない人だと、苛立った
視線を向ける。
「ダメだよ、授業抜け出しちゃ」
「それは美三坂さんもでしょ」
委員長でもないのに呼び戻しに来たのか。ご苦労な事だ。
「あのね、立里原君。お願いだから今日は話を聞いて」
「昨日聞いたじゃん」
「まだ話し足りてない。昨日言いたかったのはもっと別の事」
「謝罪よりも大事な事があるんですねぇ」
「毎週火曜日、公園の集会」
寝ぼけていた脳が覚醒した。公園という開け広げた場所だから、そりゃ誰かに見られているとは思ったが、まさかクラスメイトが目撃者とは。いや、誤魔化すような事じゃない。堂々としてればいいんだ。
「なんの話?」
「誰にも言うつもりなんてない。だから聞いて。私、相手の女の子と友達なの。小学校は一緒だった。名前は「待て!」
咄嗟に大きな声が出た。自分でもびっくりするくらいには、大きな声だった。
「あの子についての情報はいらない。そういう間柄だ」
どういう事? 頭の中を見なくても、彼女が今そう思っているのは分かる。だが意外にも、その困惑の表情はすぐに納得の顔になった。
「あの子なら確かにそういうの好きかも」
小学校からの付き合い、というのは嘘じゃないらしい。今の短い情報で納得できる間柄はなかなかない。
「じゃあ、相手を何て呼んでるの?」
「…………スポーツ少女」
冷静になって考えると、美少女ちゃんと呼んでるの、恥ずかしいんじゃないか。これはそんな羞恥心からくる、必然の嘘だった。
「……そのスポーツ少女、前来なかったでしょ」
「……」
「多分来週も来ない。来れない」
「なんだその引っかかる言い方」
「情報はいらないんだったよね?」
「そこまで言っといてそれはないだろ」
「これは直接確かめた方がいいと思う。立里原君自身が」
「…………」
「もし次もスポーツ少女が来なかったら、隣町の学校に行ってみて。行く時は私に言ってよ、苗字くらいは知っとかないと」
謝罪がしたいから、そんなデタラメではない。どこか芯に迫るような言い方だった。
「早い方がいいだろ。今日行ってくる。スポーツ少女の名字、教えてくれ」
「只利。名字だけでいいの?」
「え? 只利? ホントに?」
「? そうだけど……」
小説の主人公と同じ名字なのか。まさか名前まで同じなんてことないだろうな……
「どうしたの?」
「あ、いや、なんでもない。ありがとな」
首を傾げる彼女を後に、俺は隣町に向かって歩き出す。後ろから声が聞こえてきた。
「只利を、あの子をよろしくね!」
左腕を上げて、了解の意を示す。ここから歩けば隣町の学校まで一時間かからない程。放課後となる時間から少し過ぎるくらいか。ちょうどいい位だ。そう思っていたのに、無意識のうちに俺は走っていた。何故か、一刻も早く行かなければ、そんな思いが渦巻いていた。
隣町の学校に着いた時、ちょうど放課後になった合図のチャイムが鳴った。これなら下校する只利を見逃す事もないだろう。
しばらくして、生徒がぞろぞろと下校を開始した。帰宅部、部活が休み、そんな人達の流れが出来る。しかしその流れの視線は大なり小なり俺に向いていく。それもそうだ、他校の生徒が、息を切らした状態で校門に立っている。そりゃ気にもなる。
「…………あの、どうしたんですか?」
見かねたのか、好奇心からか。一人の男子生徒が声をかけてきた。
「あ、えと、人を探してて」
「誰ですか? 名前とか、学年とか、部活とかもわかりますか」
やばい、今になって冷静になってきた。名字しか知らない相手を探しに来たとか言ったら、下手したらストーカーに思われても可笑しくないぞ。で、でも何も答えないのも不審者待ったなしだ。やばい、でも言えることを言うしか……
「只利さんって言うんですけど、背は150cmない位で、短めの黒髪で、擦り傷がところどころにある女の子なんですけど……」
恐る恐る特徴を話していく。しかしこれ以上はよく知らない。そういう間柄だと言っても信じては貰えないだろうな。一体何を突っ込まえるやら、そう身構えていたが、彼は意外な反応を見せた。
ちらりと、校舎裏に続く方を見た。一瞬だけど、確かにそっちを見たのだ。その後どうしたものかと考えるように、言葉を慎重に拾い上げるように話し始めた。
「えと……その、只利さんという人は居ませんよ」
「居ないってなんだ、どういう事だ」
「とにかく居ないんですから、今日はもう帰った方がいいです」
「あっちだろ、お前が視線を向けたのを見逃さなかったぞ」
