第一章《後継者》 其の一
「示ノ原エマさん、だね。警視庁公安部所属、湯木圭介、階級は巡査部長です。少し話を聞かせてもらいたいんだ。お願いできるかい」
救急車に同乗し、気を失った血塗れの男と共に病院へと運ばれたエマは、擦り剥いた手足の処置が終わったところを話しかけられた。
(公安部ってあの公安? たしか潜入捜査とかする部署だっけ?)
警察手帳を提示しながら自己紹介をするその男を、エマは注意深く観察してみる。
へらりと笑った軽薄そうな顔に、染めているであろう少し伸ばされた金髪、チラリと覗く耳には大振りのイヤーカフやピアスがつけられているのが見えた。細身の身体にグレーのスーツが嫌に似合っているが、はっきり言って警察官ではなく水商売関係の人間にしか見えない。
どう見ても怪しい人物ではあるが、エマには湯木が嘘を付いているようには感じられなかった。つまり、直感を信じるのなら湯木は警察の中でも特殊な部署にあたる公安部の人間ということになる。
「……分かりました。あまり、話せることもないですけど」
「あれ、信じてくれるんだ? いやー、助かるよ。僕はこういう見た目だからさ、手帳を見せても疑う人が多くって大変なんだよね」
「見た目の問題なら変えれば良いじゃないですか」
「こういう見た目じゃなきゃ話しづらい人もいるからね、一長一短ってやつだよ。……さて、本題に入ろうか」
そう言って湯木は処置室内にいる看護師に目配せをする。それを看護師は心得た様子で頷き、静かに処置室を出て扉を閉めた。
二人きりになった静かな部屋で、湯木はへらりとした笑いを引っ込め真面目な顔付きで話し出す。
「示ノ原さんはどうしてあの場所にいたのかな。通学路は大通りだし、あんな危険そうな路地に入る用事なんてないよね?」
「その……誰かに狙われているように感じて、逃げ込んだんです」
「わざわざ人通りの少ない方に? 警察や近くの人に助けを求めようとは思わなかったの?」
「説明が難しいんですけど、それじゃ駄目な気がして……あの路地が急に目に留まって、そこに逃げたら助かる気がしたんです」
「なるほど。じゃあ偶然入った路地であの大怪我をした彼に出会ったんだ」
「はい、走ってたらぶつかって、それで私は転けちゃって……あの、あのお兄さんは大丈夫なんですか。私、助けてもらったんです」
「……正直、生きているのが不思議なくらいだよ。君も気付いていただろうけど、銃で腹部を撃たれている。出血量だって相当なものさ。でもね、今お医者さんが最善をつくしてくれている。今は彼の無事を星に祈ろう。証拠もないのにこういうことを軽々しく言っちゃいけないんだけど、多分彼は悪い人間じゃない。身を挺して人を守る善人には同じく善なる報いが必ずあるはずさ」
「はい……」
「話を戻すけど、示ノ原さんは彼と初対面なんだよね。じゃあ君を狙っていたらしい男はどうだい、知っている人物かな」
「いえ、救急車に乗せられる時にちょっと見ましたけど、知らない人でした。あの、その人の怪我はどうなんでしょう」
「うーん、まあ生きているよ。色んな骨が折れているし重症だけど死にはしないかな。彼凄いよね、銃弾を食らった状態で刃物を持った男を素手で返り討ちだよ。人間業じゃないね」
「刃物……やっぱり、私、殺されそうだったんだ……」
「命を狙われる理由に何か心当たりはある?」
湯木のその問いかけにエマは無言で首を振る。善良な一市民として生きて来たエマにとって、命を狙われるほどに恨まれるようなことをした覚えは何もなかった。
「あのね、あの男はおそらくプロだ。君の悪質なストーカーだとか、突発的に誰かを傷付けたくて狙ったわけじゃない。あの男が使った刃物はそこらの市場では絶対に流れない御禁制なんだ。他の所持品を見ても一般人ではないことが明らかだし、そんな男がわざわざ君を狙った理由が分からない」
