プロローグ
「はぁ、はぁ、はぁ……」
高く高く伸びる木々に、背の高さ程もある雑草。その中で何とかバランスよく座れる場所を見つけ、腰を落ち着かせる。
「はぁ、はぁ、しんどい」
呼吸を整えながら、久々に毛穴から噴出す汗を拭った。
学校に行っていない、一般的に言うと不登校と言われる状況にある僕は、普段運動を全くしていない。学校へ行っていない事に後ろめたさはないが、この時ばかりは運動不足な自分を呪った。
不登校といっても、経済的な理由だとか、いじめられているだとか、そんなサイドストーリーは全くなく、ただ、他人に強制されて他人と同じ時間に縛られて生きる生活に疑問を持ったのだ。
そんな引きこもりに近い生活を送っている僕が、急な獣道をひたすら登っている。
本当にあるかどうかも分からない物を、本当に居たかどうか分からない人との約束の為に。
「なんでこんな事、してんだろ」
独り呟き、握りしめたネックレスを見る。
――それは、ひと夏の不思議な、そして、僕の人生にとって大きな出来事だった。
**********
クーラーの効いた家から一歩出ると、むせ返るような熱気が僕を襲う。
鼻につくのが都会のアスファルトが焼けた匂いでなく、前日の雨で湿った土の匂いなのが救いか。
とはいえ、太陽は刻々と地上から水分を奪っていっているわけで。
今日は洗濯物が良く乾きそうだ、と主婦的な感想が脳裏をよぎるのは、僕が学校という義務を放棄しているからか。
「母さん、ちょっと散歩行ってくるわ」
台所に声をかけると、ひょこっと母さんが顔を出した。
「あら、珍しいわね。今日は暑いから、水分補給は忘れずにね。あと、これ」
投げられたタオルを掴み、そのまま手を振る。
「はーい。あんがと。行ってきます」
両親との仲は良好だ。感謝もしている。学校へ行かなくなって、最初こそなんとか行かせようとしていたものの、僕が梃子でも動かない事に納得したのか諦めたのか、勉強さえすれば良いと言ってくれた。
そんな両親の為という訳ではないが、学校でテストは受け、しっかりと高い点数を取り続けている。
不登校の僕があまりにも良い点数を取るので、先生たちは泣いているが。
見送りの言葉を背中で聞きながら家を出ると、途端、ギラギラとした太陽に焦がされた。
「うぅ~暑い」
言葉にしてしまったが故に、更に暑くなったような気がしてげんなりする。
とはいえ、今日は外出しなければならない。
「まずは花屋か」
今日は裏山で飼っていたコタローの命日なのだ。
花屋でコタローと同じ色の白い花を買い、山を登りがてら野草も摘む。
両手いっぱいになったところで、コタローが埋葬されている場所に到着した。
「やぁコタロー。今年もお前が好きだった花を持ってきたぞ」
『コタロー』と書かれた味気ない木の板だけが、彼の存在をこの世に繋ぎとめている。
コタローは僕が小さい頃にここで出会った野良犬だ。川で遊んだり、野原で追いかけっこをしたり、よく遊んでもらっていた。
手を合わせていると、ポツリポツリと滴の感覚。天を仰ぐと、灰色の雲が広がっていた。
山の天気は変わりやすい、とはよく言ったものだ。慌てて、コタローともよく雨宿りをした川の近くにある洞窟へと急いだ。
洞窟の入り口が見えてきた頃、雨は本格的に降り出した。周りの音が聞こえないくらいの雨音と、ずぶ濡れの自分に顔を顰める。
「めっちゃ濡れたわ……」
なんとか洞窟に辿り着いたが、時すでに遅し。パンツまでぐっしょりだ。母さんに渡されたタオルも、もはやただの重りにしかなっていなかった。
服を絞りながら外を眺める。止めどなく降る大粒の雨は、当分止みそうになかった。
「大変だったね。大丈夫かい?」
急に発せられた声に、驚いて振り向く。
「あぁごめん、驚かせるつもりはなかったんだ。俺も雨宿りをしていてね」
声と共に現れたのは、この辺りでは見たことのない男だった。
ダークグレーの髪に、色素の薄い瞳。白のワイシャツに、緑のラインが入った黒のベスト。そして黒いパンツ。渋谷辺りなら納得するも、山の洞窟というシチュエーションには不釣り合いだった。
「は、はぁ。その格好で山を登ってたんですか?」
その男の顔に浮かんだ笑顔に敵意はなく、まずは話してみる事にする。距離を取って、だが。