動揺した彼のスキを突いて、俺は駆け出した。校舎裏に向かって疲弊した足を必死に動かしていく。角を曲がったところで、俺は見た。
美少女ちゃんがそこにいた。制服を乱暴に剝かれた、半裸の状態で必死に抵抗していた。数人の男女が美少女ちゃんを取り囲み、少し離れた位置で女生徒が一人、カメラを構えている。
俺の足音に気づいた連中が一斉にこちらを向く。美少女ちゃんはただ一人、その眼に涙を浮かべていた。
「み、見られてしまった、ね、はは……」
いつもの様子を取り繕うとした彼女の弱々しい声が、嫌というほどに染み渡った。彼女の擦り傷は、スポーツで出来たものでは無かった。日々のいじめが、生傷を絶やさない環境を作っていた。その事実が残酷に理解出来てしまった。
「なんだお前、あっち行ってろ」
一人の男子生徒が立ち上がり、こちらに歩いてくる。背丈が高い。体格も良い。殴り合いでもしようものなら、恐らく数発で気絶してしまうだろう。
「か、彼女を、只利さんを離せ!」
「うるせぇよ」
躊躇なく顔面をぶん殴ってきた。鼻っ面に走る衝撃が、キーンと頭に響く。思わず鼻を押さえた手には、血がべっとり付いていた。
「お前隣の学校のやつだろ。すっこんでろよ」
続けて腹をぶん殴られる。キレイに入った衝撃で胃液を吐く、昼飯まで出るかと思った。だが物こそ出なかったが、痛みで動けない。蹲った体制から抜け出せない。
「邪魔すんなカス、オレはこれからお楽しみなんだからよ」
やばい、このままだと、このままだと美少女ちゃんが、危ない。でも真っ向では勝ち目がない。どうすれば良いのか。俺はどうにか立ち上がり、力の限り息を吸った。
「誰か助けてくださああああい! ○○学校の女生徒が暴行を受けていまあああす! 誰か助けてくださあああああい! おまわりさああああん!」
情けない程に絶叫。だがこれが有効な手立てであることは知っている。こういう悪い輩は騒ぎ立てられる事を嫌う。その証拠に、さっきの野郎も焦った顔でこちらに来た。
「てめぇ! 黙ってろや!」
「ぐはぁ! だ、誰かあああああああ!」
「だああくそ、黙れっ!」
叫ぶ俺を止めようと、必死な表情で殴りかかる。だが俺は叫ぶのをやめない。やめてやるものか。
「なんですか! 何事です!」
騒ぎを聞きつけた、教師であろう大人が寄ってくる。狙い通りだ。
「あ、先生……」
殴れてボコボコの俺。襲わているのが嫌でもわかる美少女ちゃん。そして俺を殴る男子生徒と、彼女を襲う取り巻き達。誰がどう見ても言い逃れ出来ない状況、俺達が被害者なのは明白だが……
「貴方、他校の生徒でしょう。何をしているんですか。通報しますよ」
「いや、通報すべきはこっちでしょう! いじめなんて言葉で済ませて良いものではない事が起きているんですよ!」
「それはうちの学校の問題、うちで対処します。それよりも貴方です。まずはこっちに来なさい」
恐れていた事態。校舎裏とはいえ、こんな大ぴらな場所行われているこれを、先生が見落とすのか? もしそうだとしたら、グルの可能性しかない。その可能性が的中してしまった。この学校は、俺の学校と同じく、腐っていた。
「おかしいだろ! 俺じゃなくてあいつらだろ!」
「だからうちで対処するといったでしょう。部外者の貴方は去りなさい。それとも警察に突き出しましょうか!」
聞く耳を持ってない。腐り具合で言えばこちらの方がひどいかもしれない。
「ふざけんなよ、お前女の子がこんなひどい目にあってんの、見てみぬふりすんのかよ!」
もはや応える事すらしなくなった教師が、俺の腕を乱暴に掴む。それに必死で抵抗するが、大人の力には敵わない。加えてさっきまで俺を殴っていたアイツも加勢に来た。もみくちゃにされながら、暴れ、少しでも時間を稼ぐ。
「このっ、いい加減にっ!」
とうとう教師も俺に手をあげようとしたその時、ウゥウウウウと、非常事態を告げるサイレンが近寄ってきた。ビクリとした教師が辺りを見回す。サイレンは徐々に近づき、やがて校門の前に止まった。二人の警官がパトカーから降りる。すかさず俺は叫んだ。
「おまわりさああああん! こっちでええええええす!」
怒りと焦りの視線が俺に向く。その瞬間を見逃さず、懐から110番をかけた状態のスマホを取り出し、カメラで眼前の光景を撮影した。全員の顔が、ばっちりとこちらを向いている。
「通報があったのですが……全員動くなぁ!」