「そんな……」
「ごめんね、怖がらせたいわけじゃないんだ。でも、理由が分からない限り、第二第三次のあの男が来るかもしれない。御禁制の武器が使われている以上、僕達公安も放ってはおけないんだ。些細なことでも良いんだ。最近何かを見聞きしたとか、変なことがあったとか、物をもらったとか……何かいつもと違うことはなかったかな」
「いつもと違う……この指輪なら、さっきお兄さんに渡されました。でもこれは襲われた後だし関係ないですよね」
「指輪? へえ、これ……凄い精巧なレプリカだな。こんな精巧なの初めて見た。特にこの青銀の色味、ここまで綺麗に出たやつ売ってるんだ……欲しいな」
「あれ、これもらった時は普通の銀色だったはずなのに、青っぽくなってる」
湯木に見せるために差し出したエマの右手の人差し指には、約束通り男から渡された少し血がついた指輪がはめられている。確かに白銀だったはずのそれは、今では明るい蛍光灯の光で青みがかった銀色に艶めいていた。
「え、待って。示ノ原さん、今何て言った?」
「え?」
「銀色が青っぽくなったって言わなかった⁉︎」
「は、はい! 言いました!」
「もしかして……もしかしてだけど、この指輪を渡したっていう彼も何か指輪をしていた?」
「え、えっと、そうですね……確か右手の親指に似た様な指輪をしていたと思います」
エマの返事を聞き、湯木は一気に顔を青くさせた。
そんな湯木の様子にエマは戸惑うが、湯木は口元に手を当てながらぶつぶつと小声で呟くばかりで周りが全く見えていないようだ。
時折「そんな馬鹿な」「レプリカに決まっている」「でも、もしかして……」と、湯木が狼狽えた声がもれ聞こえるが、全くもって要領を得ない。
ただ、男から渡された指輪がとんでもない代物の可能性がある、ということだけは何となく理解できた。公安部に所属する湯木が慌てふためくほどとなると、相当スケールが大きな話になりそうだ。
「すみません、縦内です。ここに警視庁の湯木はいますか」
「縦内さん! 大変なんです!」
軽いノックの後に響いた扉越しの声に、湯木は飛び付くように扉を開いた。
湯木に招かれるままに処置室内へと入って来た縦内という名前の男は、湯木に比べるとずっとまともな警察官に見える風貌だ。ダークグレーのスーツを着込んだがっしりとした体に、短く刈り上げた髪の毛は体育会系だと誰もが感じるであろう独特な雰囲気がある。その体躯にピッタリの厳つい顔を疲れたようにしかめながら、縦内は話し出した。
「湯木、落ち着け。こっちも大変なんだ。所持品と、昨夜の空港の監視カメラと搭乗履歴で確認が取れた。今手術中の彼は星レオナルド様、階級は命師――星の名を戴く、ステッラの内政に関わる要人だ」
「……縦内さん、それだけじゃありません。多分、レオナルド様が新しい導守様です。僕は直接確認していませんが、彼女が右手の親指にこの指輪と似たものをつけているところを見たそうです」
「これは、レプリカか……? やけに精巧だな、これなら相当な値段がしただろう。信心深いのは良いが、女子高生が持つにはいささか目立つな」
「縦内さん、それは彼女がレオナルド様から渡されたそうです。しかも、渡された時はただの銀色だったらしいです」
「――星より造られしその指輪、いと尊きその身につけし時、星の銀は導きの青と交わるだろう」
突然詩的な文章を誦じた縦内に、エマは思わず問いかける。
「あの、それは……?」
「導きの星書、第三章第二節『導きの指輪』の一文です。公務員の業務には星書の内容が必須ですから、ほとんどを暗記しています」
「暗記大変で困るんだけどね。昇進試験にも出るから必然と覚えるんだ」
「えっと、つまり?」
