ママをさがして
びゅーびゅー。
風に吹き付ける冷たい風の音でミコは目を覚ましました。
「ここ、どこ?」
辺りをぐるっと見回してみても、木ばかりで明かり一つない薄暗い森の中。ミコは小さな体を震わせながら、当てもなく母親を探すため歩き出します。
「ママ―! どこー?」
始めは、森中に響き渡りそうな大きな声で母親を呼んでいたミコの声も、返事が返ってこないうちに、次第に細くなっていきます。
「ママ、寒いよ、ママ……」
しばらくは頑張って森を歩いていたミコですが、ついに疲れてその場にしゃがみこんでしまいました。
びゅーびゅー
その間も冷たい風は止む気配も見せず吹き続けています。
「もう歩けないよ」
ここまでどうにか泣かずにきたミコも、座り込んでしまった途端、不安と寂しさが涙となって溢れてきました。
すると、
「ミコ、こっちよ、ミコ」
冷たい風から身を隠すために、近くの木の陰で膝を抱え泣き続けていたミコの耳に、どこからか聞き覚えのある声が届いてきました。
「ママ、ねえママでしょ、どこにいるの?」
ミコは思わず立ち上がり、声の聞こえた方へと歩いていきます。
「ミコ、こっちよ、ミコ」
ミコは懸命に声の後を追いますが、声は少しずつ遠くへ離れて行ってしまいます。
「待ってよママ、ミコはここだよ」
途中からミコは力いっぱい走りましたが、とうとう追い付けず、声は聞こえなくなってしまいました。
「もういやだよ。おうちに帰りたい」
「お前はミコだな?」
ミコが再びしくしくと泣いていると、頭の上から、低い声が降ってきました。
「おじさんはだれ?」
顔を上げるとそこには大きな、影のように真っ黒い恰好をした男が立っていました。
「母親に会いたいか?」
「おじさんはだれ? 知らない人とお話しちゃいけないって……」
「母親に会いたいか?」
男はミコの質問には一切答えずに繰り返します。
「うん」
何度目かの問いにミコが力なくうなずくと、
「なら付いてこい」
男は一言だけ言って歩き始めました。
「待ってよおじさん」
ミコは慌てて立ち上がり、男の後を追いかけます。
薄暗い森の中、男は振り返りもせずに、どんどんどんどんと進んでいきます。
このままじゃまた迷子になっちゃう。
男の影を見失わないように、ミコは一生懸命追いかけました。
それでも、大股で歩いていく男の一歩に、ミコはどれだけ走っても追いつけません。
もう無理だ、もう走れない。
苦しくてミコが諦めそうになった時、ずっと前を歩いていた男が、ようやく足を止めました。
「ここだ」
息も絶え絶えになりながら、ようやく追いついたミコに、男は息を整える暇も与えずに前方を指で差し示しました。
「ここにママがいるの?」
男が指を差している場所は、これまでと何も変わらない森の中。
「ママ、出てきてよ、ママ」
「そうじゃない」
よく見ろ、と男はもう一度同じ方向を見るよう、ミコに促します。
ミコが男の指の先を目を凝らしてよく見ると、その先には大きな、大きな山の姿が見えました。
「あそこにママがいるの?」
「そうじゃない、あの山の向こうにお前の母親はいる」
「おむかえに来てくれるんでしょう?」
「会いたければお前があの山を越えていくんだ」
「そんなのムリだよ」
ようやく整ってきた息を吸い込み、ミコは大声で叫びました。
「ならお前はもう二度と母親には会えない」
「二度とって?」
「もう絶対に会えないってことだ」
「そんなのはイヤ」
「ならあの山を越えていくしかない」
「うーーっ」
一切、救いの手を差し伸べてくれない男との問答に、ミコは地団太を踏みます。
それでも男はろくに取り合ってもくれませんでした。
「どうするんだ、行くのか、行かないのか」
「……行くもん」
ミコは男の問いに下唇を突き出して答えました。
「あの山へ足を踏み入れたら、もう二度とこちらへは戻ってこられないぞ」
男が声を太くしてミコに問いかけます。
「それでも行くのか?」
「うん、行く」
ミコは今度は力強く頷きました。
「ミコはママのところに行く」
「そうか、なら行くがいい」
いつの間にか止んでいた風が、びゅうっとミコに吹きつけます。
あまりの風の強さに閉じていた眼を開くと、もうミコの前に男の姿はありませんでした。
「行かなくちゃ」
ミコは目の前に大きくそびえ立つ山に向かい一言呟くと、歩きだしました。
山の道は男が言っていた通りの厳しく険しいものでした。
少しでも足の力を緩めたら、転がり落ちてしまいそうな上り坂へ、ミコは拾った木の枝を突き立てながら登っていきます。
途中で怖い怖い狼の群れに襲われた時は、自分の体の何倍もある岩の陰に身を潜め。
また大きな熊に追いかけられた時は、盛り上がった大木の木の根の隙間に身を隠しながら。
カラカラになった喉の渇きを、リスから分けてもらった果物で癒し。
