誰かリルを知らないか
スクランブル選挙
蝋燭が照らす暗い室内では、髪の長い女が呪詛を吐いていた。
「呪ってやる…呪ってやる……」
その顔は嘘のように青白く、両目は落ちくぼんでいる。机におかれた両腕には明らかに血がかよっていない。
「ううう……呪ってやる……呪ってやるう……」
俺と親父は霊能力者だ。
死んだ人間の魂が見える。ぼんやり、ではなくはっきりと見える。
別に俺と親父が特別なのではない。うちの家系は代々霊感が強いのだ。ちらりと、ずんぐりした我が父の体躯を見る。親父は自分の顎鬚をひとなでして、
「あ、そういうのいいから」
「のろ……」
霊の呪詛が止まる。親父の口調はあまりにもあっけらかんとしていた。
親父はため息を漏らしながら部屋の電気を点け、
「お前、テンプレートにもほどがあるだろ。長い髪に真っ白な肌って。昭和だわ。感覚が昭和。そのわざとらしい口調もやめい。普通に話せ、普通に」
「あ、はい」
幽霊の口調が砕け、俺は思わずずっこけそうになる。普通に話せるんかい。
「はあ。やっぱ普通の口調の方が話しやすいですね」
「な。その髪と白いワンピースみたいなのも貸衣装だろ?」
「ばれてました? いやー、幽霊になったからには幽霊らしい格好して幽霊らしい喋り方じゃないといけないのかなー、現世の皆さんの夢壊さないようにしなくちゃなー、と思ってたんですが。頑張りすぎでしたかね」
「気を遣いすぎなんだよ。つーか、もう少しバリエーション効かせろよ。なんで全員髪の長い、白い服を着た女なんだよ。短髪の女の霊どこいったんだよ」
「ですよねえ。でもいざ死んでみると、幽霊っぽい感じにしたくなるんですよねえ」
そういうもんなんかな、と親父は呟き、
「で、お前の未練は何だ。なんで成仏して転生の準備をしない」
女の霊はロングヘアのかつらを脱ぎ、全身の白い塗料を落とし始めた。おいおい。
現れたのは、おかっぱ髪でくりっとした目が特徴的な、二十代前半くらいの女性だった。えらい変わりようだ。普通に可愛らしい。
「えっとですね、私がこの容姿だった頃、この辺りには闇市が広がっていまして――」
霊は、己の未練を語り始める。
解決し、成仏に導くのが俺ら佐久間家の生業だ。
しかし。
「だめじゃね、これ」
霊の語りを聞くこともせず、親父は俺に間抜け面を向けていた。見事な鼻水だ。
俺もはあ、と息を吐く。
「また闇市か――」
闇市。
焼け野原と化した戦後日本において、庶民の生活を支えた非合法の市場。
終戦直後から各地で開かれ、フリーマーケットのような市場が乱立した。政府からの配給だけでは食うに困った庶民たちは、空腹を抱えながら闇市に行き、定価の何十倍もする食品を眺めては羨望の眼差しを送った。
カネよりモノが圧倒的な強さを誇った時代の話だ。
闇市に売っていない品はなかったらしい。食糧、衣料、違法酒、麻薬。闇のルートを通じて、そこには何でも揃っていた。もちろん、売る方も買う方も法に触れる。日本の全国民が犯罪を犯していた時代があったのだ。
さて、俺が知っているのはここまでだ。日本史の教科書に載っている、一ページにも満たない記述。これが俺の闇市に対する見識だ。
しかし、俺は闇市への見識を深めなければいけない状況に接していた。
少し前から、親父のもとを訪れる幽霊の口から、「闇市」というワードが頻発するようになったのだ。
「むかし闇市でだまされてしまい、それが未練で――」
「闇市で大損をこいてしまい、親には勘当され家具家財は失い――」
などなど。こんな具合なのである。
これは異常といっても良い。
この世に残留している霊の未練が似ることなど奇蹟に等しい。人はそれぞれ、自分にしかない悩みを抱えているものである。
多分な、と前置きした上で、親父は見解を話し始めた。
「『輪廻』が闇市を経験した世代になってきたんだろう。この街は元々闇市だった。闇市にゆかりがある人間は、他の土地に比べれば多いだろうよ」
俺と親父は「死んだら人間はどうなるのか」という、人類共通の命題について正解を知っている。
人は死んだら一定の期間をあの世で過ごし、その後、異なる肉体を持って現世に生まれてくる。いわゆる輪廻転生だ。
その過程で、死者は未練があると輪廻のサイクルに従わず、この世に姿を現してしまう。一般的に『霊』と呼ばれている状態だ。
「霊には世代がある。俺の父――先代の頃には、戦火で命を落とし、未練を残した霊が多かった。俺の代になり、少し世代が進み、戦後に死んだ霊が多くなったってことだろ」
たとえば、平安時代の霊は現代に出ない。それは、すでに霊能力者によって祓われつくし、転生しているからだ。いま化けて出るのは、戦後まもなく死んだ世代が主軸だ。
もちろん、死んで間もない人間の霊が化けて出ることもありうる。強い怨念を持っていたり、死んだことに気づいていないケースだ。
ここ最近の相談は圧倒的に闇市関連が多くなっていた。
「まいったな」
自宅兼事務所のソファにふんぞり返って、親父は天を仰いだ。
実際にやってくるのは霊魂だが、表向きは「さくまこころセラピー事務所」としてカウンセリングを行う事務所である。生者のお客さんはほとんど来ないし、来ても困るのだが。
お祓い、というと仰々しい法具を使って霊媒師が御経を唱えて、最後に「きええええええ!」と絶叫して終わるのが一般的な印象だが、本当のところ、ああいうのは意味がない。
未練を解決してやるのが目的なのだから、結局心療カウンセリングのようなもので、トラウマや悩みをうまく解決してやれば霊は満足してあの世に行ってくれる。法具を使ったり呪文を唱えるのは、霊が「なんだかこの人はすごそうだ」と錯覚してくれるほどの微々たる効力しかなく、本物の霊能力者は事務仕事のように淡々と除霊をこなしていく。俺が生を受けた佐久間家なんかがそれにあたる。
「相談内容が専門的すぎる。闇市のうんたらかんたら、と言われても、こっちにその知識がないと実相がつかめん」
「これで五人連続で祓えてないな」
俺も皮張りのソファに足を投げ出しながら言った。
人生でもっともやることのない、高校二年生の夏休みだった。跡取りとして俺が親父のもとで修業を始めて一週間、かっこいい姿を見せてやると息巻いていた親父はすっかり意気消沈している。まだ息子の前で一人も祓えていない。
昨日、事務所にふらりと入ってきた若い女性の霊は、名を神田千佳子といった。
「私がこの容姿だった頃、このあたりには闇市が広がっていまして。焼け出された人々が地べたに露店を開いて、残飯や違法酒を売っていたんです。もう、敗戦と貧困で誰もがうなだれて。当時の大蔵大臣は半年で一千万人の餓死者が出ると試算していたほどだったんです。犬すら食べ物に困って、野犬に喰い殺された娘さんとかもいてね。私の家は父が戦死したんですが、運よく母屋が無傷のままで、雨露は凌げていたんです。兄弟がいなかったものですから、母と私で配給をうまく分け合って、たまに闇市に買い出しに行って、周りに比べると裕福な暮らしをしていたと思います。
翌年、私にとって人生の分岐点がやってきました。終戦直後に比べるとわずかではありますが生活が整い、世間では大衆運動が盛んになっていきました。そんな折、女性にも参政権が認められ、戦後初の衆議院選挙が迫ってきました。お恥ずかしい話、近所の女学生の中で婦人参政権運動の急先鋒だった私は、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、この選挙に立候補したんです。結果から申しますと、私は落選し、票が足りなかったために供託金支払う義務が生じました。そのために、私と母は亡き父の形見である母屋を売らなければいけなくなってしまいました。私はそれが未練なのです。あの時、当選できなかった自分が恨めしくてならないのです」
「……そうか」から二の句が告げない俺と親父を残して、神田千佳子はため息をついて去っていった。この無能どもじゃ駄目だ。言外にそう言われた気がして、何の責任もない俺までもが傷ついた。
「まあ、未練そのものはわかりやすいんだがなあ」
親父は口周りの髭をなでまわしながら言った。
「神田千佳子は己の浅はかな決断により、家族を路頭に迷わせてしまった。戦後まもない状況で家を追い出されるってことは、生死に直結しただろう。家族の誰かはそのせいで命を落とした可能性もある。神田千佳子は生涯にわたって悔悟した。だから、このまま成仏するわけにはいかなった」
でも、彼女には成仏してもらわなければいけない。彼女がいつまでたっても成仏しないと、彼女の魂は穢れてしまう。未練が成就しないまま長い時が流れると、怒りや悲しみが堆積し、周りの霊や生者にも悪影響を及ぼす、いわゆる悪霊となる。
その悪影響を一般的に「呪い」と呼んでいる。そうなる前にあの世に行ってもらわなければならない。死者が今を生きる人々に影響を及ぼしたり、干渉し合うことは不自然で、不健康なことだ。断絶しなければいけない。
死者を懐柔し、殺し切ることが佐久間家の生業だ。
「この場合、どんな解決策が考えられると思う?」
親父が俺にきいてくる。俺はマニュアル通りの返答をする。
「まず、依頼者の話を傾聴。こちらの意見は話が終わるまで伝えない。そして、依頼者の話の中で、どこに一番感情が込められていたかを分析する」
特に、怒りや悲しみが込められていないか、注意深く聴くことが重要だ。
親父はこくりと頷き、
「そうだ。で、今回そこが面白いところだ」
俺も頷く。神田千佳子が一番感情を込めていたくだりは――。
「『私は落選し』」
「ああ。『母屋を売らなければいけなくなってしまいました』の部分ではなかった。神田は生家を手放したことよりも、国会議員になれなかったことの方を悔やんでいる可能性が高い」
戦後初の衆議院議員選挙。
そこに未練があるのは間違いなさそうだった。
「実際タイムスリップでもして当時に行ってみないことには、選挙の雰囲気はわからん。当時の選挙に当選することが、また落選することがどんな意味を持っていたかも、正確には掴めないだろう」
「高校の歴史教師に聞いてみるとか、そんな手段かな。俺ができるのは……」
外ではアブラゼミが鳴いていた。親父のデスクに置かれたラジオから、日本各地が真夏日で溶けそうだというアナウンサーの声が聞こえてきた。
「東京は北の丸公園に置かれた気温計によりますと、八月一五日、終戦記念日の東京は晴れ、三十五度の真夏日となり――きしょ――注意を……ます。こ――」
女性アナウンサーの原稿読みが突如乱れた。同時に親父が吸っていたタバコを灰皿にぐりぐりと押しつけた。
「殺してやる……殺してやる……」
突如としてラジオからこんな声が聞こえてきたら、霊に慣れている俺でもビビる。まさかアナウンサーが本当にラジオで「殺す」と話すわけはないのだから、これは霊の仕業だ。
「ふむ、よりにもよってうちのラジオに取り憑くとは、根性あるじゃねえか」
ソファから起き上ろうとする俺を親父は手で制し、
「やめとけ。多分相当きつい怨霊だ。あの可愛らしい神田千佳子とはまるで違う。俺が処理するから、お前は神田千佳子に関して情報を集めておいてくれ」
「え? いきなり一人で?」
「仮にもうちを頼ってここまで足を運んでくれたんだぞ。簡単に投げ出すわけにもいかんだろ。お前も佐久間家なら一人でなんとかしてみせろ」
俺が祓い屋の修業を始めたのはほんの一週間前だ。あまりの放任に絶句していると、親父はくるりと振り返る。ラジオは狂ったように「殺す殺す」を続けている。
「依頼者の話だけでなく、容姿もよく観察しておくことだ。思わぬ発見があるもんだ。ほら、はよ行け」
親父は神田千佳子のスケッチを俺に投げてよこした。なぜかちょっと萌え画のように描かれている。なんでやねん。
かくして、俺は真夏の屋外に放り出されてしまった。家のすぐ外には川が流れているが、今日の日差しでは暑気払いの役割も果たしてくれない。
「なんなんだよ、まったく……」
独り言もすぐに尽きてしまう。俺は一人、ゆっくりと歩き出した。行き先もままならないから歩を向ける先もない。
川べりに赤い服を着た小さい女の子が立っている。俺は無意識にそちらを見ないようにする。むやみに霊と目を合わせると碌なことにならない。物ごころついた時からの週刊だった。
霊感のある人間の大半は、中途半端な力しか持っていない。
霊が近くにいると「なんか気味が悪い」と言ったり、「いま男の子の顔みたいなのが見えた」と言ったりするが、それは生半可な力しかないからそう感じるのだ。能力が百パーセントに近い人間は、霊と生者が区別できなかったりする。周囲の友達によると、小さい頃の俺は何もいない空間に向かって話しかけていることがよくあったらしい。当時の俺からすると、霊も生者も同じ遊び相手だった。
通りすぎるおじいさん、女子高生、子どもたち。彼らが生きているのか死んでいるのかわからない。俺はその状態で十七年間生きてきた。
「ねえ」
だから、急に話しかけられた時などは特に注意しなくてはいけない。うかつに返事をすると、霊に「見えている」ことがばれて、遊び相手にされたり、呪い殺されたりする。
「ねえねえねえねえ」
俺が無視していると、七歳くらいの小さな女の子は両目から黒い血を流し始めた。
はい、霊で決定。
「なんで無視するの? 見えてるんでしょ? 助けてほしいの。困ってる人がいるの。こっちに、きて」
ぐいっと右腕を引っ張られる。全身に寒気が走るが、その感覚すら無視する。「もう」としびれを切らしたらしい女の子は急に走りだして、尻ポケットに入れていた俺の財布をとって、走るスピードを速めた。
「おい、ちょっと……!」
走る姿は鬼ごっこに興じる普通の小学生みたいだ。しかしこんなところを多くの人に見られるわけにはいかない。傍から見ると、財布が宙に浮かんで移動しているのだ。こんな白昼堂々ポルターガイストもないだろう。
女子の霊は緑道に入った。新緑が輝く中を子どもが走っていく。
霊じゃなければ夏休みの一風景なのにな、と俺は呑気に考えていた。
緑道を走りきり、横断歩道を渡る。女の子はライトバンにがっつり轢かれていたが、当然すりぬけて、無傷だ。街の大通りを坂に沿って上り、また車道を横ぎる。
「ここは――」
地元ながら来たことがないエリアだ。飲み屋が広がるこの一帯は、未成年の学生にはまだ縁がない。ふいに神田千佳子の話がよみがえる。
「この辺りには闇市が広がっていまして」
この一帯は闇市の名残で、バラック小屋を居酒屋に直した店舗が多いと聞いた。一歩ごとに、雰囲気が変わっていく。
なんというか、霊とはまた違う、どす黒い闇をまとった街。
息を切らし、俺は立ち止まった。突如現れた異界に圧倒されてしまったのだ。
低い建物同士が電線で繋がれ、狭い空を埋め尽くしている。煤けた赤提灯かいくつも浮かんでいるが、昼間なので光はついていない。路地一面すべて飲み屋だ。人間より室外機の数が勝っている。