「……今貴女がつけているその指輪は、導師様の証である『導きの指輪』である可能性が現状限りなく高い。つまり貴女は導師ミヤコ様の正統な後継者、新しい導師様ということになります」
その衝撃的な内容に、エマは思わずたじろいだ。
縦内の言葉を理解できるが、分かりたくない。確かに自身の持つ勘の良さが導師の力に似ている気がしたが、それはあくまで劣化版としてだ。いきなり新しい導師になったとしても、エマには自然災害を予知するような大層なことができる力はない。そんな力の足りない導師がトップに立てば、全世界からの信頼を裏切ることになる。
歴代の導師たちの偉業によって絶対的な指針として世界中から求められるその力が、もしも期待はずれの能力だったら。その先に待ち受けているのは、絶望と、混沌、そして力がないのに導師へとなってしまった人物への憎しみだろう。
この世界では導きの星教と導師の力によって大きな戦争がほとんど起こっておらず、前世の世界史を知っているエマからすれば夢のような歴史を歩んでいる。しかしこのままエマが導師になってしまえば、平和の要である導師こそが戦争の原因になってしまう可能性は少なくないだろう。
そんなぞっとするような未来を想像して、エマの顔から血の気が失せる。
「嘘……冗談、ですよね?」
「示ノ原さん、僕たちは冗談でこんなことは言わないよ。レオナルド様がこういう状態の今、日本星賓館にいる率師様に確認を取らないことには断定できないけど……可能性は高いから覚悟はしておいて欲しい」
湯木の最後通牒のような言葉に、エマは力なく立ちつくすしかできない。あまりにも衝撃的な内容に今にも倒れてしまいたくなるくらいだ。
しかし、このままじっとしていても状況は変わらない。そう思って何とか事態を好転させることはできないものかと考えようとするが、混乱した頭でそう簡単に妙案が思い付くはずもなく。気持ちが焦るばかりで、何もできない無力感に涙がじわりと滲んだ。
そんなエマの様子を見かねたのか、意識を逸らすように縦内はエマへと問いかけた。
「ところで示ノ原さん。ご家族への連絡はすませていますか」
「いえ……そういえばすっかり忘れていました。きっと心配かけちゃってますね。すぐに連絡します」
「いや、それなら連絡するのは待ってください」
「え、何でですか?」
「貴女の家とご家族の無事が判断できるまで、こちらから連絡するのは危険です。貴女が導師様の後継者だという理由でその身を狙われていたのだとしたら、帰宅するはずの家をノーマークで放っておくとは思えない。……ご家族の身にも、何かが起こっている可能性があります」
「そんな……」
縦内からもたらされた最悪の可能性に言葉をなくすエマに、湯木が険しい顔で続ける。
「示ノ原さん、確認なんだけどそのスマホはGPSのアプリとかダウンロードしていたりする? 家族の人のスマホから位置が確認できる機能とか、そういった感じのやつ」
「確か、入っていたと思います」
「すまないが今すぐスマホの電源を切ってください。湯木、すぐに移動できるか」
「足はいつものがあるので行けます。でもレオナルド様はどうします、ここじゃ守りが手薄ですよ」
「手術中だから警察病院にも移せないか。だが彼女をこのままここにいさせるのは危険だ。もう少しで交代要員が一人来るが、足りないな。付け焼き刃だが、こちらは増員を要請して守りを固めよう」
そう言って縦内はすぐさまスマホを操作し、どこかへと電話をかける。
「……私だ。ああ、今から湯木と彼女と一緒にそちらへ移動する。レオナルド様の警護を至急増やしたいが、何名動ける……十分だ、すぐに来てくれ。それから彼女の家とご家族の状況確認を……事情が変わり必要になった。理由は後で上に通すからそちらも急ぎで頼む……ああ、悪いな、じゃあ切るぞ」
緊迫した電話でのやり取りに、エマは息を呑みながらも指示された通りに自分のスマホの電源を切った。