何度も何度も恐怖で涙を滲ませながら、それでもミコは母親に会うんだと、歯を食いしばって進んでいきました。
そうしてどうにか山のてっぺんを越えたミコは、今度は気を抜いてしまったら転げ落ちてしまいそうな下り坂を、すっかり手になじんだ木の枝を支えに下っていました。
ゆっくり、ゆっくり、一歩、一歩。
慎重に歩いていたミコが、顔を上げます。
すると、遠くにぼんやり光る明かりをミコは見つけました。
「ミコ、こっちよ、ミコ」
明かりに気付いた瞬間、山に入る前に聞こえた母の声がまたミコに聞こえてきました。
あそこにママがいるんだ。
ミコは思わず木の枝を放り投げて走り出しました。
急な坂道に足がもつれて転んでしまっても、ミコはすぐに立ち上がってまた駆け出します。
顔中を泥だらけにしながらミコが明かりの元へ辿り着くと、そこには小さな小屋がありました。
「ママ、いるんでしょ? ねえ」
ようやくママに会える。
辿り着いた小屋の前でミコは声を張り上げます。
「よくここまでがんばったね。ミコちゃん」
扉が開き、中の光が漏れてミコを照らします。
しかし、扉の向こう側にいたのは母親ではなく、一人の背の高い青年でした。
「お兄さんはだれ? ママは? ここにいるって言ったのに」
ようやく母親に会えると、期待に胸を躍らせていたミコは表情を強張らせて青年を見上げます。
「僕はママのお友達だよ、アレンって言うんだ。」
警戒するミコの緊張を解くように、アレンと名乗った青年は優しく語りかけます。
「ママは少しお出かけしていてね、でも大丈夫すぐに帰ってくる。それよりも疲れただろう? さあ早く中へ入っておいでよ」
「でもすぐに来るなら、ミコ、ここで待ってる」
扉の前でミコは足を止めて、アレンに答えました。
「怖がらなくても大丈夫だよ。さあ早く、中にはケーキやジュースも用意してあるんだ」
「ケーキとジュース……」
ここに来てからマトモなものを口にしてこなかったミコには、アレンの言葉が魔法のように聞こえました。
ごくりと唾をを飲み込んでいるミコを、アレンは小屋へと招き入れます。
「うわぁ、きれい」
中に入ったミコは思わず驚きの声を上げました。
小屋の中はクリスマスやお誕生日のパーティーのような飾り付けがされていて、優しいろうそくの明かりで満たされていました。
奥にある暖炉の暖かさは、寒さとこれまでの道のりで強張ったミコの体をゆっくり解きほぐしてくれます。
「さあ、ミコ、早くこっちに」
アレンが小屋の内装に見とれているミコの手を取り、テーブルの方へと引いていきます。
テーブルの上にはアレンが言っていた通り、美味しそうなケーキと紅茶が用意してありました。
「さあ、まずはそれを食べてゆっくりママを待とう?」
ミコの向かいに座ったアレンが微笑みます。
「でも、知らない人から食べ物もらっちゃダメだって」
「大丈夫、僕はママの友達だよ」
ミコは母親の言いつけを守ろうとはしましたが、目はもうケーキにくぎ付けになっていました。
「それじゃあ」
ミコは我慢できなくなって、ミコは椅子に座ると紅茶を手に取り、一口すすります。
「あったか~い」
用意されていた紅茶はミコの冷え切った体をあっという間に温めてくれました。
「さあ、ケーキも」
アレンの声を聞く前に、ミコはケーキにかぶりついていました。
「あまーい」
口にしたケーキはミコが想像していた以上に甘く、たまった疲れを吹き飛ばしてくれるような不思議な味でした。
ミコは夢中になって出されたケーキと紅茶をほうばり、あっと言う間に平らげてしまいました。
「おいしかった」
「ミコちゃん、こっちに来て」
すっかり元気を取り戻したミコを見たアレンは椅子から立ち上がり、歩き出します。
「なに、アレン?」
一息付いたミコの中に、アレンへの警戒心はもうなくなっていました。
アレンに案内された部屋の奥に、見たことのない、数え切れないゲームやおもちゃで溢れ返っていました。
「これ遊んでいいの?」
遠慮がちに、それでも目を輝かせながらミコがアレンへ問いかけます。
「もちろん、何して遊ぼうか?」
アレンはミコの期待に応えるように、優しく微笑みかけました。
それからしばらく、ミコは時間を忘れてアレンと遊びました。
ここではゲームをずっと遊んでいても、おもちゃをいくら散らかしても、怒られることはありませんでした。
それどころかアレンは嫌な顔一つ見せずに、ミコとずっと遊んでくれました。
ずっとこのままの時間が続けばいい。
ミコは何か大切なことを忘れている気がしましたが、それよりも優しいアレンと遊ぶのに夢中になっていました。
どれくらいの時間が経ったのかも分からないくらい遊んだ後に、アレンがお茶を取ってくると席を外しました。