俺はゆっくりと歩を進めていった。すす、ほこり、油まみれのダクト、枯れた鉢植えなどが行く手を遮る。
「闇市、だよな……」
時折霊がのそのそと俺の隣を通りすぎていく。霊が同じ方向へ歩いていくので、俺の足も無意識にそちらに向かう。
角を曲がると、不気味な光景が目に入ってきた。
幽霊たちが建物の戸口に集まり、しゃがみこんでいるのだ。幽霊だと判断できたのは、先ほどの女の子の霊も混じっていたからだ。
「ん……」
近づいていくと、霊たちが何を覗き込んでいるのかがわかった。シャッターの閉まった居酒屋の前に、人が倒れていたのだ。
どこかの高校の制服を着た、女の子だった。
炎天下の飲み屋街で女子高生が行き倒れになっている。
それを大量の霊が覗きこんでいる。
「どんな状況だよ……」
どこから手を付けたら良いのかわからない。女子高生の額には汗が滲んでおり、顔も紅潮している。熱中症の可能性もある。
「おっと」
俺の手に財布が渡された。女の子が俺に返却し、血みどろの双眸で俺に微笑んでいる。この子、霊の見える人間をここに連れてきたかったのか。
「おい。おーい。あのー?」
おそるおそる女子高生に声をかけてみる。まるでモデルの様な美しい鼻筋の子だった。そのせいか、彼女の黒髪は不釣り合いで、ブロンドの方が似合うかもしれないと思わせる。
死んでんじゃね? と思うほど女の子は無反応だったが、やがて「うーん……」と苦しそうな声を上げながら覚醒した。体を起こし、俺を見上げて、
「でっか……」
「……はあ」
俺は高校二年にして百八十センチの大台に乗ったところだが、今言われる感想ではない気がする。女子高生は自分の頭があった辺りの地面を振りかえる。俺も気づかなかったが、彼女の傍らには金属なべがひとつ転がっていた。
「死ぬかと思った……やはり残飯シチューは三日目が限度か」
女子高生は何事もなかったように立ち上がり、なべを拾い上げ、蓋を開けた。
「ぐっ」
蓋が開いた瞬間、俺は鼻をつまんでいた。魚の腐った匂いが漂ってきたのだ。中には黄土色をしたヘドロのようなものが詰まっていた。
「ふむ、十五時か。十二時に食べたから、三時間ほど気絶していたことになるな」
「まさかお前……それ喰ったのか」
「ん? 当然だろう」
女子高生は俺の問いを不自然に感じたようで、やはりモデルのような愁眉をぐにゃりと歪めた。
「残飯シチューは戦後日本を支えたありがたーい料理なのだ。お前もどうだ? ほれ」
魔のなべを俺に近づけてくる。リアルに吐きそうだ。
「いらん、近づけんな。それよりお前……」
「む?」
すらりとした手足、目力を増強しているメイク、新品同様のローファー。
「ホームレスではなさそうだな」
「当然違う。私ほどの美少女が路上生活なんぞやっていたら、SNS上を騒がしてしまいかねないだろう」
「自分で言いやがった……」
霊たちはやれやれといった感じで解散していった。ただの野次馬だったのか。女子高生はぐいっと背伸びをすると、突如にっこりと笑って俺に手を差し出してきた。
「……は?」
「水をくれ」
「……はあ」
自販機でミネラルウォーターを買ってきてやると、女子高生は一気飲みした。CM見てる気分だ。
「ふう、生き返った。やはりこの容姿だと男は簡単に動いてくれるな」
「それ脳内だけに留められないか」
厚かましい女だった。
「無事なら、もう行くぞ」
「ああ。礼になった」
女子高生はさらに水を飲んだ。ブラウスの右袖がたくし上げられ、俺はその先におかしなものを見た。
右の上腕に生々しい傷跡があったのだ。しかも傷はアルファベットを象っているように見えた。
『AAF』という、切り傷の三文字。
「世話になった。またどこかで」
俺の視線に気づかず、彼女は去っていった。闇市街の、さらに奥へと。
取り残された俺は地縛霊のようにそこに立ちつくしていた。
「あいつ……」
一目ぼれしたわけではない。彼女が果たしてどちらか、見当がつかなかった。
生きているのか。
死んでいるのか。
考え込んでいると、俺の右肩にポン、と手が置かれた。振り向くと、神田千佳子がそこに立っていた。まるで生者のような血色のいい顔は健在だ。
「あら、びっくりさせようとしたのに」
「……昨日はどうも」
「どうしてここに? 学生さんが来るところじゃないわよ、この界隈は」
「はは、そうなんですけど……」
修業中の身とはいえ、一応お客さんだ。どことなく堅くなってしまう。
「神田さんこそ、こんなところでなにしてるんんですか」
神田千佳子は口元に綺麗なえくぼをつくり、
「いやー、懐かしくてねえ。七十年前、ちょうどこの辺で私は選挙活動をしていたの」
「あ、」
そうだったのか。こんな細っこい道で。
「今でこそ裏路地だけど、当時はこの辺りで一番賑わっていた通りだったのよ。四月のやっと暖かくなり始めた季節に、私はこの道を行きかう人々に、大汗かいて演説していた。メガホンもないから、もう大声よね、大声。死んでからも、あの時の生命力に溢れていた自分が忘れられなくて。ついつい地縛っちゃうのよね」
「地縛っちゃう、って」
「ま、あなたも死んだらわかるわよ」
「わかりたくないですね」
表情からは、未練があるように見受けられない。だが、この澄んだ眼の奥にどろりとした未練があるはずなのだ。自分の死すらも認めようとしない、頑固な怨念が。
「でも、落選しちゃったんですよね」
俺の言葉で、神田千佳子はさっと顔色を変える。
「そう。それが私にはわからない。演説の反応は決して悪くなかった。むしろ、私が演説をするといつも人だかりができたのよ。食べ物を探して闇市に来た、餓死寸前の人たちが足を止めて私の話を聞いてくれた」
――なのに、どうして。神田千佳子はぽつりとそう呟いた。
「私があなたたちの事務所に相談しに行った理由はただ一つ。不正があったか調べてほしいのよ」
「不正、ですか」
「少なくとも私の選挙区に、絶対不正があったはずなの。じゃないと、私が落選した理由がつかない」
「なるほど、ね」
神田千佳子が抱えている感情は、自分の力不足への怒りではない。家族を路頭に迷わせた悲しみでもない。落選したこと自体の違和感が彼女を現世に留めている。
「落ちたあと何十年経っても、ずーっと疑問だった。でも、戦後のごちゃごちゃで、不正があったかなんて話題に上がりもしなかった。みんな、空席だった国会議員が埋まったことに安堵して、選挙のことはすぐ忘れちゃったのね。私は、抗議の声を上げる場所さえ与えられなかった」
たしかに、死ぬ間際に思い出して、死にきれなくなってもおかしくはない。
「お願い。もし調べてくれたら、成仏してあげるから。ね、いいでしょ?」
「成仏してあげるからって……」
そんなセリフ言われたことねえよ。神田千佳子は頭を下げて「お願いお願い」と両手をすりはじめた。やめろ。霊に拝まれたくないわ。
「まあ、依頼ですから、いいですけ……」
俺の眼は神田千佳子の右手に吸い込まれた。
痛々しい切り傷で刻まれた、『AAF』の文字。
「……神田さん」
「はい」
俺は彼女の右手を指差し、
「その文字の意味を教えてもらっていいですか?」
拒絶されるだろうか。俺は彼女の表情の変化を見守った。
「え、文字? どこに?」
「ほら、右腕に」
神田千佳子は自分の右腕を眺め、俺に色素の薄い両目を向ける。
「文字なんてないじゃない。からかってるの?」
はあ。
俺は思わずため息を吐いた。
ややこしいことになってきたな。
「生前傷ってやつだな」
事務所で俺の報告を受けた親父はすぐさま口を開いた。
「基本的に霊というのは、死んだ人間がなりたい姿で現れる。八十で死んだ婆さんでも、二十代の姿で化けて出たいと願ったらその通りになる。『若い美人の幽霊』の目撃談が多いのはそういうことだ。ただし、本人以外の人物にはなれない」
しかし、と親父は話を続ける。
「その理屈だと、生前受けた傷などは霊に残らないことになる。だが現実には、縄で絞殺された人物の霊には縄の痕が残っているし、交通事故で亡くなった人物は血みどろの状態で化けて出てくる」
霊とは魂の具現化なのだから、本来外傷は残らないはずだ。
「つまり、その人物にとってあまりにも印象的な外傷は、霊魂にまで爪痕を残すということだ」
生前傷というらしい。ひとつかしこくなった。
神田千佳子に残っていた、右腕の傷。あれは彼女にとって印象的な傷だからこそ、死んだあとも体に残り続けているのだ。
「で、それは本人には認識できないものなのか?」
傷なんてない、と言った神田千佳子。俺の観察する限り、嘘を言っているようには見えなかった。
「それはわからん。でもたしかに、交通事故でぐちゃぐちゃになった霊とかは、自分の状況を認識していないような発言をすることはあるな」
そして、もう一人のAAF。
あの謎の残飯シチュー女は一体誰なのだろう。
「戦後初の選挙、生前傷を持つ二人の女。調査すべき事柄が増えて、全然前に進まねえな」
「つーか、こんな面倒くさい依頼無視して、簡単な除霊に当たった方がいいんじゃねえの?」
俺は軽口をたたく。ぶっちゃけ怒られるかとも思ったが、予想に反して親父は「うーむ」と意味深な声を漏らした。
「そうなんだが、今回の機会に祓っておきたい。現代に生きる俺らでさえチンプンカンプンなんだ。もっと時代がたってみろ、闇市のことを知るやつなんていなくなっちまう。そうなるともうアウトだ。神田千佳子を成仏させられるやつはゼロになる。彼女の魂は報われないまま、永遠ともいえる時をさまよい続けることになる」
その先を俺と親父はよくわかっている。何十年、何百年と未練を抱えながら現世に留まり続けていると、悪霊化する。気が狂ってしまって正常にコミュニケーションができない状態になってしまう。祓うことは普通の霊より格段に難しくなる。
「今度は親父も手伝ってくれるんだろうな」
俺がちくりと怒りを込めて言う。本来なら親父の担当する案件のはずだ。だが親父は飄々としたもので、
「あ、そりゃ無理だ」
親父が答えたと同時に家のインターホンが鳴った。
応対した親父が戻ってくると、後ろに大勢の客人を連れていた、その中の一人が、「おう、オミト、大きくなったのう」と俺に手を振る。親父はごっそりと知り合いの霊能力者を呼んでいたのだ。
「この間の悪霊、伝説の『こっくりさんの素子』だってことが判明したから。俺らそっち祓うわ。お前神田千佳子よろしくな」
ぞろぞろと応接間に入っていく霊能力者たち。みな服装が奇抜すぎて、俺には若手芸人のネタ見せ大会にしか見えない。この分だと、俺は正式に神田千佳子の担当者ということになりそうだ。少なくとも、あの馬鹿親父のハゲかけた頭の中ではそういうことになっているのだろう。
静寂がおりた室内で、俺は考える。調査対象になりそうな場所。
「……資料館くらいしか思いつかねえよ」
ということで、俺はのそのそと身支度を整え、最寄り駅へと向かった。チャリを漕いでいるだけで汗が噴き出すような真夏日だ。早く電車に乗りたい。
俺が住んでいる街は駅が二つある。ひとつは普通の地下鉄。もうひとつは路面電車で、乗っているのは大抵ジジババだ。通院によく使うらしい。もともと小さなクリニックが多い地域だが、交通機関が未発達のために敷いた線路なのだそうだ。
改札も無人で、電車に乗ってから料金を支払うシステムだ。まあ、のんびりとしていて夏休みに乗る分には良いかもしれない。
停車するたびにジジババが入れ替わり、四つ目の駅で俺は降りた。区役所がある駅だ。たしか、区役所の隣が歴史資料館だったはずだ。
五分ほど歩き、目当ての資料館に辿りついた。受付の美人係員さんに会釈すると、「どうぞ、入館無料ですよ」と微笑みを返してくれた。学生の身にはありがたい。無料だからか、行き場のない浮浪者っぽい方々がソファで寝てたりするのは、まあ仕方ないだろう。
入ってすぐのところに、この街の精巧なジオラマが展示されていた。資料館は三階まであり、二階に歴史系の展示があるということで、俺は階段で二階に上がる。周りからは夏休みの宿題で調べ学習をしている真面目な高校生に見えるだろう。だがいま俺がやっていることは、大まかにいえば「除霊」である。ずいぶん遠回りをしている感じがするが。
二階にあがると、カラフルだった一階と違って古色蒼然としたモノクロ写真が展示されていた。「戦前~戦後 この街の姿」と見出しがついた写真群には、モンペ姿で子どもをおぶる女性の姿や、空襲を受けた家屋の残骸が写されている。一枚だけ、「闇市 復興に向けて」と題された写真があった。解説文には、闇市があった通りが現在飲み屋街としていまだに賑わっていることが紹介されていた。俺が昨日行った、あの雑然とした通りだ。だが闇市に関する資料はそれだけだった。
空振り。
そう諦めかけた時、ふいに俺の左肩に手が置かれた。
「よう、昨日は助かったぞ」
振り向くと、残飯シチュー女だった。またも制服姿だ。
「お前……まさか俺に憑いてるんじゃねえだろうな」
「む、なんだそれ。ストーカーという意味か? 君は女性がストーカーしたいと思うような容姿だと自分で思っているのか?」
出会って数秒で心をざっくりやられた。なんなんだよこいつ。
俺の睨みに全くひるむことなく、残飯シチュー女は闇市のパネルに視線を注いだ。
「美しい」
「……そうか?」
「ああ、美しい。人々の生命力を感じるよ。粗悪品に群がり、非合法の酒で目をやられ、イカサマだらけの博打で身銭を失う。人間らしくていいじゃないか。少なくとも、私は現代より好きだ」
「……そうか」
彼女は本当に、この混沌とした闇市に郷愁を覚えているようだった。神田千佳子しかり、闇市に惹かれる人間というのは一定数いるらしい。あの通りで飲んでいる人たちも、闇市の残滓のようなものに惹かれているのだろう。
「で、こんなところで何をしているんだ?」
残飯シチュー女から俺への質問だった。俺は一瞬考え「……夏休みの、調べ学習だ」と答えた。女はうんうんと大袈裟に頷き、
「結構結構。少年よ大いに学べ。学生の本分は勉強にあり。決してエロいことを女子とするために進学しているのではないのだから、ゆめゆめ履き違えるではないぞ」
「エロいことしに高校行ってますって俺が一言でも言ったか? おい」
「で。目当ての情報は見つかったのか?」
俺は両手を頭の後ろで組み、大きく息を吐いた。
「いんや、空振りだよ。やっぱり図書館でちゃんとした文献読むしかないのかね」
「君のその調べ学習とやらは、何に関してなんだ?」
「えっと、あれだよ。戦後初の衆議院銀選挙について? この街でも街頭演説とかやってたらしいんだけど、その痕跡を調べようかと思ってるんだ」
まさか、その結果亡霊となった女性について、とは言えない。
「ほう。スクランブル選挙についてか」
「……ん?」
いまなんて言ったんだこいつ? スクランブル?