言われるがままに意味も分からず電源を切ったが、どうしてそうする必要があったのだろうかとふと考えてみる。先ほどの二人の会話を注意深く思い出せば、その意図がようやくエマにも理解できた。つまり、湯木と縦内はこう言いたいのだ――エマの家族にすでに危害が及んでおり、犯人が家族から奪ったスマホを操作することでエマの現在位置がバレている可能性がある、と。
たしかにエマが誰かに狙われていると感じたあの時、家に近付くにつれ気持ち悪さが増していた。あの時は、犯人が自分との距離を詰めてきているからこそそう感じるのだと思い込んでいた。しかしもしかするとそれだけではなく、その時すでに家にはエマを待ち伏せている誰かがいて、エマが家へ帰ることにより危険が迫っていると知らせようと体調が悪化していたのかもしれない。そこまでは納得できても、エマは家族の身に何かしらの危害が及んでいるという実感は持てなかった。家族は大丈夫だという、根拠もない安心感がどこかしらにあるのだ。
(理由もないただの勘だけど、だからこそきっと全員無事なはず……!)
家族のスマホが奪われている可能性はあるのでその点は安心できない。だが少なくとも今すぐに連絡が取れなくても慌てる必要はないのだと、エマは自身の直感を信じてなんとか心を落ち着かせた。
「よし、じゃあ僕は車の準備をしますね。すぐに呼びますか――うわっ!」
「あの、警視庁の方たちですね⁉︎ 救急で来た手術中の方が大変なんです! 医師から説明がありますのですぐに来ていただけますか!」
湯木が処置室を出ようとしたその時、勢い良く扉が開いた。処置室内へと慌ただしく入って来た手術着の看護師は、緊迫した様子で必死に話している。レオナルドの身に何かしらのトラブルが起きたのは間違いないだろう。
「……分かりました、今行きます。示ノ原さん、貴女も一緒に来てください」
「はい」
「湯木は車の準備をして待機。こちらの用事が終わればすぐに連絡を入れる」
「了解!」
「手術室はこちらです! すみません、少し急ぐので走ります!」
「いえ、大丈夫です。示ノ原さん、もし足が痛くなれば自分が運ぶので言ってください」
「は、はい」
真面目な顔で縦内が言った言葉に戸惑いながらも返事を返し、エマたちはレオナルドがいるであろう手術室へと走り出した。
手術室へと辿り着くと、すでに手術中のランプは点灯しておらず、部屋の前には手術着を着たままの医師がどこか呆然とした様子で立ちつくしていた。
「先生! 来てもらいました!」
「ああ、お待ちしていました」
「お待たせしてすみません。一体彼に何が?」
「それが……傷が治ったんです」
「……失礼ですが、それはどういった意味で?」
「言葉のままの意味です。手術中、勝手に傷が修復されていくんです。抉れた部分も周辺の肉が盛り上がるようにして塞いでいき、銃創が完全になくなりました……体内に残っていた銃弾も、銃創が完全に塞がる前にひとりでに体外へと排出されています。最初に切開した部分もすでに塞がっていますし、この状況でこれ以上手術を続ける意味はないでしょう」
「それって、お兄さんの傷は全部治ったってことですか?」
「内臓や筋肉の状態はまだ詳しく検査できていませんが、おそらくその可能性が高いです。皮膚の表面や眼球は確認しましたが無傷でした。血液量も問題ありませんし、血圧、心拍、呼吸も安定しています。正直、彼があんな大怪我をしていたなんて今の状態を見たら誰も信じませんよ。奇跡が起こったというしかありません……私も、まだ夢を見ているような気分です」
「でしたら面会は可能ですか」
「念のため集中治療室へとすでに移しています。消毒と専用のスリッパ、帽子、ガウン、マスクの着用をしていただければ大丈夫です」
「ではお願いします。示ノ原さんも構いませんか」
