小さな泉の物語
終わりにするならこんな日がいいと思った。
春から夏に移り変わる狭間
木々の緑と道端の色鮮やかな花々。世界全体が生命力に溢れているような気分になれる季節の中でもいっとう青空がまぶしく感じられる日。
この国の建国祭はなぜか必ず快晴になるのだ。本当であれば私も婚約者と一緒に祭りに出かける予定だった。いつもは家でしか会えないのもあり、初めて一緒に出掛けられると浮かれさえしていたのに。
誰にも気づかれないようにひっそりと――そもそもあの家では誰も私のことを気にする人間なんかいないのだけど――家から出ると建国祭への人々で賑わっている大街道から外れ脇道から森に入り、奥へ奥へと歩いて緑の色が濃くなって息苦しさを覚えるほどになると、街の喧騒も日差しの暑さも忘れるほどに静謐な雰囲気に包まれた泉がある。
泉で手巾を濡らし少し汗ばんだ肌を拭うと幾分かさっぱりしたところでこれから行うことに対して誰に言うでもなく謝罪を口にした。
(女神様、精霊様…自ら命を絶つ罪深い私をどうかお許しにならないでください。一時だけでも愛されていると、愛されるかもしれないと期待してしまった私が悪いのです…。それらは私に与えられるはずもないものでした…。あぁ、しかし一体私が何をしたというのでしょう。)
もう疲れたのだ。家族に期待することも、婚約者を愛することも、友人たちを信頼することも。
全てに裏切られた。
たとえば新しい土地に移ったところでもう誰にも期待したくないし誰も愛したくないし誰かを信頼なんてできない。
誰かに心を預けることに疲れてしまった。
だから今日、ここで終わりにしようと思って祭りの準備に浮かれる家族の、使用人の目を盗んでここに来た。
「疲れた」
靴を脱ぎ、ドレスが汚れるのも気にせず泉のほとりに腰を落としひんやりとした泉に足をつけると、何度目かになる言葉を呟くと自然と涙が溢れてきた。
幼少のころからの婚約者は随分と前から妹と恋仲にあるという。彼と妹が可哀そうだと、親切なメイドがわざわざ教えてくれた。
なるほど、言われてみれば婚約者が私を見る瞳に温度が元々低かったのに更に下がったと思っていたのは錯覚ではなかったということか。初めての顔あわせで「政略結婚なんて」と言っていた彼からしたら家同士のつながりは保ったまま真に愛する女性と結婚したいのも当然だろう。
メイドに言われるまで気づかなった。いや、気づいていたけど気づきたくなかった。
私を見下ろす瞳の冷たさを。
私以外に向ける朗らかな笑顔を。
妹に向ける瞳の熱さを。
そして決定的な言葉を聞いたあの日。
彼が訪問したと声がかかったので応接間に向かった私が聞いた言葉はとても残酷で、そして思わず納得してしまうほど当たり前のように紡がれていた。
「ディア、俺は君に会いに来てるのになぜ僅かな時間しか一緒に過ごせないのだろう。ここに僕の子供がいるというのに。いつまでこの茶番を演じればいいんだい?今度の祭りの日、御義父上にあの子との婚約を破棄して君と婚約させてもらえるよう正式にお願いするつもりだよ。そしたら人目を憚らずずっと一緒にいられる。本当は祭りも君と行きたかったんだけど安定期に入るまでは危ないからね」
「彼女、ちょっと優しい顔をしただけですぐ泣いて弱音を吐くんだ。仕事が辛い、家族と使用人が冷たい…とね。仕事が楽なわけはないし、そもそも彼女は貴族の令嬢だろう。この家の女主人は御義母上だし、一体何の仕事があるというんだ。まさか勉強のことを仕事と言っているのではないだろうな?周囲の人間が冷たいのだって自業自得だろうに。泣きたいのはずっと虐げられていた君の方だよねぇ」
愕然とした。まさか妹とすでにそういう関係だったとは。
それだけじゃない。好かれてるとは思っていなかったけど、そんな風に思われてたなんて…
父はずいぶん前から仕事をしない為、領内の仕事は私が全て代行している。仕事量の調整だけは執事が行っているけれどけして私の為ではなくそれらを滞らせないためでしかない。
妹を虐げたことだって一度もない。むしろ子供のころからお気に入りの手巾やリボン、アクセサリーなど次々とねだられ、私が渋るとそのたびに両親に怒られ取り上げられてきた。家族で出掛けることがあっても私が一緒に出掛けたことなど一度もない。だから虐げられているとしたらむしろ私の方じゃないか。
もっとも物心つく頃には私も学習し、お気に入りは作らず持ち物の一切に執着を持たなくなったら妹のおねだりもなくなったのだけど。
はっきりと「妹に会いに来てる」と言っていたのでそのまま踵を返し音を立てないようにひっそりその場から離れると自分の部屋に戻り、仕事(父の代行だが)を再開した。
仕事関係の書類は隣の部屋にある父の執務室に置かれている。仕事の代行を命じられた時から私の部屋は中から隣の部屋に直接行けるように改造され、表向きは私が代行していることが悟られないようになっている。