「なんだ、それ?」
「いや、だから」
俺が理解できていないのが解せないようで、残飯シチュー女は口を尖らせた。
「戦後初の衆議院議員選挙、いわゆるスクランブル選挙についてだろう?」
「その選挙のことをスクランブル選挙っていうのか?」
「なんだ、調べ学習といっても今日始めたばかりなのか?」
うんうん、と俺は首を縦に振る。「そうか」と女も納得してくれた。
「スクランブル選挙、というのはあくまでもGHQ――連合国軍最高司令部が調査書において呼びならわした通称なんだけどな。欧米諸国から見ると、戦後一年で慌てて始まった日本の選挙は『スクランブル』していたのだろうな」
そう語る彼女の横顔は弾んだ表情をしていて、好きなことを語る人特有の瞳をしていた、気がする。
「詳しいんだな」
「ああ。戦後史は私の――」
ぴたり、と言葉が止まる。数秒言い淀んでから、
「――一番の趣味、だからな。なんでも聞いてくれ」
珍しいを通り越してもはや珍妙だった。戦後史が趣味の女子高生なんて、日本中に何人いることだろう。
「で、そのスクランブル選挙とやらは、どんなものだったんだ?」
女はくすくすと笑う。そして、まるでその場にいたかのように語り始める。
「カオスを極めた選挙だったという話だ。議員定数が四百五十席のところに、二千五百名を超える立候補者が押し寄せた。戦時中に議員だった者は追放されてしまっていたから、立候補者の全員が政治の素人だ。素人が、素人を選ぶ選挙だった」
現代の、選挙カーを使っての堅苦しい選挙とはまるで違う、と女は付け加えた。
「候補者は票を集めるために、大道芸のようなことをしたらしい。バイオリンを弾きながら演説する者、紅白の旗で飾った馬に乗って演説する者、恥も外聞も捨て一票を金で買おうとする者……コントのような選挙が、この日本で実際に行われたのだよ」
戦争で抑圧された民衆のパワーが一気に噴出した、目立ったもん勝ちのコント選挙。
たしかにスクランブルだ。
「その選挙を勝ち抜いた候補者たちが、現代の日本政治の礎を築いた。当選者の一族は、現代でも続く名家になっている。例えば、現在のこの街の区長、保科俊之とかな」
俺は今春に区長選挙があったことを思い出す。現職の保科の圧勝であっけなく幕を閉じた。保科の地盤は盤石で、他の候補者のつけ入る隙などなかった。
「と、ヒントを出し過ぎてしまったな。私はもう行くぞ。あとは自分で調べたまえ」
前回と同じく、女は風のように去ろうとした。そうはいくか。俺は女の袖をつかみ、バランスを崩させた。
「待ってくれ。教えてくれたことはありがたい。でも、まだ教えてもらいたいことがあるんだ」
俺は単刀直入に聞く。それが一番の近道だからな。
「AAFという頭文字について。あ、あとお前の名前教えてくれ」
「名前はついでみたいな扱いか」と女は肩を震わせる。
「まあいい。名前は赤川。赤川リルという。ひとつめの質問に関しては、ノーコメントだ。自分で調べるがいい」
やっぱりな、と俺は思った。AAFという頭文字は、刻んだ本人たちが知られたくない何かなのだ。
「それだけは答えられん。至極プライベートな話でね。だが、スクランブル選挙に関してならまた講釈をしてやろう。あの闇市通りに兎屋という看板の掲げてある廃屋がある。そこに来れば、私を見つけられるはずだ」
そう言い残し、女、もとい赤川リルは去っていった。
空振りではなく、収穫があった。
スクランブル選挙のことも、AAFのことも聞けた。しかし一番の収穫は、リルの講釈の最後にあった。
この地区でスクランブル選挙を勝ち抜いたのは、つまり、神田千佳子の野望を挫いたのは、現区長の保科家だということだ。
神田千佳子が勝てなかった理由は保科家にあるかもしれない。保科家と神田千佳子の繋がりを見つけられれば、おそらく、そこに手掛かりがあるだろう。
俺は資料館を出て、路面電車の駅へと歩き出した。
路面電車に揺られながら、俺は携帯でこの区のホームページを閲覧していた。
トップページには区長・保科の区民に向けたメッセージが綴られている。「透明化した政治」「お金の流れを明確に」など、クリーンな政治を表すような単語が並ぶ。
保科は現在五十歳。だが若づくりしているのか、肌艶などは三十代半ばのようだ。堂々とした体躯に爽やかなマスク。主婦層の票も多いときく。俺には詐欺師にしか見えないが。
彼の何代か前が、神田千佳子と選挙でライバルだった。そして、神田千佳子の主張を採用するならば、何らかの不正によって正当な選挙は行われず、神田千佳子が座るはずだった国会議員の席には保科が座ることになった。いまでこそ国政には参加していないが、保科家は現代でもこの地区で区長を務めている……。
全部仮定の話だ。しかし、白紙状態だった調査に、ひとつの仮定が生まれただけでも大した前進と言えよう。かなり無理がある説だがな。
それにしても、もし選挙に不正がなかったとしたら、俺はどうやって神田千佳子を成仏に持っていけばいいんだろうか。調べた結果、選挙は正当なものでした! また来世でガンバ! と言っても納得はしてくれないだろうし。嘘でもいいから不正があったって本人には伝えちゃったほうがいいのかもな。親父だったらどうするのだろうか。
髭面のバカのことを考えていたら、本人から着信が入った。俺は着信拒否をして「いま電車だから出れない」とメッセージを送った。
すぐさま返信が来た。
「妖怪大戦争だ」
はい?
路面電車の駅から十分歩いて、俺は自宅兼事務所に戻ってきた。どうでもいいけど、なんとなく売れない探偵事務所のような雰囲気がするのはなぜなんだろう。外階段を上がって事務所に入ると、クーラーの冷気が俺を迎えた。
「遅かったな」
「遅かったじゃねえよ、このバカ……」
親父、と続けようとして俺は言葉を飲んだ。親父の顔が、十五ラウンドを戦いきったあとのボクサーのようにボッコボコになっていたからだ。
「またキャバクラでぼったくられたのか」
「またってなんだよ。お前、俺のナイトライフの何を知ってるんだよ」
いつも通りのつっこみが返ってくるが、唇からまた一条の血が流れ、親父は顔を歪めた。
「『こっくりさんの素子』のやつ、百九十センチあるケニア人に憑依しやがった。お陰でリアルファイトの連戦だ」
「何を言ってるか全くわかんねえよ」
事務所の奥には親父の霊能力者仲間もいて、みな散々なやられようだった。お互いの傷を確認しあって、でっかく「護符」と書かれたお札を貼り合っているのがツッコミ待ちなのかは慎重な検討が必要だ。医療に頼れよ。
「その素子さんは結局成仏したのかよ?」
「いや、ケニア人に憑依したままだ。素子自体は好きな人を親友に寝取られたのが成仏できない原因らしい。ケニア人の声で『博志ハワタシノモノダッタノニ』って言われてみろよ? 笑いすぎて全然勝負にならない」
「で、殴られて帰ってきたのか。素子さんは?」
「いま、六丁目公園の掃除用具入れの倉庫に封印してる」
「それ封印って言わないな。閉じ込めただけだろ」
「夜のうちになんとかしないと、明日用務員さんに倉庫を開けられたら大変なことになる。ケニア人の大男が突如出現するわけだからな」
「悪夢だろうな」
で、なんだよ妖怪大戦争って。
「おお、そうだそうだ」
親父はポンっと手を叩き、足を組みかえた。
「お前、今が何月何日かわかってるか?」
「八月十五日。終戦記念日だろ」
「そうだ。そして、お盆でもある」
ああ、と俺は感嘆符を漏らした。
お盆。
新暦の八月十三日から十六日辺りに、先祖の霊を供養する行事――というのは、わざわざ言わんでも日本人全員が知っていることだ。地方によって七月に済ませる地域もあるらしいが。
この時期は霊が現世に帰ってくることを許されている時期であり、俺や親父のような霊能力者にとってはつらい時期でもある。どこにいっても大混雑に見えるのだ。普通の人にはさびれた裏通りに見えても、俺には金曜夜の繁華街のような人通りに見えることがある。ぎっしりと霊が詰まっているのである。
「だから、妖怪大戦争なんだよ」
だからと言われてもな。たしかに、うちの家にとっては繁忙期である。
毎年家族や子孫に会いに来る、成仏したはずの幽霊たち。しかしいざ現世に戻って来てみると、未練が再燃してしまい、お盆を過ぎてもあの世に帰ってくれない霊が少なからずいる。それらを掃討するのも霊能力者の仕事だ。
数日前から霊が多くなっているような気はしていた。お盆はカオスを招く。普段交わるはずのない生者と霊が交わってしまう。お盆に海水浴をすると、海で死んだ霊たちが生者を「引きこんで」しまう、という迷信は誰もが聞いたことがあるだろう。
「まだ早いだろ」
俺はため息をつく。『帰宅拒否』の霊たちが現れるピークはお盆が過ぎた頃、八月十七日あたりなのだ。いまから除霊に勤しむ必要はない。
「お前も修業を始めたんだから、できるだけ多くの霊を成仏させた方が良い。十体がノルマだ」
「はあ?」
思わず声が出た。そんな乱暴なことってあるかよ。
「親父、お前が神田千佳子を俺に押し付けてるんだぞ。素人の俺に。その上、十体除霊って、無理に決まってるだろ」
「うるせえな」
親父も負けじと凄む。顔がボッコボコだから、怖くもなんともない。
「素人だから言ってるんじゃねえか。霊がうようよいる今だから、経験を積むチャンスだ。本格的にこの仕事をするなら、同時にいくつもの案件を抱えるくらい当然だ」
いや、言ってること無茶すぎるだろ。
俺が肩を落として出て行こうとすると、一層野太さを増した親父の声が背中から響いてきた。
「その人物に近づこうとして、悩みを聞きだそうとして、本人と話すのだけが適切なやり方なのかは疑問が残る。近しい人間に話を聞いた方が、その人物の深い部分まで探れることもある。たとえそれが、敵対し合う者であってもな」
はたから聞いたら、何のことかわからないだろう。しかし俺は、この髭面の言いたいことがわかった。付き合い長いからな。
これは俺に対する、ヒントだ。それにしても言い方がまわりくどい。むさくるしい図体しておいて、心はツンデレって。マニアしか喜ばねえよ。
「うるせえよ、ばーか」
捨て台詞を吐いて、俺は自室に上がった。とりあえず、ベッドに寝っ転がって考えるとしよう。
さて、どういう手段を使おうか。
次の日。
俺は灼熱の日差しに肌を焼かれながら、一軒の家の前にいた。
「……でけえな」
ネットで見つけた保科の家だった。
昨日帰ってから俺がしたことといえば、保科の家を特定することだった。あまり褒められたことではないな。でも、必要な情報だったのだ。
黒塗りの外車が前に止まるその家は、ボディガードが三人いたりして、ずっと足を止めていられる感じではなかった。
でもいいのだ。別に保科本人に直接取材するつもりではないからな。俺もそこまで短絡的ではない。
そこから近くの寺まで歩く。雪渓寺という寺に入り、墓場への階段をのぼって行く。
さて。
墓標をひとつずつ読んでいくという、地味だが炎天下の中ではきつい作業が続く。そして、予想通り墓の前には霊が帰ってきている。なんの未練にも囚われず、あの世で転生を待っていた霊たち。俺が「見えている」ことに気づくと、爽やかに手を振ってくれたり、「こんにちは」と声をかけてくれる霊もいる。
俺は彼らには干渉しない。しかし、ある墓の前で立ち止まり、その墓の前で佇んでいた一人の中年男性に話しかけた。
「あなたが保科和人さんですね」
現区長、保科俊之によく似た相貌。だがその眼差しは、戦争というものを経験したからか、どこか達観しているようだ。
「そうですが」
五十年前に死んだ男との会話が始まった。俺の前にいるのは、この街の闇市を舞台にしたスクランブル選挙を勝ち抜いた男に間違いなかった。神田千佳子の人生の分岐点となった男。
ある意味、俺はラッキーだったといえる。
スクランブル選挙で当選した張本人、保科和人に話を聞けるとしたら、それはお盆以外ありえない。
親父のヒントは、「お盆でしか帰ってこない霊の話を聞いてこい」という意味だったのだが、クソ親父の手にかかると、あんな喧嘩腰の言い方になる。わかりにくいったらない。
「いくつかお聞きしたいことがあって来ました。いまお時間大丈夫ですか?」
こくり、と保科は頷く。いや、まあホントはもう死んでるからお時間は大丈夫じゃないのだが。とっくに手遅れだ。保科はそういう冗談を言うタイプではないようで、じっと俺の言葉を待っていた。
「戦後間もなく、あなたは選挙に出られたと思います。戦後初の衆議院議員選挙。そこで、あなたは勝利を収めた。その時に、神田千佳子という女性と票を争ったことを覚えていませんか?」
保科は視線をまったく動かさずに、三回まばたきをした。そして、皮肉っぽく笑みを作った。
「生きている人と会話をするのは半世紀ぶりです。保科の家の無事は確認できましたから、明日にでも彼岸に帰るつもりだった」
学者が研究成果を述べる時の様な、硬質な声音だった。
「しかも、こんな若者の口から、千佳子さんの名を聞くとは。驚きすぎて言葉を失ってしまいましたよ」
つながった。俺のめちゃくちゃな仮説が現実になった。
「千佳子さんとは、顔見知りだったのですか」
保科の顔が生気を帯び始めた。
「顔見知り……というか、私はそもそも千佳子さんに憧れて出馬したのですよ」
「そうなんですか」
これは意外だ。そんなに深い繋がりだとは。
「当時保科家と神田家は近所同士で、お互い助け合ってたんです。食糧や配給を融通し合ってね。うちは三人兄弟で、着るものもままならなかったのですが、神田さんが衣類品の配給を分けて下さったりして」
戦火を逃れ、比較的裕福な暮らしをしていたという神田家。神田千佳子の話と、通じるものがある。
「議員選挙の告知があってから、彼女はすぐさま出馬を表明しました。近所中にそのことを触れまわり、まるで彼女はお城の舞踏会にでも呼ばれたかのような浮かれようでした。きらきらしていて、私はその姿に思わず憧れを抱いたものです」
「千佳子さんに……恋をしていた?」
「それは現代的な言い方ですね」
選挙のライバルで、一方で思いを寄せる相手でもあった。複雑な感情だろう。
「でも、それなら千佳子さんの支援者になり、千佳子さんを当選させる手もあったのではないですか?」
俺が指摘すると、保科はぐにゃりと唇を歪めた。
「いえ、それは考えませんでした。千佳子さんという女性を愛してはいましたが、政治的な考え方には相違がありましたから。千佳子さんは女性に参政権が与えられたことに興奮しすぎて、政策的なことを何も考えていないように見受けられました。とにかく出馬したい、というだけでね」
「ああ……」
なんか納得できる。神田千佳子のあの天真爛漫な感じ。
「当時の選挙活動のことはご存知ですか? 人目を引けばなんでも良いという候補者たちの態度。私にはそれが我慢ならなくてね。しっかりとしたマニフェストをもって、出馬することにしたのですよ」
「千佳子さんは、なんと?」
「歓迎してくれましたよ。一緒に選挙を盛り上げましょう、なんてね。そんな無防備なところにも、私は惹かれたのかもしれません」
お得意の明るさで喧伝した神田千佳子と、質実な政策で勝負した保科。両者は対照的だ。
「それで、結果としては保科さんが勝ったんですよね」
「ええ。やはり、目立つ者よりきちんとした政策を訴えた方が良かったらしく。勝たせていただきました」
「神田さんはどうだったんですか?」
「神田さんは、全くダメだったようですよ。五位だったかな」
「え……」
意識が逸れていく。神田千佳子の話が俺の頭にフラッシュバックする。
言っていたこととずれている。神田千佳子の話では、自分は惜しくも落選した、という風だったはずだ。五位では、不正以前の問題だ。
「ところで、どうして千佳子さんのことを?」
意識が引き戻される。武士の様な眼で、保科和人は俺を見つめている。
「それは……」
俺もまっすぐに保科を見つめた。
「……地元の調べ学習、です」
初めて保科の頬が緩んだ。
「そうですか。若い人の助けになれたのなら、良かったです」
目の前の男はすでに成仏を果たしている。ここで、昔好きだった女性が自分の当選した選挙のせいでいまだに成仏できないでいることを知らせると、あの世に帰ってくれなくなる可能性がある。ミイラ取りがミイラになってしまう。
俺は保科家の墓前に手を合わせ、その場を離れた。
勝者の弁と、敗者の弁。相違が生まれるのは自然なことだが、これほどまでに違うのは不自然だ。俺は夕方を待って、ある場所に行こうと決めた。
闇市通りはすでに酔客を目一杯詰め込んでいた。赤提灯の灯りが道行く人を誘惑しているようだった。俺は路面に座り込んで飲んでいる人たちを避けながら、闇市通りの奥へと進んだ。すると、言われた通り『兎屋』と看板がかかった廃屋が現れた。どうして取り壊されないのか不思議なほど荒廃した廃屋だった。看板自体もズタズタに避けており、斜めになってしまっている。窓はすべてガラスがなくなっており、中が覗けてしまう。
まあ、電気が点いていないから、覗いても暗くて見えないんだが。
意を決して引き戸を開ける。が、建てつけが悪すぎて半分くらいしか開かない。俺は身をよじって無理やり内部に侵入した。
すぐに声がかかる。目当ての人物は奥にある廃材に腰を下ろし、食事をとっていた。
「よう、来たな」
廃墟に似つかわしくない、はっとするような目鼻立ち。赤川リルが廃材に座り込んで吸い物の様なものをすすっていた。
「なんだ、それ」
「塩もつ煮込みだ。闇市通り随一の名物だぞ」
俺に構わず、リルはずずーっと汁をすすった。
「どこで売ってる」
「居酒屋『つきぐみ』さんだ」
テイクアウトできるというので、俺も『つきぐみ』という居酒屋まで出向き、四百円を払って一杯もらった。リルの傍らに座り、俺もモツをかっこむ。たしかにうまい。
「モツ煮は闇市文化の代表的料理だ。戦前は気持ち悪がって日本人は手を付けなかった内臓料理だが、戦後日本にきた朝鮮人によって大衆に広がっていった。戦後の日本人を支えた泥臭いスタミナ料理なのだ。今では、頭の軽いスイーツ女子すらありがたがるようになってしまっているのが嘆かわしい」
リルのうんちくを聞き流しながら、俺は食を進めた。女子高生が嘆くことじゃねえぞ、、それ。
「で、なんの用だ。私の寝どこまで出向いて。夜這いか?」
「寝てねえじゃねえか。そして、お前ここで寝てるのかよ」
冗談かどうかわからないことを言うやつだ。俺は無視して話を続ける。
「力を貸してほしい。こんがらがってた糸をほどこうとしてたのが、新しい結び目を作ってただけだった。これ以上動いても更にこんがらがるだけだ」
リルはカエルのようなぎょろぎょろした目つきで俺を見つめていた。またひとつモツを口に運んだ。興味がないのか。まあいい。
「俺は霊を払う仕事をしている。まだ修業中の身だが」
平淡な表情は崩れない。驚きも困惑もない。カミングアウトには慣れっこだが、ノーリアクションは良い傾向ではない。つまらない冗談と思われている可能性が高い。でも、俺には俺の目に映っている現実を信じてもらえる材料がないのだ。
「お前と同じ傷跡をもった女の人の霊がいるんだ。どうしても祓いたい。安心して成仏してもらいたい。その傷跡の意味がわからないと、その人の未練に近づけない気がするんだ。たのむ。俺にその傷跡の意味を教えてくれ」
もぐもぐもぐもぐとモツを咀嚼したまま、リルは動かない。
ぼそっと「別にいいぞ」という声が聞こえた。
はっと顔を上げる。謎ばかりのリルの、陶器のような頬がそこにはあった。
「だって、本当に知りたいのならもっとうまい嘘をつくはずだものな。この世には一定数、霊やらなんやらが見える人間が存在しているのはわかっている。だから、君の言うことは本当なのだと思う。いや、本当だと思うことにする。傷跡の意味を話せば救われる魂があるなら、私は話そう。でも、ある程度の覚悟はしてもらいたいな。至極プライベートな秘密をひとつ、知り合ったばかりの人間に晒せと言うのだから」
「……」
言葉が出てこなくなってしまった。
覚悟?