「ミコ、聞こえる? ミコ」
アレンがミコから離れる時を狙っていたかのように、どこからか聞こえてきた声にミコはようやく目を覚まします。
「ママ? そうだミコ、ママに会わなくちゃ」
ミコは抱えていたおもちゃを床に置くと、小屋の出口に向かいました。
「どこへ行くんだい?」
ミコが扉に手をかけると背中からアレンの声が聞こえました。
「あ、アレン、ごめんなさい。ミコ、もう行かなくちゃ」
「行くってどこに?」
「ママのところ。ミコ、そのためにここまできたんだもん」
「そう」
アレンの声が沈んだ気もしましたが、ミコは気にも留めず扉を開こうとします。
しかし扉は、ミコがいくら力を込めて押しても引いても開きませんでした。
「ミコちゃん、ずっとここにいなよ」
離れた場所にいたはずのアレンの声が急に近くに聞こえてきました。
「もうこんなに待っても来ないんだから、ママは君のことなんて忘れて、どっかへ行っちゃったんだよ」
「そんなことないもん」
ミコは振り返ってアレンの言葉を必死に否定します。
「なんでそんなこと言うの、アレン?」
「だって、おかしいだろう? こんな山奥に小さい君を一人を置いて行くなんて、ミコちゃんはもう要らない子なんだよ」
「そんなこと、ないもん!」
アレンの言葉を遮るようにミコが怒鳴ると、アレンは急に顔色を変え、ミコへと近づいてきます。
「ここにいれば好き放題遊べて、お菓子やケーキも好きなだけ食べられるんだよ」
「あんな苦しい大変な思いをしてここまで来たのに、また同じ思いをしてママのところへ行くの?」
何を言っているのか分からないくらいの早口で、ミコに言葉を投げつけながらアレンは迫ってきます。
「お前が、母親に捨てられたって認めさえすれば、ずっとここにいられるんだぞ」
ミコの眼前に迫ってきたアレンの顔は、もうミコの知っているアレンではありませんでした。
目は吊り上がり、口は裂けて、中からは大きな牙も見えます。
「さあ、言え、ずっとここにいたいって言うんだ」
「ママ、ママ」
ミコは恐怖に震えながら、母親呼びます。
「だから、お前は捨てられたんだって言ってるだろうが」
ミコを一口で飲み込めてしまいそうなほど、大きな口を開けて、アレンが叫びます。
「それでもミコは、ママに会うの!」
ミコも勇気を振り絞って、これまでにないくらい大きな声で叫びました。
「これまで来た道よりも、もっと苦しい思いをするぞ」
「それでもいい!」
「そうか……」
ミコの答えを聞くと、アレンは怖くなった顔を、元の優しいアレンの顔に戻しました。
「怖がらせてしまってごめんよ、ミコ、ちゃんと君の気持を聞いておきたかったんだ」
アレンは少し寂しそうに笑って、ミコに謝りました。
「ううん、アレンありがとう、ミコ、一緒に遊べて楽しかったよ」
元の、優しいアレンに戻ったとミコはアレンに抱きつきます。
悲しそうな顔をしているアレンの手を取り、今度はミコが微笑みかけました。
「さあミコ、ママのところへ行きな」
アレンは寂しさを振り切るように小屋の扉を開きました。
「うん、アレン、ほんとうにありがとう」
ミコは勢いよく小屋の外へ飛び出します。
「来た方とは反対の道へ進むんだよ、ここからはもう一本道だからね」
「うん」
「気を付けるんだよ」
「うん、じゃあねアレン」
ミコはアレンへ手を振ると、振り返ることなく、道を進んでいきました。
「いっちゃいましたねえ」
ミコの背中が見えなくなるまで、手を振っていたアレンが、一人空を見ながらつぶやきます。
「ああ」
するとアレンの隣に、ミコを山の入り口で誘った大きな男が現れました。
「あの子、大丈夫ですかねえ。こうして生まれていくよりも、生まれてからの方がよっぽど大変で苦し思いをするのに」
アレンが不安そうに男を見上げます。
「大丈夫だ。」
男は顔をミコが走り去った方角へ向けたまま答えました。
「ここを通っていく、未来の子どもたちは皆、望まれて母親の元へ旅立っていくのだ。特にあの子は強く母親に求められ、自身も強く母と会う事を求めていた」
「たくさん愛されて幸せになれるといいですねえ」
「ああ」
二人はミコの去っていた方をしばらく眺め続けていました。
「ミコ、ミコ、こっちよ」
アレンと別れてからミコは大きくなる母の声に向かい迷わずに進み続けました。
道は少しずつ、暗く狭くなっていきましたが、ミコは身をねじ込むようにして前へ進みます。
真っ暗で、身も締め付けられるような狭い道を進む度、母親の声が大きくなっていきます。
確信めいたものを胸に秘め、進むミコの前に一筋の光が差し込んできました。
それはあの小屋にあった光とは比べ物にならないほどの強くまぶしい光。
ママ、もうすぐ会えるよ。ママ。
ミコは迷うことなく、その光の中へ飛び出していきました。