父の机の上から書類を持って自室で仕事をし、終わるころには父の机の上に新たな書類の束が置かれているから終わったものと交換して自室で続きをする。
机の上に書類が置かれなくなればその日の仕事は終了…という具合だ。仕事の量は執事が管理していて書類を入れ替えているのも執事だと思う。
父は母や妹と共に、婚約者の彼と交流を深めたり社交に精を出したりと忙しいそうだ。
その日の夜、結局仕事が終わった深夜になっても誰かが部屋に尋ねたり声をかけに来ることはなかった。婚約者が来ているのに応接室に顔を出さなかったら誰か呼びに来てもいいと思うのだけれど。まるで私はこの家に存在していないみたい。
だから決断したの。祭りの日に終わりにしようって。
それから家族や使用人の目を盗んでは慎重に準備を重ねてきた。
不要なものはすべて処分したし家を出るためのルートも何度も確認した。
私は家から滅多なことでは出してもらえないけれど、家族も使用人も寝静まった深夜遅くに行動し厨房から小さいナイフを持ち出した。
日記や妹にとられず隠して持っていた思い入れのあるものは暖炉に火をくべて全て燃やした。
宝石やドレスなどは燃やせないけど特に思い入れのあるものもないからそのまま残していくことにした。売られるならそれでもいい。
どうせ私には使い道のないものだ。
そして祭り当日、私が婚約破棄されて妹がプロポーズされるであろう日。
婚約者はあらかじめ両家の両親に話を通しておいたんだろう。それもそうだ。家同士が決めた政略結婚なのだからおそらく向こうの家にも事前に話をして了承を得ておかないとただの醜聞になりかねない。
既に婚約者の妹を孕ませている時点で醜聞だと思うのだが…幸いまだ腹は膨れていないし妊娠のことは伏せ、私に何らかの罪を擦り付けるかして婚約破棄と妹との婚約に正当性を持たせるのだろう。
恐らく筋書きとしては私に何らかの冤罪を着せ婚約破棄、家を追放され婚約者の彼は妹の夫として婿養子に迎える…といったあたりだろうか
面と向かってそんなこと言ってくる愚か者はいないが、母や妹は会話の端々にそれらしい言葉を匂わせ私の反応を伺っていた。
…本人にわざと気づかせるようなことをするなんて馬鹿なのかしら?
いつも通り自室で一人朝食を取っていると、珍しく部屋に来た父に夜までに仕事を終わらせておくことと夜になったら呼ぶからそれまで部屋から出ないことを言いつけられた。
父はそのまま私が了承の返事をする前に一方的に捲し立てると部屋を出て行ってしまった。
今日は街全体で祝う祭りで、我が家にも途切れることなく来客があることだろう。そして夜にはそのままパーティが開かれるのだ。
きっとそこで私を捨てるつもりなんだろう。正直人前でする必要あるのか、いくら正当化したところで醜聞に変わりないのではないかとは思うが浮かれ切ってる家族と婚約者には何を言っても無駄だろう。
それ以前に私の言うことなんて誰も聞いてはくれないのだけれど。
そして屋敷全体がせわしなく動く中、私は家族あてに一言だけ書いた書置きを残して粗末なワンピースに着替えると何度も確認したルートを通り、ひっそりと家を出てここへやってきた。
水面に手を伸ばし泉に映る自分の顔をゆがませると不意に笑いがこみあげてきた。
夜になって空っぽの部屋を見た父は何を思うだろうか。
きっと仕事が終わっていないことに怒り狂うだろう。怒鳴り散らして使用人を問い詰めるかしら。書置きはきっと執事が見つけてくれるわ。
婚約者と妹は声を上げて喜ぶでしょう
でも
今まで代行してきた父の仕事は誰がやるのかしら?
社交にかまけていた母に屋敷を取り仕切ることはできるのかしら?
まともな躾をされていない妹に社交界は務まるのかしら?
自分より爵位が上の者に、異性に媚びるしか能のない家族はいったいこれからどうやっていくのかしら?
何より…妹の腹にいる子は果たして本当にあの婚約者の子供なのかしら?
どれもこれも、もう私には関係のないこと。日が暮れる前に私は私を終わらせよう。
ワンピースのポケットに石を詰め泉に足を入れる。水の中をどんどんと進み、身長より深くなっても石を持ってきたおかげで完全に浮着あがってしまうということはない。
途中で追加の石やガラス片を拾いながらふわりふわりと泉の底を歩き続け、息が苦しくなってきたころちょうどいい水草を見つけた。
それを簡単にほどけないよう足首に巻き付ける。
息が限界になりごぼっと大きな気泡がこぼれた。
青をあつめたような空はいつの間にかオレンジに染まっている
きれいなオレンジを目に焼き付けると
ガラス片で手首を切る
こんなに穏やかな気持ちになるのはいつ以来だろうか
あぁ、ここは間違いなく幸福の泉だわ…
終わりに向かう幸福を胸に、オレンジに赤が混ざっていくのを確認するとそのまま目を閉じた