果たして俺にそんなものあるのだろうか、と自分の腹をさぐる。もともと、家業だから、と流されるままに始めた祓い屋修業なのだ。どうして俺はよく知りもしない女性の霊のために、夏休みを何日もつぶしているのだろう。堅い信念や信条など、今の俺にはまだ形成されていないものだ。
「せんそうはんたーい! 婦人労働六時間制のかくほをー!」
ジャランという音と共に、通りの入り口側から朗々とした女性の声が聞こえた。神田千佳子が、現代の生者たちに向かって「選挙ごっこ」をしているのだ。いくら呼ばわっても、誰ひとり気づく人はいない。しかし神田千佳子は至極楽しそうで、それが俺の胸を曇らせた。
「見てられないんだ。あの人は、いったい何十年あのままなんだよ。明るく見えても、根っこの部分で狂ってしまっている。もういいだろう。もう休ませてやらないと、あまりにむごすぎる」
そうだ。
俺の覚悟が生半可でも、虚勢を張って「覚悟している」と言うしかないのだ。神田千佳子を成仏させられるのは、俺しかいないのだから。
「頼む、リル。話してくれ。そのためならなんだってするから」
リルがいたずらを企む悪ガキのような顔になった。
「そうか。なんだってしてくれるか。ならお前に傷跡の意味を教えてやろう」
リルは服の袖をたくし上げた。直視するのを躊躇ってしまうような、AAFの傷。
「この三文字は、米軍特別慰安施設、という意味だ」
「米軍、なんて?」
せっかく答えてくれたものを、俺の耳は捉えきれなかった。リルが平たんに繰り返す。
「米軍特別慰安施設。もっと単純に言おうか。日本に進軍してきた米兵を専門とする、売春グループのことだ。そこに所属した女の腕には、AAFの三文字が記されることになっていた」
「売春……」
思わぬ単語に、俺は狼狽してしまった。つまり、神田千佳子は娼婦に身を落としていた過去があるのだ。腕の三文字が証明している。
「かつて、日本が十万発の焼夷弾を落とされ敗戦したあと、多くの米兵が海を渡ってきた。それらを相手にする娼婦も、もちろん生まれる」
当然といえば当然の流れかもしれない。日本だけでなく、世界中の国で同じようなケースはあるだろう。
「ただ、このAAFを世界的に特殊な売春グループとして研究している学者もいる。なぜなら、AAFは日本政府主導で作られた組織だからだ」
ますます俺の頭が混乱する。
「待て、おかしくないか? 売春組織の親玉が、政府だったっていうのか?」
そんなこと、あり得るのか? 政府が自らの国民を娼婦として差し出す?
「おかしいさ。頭のてっぺんから爪の先まで、腐りきっている。でも、史実だ。終戦から三日しか経っていない八月十八日、内務省から各庁に、米軍特別慰安施設の設立に関する通達がなされている。主な目的は、米軍が市民に襲いかかるのを防ぐ防波堤としての売春施設ということだがな。実際そこに集められたのは様々な理由で行き場をなくした、戦争孤児のような娘たちだった」
「どうしてそんなことがまかり通ったんだ? 誰か、反対する人はいなかったのか」
俺の言葉に、リルは口端をあげて皮肉っぽく笑った。
「いなかったさ。内閣から警察署長までが、グルだったのだからな。政府中枢と、戦前から存在した売春グループが手を組んで、『公的な』売春グループは誕生した。ダンサーもしくは事務員募集という形で嘘をつき、素人の女性を千人以上集めた」
リルの顔に、深い皺が刻まれていた。唸り声を上げる狼のように、その顔には獣性が帯びていた。
「娘の中には、気が狂ってしまう者も多くいたらしい。まったく、反吐が出る話だ」
「それじゃあ、神田千佳子の腕に傷があるのは……」
「刻印、とでも呼ぶべきだがな。まあ、米兵の相手をさせられていた一人に違いないだろうな」
つまり神田千佳子は――。
「なるほど。そういうことでしたか」
硬質な声がふいに聞こえ、俺は声の方を振り返る。そこには悲しげな保科和人の姿があった。驚きすぎて、俺は口をパクパク動かすだけになっちまった。
「どうして……」
保科和人は、もともと成仏していた霊だ。盆だから一時的にこちらに戻ってきているにすぎない。どうしてここに。保科家の墓からかなり離れた所なのに。
保科はくすりと笑い、「浮遊っちゃいました」と一言。いやいや、キャラに合わねえって。
「あなたの口から千佳子さんの名前が出た時点でね、おかしいと思ったんです。いくら当時の選挙を調べていても、神田千佳子という名前はマイナーすぎる。すでに死んでいる私が見えるあなたですから、さては千佳子さんとも直接会っているなと思ったのです。それで、はるばる保科家の墓から歩いて来ましたよ」
「おい、どうした? 何を驚いているんだ?」
当然、リルには見えない。彼女には虚空と会話を続ける俺が見えているはずだ。あとで説明してやるしかない。
「しかし、私は思い違いをしていました。てっきり、私は千佳子さんもお盆であの世から帰ってきているだけだと思っていたのです。それで、旧交を温められればと。しかし、いまの話を踏まえると、そうではないようですね」
保科和人が目を伏せる。はっきりと、失望の色が浮かんでいる。
「千佳子さんは、成仏していなかったのですね。半世紀もの間、現世をさまよっていたのですね。それも――」
それも、のあとは無言が続いた。保科も言葉にできなかったのだろう。青春時代に恋をしていた女性が、娼婦として働かされていたのだ。
「……千佳子さんがあの選挙のあと、行方知らずになった理由がわかりました。千佳子さんは米兵の相手をさせられていたのですね。私が――選挙で勝ったばっかりに」
神田千佳子が俺と親父に語った未練には続きがあったのだ。
神田千佳子は、選挙に立候補し、落選し、供託金をとられた。
そして、供託金が払えずに、娼婦に身を落とした。神田千佳子が最も悔やんでいたのは「選挙に落選し」という部分だった。その理由も今となってはわかる。
選挙に勝っていれば、娼婦にならなくて済んだのに。
成仏しきれず、半世紀にわたって地縛霊として現世に留まり、神田千佳子はある時こう思ったのだろう。「あの選挙には不正があったに違いない」と。そうでなければ、耐えきれなかったのかもしれない。彼女の身に刻まれた恥辱は、半世紀という年月を経てもなお、慰められるものではなかった。
「せんそうはんたーい! 婦人労働六時間制のかくほをー!」
路地の向うから、少女の様な無邪気な声が再度聞こえてくる。
神田千佳子はすでに狂っていた。正気の沙汰ではなかった。アメリカの大男に蹂躙されるうちに、狂ってしまった。
保科和人が、くるりと踵を返した。そして悠然と、周りの酔客には目もくれず、神田千佳子の方へ歩いて行く。
「なにを――?」
俺もあとからついて行く。闇市通りの入口、表通りとの境目まで。
「せんそうはんたーい」と叫んでいた神田千佳子の眼がこちらに泳いできた。そして、保科和人を見つけるとかすかに「あ……」と声をもらした。
「お久しぶりですね、千佳子さん」
至極爽やかに、保科はそう声をかけた。
「保科君? ウソでしょ? ほんとに……?」
俺は幽霊が膝から崩れ落ちる瞬間というのを、初めて見た。神田千佳子はがくりと膝をつき、保科を惚けた顔で見上げていた。
「千佳子さん、あなたを探しに来たのですよ。選挙に落選してからというもの、あなたは一度として私に顔を合わせてはくれなかった。偶然街頭演説で隣に居合わせた、あの時が今生の別れになるとは誰が予想したでしょう」
「私は――私は」
神田千佳子は、闇市通りの汚い地面に目を落としたまま、ぶつぶつと呟いていた。神田にとって、目の前にいる男は、自分を娼婦に落としたきっかけとなった男だ。いや、正確には、選挙で惨敗した神田は保科がいなくても娼婦となっていただろう。しかし、神田が欲していた椅子に座ったのが保科だという事実は確かに存在する。
危ない。神田が保科に掴みかかっても、まったく不思議ではない状況だ。
俺が保科の前に立ちふさがるより、神田が動く方が早かった。
神田は、保科を抱きしめたのだった。
「私は……保科君に会いたくて……ここなら保科君が見つけてくれるんじゃないかって」
今度は俺が惚ける番だった。なんだこのラブロマンス。いやいやいや。こんなの見せつけられて、俺はどうすればいいんだよ。
「千佳子さん。遅くなって、すまなかった」
俺とリルを圧倒的な置いてけぼりにして、二人はキスし始めた。帰っていいか?
その時、俺は蛍を見たような気がした。いや、見間違いじゃない。神田千佳子の体から、蛍の様な発光体が出ているのだ。半世紀ぶりに会った恋人とくっつきながら、ちらりと俺に視線を投げる。
「どうもありがとうございました。あなたのお陰で、保科君と再会できました。もう思い残すことはありません」
保科も俺に向かって微笑む。
「あなたのお陰で、千佳子さんを見つけることができました。私が責任を持って、彼女を冥界に連れ帰ります。あの世で半世紀ぶりに政論を闘わせようと思いますよ」
にっこりと笑うと、神田千佳子と保科和人はすうーっと消えていった。
「……なんだそりゃ」
「どうなったんだ?」
リルが、つきぐみの塩モツ煮をすすりながら興味なさそうに聞いてきた。二人のラブロマンスの間に、もう一杯買ってきたらしい。
「二人してベロチューして、消えてった」
「そうか」
俺らの後ろをサラリーマンの団体が「もう一軒いっちゃいましょうや! まだ月曜だけど!」と笑いあいながら通って行った。いまここで浮かばれなかった魂が成仏したことなど、知る由もない。
「お前は何を見たんだ」
じっとりとした声音でリルが訊いてきた。俺は肺の底に溜まっていた古い空気を吐きだし、ことのあらましを掻い摘んで話した。その間、リルが豚の臓物をすする音だけが俺の耳に届いていた。
「結局、神田千佳子は保科に会いたかったのだな」
リルが端的にまとめた。
俺もそう思う。神田千佳子の未練はたしかに選挙戦で落ちたことかもしれない。結果としてそれは自分の首を絞め、彼女は娼婦に身を落とした。彼女は戻る場所さえなくしてしまった。一度AAFの傷を刻まれた女性が、想いを寄せた男性の元に戻れるだろうか?
神田千佳子は戻れなかった。保科に合わせる顔がなくなってしまった。そして二人は再会することなく、互いに生涯を終えた。
保科は死にきれた。しかし神田は死にきれなかった。
俺はあの街頭演説の意味を考えてしまう。あれは単なる「選挙ごっこ」だったのか? ひょっとして、あそこでああして大声を出していれば、いつか保科が見つけてくれるとでも思ったのではないだろうか?