「大丈夫です、私もお願いします」
「先生、承知だとは思いますがこの件は――」
「分かっています。今回の手術に関わった人間には固く口止めをしておきます」
「よろしくお願いします……『星の導きを守るために』」
「ええ、『星の導きを守るために』」
合言葉のように同じ言葉を交わす二人に、まるで秘密結社のようなやり取りだなとエマは前世で嗜んだ知識を思い出した。
宗教が絡む物語では、強大な宗教組織内部に意外とそういった秘密の組織が存在しているものだ。それが影で暗躍することで時に主人公たちの道を阻む――なんて展開を何度も見た気がする。
清廉なる宗教の表面と、信徒にすら隠されし非道な暗部。そんな対比が読者の心を盛り上げる一種のスパイスとして好まれて来たのだろう。
もし本当に導きの星教の導師になったとしても、そんな組織はとてもじゃないが自分の手に負える気がしない。しかし、架空のお話としては色々と美味しい設定であるのは間違いないだろう。せっかくこんなにも平和な世界なのだから、是非ともそういったおどろおどろしい組織が必要悪として存在せずとも大丈夫であって欲しいものである。エマやレオナルドが命を狙われた以上その願いは叶わなそうな気もするが、それでもこっそりそう願うくらいは許されるだろう。
「こちらの部屋です。彼はまだ麻酔が効いて寝ています。後ここは個室ですが防音性が高くないので、声の大きさには注意してください。何かあれば備え付けのナースコールをお願いします」
エマが取り留めもなくそんなことを考えていると、先導していた医者が立ち止まり説明する。
静かに頷いた縦内がそっと扉を開けて、二人はまず準備室へと入った。そこで消毒し、帽子とマスク、ガウンを着用し、最後に専用のスリッパへと履き替えてから集中治療室へと入る。
静かな室内にはベッドに眠る大柄な人物――レオナルドがいた。
彼の身長では長さが足りなかったのだろう。ベッドの足元の柵は外され、はみ出た大きな足が隣接させた簡易ベッドへと投げ出されていて、その上には追加でタオルケットがかけられている。大きいとは思っていたが、こうして真っ直ぐになっているところを見れば多分百九十、いや二百センチメートルはありそうなほどの長身だと分かった。そして何より布団の上に出された両腕はもちろんだが、布団に隠された部分もしっかりと分かるほどに圧倒される隆々《りゅうりゅう》とした肉体だ。
エマはそんなレオナルドが眠るベッドのそばに一目散に駆け寄り、その穏やかな寝顔をじっと見つめる。
医師が説明していた通り、その顔に刻まれていた痛々しい傷は今やどこにもない。出会った時はそれどころではなかったが、こうして落ち着いて見れば若さに渋みが加わり始めた精悍な顔立はその体躯の迫力に見劣りしないといえるだろう。
自分を守ったせいで傷付き、血塗れになっていた左目が傷もなく綺麗に閉じられているのを確認して、エマはようやくレオナルドの無事に安堵できた。
「本当に、傷がなくなってる。良かった……!」
「にわかに信じがたいですが、傷跡すら残っていないとは。そしてこの赤銀の指輪はやはり……」
縦内の声につられて布団の上に出されている右手を見れば、その親指には赤みがかった銀色の指輪が存在感を示していた。
「お兄さんの指輪は赤っぽくなってる。こっちも私が見た時は銀色だったんですよ」
「――尊き女のその身を守らんと、猛き益荒男は神より仰せつかる。しかしてその身が只人なれば、従なり朽ち行く肉塊にすぎず。憂う神は、星より対なる指輪を造られた。尊き女が導く限り、猛きその身につけし指輪は、星の銀と超越の赤が交わるだろう」
「……それも、星書の一文ですか」