「山を登ろうとしていたわけじゃないんだけど、気付いたら山だったというか。君はこの辺りの子かい?」
つまり、迷子という訳か。年は四十代後半に見えるが、随分と若い雰囲気を持っている。
「はい。今日は用事があって山に入ったんですけど、ここは普段、あまり人の出入りがない山ですよ」
「そうなのか。……君、びしょ濡れだね。そのままじゃ風邪を引くよ」
言われて自分の状態に気付く。確かに、真夏なのに寒気を感じ、身震いした。
「そう言われると、なんか、寒気がしてきた気もします」
「こっち、火を焚いてるんだ。服を乾かしたらどうだい?」
男に気を取られて気付かなかったが、確かに奥で火が赤く揺らめいていた。
「こんなところで、火を?」
眉間に皺が寄る。不可解すぎる。
山に住んでいる老人でもない、都会の格好をした人間が、こんな洞窟で火を焚くだろうか。火を焚く道具を持っているのだろうか。
「こう見えて俺、アウトドア派でね」
男はそう言って笑い、先に火の近くへ向かった。
僕は少し悩んだが、外から吹きこんできた風に後押しされて、暖かい火の近くへと移動した。
**********
「君は毎年、そのコタローに会いに来てるんだ。偉いな」
「偉い、んですかね? 僕がしたくてしている事ですから」
最初の警戒はどこへやら、なし崩しに自分の事を色々と話してしまった。コタローの事、両親の事、学校の事。彼は聞き上手で、僕のくだらない話を楽しそうに聞いてくれた。
「そういう感覚は大事だよ。素敵なご両親に育てられたんだね」
「そうですね、両親は僕の話もしっかりと聞いて尊重してくれるし、尊敬してます」
そういうと、彼は顔を輝かせながら頷く。
「うんうん、本当にうらやましいよ。俺は両親を知らないからね」
「あ、そうなんですか。……なんか、すみません」
人並みに取り繕う事も出来ず、慌てて謝ってしまった。彼は気を悪くすることもなく、片手を振る。
「いいよ、今更全然気にしてない。今度は俺の話を聞いてくれるかい?」
ばつが悪そうにしている僕を見て、彼は話題を変えようとしてくれていた。
外を見ると、雨の激しさが増している。当分帰れそうにないだろう。
「はい。どうせまだまだ時間はたっぷりあるようですから」
その答えに彼は満足そうに頷き、口を開いた。
「これは、そうだな。気が遠くなるくらい昔の話だ。今よりも科学が発展していて、人口が増えすぎてしまった時代。資源が枯渇して、人々は希少な資源を奪い合ったんだ」
「えっ物語ですか?」
急に現れたお伽話のフラグに困惑する。
「いい暇潰しだろう?」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑って言う彼に、僕は笑いかけた。
「そうですね。面白そうです。いきなり壮大なストーリーですけど」
「壮大、ね。確かにそうかもしれない。結局その時代の人たちはどうしたと思う?」
首を傾げ、宙を見る。
「う~ん……。あ! 新天地を求めて宇宙へ旅立つとか」
そういう時、物語としては第二の地球を求めて宇宙へと旅立つのが定石だろう。
宇宙戦争があったり、未知の生物と遭遇したり、ワクワクドキドキのSFだ。
空想の中、大きな戦艦が撃ち落されたところで男の苦笑に気づく。
「残念。彼らはね、生きる人間を選別して、それ以外の人たちを殺す事にしたんだ」
「えぇ……無慈悲だなぁ」
思いの他、広がらなかった話に肩を落とした。
「それを無慈悲と思うかい? 結局、全員は生きられないんだ。人間という種を残す為に、その時代の人たちは選択したのさ」
人という種族を残す為の選別。あまりにも大きい単位での話で、僕にはピンとこなかった。だが、そういう考え方もあるのだろう。
「……なるほど。今の平和な世の中に生きてる僕には、なかなかイメージつきませんね」
彼はにこやかに僕を見た。
「僕が話すのは、そのもう少し先の話。科学の力によって人から寿命という概念を無くし、全て機械がやってくれる、そんな恐ろしい世界の話。この話の主人公は、サクヤと言う青年だ」
雨はまだ、大きな音を立てて降り続けている。
そんな音すらも物語のエッセンスと言わんばかりに、彼は話し始めたのだった。