闇市街の夕暮れが近づいてくる。夏なのに、どこか薄ら寒い。
「いまでこそ特殊に感じられるだろうが、戦後当時など、身を持ち崩すことは珍しくもなんともなかった」
俺の隣でリルが語り始める。ファッションショーのランウェイを歩いていてもおかしくない容姿で、どす黒い戦後を語る。
「何万人もの市民が家を失い、あてもなく街をさまよっていた。そこに戦いが終わったことへの安堵や解放感はない。食うや食わずの生活を耐え忍ぶしかなかった。家を失わなかった中流層も、ちょっとしたきっかけで転落していった」
「神田千佳子も、その一例だってことか」
「そうだ。戦争は終結したあとも、多くの人の運命を狂わせた。ちょっとしたボタンの掛け違いで、不本意な人生を歩まねばならなかった人が大勢いたはずだ」
そして、彼らは死にきれず現世の闇市街を彷徨う。ボタンの掛け違いを誰かが直してくれる日が来ることを祈って。
神田千佳子の成仏に関しては、俺がきっかけとなったことは確かだ。でも、何の達成感もなかった。神田千佳子は俺をうまく利用して、うまく成仏していった。そんな感覚があった。
突然、リルが笑い声をあげる。
「不思議だ。私の与太話を真剣に聞いて、何かに活かそうとする人間は君が初めてだ。大抵、私の話し相手は資料館のじいさんばあさんしかいなかった。同年代の話し相手というのは、やっぱり楽しいものだな」
口元をおさえる仕草で袖口があがる。AAFの文字がちらりと見える。
お前は誰なんだ?
そんな疑問が喉までせり上がってくる。
戦後の娼婦についていた刻印が、どうしてお前にもついている?
「――ああ、今回のことは礼を言わなきゃな。お前のお陰で霊を祓えた。今度、何かおごるよ」
「本当か!?」
リルの大声が俺の鼓膜を圧迫した。がめつい女だということを忘れていた。
「以前から行ってみたかった店があるのだ。ここから路地を二つまたいだ『千弦堂』という店では、なんでもヘビの素焼きを出すらしい。ヘビというのも闇市ではよく売られていて――」
俺はリルの話を聞きながら、ため息を吐く。
変な友達が増えてしまったな。
事務所に戻ると、いつも席に親父がいた。強キャラの悪霊・素子にやられた顔面は依然として腫れている。俺の方をちらりと見て、「おう」と呟いた。
「素子の方はどうだったよ」
俺が聞くと、親父は小さく「祓ったよ」と言ってタバコに火をつけた。
「素子はつまり、寂しかったわけだ。だからよ、霊媒師仲間と話し合って、だれかが告白でもして恋人になるしかないんじゃないかという話になった。で、じゃんけんして負けた奴が告白することになった」
「誰が負けたんだ?」
「俺」
「だろうな」
タバコを吸う度に口のどこかが痛むらしく、親父はしかめっ面で答えた。
「俺もこの稼業を長くやってるが、ケニア人の大男にガチ告白する日が来るとは思わなかった。向こうもなぜかオーケーしてな。ケニア人とディープキスしたら唇を吸われ過ぎて口のどっか切れたらしい。ともかく、それで満足して成仏してくれた」
互いにディープキスオチかよ。
「で、お前は」
親父から聞かれ、俺はどう答えていいかと沈黙をつくってしまう。
「成仏したよ」
祓ったよ、とはいえない。俺は神田千佳子と保科和人を偶然引き合わせただけだ。あとは勝手に当人たちがまとめてくれた。
「そうか。よくやったな。これでお前も立派な祓い屋だ」
事務的に親父が褒める。
「なあ、こんなこと意味あるのか? 未練のあるやつらを無理やり成仏させて、それで金貰って。俺らのしてることって何なんだ」
「仕方ないだろう。あいつらはもう死んでるんだ。時間切れだ。なのに、往生際悪く現世をさまよってるんだ。来世に期待してくださーいってなもんで、追い出すしかないだろうよ」
そこまで割り切れるほど、俺は大人じゃない。「付き合ってらんねえよ」と言い残し、自室へ上がろうと歩き出す。
「メシ何食う?」
アホ親父の声が追いかけてくる。俺は少し考え、
「塩モツ煮込み」
「なんだ、そりゃあ?」
親父の疑問に答えず、俺は階段を上がった。
大を兼ねぬ小
じゅうじゅうと、耳に心地よい音が鉄板から聞こえてくる。
「お兄さんみたいに、若い世代の人がラジオ焼きを食べ継いでくれるとありがたいんだけどねえ。どっこい、店側もお客もめっきり老けこんでね。ここいらは比較的若い人が集まる街のはずなんだけど。――やっさん、今日はどうだった?」
「負けた。あんな荒れたレースの三連単なんてさ、とれる方がおかしいんだよ」
「風の日はレースも荒れるからね。ホッピーでいいの?」
「うん。あと、焼き一皿」
俺は闇市街の真っただ中にいた。
戦後すぐに広まった非合法のマーケット。それらは違法だったのだが、市民の生活を支えたのもまた真実で、政府もしばらくの間黙認していた。闇市の名残は現代にも息づき、跡地が飲み屋街として名所化されているところがある。俺がいるのも闇市の名残を現代に伝える飲み屋街のひとつで、俺の前でいま焼かれているのはラジオ焼きというらしい。
見た目はタコ焼きだ。
「ラジオ焼きは戦後文化というより明治時代の文化なのだがな。当時流行の最先端といえば、牛鍋を食べることだった。欧米人によって文明開化が成されるまで、日本人は牛肉を食べるという習慣がなかった。だから、色々な食べ方が開発された。小麦粉の生地に牛肉を入れて焼いた食べ方もその時開発され、それがラジオ焼きと呼ばれるようになった」
隣に座る赤川リルが語る。この店に行こうと言ったのはリルだ。俺は先週、ちょっとしたきっかけでリルと出会い、仕事に関してかなりの手助けをしてもらった。お礼と称してメシを食わせているというわけだ。
リルはヘビ焼きの店に行きたかったらしいが、その案は却下させてもらった。
せめて人間らしいものを食べたい。
「そうです、ご名答。ちなみに形がまんまるなのは、当時ハイカラだったのが牛肉と、もう一つがラジオだったからさ。ラジオ機のダイヤルがまんまるだったので、それにあやかってまんまるになった。ラジオ焼きがタコの名産地、明石に伝わってタコ焼きになる。つまりラジオ焼きは、タコ焼きの祖先さ」
リルの話を引き取って続けたのは、この店の女将である。五十代半ばの女将は髪を赤いバンダナでまとめ、カウンター六席しかない狭い店内で素早く動いている。俺より筋肉質な二の腕を持つ彼女は、まさに女傑という言葉がふさわしい。先ほどまで常連のおっさんとやりとりをしていたと思えば、カウンターの向こうで俺らの話もしっかり聞いていたのだ。
「しっかし、リルちゃんがお友達を連れてくるとはねえ。友達? 彼氏さん?」
「ふふふ。この私にもツレができたのだよ。まあ、関係性はあえてぼかそうではないか。その方が視聴者を引っ張れるというものだ」
なんだそりゃ。
「おっと、そうだ」
目の前のラジオ焼きから湯気がしなくなっていた。リルの話はいつも長い。冷めちまったようだ。
「大丈夫。冷めてもうまいよ」
あわてて口にラジオ焼きを運んだ俺に、女将が一言。
「へ? でも、粉ものって冷めたら駄目ですよね」
「いや、それはもんじゃとか、お好み焼きに当てはまるだけさ。本来の粉ものはね、冷めてもうまいんだ。あたしの感覚だと、冷めてもうまくなきゃ粉ものって名乗っちゃいけないと思うんだけどね」
「ええ、そんなものですか」
「うん、そんなものさ」
口に運んでみる。冷めてもしっかりとダシの味がするから食べられる。
「女将、最近この辺はどうだ。儲かってるのか?」
リルが偉そうな口をきくと、女将はくっくっくと独特な笑い声をあげた。
「リルちゃんに心配されたらおしまいだね。うちは大丈夫だけど、まあ、こんな古びた街は過疎になるばかりだよ。そうだ、」
ホッピーを用意していた女将の手がハタと止まった。何かを思い出すように眉間に皺をよせ、
「うちの常連さんが言ってたんだけどね、最近変な噂が立ってるんだよ」
「噂?」と、俺とリルの声がだぶる。
「うん。街の入り口、提灯鳥居の下にね、なんでか知らないけどさ、お金が置かれてることがあるらしい。あたしは見たことないんだけどね」
お金、か。鳥居に対するお供えか何かなのか?
「鳥居への信仰の表れではないのか?」
リルも俺と同じことを思ったらしい。
「うーん……あたしも話を聞いた時にはそう思ったんだがね。どうも変なんだ。置いてあるお金の額が、ころころ変わるんだってさ」
「つまり、鳥居に来る参拝者が多い、と?」
「いや、そうでもなくて」と、女将さんは説明に困っているように頭を振り、
「ええっと……うちの客が言うには……ほら、たとえば百円置かれてたとするだろ。で、次の参拝者が五十円玉を置いていくと、その場には百円玉と五十円玉が残る。でも、そうじゃないんだよ。次見た時には、百円玉も五十円玉もなくなってて、いきなり五百円玉が現れてたりするんだって」
なるほど。たしかにそれは不自然だ。だが、説明できないことでもないだろう。リルはすぐさま仮説を組み立てたようで、「ふーむ」と唸った。
「すると、百円玉と五十円玉は誰かに拾われてしまったと考えるのが妥当だな。その後で、誰かが五百円玉を置いた」
「うん、そうなんだけどさ。常連さんの話には共通点があって、お金がなくなったあとは、なくなった額より絶対に多い額が置かれるんだよ。だから、うちの常連さんは言うんだ。『泥棒は、もう少し待ってりゃ良かったのに』ってさ」
俺はリルをちらりと見た。先ほどとは打って変わって、好奇心を抑えられない様子だ。アニメだったら両目に星が入っていることだろう。
「行ってみよう。話が本当か調べてみたい」
「ネコババする気じゃないだろうな」
「いくら廃屋暮らしとはいえ、人としての矜持は捨てていないつもりだがね。女将、ラジオ焼きと噂話をありがとう。お会計だ!」
お会計だ! と叫んだところで払うのは俺である。くそ、今日は早々に引き揚げるつもりだったのに。思わぬ道草を食うことになっちまった。
「ありがとねー」という女将の声を背中に受け、俺とリルは通りに出た。平日だというのに、闇市街には酔客があふれている。こいつら、いつ仕事をしているんだ?
ラジオ焼き屋は闇市街のほぼ中心に位置している。女将が言っていた鳥居は街の南にあり、ラジオ焼き屋からは歩いて一分もかからない。間もなく、俺たちは鳥居の足元まで来ていた。
「どこだ?」
リルが思いっきり前かがみになり、鳥居の足元を探す。仕方なしに、俺は反対側の足を探すことにする。こんなの早めに終わらせて、さっさと退散しよう。
「……ん?」
すると、女将の言うとおり、小銭が落ちていた。「おい、リル」とリルを呼び、小銭を指す。あったのは、百円玉四枚と十円玉三枚。
「本当にあったな」
リルが躊躇なく小銭を拾っている間、俺は鳥居の周りをもう一度確認した。しかし、小銭が落ちている箇所はここだけだった。
「これじゃ、お賽銭説が濃厚だな。大方、ここに賽銭があるのを知っている誰かが、定期的に自分の懐に入れてるんだろうよ。さあ、そろそろ――」
「待て、オミト」
リルが鋭く俺を呼びとめる。ちょいちょい、と手招きされたので近づいてみると、リルは小銭とは違う一点を見つめていた。
「なんだ、これ」
俺も思わず首を傾げてしまった。鳥居のすぐそばの壁に、小さくこのように記されていたのだ。
「大」
文字はぼやけていて、大昔に墨で書かれたようだ。
小銭は鳥居ではなく「大」の文字にお供えされているとも言えた。それくらい、「大」の近くからはみ出ないように小銭は落ちているのだ。
「大? 大、か。なんの意味があるん――」
言葉を切って、リルが立ち上がった。くるりと踵を返し、ずんずん歩いていく。
「おい、どこへ行くんだよ」
俺の問いにもリルは答えない。あっという間にラジオ焼き屋を通りすぎ、あまたの飲み屋を通りすぎ、自らの住処である兎屋も通りすぎ、闇市街の反対の出口でピタッと止まった。
「リル、いったい」
リルは地べたに這いつくばり、地面を見回しながらハイハイをし始めた。通りがかったカップルが幽霊でも見たかのように「ぎゃあっ」と声を上げた。びっくりさせてすまん。
前進しながら揺れるリルの尻を見ながら、俺は一人途方に暮れていた。さながら、シャーロック・ホームズの現場検証だ。
「オミト、お前もやれ」
「絶対嫌だ。つーか、お前何を探してんだ? まさかこっちにも小銭が落ちてるっていうのか?」
「うん。私の推理が正しいのならば」
五分後、リルが歓喜の声をあげた。建物同士の間に、百七十円落ちているのを発見したのだ。
「やはりな。そして、こちら側は『小』か」
小銭の近くの壁に、小と刻まれていた。鳥居側は大、反対側は小。両方小銭があって、女将さんの話が本当なら、小銭はなくなったり、増えたりする。
「謎だな。やっぱ、誰かの願掛けとか、賽銭の仲間なんじゃねえかな。盛り塩みたいな効果を狙っているのかも」
「一理あるな。でも、他にも色々考えようが、」
リルの言葉がまた途切れた。俺を見ている。いや、俺の後ろにいる誰かを見ている。反射的に体が動く。一回転し、同時に後ろにステップを踏む。いつ近づいてきたのか、俺の後ろには男がいたのだ。
身長は百八十を超えるくらいか。でかい。そしてまとっている空気がおかしい。
違和感の根源はその表情だ。まるでゾンビのように、どろん、とした顔をしている。
口もだらりと締まりがなく、よだれのあとが顎まで伸びている。手足を動かしづらそうにもぞもぞさせながら、こちらに向かって歩いてくる。
俺とリルは頬をひきつらせながら男に道をあけた。男はこちらには無頓着で、壁に近づくと、ゆっくりと前かがみになった。その直後、ちゃりんという音がした。男は顔を上げると、大通りに向かって歩いていった。
「誰だ、あれ」
男が完全に去ってから、ぽつりとリルが言った。リルにも見えているので、死者ではない。神田千佳子のような元気な霊よりよっぽど死人っぽかったけどな。
「敵意はない感じだったな」
「ああ。でも、敵意がないというより……」
リルの言いたいことはわかった。敵意がないのではなく、俺らを認識できていない様子だった。道を空けなければ男は俺らにぶつかってきていただろう。そして、ぶつかったことにも気がつかなかっただろう。
リルは男が残した小銭を拾い上げた。
「三百円、か」
これで、女将さんの話の通りになった。実際にお金が増える現場に遭遇した。今の男が、お金が消える時にも関与しているのだろうか。
「はあ」
見当もつかない。そもそも、これは街の怪現象というだけであって、祓い屋の仕事とはなんの関係もないのだ。
「よくわからんが、リル、約束は果たしたぞ」
「ああ。ご馳走になった」
ちっとも感情がこもってない。リルはおとがいに手を置いたまま、眉間に皺を寄せ、探偵よろしく思案しているのだ。
「これは、名コンビ復活かもしれんぞ、オミト」
リルはふふふふふと不気味な笑い声をあげながら、兎屋の廃屋へと戻っていった。
次の日。
盆も終わり、妖怪大戦争も落ち着いたので、俺はすっかり気の抜けた生活を送っていた。起床は昼前の十時だ。そこから三十分ほどかけてふとんを抜けだし、もぞもぞと着替える。
その日も怠惰な生活を送っていると、ふいにドアが開き、ひげ面の親父が入ってきた。
「仕事だ」
「お前が片づけろ」
やる気が一ミリも起きなかったので、雑な言葉を返した。しかし親父はそんなことでは怯んでくれない。ガテン系の風貌をしているが、実際は泣く子も黙るゴースト・ハンターなのだ。「うるせえよ」と呟き、床に散らばっていた俺の服を足で蹴っ飛ばした。
「珍しいケースだから事務所に来い。依頼者が生きている人間なんてのは、俺も久しぶりだ」
五分後、事務所に下りていくと、親父の向かいには三十代前半くらいの女性が座っていた。肩をすぼめ、いかにも悩み相談に来ましたという雰囲気が出ている。俺に気づくと会釈をしてくれたので、俺も会釈を返した。
「うちのせがれです。助手みたいなものですからお気になさらず。それで、西野さん、お宅の旦那さんが三日前から行方不明だと?」
西野と呼ばれた女性は伏し目がちに頷き、こほんとひとつ咳をした。
「ええ。もう警察に捜査依頼は出しているんですけど、目撃情報はないみたいで……」
「なるほど。つかぬことをお伺いしますが、うちがどんな相談所かはご存知ですよね?」
西野さんはまた頷いた。
「はい。こちらなら、心霊的な事件も扱ってくれると聞きまして」
「その通りです。すると、心霊的なことが起きましたか」
「実は、行方が分からなくなる一週間前くらいから、旦那におかしなことが起き始めたんです。簡単に言うと、夢遊病なんですけど」
「夢遊病、ですか」
俺も小さい頃から事務所に出入りしていたが、生者が依頼人なのはほとんどないことだ。親父の脇に立ち、なんとなく腕を組んでみる。
「夜、私たち夫婦は同じ部屋で寝ているんですけど、ふと目が覚めると旦那がいなくなっていたんです。トイレかなと思ってその日はそのまま寝たんですけど、朝起きてから、旦那が洗面所で寝ているのを見つけました」
寝相が悪いにしては動きすぎだ。
「旦那に聞いても、洗面所に来たことは全然覚えていなくて。寝ぼけていたのかなあ、なんて笑っていましたけど。でも、次の日からは笑えませんでした」
「次の日も同じことが?」
「しかも、動く距離が伸びていきました。最初は洗面所だったのが、二日目は玄関になり、三日目は家の外の門まで。四日目は、家から五十メートル離れた道路で寝ているのを、通りがかった人に助けられたんです」