様子を見るべく穏やかな声色で口を開いた警察官だったが、この光景を見た瞬間怒号をあげた。その迫力に教師さえも縮こまる。
「暴行の現行犯で逮捕する! 大人しくしろ!」
彼の言葉に諦め膝を突く者、俺は違うと訳の通らぬ弁解を始める者、逃げ出す者。みな一様に手錠を掛けられた。
「君、大丈夫かい」
応援で来たのだろう。手錠を掛けている二人とは別の警官が声をかけてくる。
「俺は大丈夫です、それより彼女を」
俺は未だに震えている只利を指さした。分かった、そう優しく言った警官は彼女の元に行き、彼女の保護に当たる。そこで俺の意識は途切れた。
次に起きたのは病院のベットだった。父さんが心底心配した顔で泣いていた。一日中寝ていたらしい。疲れと痛みでマトモに話せなかったが、それでも五体満足ではあった。
その日、俺は事件の顛末を教えてもらった。いじめの主犯とその仲間たち、そしてグルとなっていた教師は全員逮捕され、これから処分が決められていくそうだ。ほぼ確定でいじめっ子達は退校。教師は実刑判決。しかも他にもグルだった教師の情報を話したらしく、巣食っていた悪は一層されるだろう。そういう事になるらしい。
次の週の火曜日、ケガもほとんど治り退院した俺は登校してみた。昨日の今日といったペースで騒ぎを起こした俺を見る視線は、なかなかに冷ややか。ただ、美三坂さんだけは、おめでとうと一言添えてくれた。なんだよそれ、笑いながらそう返した。
その日の夕方、俺はあの公園に向かった。多分、いると思った。
「やあ少年。傷の方は痛むかな?」
いた。けろりとした表情でブランコを漕いでいる。
「問題ないさ。ほとんど治った」
「そういうのはグルグル巻かれた包帯が取れてから言うものだよ、少年」
「……確かに」
そういえば巻いてたな、そんなことを思いながら美少女ちゃんの隣に座った。
「しかし少年、あの撃退方法、小説から引用したのかな?」
「ああ、主人公の只利は体術はてんで駄目だから、ああいう方法で撃退してたのを思い出してね」
「あの場であれだけの声を出す度胸も見事だが、通報の手際も鮮やかだった。あれはいつ?」
「蹲った時。大声は人目を呼び寄せるのと、ポッケのスマホにも状況が届くようにするためだね」
「なるほど。少年もなかなかにキレ者だった訳だ。お見事だね」
優しげな目線を俺に向ける美少女ちゃん。
「……いじめられっ子に激励を施した人物もまた、いじめられっ子だった。これがこの事件の真相だよ、少年」
「…………美少女ちゃんは、そんな状態なのに、俺を助けてくれたんだな」
「違うよ少年。私は助けて欲しかったんだ。それに少年が応えてくれた。助けられたのは私の方さ」
それに俺が言葉を返すよりも早く、美少女ちゃんは立ち上がる。
「只利 優香。それが私の名前だよ、少年」
美少女ちゃん、もとい只利 優香は、俺から顔が見えないような角度を保ったまま、言葉を重ねる。
「少年の名前、聞かせてくれないか」
「立里原 賢治。……小説と殆ど同じ名前だったんだな」
緊張した空気が、只利 優香から伝わってくる。それに動揺した俺が、思わず茶化すような言葉を発した。
「賢治くん」
振り向いた優香の表情は、淑やかで、優しくて、愛おしくて。出会った時とは真逆の雰囲気を放つ、正しく美とつけるべき少女がそこにいた。彼女は慈しむような眼差しで俺の頬に手を添える。
「こんなに傷だらけになって……ごめんね。ありがとう」
「そ、そんな大したことないって」
「賢治くん」
名前を呼ばれ、反射的に彼女の顔を見る。その瞬間、俺の唇は彼女の唇と触れ合っていた。
「っ!?」
情緒もムードもない驚きを見せた俺に対し、落ち着いた様子でキスを終え、優香はブランコに座る。だが、その顔を俺と真反対に向けた状態で、表情を見せまいと座っている。
「な、な、な」
「美女は助けてもらった相手と唇を重ね、愛を誓ってハッピーエンド。物語の結末はこうでなくてはね。そうだろう? 少年」
顔を背けたままそう語る美少女ちゃん。夕焼けのせいだと言うにはいささか無理がある程に、彼女の耳は赤い。だがそれについては俺は何も言及しなかった。なぜなら、俺も絶対、同じくらいに真っ赤だったから。
マスカレードマスク、読んで頂きありがとうございました。
拙い文章、無理な展開など、目に付く点は多いですが、少しでも楽しんで頂けたら幸いです。
お手数ですが、よろしければ感想など書いて頂けると、嬉しいです。
最後に改めて、二人の物語を読んで頂き、ありがとうございました。