「ええ。第三章第三節『超越の指輪』の一文です。この内容の通り、尊き女――導きの指輪を持つ導師様を守り抜くにはただの人の身では脆いと心配した神が、強き男へと渡したのが超越の指輪とされています。こちらは代々、導師様を専任で守る御役目を司る導守様の証ともなっているのですが……レオナルド様の様子を見るに、どうも肉体を回復する力があるようですね。まさしく、脆いその身を補うように」
「でも、そんな力があるならなんでお兄さん――いえ、レオナルド様はあんなに重傷になっていたんでしょう。時間が経たないと力が発動しないとかでしょうか」
「おそらく、効力発動には条件があるのでしょう。星書の内容から推測するなら、導師様が導きの指輪をつけることによって初めて超越の指輪はその真価を発揮する、といったところかと。示ノ原さんはレオナルド様に指輪を渡されたそうですが、その時彼は何か言っていませんでしたか」
レオナルドから指輪を渡された時。それを思い出そうとすると、身体中を血塗れにし、今にも死にそうな状態だったレオナルドの姿が脳内に浮かぶ。虚な緑の右目を必死に開けながら、息も絶え絶えに伝えようとしていた言葉はなんだったのか。その光景を思い出すだけで身が凍るような気持ちになりながらも、必死に記憶を遡る。
一番大事な部分であろう約束のことはしっかりと覚えている。しかしその前にレオナルドがぼそぼそと呟いていた部分に関しては、あまり聞こえていないためにエマはほとんど思い出せなかった。
「えっと……指輪を取りに来るまで外さないで欲しいって言っていました。後は何だっけ、星の導きがどうとか言ってたような……」
そこまで言葉にして、エマは気付く。レオナルドは指輪を「取りに来る」と言っていたのだ。つまりこの指輪はエマに一時的に譲渡されただけに過ぎない。それならば、エマが導師の後継者であるという湯木と縦内の推理は間違っているということになる。何せ導師の証であるとされる指輪なのだから、エマが本当の後継者ならば「取りに来る」とわざわざレオナルドが言う必要はないはずだ。
エマの言葉で同じことに気が付いたのだろう縦内も、神妙な顔をしながら首をかしげた。
「取りに来る、ですか……なるほど。少し、考えを改める必要があるかもしれませんね」
「移動はなしにしますか?」
「いえ、念のためにも移動はします。この件の詳しい話は移動中にしましょう。レオナルド様の容態は心配せずとも大丈夫でしょうし、湯木の車へ行きましょうか」
「……はい」
そう促され、エマはどこか後ろ髪を引かれるような気持ちのままに集中治療室を後にする。
後ろ手に扉を閉める直前、何故か呼ばれたような気がして振り返ったが、レオナルドは変わらずベッドの上で静かに横たわっているだけだった。
(レオナルド様の目が覚めれば指輪を返すはずなんだから、きっと導師様になることもないはず。……でもそうなったら多分、もう二度と会うこともないんだろうな)
「示ノ原さん? どうかしましたか」
「いえ……なんでもありません」
血塗れの手に気が付いたエマが救急車を呼ぼうとした時、身も知らずの他人を気遣ってくれたことをレオナルドは感謝していた。しかしエマは、見ず知らずの他人である自分を命がけで守ってくれたレオナルドに、まだ心からの感謝の気持ちを伝えられてはいない。
指輪の不思議な力で回復している様子を見るに、再開する機会はきっと遠くはないのだろう。守ってくれたことに対するお礼を言って、指輪を渡す。それで全てが終わるはずなのに、どうしてだろう――そうしてはいけない気がする。そうしてしまえば、レオナルドの身に何か悪いことが起こるような、言いようのない不安を感じてしまう。
レオナルドの怪我は治っているはずなのに、こんなにも彼のことが心配になるのは何故なのか。その理由が、今のエマにはまだ分からなかった。
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