「医者にはかかったんですよね?」
「玄関で寝ていた二日目に、二人で怖くなって、脳外科にかかりました。でも原因はまったくわかりませんでした。心療内科にもかかりましたが、夢遊病ですね、としか言われませんでした。対策を立てられないまま、五日目の夜が来ました。今度寝たら旦那が行方不明になってしまうと感じた私は、旦那が寝ている間、見張りをすることにしました。旦那がどこかに行こうとしたら、止めれば良いと思ったんです。しかし……」
西野さんは一瞬、眉間にしわを寄せた。
「おかしいんです。私が見張りをしている間は、症状がまったく現れないんです。明け方四時ごろ、ついうとうとしてしまった隙に、旦那は外のゴミ捨て場まで歩いて、そこでゴミまみれになって寝ていました」
「まるで、見張り番が寝るのを待っていたかのようですな」と親父が相槌を打った。
「はい。生憎私たちには子どももなく、近くに頼れるような親戚もいないものですから、見張りを増やすこともできずに、とうとう旦那は行方不明になってしまいました」
西野さんの話が終わると、親父はふしゅーっと鼻息を漏らし、「オミト、コーヒー」とだけ言った。
台所に行きアイスコーヒーを用意している間、俺はいまの話を振りかえっていた。夢遊病というのは、いまでも正確な原因のわかっていない睡眠障害のひとつだ。現に、心療内科を受診しても、「夢遊病ということを受け入れることから始めましょう」といった、保存療法をすすめられると聞く。
しかし、今回の場合ただの夢遊病とも言いきれない。俺がアイスコーヒーを持って事務所の応接間に戻ると、親父と西野さんもその点について話しているところだった。
「疑問点がふたつありますね。まず一つ目は、歩く距離がだんだんと伸びていったこと。これは一般的な夢遊病にはない症状です」
「ええ。医師も怪しんでいました。だんだん夢遊病であることに慣れていっているかのようだ、と」
親父はまたも首肯し、
「そうです。最初は寝室の中。次第に外に出ていく。まるで最初は試運転で、だんだんと体が動かしやすくなっていったかのようです。あと一点はもちろん、奥さん見張りをしていない時に限って夢遊病の症状が出る点です。この二点をまとめると、つまり――」
「意志がある」
西野さんがぽつりと呟いた。親父がこくりと頷く。
「おっしゃるとおり。旦那さんは寝ている間に、明確な意志を持って家から遠ざかろうとしていたかのようです」
「そうなんです。医師も首を捻るばかりで。もしかしたらと思ってこちらに相談に来た次第です」
夢遊病は霊とセットで語られることの多い病気だ。古くは、霊が生者に憑依して起こるものだと信じられていた。医者がさじを投げた現状では、藁にもすがりたい思いでここに来たのだろう。
「まあ、この件で重要な点は、旦那さんが憑依霊の影響を受けているかどうか、でしょう」
「そ、そんなことが現実にあり得るんですか?」
西野さんは狼狽している様子だった。無理もない。世間一般では霊の存在すらあやふやなのに、この事務所では例の存在が当たり前として語られる。
「あり得ます。霊はどこにでもいますし、中には生者に干渉しようとする者もいます。それで、私の見解だと、旦那さんは憑依霊の影響を受けている可能性が高いと思われます。特に、意志を持っているかのように行動する点。これは、霊の関与が充分考えられる。ご安心ください、我々が調査しましょう。」
親父がなぜか渋い声で言うと、西野さんは深々と頭を下げた。
「お願いします。警察も手掛かりが掴めないようで……」
「お任せ下さい。さっそくですが、旦那さんの写真か何かあれば、お見せいただきたいのですが」
西野さんは「あ、はい」と呟き、手元のバッグをごそごそやり始めた。
「この人なんですけど」
出てきた写真を見て、俺は「げっ」と声を出す羽目になった。
「げって、なんだよ」
親父が顎をしゃくらせて、俺を拳骨で小突いた。
「この人、昨日会ったぞ」
「へっ」
西野さんはかすかに息をもらし、俺をぎょろっとした目で見た。
「ほ、本当ですか? 確かにこの人でしたか?」
西野さんに渡された写真を凝視する。どこかのリゾートで西野さんと二人で映る、はにかんだ男性。
「……はい。この人でした」
「いったい、どこで? どこにいたんですか?」
興奮する西野さんを制しつつ俺が場所を伝えると、親父が「お前、そんな飲み屋だらけのところで何を……」みたいなことをぼそぼそと呟いた。
「ちょっと私、」
西野さんはぱっと立ち上がり、小走りで事務所を出ていった。バタンとドアが閉まり、あとには俺と親父が残された。
「……どうすんだよ」
依頼人がいなくなったので、さっそく親父がタバコに火をつけた。
「いまその闇市街に行ったところで、旦那がいるとは限らないと思うんだがなあ。で、本当に同一人物なんだろうな?」
「本当だよ。絶対この人だった」
「ふうむ。で、お前こんなところに何しに行ってたんだ」
親父が珍しく保護者らしいことを言う。「友達とメシ食いに行ってただけだよ」と俺は受け流し、話をさらっと戻すことにする。
「この人、取り憑かれているようだった」
「そう思ったか?」
「目の焦点が合ってなかったし、ふらふらしてた。それに……」
俺は昨日のことを詳細に話した。増える小銭のことも、全部だ。
「路地のすみっこに小銭を置いて、どっか行っただと?」
俺は親父がこんなに驚くのを初めて見た。そして、それから数分、髭を撫でながらずっと考え込んでいた。タバコの灰が体毛の濃い腕に落ちていたが、それにも無頓着だ。
「……親父も、取り憑かれていると思うか?」
「ああ。間違いなく、旦那さんは憑依されている。断言していいだろ。問題は、憑依している奴の目的だ」
小銭を置いて、立ち去る。この行為に何の意味があるかがわからない。俺も親父も、赤川リルも同じところで壁にぶつかっている。
「そもそも、憑依ってどういうことなんだ? なんでそんなことが起こる?」
俺が質問すると、親父は、灰皿にタバコを捨てた。
「そうか。まだきちんと教えてなかったな。この機会に詳しく話しておくか」
うーむ、と数秒思案し、親父は堅苦しい話し方になる。
「憑依というのは、古来から文献などで伝えられてきた現象だ。霊が生者に干渉することで、突然生きた人間の人格が豹変してしまう。その人間では喋るはずのない情報を喋り出す。場合によっては、『取り殺された』なんていう記述もみつかる。憑依され、そのまま憑依霊に殺されちまった、なんてケースだ」
この世は霊で溢れている。その中には悪意を持った霊も存在し、生者の体を乗っ取ってしまう。まあ、世間一般のイメージ通りの話だ。
「心霊スポットに行ったらその後で同行者がおかしくなった、なんてのは怪談話のお決まりだな。悪意を持った霊と接触することで憑依のきっかけは生まれる。『あの人は生きてて私は死んでる。ずるい。体を奪ってやりたい』って思われると、その生者は危険にさらされることになる」
俺は先ほどまで西野さんが座っていた椅子に腰かける。立ってるのが疲れた。
「ここで大きな問題がある。憑依された人間の、元々の魂はどこに行くのか?」
気の抜けていた俺は「ん?」と間抜けな声を出す。そういえばそうだ。
「ひとつの体には、ひとつの魂が搭載されている。ひとつの体にふたつの魂が重なり合っている状態などありえない。では、憑依されている時元の魂はどこに行っているのか? これは専門家の間でも見解が分かれる」
そうだ。西野さんの旦那さんにも、元々の魂が宿っていたはずだ。ではその魂は、いまどこにいるのか。
「まず睡眠説。憑依されている間、元の魂は体の奥底で眠り続けている……という説だ。つまりふたつの魂が同居しているが、稼働しているのは霊の魂だけという状態だな。もうひとつが幽体離脱説」
幽体離脱と聞いて、俺は少し身を乗り出す。
「幽体離脱って、本当にあるのか」
「あるわ。めちゃめちゃある」
あるのか。オカルトだと思ってた。
「幽体離脱ってのは、魂が体から離れてしまう現象だ。憑依されてなくても起こり得る。が、憑依された時に起こる幽体離脱だと、憑依霊と入れ替わりで元の魂が追い出されちまう」
俺は、体から魂が抜け出てふわふわと宙を浮かんでいるイメージを描いた。
「今回の場合はどっちなんだ?」
親父の表情が険しくなる。判断が難しいところなのだろう。
「おそらく、前者だ。旦那さんは寝ている時以外正気に戻っていた。となると、元の体に魂が存在していると考えるのが自然だ」
「そうだな。幽体離脱だと、すぐ人格が切り替わるわけがない」
しかし、だ。まだ疑問が残る。
「だんだんと動く距離が伸びていったってのは、どういうことだ?」
親父はそれに関しては結論を出していたようで、淀みなく答えた。
「憑依霊がだんだんと体内に入り込んでいったんだろうな。少しずつ体内での勢力を強め、体の動かし方を覚えていったんだろう」
となると、さらに数日経った今では、ほとんど憑依霊が体をのっとっている状態だと考えられる。
「そう。現在は全くと言っていいほど、正気に戻る時間はないのだろう。正気に戻る時があるなら、家に帰ってこないとおかしい。旦那さんの意識は、体の奥底でスリープ状態になっているのだろう」
俺は講義を受けながら、最大の問題に薄々と気づき始めていた。
「なあ、それってつまり……」
親父が深々と頷く。
「ああ。憑依されている以上、旦那さんを単純に見つけ出しても意味がない。憑依霊の目的を特定し、成仏させないと旦那さんの意識は戻ってこない。だから西野さんが闇市街に向かい、旦那さんを発見したとしても――」
ふいに、机の上の電話がなった。昔ながらの黒電話だ。親父は無表情で受話機をとると、電話口の相手に「そうですか」とだけ言った。
「旦那さん、警察に保護されたそうだ」
「本当にありがとうございました! 私、もう駄目かと……本当に、本当にありがとうございました!」
その日の夕方、目を赤く腫らした西野さんが事務所を訪ねてきて、早口で経緯をまくし立てた。西野さんは俺の証言を警察に伝えた。で、警察が闇市街を重点的に捜査したところ、路地裏に倒れている旦那さんを発見したらしい。
「あなたのお陰です、ありがとう!」と、俺の手を握り締める西野さんに「いえ、よかったです」と俺は感情のない返答をした。
それにも気付かず、西野さんは「衰弱しているから、数日は入院する予定です。病院なら安心ですよね」と満面の笑みを見せた。
「じゃあ、私はこれで! いま手持ちがないので、お代はまた後日に――」
「ちょっと待ってください。旦那さんが入院されているのはどちらですか?」
親父が鋭く訊いた。
「え、ああ。青葉病院ですけど。どうしてですか?」
「いえ、時間が空いた時にお見舞いでもと思いまして」と親父がうそぶくと、西野さんは納得したように頷いた。
「お気を遣わないでください。退院したら主人と改めて伺いますから。では、失礼します」
去っていく西野さんの後ろ姿を、親父は悲しそうに見つめていた。
「あの人は現実を見れていない」
俺が言うと、親父も「ああ」と同意した。
「疲労困憊って感じだったな。旦那が生きていたって喜びで、他のことは吹き飛んじまってる。問題は何も解消されていない」
「病院の監視を抜けだせると思うか?」
今度は、自分の奥さんだけでなく、病院の警備を掻い潜らなければならない。
「できるさ。こういう時の霊は、信じられないことをしでかす。絶対に病院を抜け出てくる。さあ、青葉病院に向かうぞ」
俺と親父は西野さんに追いつかないように時間を置いて、青葉病院に向かった。国道沿いにある小さな病院だ。夜通し車の騒音がうるさく、入院患者が眠れないという噂を聞いたことがある。十分ほど歩き、目当ての建物に辿りついた。
「ぼろいな」
親父が率直な感想を言った。青葉病院は年季の入った建物だ。俺と親父が入口で立ち止まっていると、中から警官三人が「やれやれ、やっと一件片付いた」「なんであんな路地裏に」と言いながら出てきた。
「すいません。ここに西野さんって運ばれてきました?」
親父が質問すると、警官たちは怪訝そうな目を俺らに向けた。親父は髭面のよれよれワイシャツだ。職質されるのにはうってつけの格好と言える。
「いやね、私西野さんの近所の者で。さっき奥さんから旦那さんが保護されたっていう連絡を受けたんですよ。で、入院先がここだと」
「あー、そうですよ」
一番年長者らしい警官が、まあ信用してやるかというような顔を俺らに向けて言った。
「今奥さんから話を聞き終わりまして、我々は引き揚げるところですよ。まあ、奥さんこそ一晩入院して、天敵でも受けた方が良いかと思うんですけど……」
「ねえ、やっと一件ってどういうことですか?」
俺が警官の一人に言った。
「まるで、こういう事件がいくつかあるように聞こえたんですけど、そうなんですか?」
警官はお互いにちらりと目線をやりとりした。俺はあくまで平静に、事件に怯える子どもかのように振る舞った。
「心配じゃないですか。もし行方不明の事件が多いなら、放課後ゲーセンに行くのをやめてすぐ家に帰らなきゃ」
親父が追撃として、「まあ、事件の件数は調べればすぐわかりますよ」と呟くと、警官も観念したようだった。
「ええ。ここ一週間で、同様の行方不明事件があと二件起こりました。いずれも、最初に夢遊病のような症状が出たと」
今度は俺と親父が目線を合わせた。
「不思議ですね。何かの流行り病ですかな?」
「それは……現在調査中で」
警官がニタリと作り笑いをした。調査中というか、わかってないんだろうな。
「わかりました。友達にも放課後早く帰るよう、伝えておきますね」
俺が幼い声で言うと、若手っぽい警官がまんざらでもなさそうに敬礼をした。
警官三人が去ると、親父は路地に歩いていき、タバコに火をつけた。おーい、歩きタバコだぞ。
「どういうこった。行方不明になってるのは、西野さんだけじゃなかったってことか」
「その人たちも、憑依されてるってことかな」
「わからん。しかし、めんどいことになってきたぞ。ひとつの霊が何人もの生者に憑依するのはあり得ない。行方不明者の数と同数の憑依霊が活動しているってことだ。いや、安倍晴明クラスの霊なら一人で複数の生体を操れるか……?」
「まとまってから喋れよ。それに、安倍晴明クラスの霊の仕業なら、もう俺らにやれることはないだろ」
たてついたところで、あっさり殺されるのがオチだ。
「ま、その可能性は考えないでおくか。とりあえず、俺はコンビニに行ってくるから、お前は建物をぐるっと一周してみろ」
俺と親父は一旦分かれた。言われた通り建物を一周してみる。見たところ、ごく普通のビルだ。入口を見なければ病院だとわからないだろう。ぐるっと周り、入口から中に入る。受付の人に声をかけられたが、それには応えず、館内の案内図を確認し、また外に出た。
「どうだった?」
コンビニ袋を腕に提げて戻ってきた親父がもちゃもちゃと口を動かしながら聞いてきた。
「東側の二、三階が病棟らしい。で、なんでアンパン食べてんだ」
親父はなぜかアンパンを片手に持ち、もう片方の手で牛乳の紙パックを持っていた。
「あほう、張り込みにはアンパンと牛乳だと、古来から決まっているだろうが」
そう言って親父はコンビニ袋を差し出してきた。
「……俺の分もあるのかよ」
その後、昭和の刑事ドラマかのように、俺と親父は東と西に分かれ、電柱の陰から張り込みをしていた。手にはアンパンと牛乳だ。絶対不自然だろ。
二時間経っても動きはない。携帯が鳴ったかと思うと、親父から「飽きた」というメールが入っていた。
夜の七時になり、ようやく暑さが緩んでも、特に動きはなかった。八時、九時……。俺は電柱の陰に座り込み、あるかどうかもわからない何かを待つことに疲れきっていた。
ブルルル、という音で、俺の居眠りは阻害された。携帯を見ると、メールではなく着信だ。時刻は、十時十三分。
「何かあったか?」
「オミト、俺の方に来い! 旦那さんが出てきた」
電話を切り、すぐさま東側に向かう。駆け寄ると、なぜか親父は上を見上げて「ひいいいいい」と情けない叫びをあげている。なんだ。なんだってんだ。
「親父、なにが、」
見上げると、親父が叫んでいる理由がわかった。旦那さんが病棟の窓から身を乗り出し、今にも三階から落っこちそうなのだ。
「出てきたって、出入り口からじゃねえのかよ!」
親父が「早まるなーーーーーーー!」という場違いな叫びをあげるのと、旦那さんが落ちるのはほぼ同時だった。生者が落ちるのとは違い、受け身を取ろうとしない。だらりとしたまま、真っ逆さまだ。
一か八か、俺と親父は合計四本の腕で旦那さんを受け止め、そのまま三人で地面に倒れ込んだ。体がアスファルトに擦れる、ずざあああ、という嫌な音が耳に聞こえた。
「いっ……」
痛ってえ。もろに受け止めちまった。でも、幸いなことにどこか折れていたりはしてなさそうだ。
ぺた、ぺたと足音が聞こえる。旦那さんはすでに立ち上がり、どこかに行こうとしている。病棟服のまま、素足で。
親父は「えんえんえんえん」と小さな子どものように泣いていた。
「きゅ、きゅ、救急車を呼んでくれ」
「隣、病院だぞ」
よかったな。
親父は額を切ったらしく、顔に一条の血が流れていた。こいつ、いつも流血してないか?
「親父、俺は旦那さんをつけるぞ。救急車呼んだら旦那さんまで見つかっちまうから自力で病院行ってくれ」
「イ、イエス」
なんで英語かはわからんが、親父は地べたに大の字で倒れながらサムズアップをした。
旦那さんの歩みは遅く、追跡は容易だ。でも、昨日より明らかに早い。憑依が進んでいるのかもしれない。
「なあ、あんたは誰なんだ? これからどこへ行く?」
俺は思いつく限りの質問をしてみた。でも、返答はない。ゾンビのように、歩を進めるだけだ。
しかし、俺には目的地がわかっていた。闇市街だ。旦那さんの――いや、旦那さんに入り込んでいる、既に死んだはずの誰かの目的はそこにある。
案の定、旦那さんは闇市街の方向に向かっていた。横断歩道にさしかかると、青信号の間に渡りきれないため、俺がおんぶをして渡りきる羽目になった。
闇市街に着くと、俺は一度旦那さんから離れ、兎屋の廃屋までダッシュをした。
「リル、おい、リル」
すでに朽ち果てた扉をガンガンと叩くと、中から目の覚めるような美少女が顔を出した。
「なんだオミト、ついに私に夜這いをかけようとでもいうのか? 残念だが今日はいわゆるレディース・デイというやつで……」
「うるせえ、アホか! お前の望み通りにしてやろうってんだよ。コンビ再結成だ!」
「は? コンビ?」
リルがいつもの冴えを失っているので、俺はリルの両肩を掴み、前後に揺さぶってみた。
「わ、わ、わ、なんだなんだ」
「昨日の男がまた現れたんだよ! あいつ、どこぞの霊に憑依されていたんだ! 早くこっちに来い!」
「憑依? ああ、だから動きがもっさりしていたのか」
俺が強引にリルを引っ張りだすと、ちょうど旦那さんが通りの向こうからやってくるところだった。病棟服に素足でも酔っ払いどもは変に思わないらしく、素通りしていく。この街は変なやつばかりだから、慣れてしまっているのだろう。
「そうだオミト、あれから個人的に調べたのだがな、建物の隅に刻まれているのは『大』と『小』だけではなかったぞ」
「え、そうなのか?」
「ああ。これを見てくれ」
リルはノートの切れ端を渡してきた。見ると、この街の地図らしきものが書いてあり、両端に「大」、「小」とある。「大」と「小」の間は一、二、三と数字が六まで羅列してある。
「数字も刻んであったのか」
「数字だけじゃない。サイコロの目のようなものもあった。この地図を作ったことで、私は確信したよ。文字や数字、記号にどんな意味があるか、謎が解けた」
旦那さんはズルズル、とこちらに近づいてくる。俺は横目でそれを確認しながら、リルの言葉に耳を傾けていた。
「これは『大小』というゲームだ。この街全体が、大小というゲームのベットシートになっているんだ」
「なんだ、それ? 大小?」
聞いたことのないゲームだった。闇市時代に流行ったのか?
「現代でも、マカオなどのアジア圏のカジノでは盛んに行われている。印象としてはルーレットに近い。プレイヤーは三つのサイコロの目を予想して、その合計数が十以下か、十一以上かに張るんだ」
サイコロが三つだと、最小は三、最大は十八になる。
「えーと、じゃあ、一・一・一の三だと小になるってことか」
「いや、例外があるんだ。三つのサイコロがゾロ目だと、『大』に賭けても『小』に賭けてもディーラー側の勝ちになる。ゾロ目の時は、ゾロ目に張ってないと勝ちにならない。合計が三だと、必然的にサイコロは一のゾロ目になるから、小に賭けていても負けになってしまう」
「なるほどな。二分の一の、単純なゲームじゃないってことか」
「ああ。他にもサイコロの合計値をピンポイントで予想したり、三つの内どれか一つは『四』が出る、みたいな部分的な賭けもできる。当然、当たりづらいベットを当てると配当はでかくなる」
「大小」か。リルの推理が当たっているのなら、旦那さんに憑依した霊は、大小をプレーしていることになる。だから小銭が増えたり、減ったりしていたのだ。
「この街全体がベッドシート、か。闇市時代のものだと思うか?」
「おそらく。これは闇市時代の遺構だと思う。当時、博打は政府によって厳しく規制されていた。白昼堂々と人だかりを作って賭けを行うのはリスキーすぎるし、それによって逮捕されるものも多くいた。だからこそ、このようなシステムが作られたのだろう」
例えば、「大」に賭けたいと思ったら鳥居の足元まで出向いて小銭をベットする。小だと思ったら反対側まで歩いて小銭を置く。ゾロ目だと思ったら、それに該当する刻印が街のどこかにあり、そこに小銭を置けば良い。なんて大掛かりで無駄なシステムだ。どうしてそこまでして、博打をやろうと思うんだ。
旦那さんは、俺とリルの五メートル前で立ち止まり、緩慢な動作で自分の体をまさぐっていた。多分小銭を探しているんだろうが、病棟服だからどこにもポケットはない。ずっと無駄な動きを繰り返しているだけだった。
「リル、この場合、カジノ側は誰になるんだ? つまり、ディーラーは」
リルが燃えるような眼差しで、ニヤリと笑った。
「そうだ。そいつこそ、このゲームの黒幕さ。我々はどうやらディーラーを探さなければならないらしい。五十年の時を超えて、再びこの街で楽しく遊ぼうとしている誰かさんを、だ」
リルは楽しくて仕方がない様子だった。やれやれ。こいつといると厄介事に巻き込まれる運命らしい。
「つーか、街全体がベットシートだとしても、肝心のサイコロはどこで振られているんだ?」
「ディーラーに聞くしかないだろうな。ディーラーはコインの管理も仕事だ。憑依霊が賭けた小銭を増減させるのは、ディーラーしかありえない」
ざわっと、俺の背筋が寒くなった。おい、ちょっと待て。
「オミト、大と小、どっちが良い? ここは二手に分かれて張り込みをするしかなさそうだ」
俺は両ひざの力が抜けるのを感じ、がっくりとしゃがみこんだ。また張りこみかよ。
「……大だ」
ここから近いからな。
「その格好だと大をしそうな感じがするぞ。では、私は小を担当する」
さっさと分かれようとするリルに俺は違和感を覚え、呼びとめた。
「おい待てリル。お前携帯持ってないだろ」
「心配ない! 何かあったら、大声で叫ぶ」
「ええ……」
聞こえるわけないだろ。別にいいけどさ。
リルが去ってしまうと、俺は携帯を取り出し、親父に電話をかけた。
「オミトさん、その後どうなりましたか」
なんで敬語なんだよ。
「案の定、闇市街に着いた。ふらふらしているだけで、特筆すべきことはないな」
「了解。俺は頭を強く打ったから、検査のために一晩泊まることにする」
戦力外じゃねえか。打たれ弱いおっさんだな。
「なあ、奥さんに連絡してやれよ。きっと病院から連絡がいって、死ぬほど心配してるはずだから。番号は――」
親父が告げる番号を、俺は聞いていなかった。目の前に一人の男が現れ、「大」に置いてある小銭をじとっとした目線で見ていたからだ。
その男はまるでカタツムリのようだった。ずんぐりむっくりとした体躯に、何かを背負っているのだろう、背中が膨らんでいる。真夏なのにベージュの厚ぼったいレインコートを着込み、ハンチング帽を被っている。
浮浪者か? しかしそれにしては、浮浪者特有の悲壮な雰囲気がない。深く被った防止に隠れ、男の面持ちはほとんど見えない。
男は百円玉を手に取り、それを慈しむような眼差しで見つめ、手の上で弄んだ。
目が合う。人を騙すのが得意そうな顔だ。歳は、六十代にさしかかったくらいか。顔がパンパンだ。
「参加者かね?」
しゃがれた声で男がそう言った。よくわからず無言でいると、男が幼児に見せるような笑顔をつくった。
「さあ、あとないか。あとないか。張っておくんなさい、デカの来る前。――そこの若者も、どうかね?」
いきなりヒットしやがった。ディーラーに違いない。
「生きてる人間でも参加していいのか?」
その言葉で、百円玉を弄んでいるディーラーの指がピクリと反応した。わずかにのぞく双眸が邪悪にひん曲った。どうやら、笑っているらしい。
「おや、よく物の見えている方だ。左様、地獄の沙汰も金で決まる。博打に生き死には関係ない」
俺はリルを呼ぶために大声を出す気でいた。でも、やめだ。ディーラーは伸るか反るかを客に尋ねている。ベット・オア・ノー。俺に答えられるのはその二択しかないのだ。
財布から百円玉を取りだし、足元に置いた。「結構」と、ディーラーの満足そうな声が聞こえた。
「締め切りの時間だ」
ディーラーはのっそりと自分の背中に手を回すと、大きなリュックを降ろし、足元にドスンと置いた。こんな汚いリュックは見たことがない。ずっと砂嵐を受けていたかのようだった。
ディーラーはリュックから茶碗とサイコロを三つずつ取り出し、茶碗を地面に置いた。そして自身も座り込み、ふーっと息を吐いた。
パチンと指を鳴らしたかと思うと、サイコロのひとつが宙に浮いていた。寸分違わずサイコロは茶碗に着地し、チリンチリンチリンと涼しげな音を立てた。
四が出た。ディーラーは同じことをもう二回繰り返した。
次は、三。最後は、五。
合計十二で、大だ。
「おめでとう」
俺の手元に二百円が返ってきた。大と小のオッズは二倍だ。
「あんたらの目的はなんだ? 生者に憑依して、どうするつもりだ?」
「その問いに答えるには、稼ぎが少なすぎる」
ディーラーはのそっと立ち上がると、道具をリュックに戻し、のっしのっしと歩き始めた。そして、己の体をまさぐる旦那さんとすれ違う時、「息災かね、七輔」と謎の言葉をかけた。
「待て。あんたらは死者のはずだ。どうして生者に取り憑いて、博打まがいのことをしているんだ」
返答はない。ディーラーに答える気はないようで、俺をバカにするように鼻をすすった。そのまま飲み屋街の向うに消えていった。きっと、追いすがっても意味はないだろう。
すっと息を吸い込む。
「リルーーーーーーーーーーー」
「小」の方向に大声を出しておく。通りがかった酔っ払いが「わ、あっはあ」と驚いてしまった。勘忍してくれ。
「どうした?」
すぐリルがやってくる。犬なみの聴覚だな。パタパタパタ、とリルの足音が近づいてくるのと同時に、反対側からも足音が聞こえた。
リルが到着するのと同時にやってきたのは、依頼者・西野さんだった。
「やっぱりここだった……」
西野さんはぜえぜえと息を荒げながら、もたれかかるようにして旦那さんに抱きついた。
「なんだ、この唐突なラブシーン」
リルが不機嫌にそう漏らすのを聞き流しながら、俺はディーラーが消えた通りの向こうを、ずっと見つめていた。
「グルだな」
包帯ぐるぐる巻きになり、ベッドに寝転んだ親父が、天井に向けて呟いた。
一夜明け、俺は青葉病院の親父の病室に来ていた。軽い脳しんとうという診断結果だが、一応のため検査入院という形になったらしい。
「何がグルなんだ?」
「そのディーラーと旦那さんに憑いている誰かが、だよ。知り合いに決まっている。ディーラーがいて、プレイヤーのいない賭け場なんてありえない。グルだ」
「どういうことだ?」
「推測だが」
親父はベッド上で上体だけ起こし、太い眉をひんまげた。
「集団での成仏拒否、だな。死ぬ前、ディーラーとプレイヤーは知り合いだった。親友と呼んでもいいだろう。何らかの理由で彼らは誓ったんだ。『死んでも、成仏せずに、もう一度博打で遊ぼう』ってな」
「それで、実際憑依して現世に生き返ったってことかよ?」
ありえない、と思った。
誰もが死後について詳しいわけではない。俺と親父は輪廻のシステムが実在すると知っているし、強固な意志があれば成仏を拒否できることを知っている。でも、一般人はそうではない。死んだら無になると思っている人も多いだろう。だからこそ、死後の約束を一般人が交わし、実現させるなど信じられなかったのだ。
「あり得ないと俺も思う。でも、それしか考えられん。生きている人間が死んだあとの事を企て、そして実現させるなど異例中の異例だけどな」
集団での成仏拒否。集団、という言葉で俺はあることに気がつく。
「そうか、あの警官が言っていたのは、このことか」
青葉病院の前で出会った警官たち。彼らは、この街で行方不明事件が同時に四件起こったと話していた。つまり、ディーラーを含めて五人が集団で生者に取り憑き、「大小」と呼ばれるゲームを闇市街で行っているということか。
「事件の全貌が見えてきたな。そして、お前の話からすると、大小というゲームである程度勝たないと、ディーラーは相手にしてくれなさそうだな」
「ああ、そうらしい」
ディーラー役の、コインを扱うあの流れるような動き。俺は彼と会った時に感じた違和感を口にする。
「なんでディーラーだけ、器用に動けるんだろうか。旦那さんの動きとまるで違うんだよな」
「多分、ディーラーだけ先に死んで、先に憑依したんだろう。で、プレイヤーが霊になり、憑依するまで自分の動きの精度を高めていた。プレイヤーは緩慢な動きでもゲームに参加できるが、ディーラーには流麗な動作が求められる」
「先に死んで……」
俺は驚きのあまり、絶句してしまう。
まるでプレイヤーの人たちが現世に帰ってくるのを、確信していたかのようだ。そうでなければ、あそこまで滑らかな動きを身につけようとする熱意は湧いてこないだろう。
「どうすれば良い?」
俺は親父に聞く。まだまだ見習いであることを痛感する。俺は親父やリルに助けられてばかりだ。
「まず、目的を忘れるな。俺らの目的は依頼人の依頼を完遂することだ。そしてそれには、旦那さんの中にいる憑依霊を成仏させなければいけない。まず、流れを阻害しないことが大切だ。旦那さんや他のプレイヤーがベットしたり、ディーラーが金を増減させたりすることを阻害するな。その上で、お前もプレイヤーになり、ゲームに勝つんだ」
ゲームに勝つ。たしかにそうだ。
彼らに成仏してもらうには、彼らの未練を晴らしてあげなければいけない。そして、彼らの未練は大小を遊ぶことなのだ。
「なので、今日中の退院をお勧めしますよ、西野さん」
親父は病室のカーテンの向かいにいる西野さんにそう言った。あのあと、西野さんが呼んだ救急車で青葉病院に戻された旦那さんは、親父の隣のベッドにおさまったのだ。
親父に呼びかけられた西野さんは、青白い顔をうつむかせたまま、反応しようとしない。疲労とストレスがピークに達している様子だ。
「今の話、聞いたでしょう。旦那さんは何度入院しても、何度でも外に出ていく。なぜだかわからないが、旦那さんの体をのっとった誰かさんは、相当の博打好きだったようで。死んでからも博打が打ちたくてしょうがないようなんです。解決するには、思う存分博打を打たせてあげるしかないんです」
無表情だった奥さんの頬を、つうっと一筋の涙が流れた。ドキッとした。大人の女性が泣く場面は、高校生には不慣れだ。
「……意味が、わかりません」
だろうな。俺が西野さんの立場でもそう言う。
「でも、私はあなたたちを信じます。あなたたちは二回も主人の居場所を突き止めてくれました。そして、病室から飛び降りたところを受け止めさえしてくれました。そんな人たちが嘘を言っているはずがありません」
西野さんは涙を拭うと、ナースコールを押し、やってきたナースさんに見張り番を頼んだ。そして俺たちに「退院の手続きを」と言い残し、病室を出ていった。
「……奥さん、もうギリギリだな」
「まあ、無理はない」
「ところで、なんでこんなに入院伸びてんだよ」
俺は親父を睨んでそう言った。入院費もバカにならないんだよ。
「いやケガは軽いらしいんだがな」
「なら、尚更どうして」
親父は「うーん」とうなったあと、
「診察の時、ベッドの横を通り過ぎるナースさんの太ももがあまりに魅惑的でな。思わずしがみついて舐め回したんだよ。そしたらドクターが、脳に異常があるかもしれないから徹底的に調べましょうって……」
死んでしまえ。そして成仏しろ。
返事をする気も起きず、俺はため息を吐いた。しばらくすると、旦那さんを見張っていたナースさんが他の病室に呼ばれたようで、「ごめんなさい。ちょっと見ててくれる?」と言って病室を出ていった。俺は会釈をし、旦那さんの見張りを引き受けた。親父はその間、「あのナースさんもいいなあ」みたいなことをぶつぶつ呟いていた。
「退院します」
戻ってきた西野さんがはっきりとした声音でそう告げた。うちの事務所に一人で訪ねてきたり、わりと行動力のある女性なのかもしれない。
親父はこくんと頷き、
「ご決断、どうも。では旦那さんを普段の服装に着替えさせてください。この前のように病院服で裸足だと、どうしても支障が出ますから」
西野さんは「はい」と返事をし、カーテンを閉めた。
「オミト、お前は先に現場に行ってろ。あとでご夫婦も闇市街に行かせる」
「わかった」
俺は病室を出て、エレベーターがある方へ向かった。先に行って情報収集をしておけということだ。まあ、俺がしなくても現地に住んでいるリルが動向を探ってくれているだろう。
俺は早足で病院を出て、闇市街に向かった。病院からはすぐそこだ。昼間の闇市街は、酔っ払いどもがいない束の間の平穏に包まれていた。俺は兎屋の廃墟に足を運び、ガンガンと扉を叩いた。いつもなら廃墟に似合わない美少女がひょこっと顔を出すのだが、この日は音沙汰なしだった。
いないのか? あいつでもこの街から出る時があるのか?
そう思っていると、ふいに後ろから声をかけられた。
「こっちだ、オミト」
「うわっ」
なぜか至近距離で囁かれて、背筋がぞわっとした。振り向くと、真顔でピースサインを作るリルがいた。
「なにしてんだ、お前」
「そう怒るなよ。ちょっとしたサプライズではないか。それより、報告がある」
リルはポケットからガサガサになった一枚の紙を取りだした。
「今日、街をずーっと歩いていたのだが、旦那さん以外にも二人のプレイヤーを確認した。行動は旦那さんと同じで、道に刻んであるベットポイントに小銭を置くだけ。あとはどうしているかというと、人目につかない袋小路で座って、機能停止してる」
他に行方不明になっている二人だな。これで、行方不明者全員を確認できた。
「で、だ。賭けてから一時間するとオミトが話していた風貌のディーラーがやってきて、賭け金を一度回収し、サイコロを振る。その結果に合わせて小銭をベットポイントに再び置く。機能停止していた連中が自分の取り分を取りに出てきて、小銭を回収していく。このルーティーンが、きっかり二時間で行われている」
プレイヤーがベットし、ディーラーが回収し、サイコロが振られ、配当金が出る。大小は常にこの流れだ。そして、リルによるとそれは二時間でルーティーン化されているという。
「ベットする時間って、本来の大小だとどれくらいなんだ?」
「特に何分と決まってるわけではないな。参加人数や場の盛り上がり具合などから、ディーラーが適切なベットタイムをとるようになってる。もともと、道端で市民が集まって行う賭けごとだからな」
当然ディーラー側にしたら、多くの賭け金が集まる方が儲かるに決まっている。その辺もディーラーの裁量次第ってことか。
「ちなみに今はどの時間帯にあたる?」
「ベットタイムがちょうど終わる。ディーラーが現れるはずだ」
リルの言葉通り、どこからともなく巨体のディーラーが現れ、闇市通りをのっそのっそと歩き始めた。俺はその眼前に立ちふさがる。ディーラーの歩みが止まり、向こうも俺を見据える。
「参加者かね?」
昨日と同じ言葉。俺は力強く「ああ」と答える。
「ふむ、どうやらあなたは、死者の秘密を暴きたくて仕方ないようだ」
「条件をつけてくれ。俺らもあんたらのゲームに乗っかるさ。乗っかった上で、勝ってやる。そうしたら、俺の問いに答えてほしい」
「結構。賭け師は、蛮勇で以って挑む参加者を決して拒まない。結構、結構……」
ディーラーはもともと鋭利な目つきを更に細め、ガマガエルのような口を歪めた。
「こうしよう。お二人はそれぞれ百円ずつで開始してもらう。日付が変わる瞬間、参加者の中で一番儲けていたら、あなたたちの問いに答えよう」
俺はリルと視線を交わした。リルの目がキラキラしている。面白くて仕方ない様子だ。
「わかった」
「よろしい。ルールを明確にしよう。百円からスタートし、持ち金がゼロになった場合そのプレイヤーはリタイアとなる。日が変われば、再び百円からスタートできる。賭け金が残っているプレイヤーも、日が変わったら再び百円からスタートしなければいけない。もちろん、その日儲けた金はポケットに仕舞って構わない。イカサマは禁止だ。最初の百円と、その日の賭けで得た配当金以外を財布から出して使用してはいけない。使用したとしても、私には必ずわかるようになっている」
なるほどな。日をまたげば、何度でも挑戦できるのか。一見甘いルールに思えるが、こいつは俺らに時間制限があることを知っていてそんなルールにしてきたのだろう。俺らは旦那さんの体が完全に乗っ取られる前に憑依霊を成仏させなければならない。何日もかけている時間はないのだ。
「そのルールでいい。そっちも、サイコロの目をごまかしたりするなよ」
俺が言うと、ディーラーは肩を震わせて笑った。
「当然だ。誓って、イカサマはしない」
ディーラーはそう言うと汚いリュックを降ろし、サイコロを振った。
一、三、二。
「小、か。あなたたちも、次のベットから参加するといい。いまのベットで大勝ちしているプレイヤーがいないといいがね。では、幸運を」
ディーラーが去り、俺とリルが残された。
「どうするのが良い戦法なんだろうな」
さっそくリルが考え込む。次のベットまで一時間あるから、作戦タイムだ。
「そもそも、なんであいつにはイカサマしたことがわかるんだ? ブラフか?」と俺はリルに訊く。リルの答えはいつも通り整然としたもので、
「いや、ディーラーは賭け金と配当金を全て把握することになるから、いま市場にいくらあるかわかるのだと思うぞ。財布から金を出したら、収支が合わなくなるから一発でバレる」
なるほどな。たしかに、市場にいくらの金が出ているか知っているのはディーラーだけだ。
「他のプレイヤーは憑依霊だ。のそのそとした単純な動作しかできない。ベットポイントに置いてある他のプレイヤーの配当金を盗んだり、財布から金を出したりはしない。つまり、ゲーム中に不自然な出来事が起こったら、それは私かオミトの仕業とディーラーは考えるはずだ」
ふむ。正面突破するしかないか。
「現在十四時十二分。午前0時までには、あと五回ベットするチャンスがある。オミト、どうする?」
どうするって言われてもな。俺はこのゲームに関しては門外漢だぞ。
俺が無言でいると、リルは自論を話し始めてくれた。便利なやつだ。
「勝負に乗ったは良いが、相当厳しいぞ。一番確率の高いベッドポイントである、『大』または『小』でさえ、当たる確率は二分の一以下なのだから」
「ん? 二分の一じゃないのか?」と自分で言いながら気づいた。ゾロ目が出たら大小どっちに賭けていても負けになるのだから、たしかに勝てるのは二分の一以下の確率だ。
「私たちには百円ずつしかない。必然的に選択肢はふたつだ。二人で大と小のどちらかに賭けるか、一人が大、一人が小に賭けるか」
前者だと、当たった時のリターンがでかい。しかし、最初に外してしまうとその時点で
俺らの負けが確定してしまう。
後者は安全策だ。だが俺とリル、どちらかは最初のターンでリタイアすることになる。
「……後者だ」
どこか釈然としなかったが、他に妙案もなかった。俺とリルはじゃんけんをし、勝ったリルが大を選んだので、俺は小に賭けることになった。
ベットが始まるまで三十分もあった。しばらくすると西野さんが旦那さんを連れてきてくれて、俺とリルに深々と頭を下げた。旦那さんは私服に着替えており、遠目では一般人と変わらない出で立ちになっていた。
「私は、主人についてます」
儚げにそう言うと、西野さんは闇市街をふらつく旦那さんに付き添って歩いていった。
「……あの人、ギリギリだな」
リルが顔をしかめて呟いた。たしかにそうだ。足取りは重いし、目の下は隈で縁取られている。
「そうだな」
どう声をかけたら良いかわからなかった。俺とリルは兎屋に引っ込み、リルが昨日買っておいたというラジオ焼きを二人で食べた。
昼の闇市街は仕込みをする居酒屋のおっさんや、酒を届けにきた酒屋のスクーター以外には、野良猫くらいしか動くものがない。午後三時を迎え、俺とリルはどちらからともなく立ち上がり、二手に分かれて大と小のポイントに百円を置いた。再びリルと兎屋で合流し、一時間以上グダグダと過ごした。
午後四時になり、街に人が増え始めた。早いと、この時間から開く居酒屋もある。そして何の仕事をしているかわからない人々が白昼堂々飲み始める。
俺とリルは通りに出て、辺りを見回す。どこにいたのか、ディーラーがやってきて、居酒屋のシャッターの前に座り込み、リュックを降ろした。
「時間だ」
ディーラーはサイコロを振る。
三、三、二の小。
「むう」とリルが声を漏らした。
これでリルはリタイアだ。
ディーラーが配当金を配りに行く。俺の持ち金は二百円になった。
俺は小のポイントに行き、二百円を拾ってきた。さて、今度はどうするかな。
「問題はさっきと変わってないな」
リルが不満顔で言った。そうだ。結局俺らの持っている金は一回目のベットと変わらないではないか。
「すると、さっきの作戦は悪手だったってことじゃないか?」
「悪手というか、プレイヤーの数が一人減っただけだな」
「むう」
リルがまた唸った。俺はそれを無視し、
「リル、大小以外に一番当たりやすいポイントはどこだ?」
「えっと……シングル・ナンバーってやつだな。数字をひとつ選び、三つのサイコロのうちひとつでもその数字が出れば勝ち。ひとつ出れば二倍、ふたつ出れば三倍、みっつ出れば四倍だ」
暗算をする。三つのサイコロのうち選んだ数字がひとつ出る確率は――ええと、二分の一か。ふたつなら、約十五パーセントだ。
「ふーん……ちなみに、ゾロ目を当てるとどれくらいなんだ?」
「『ゾロ目のどれかが出る』なら三十倍、『ゾロ目でしかもどの数字か当てる』なら、百八十倍だ」
「すげえな」
当てた時点で勝ち決定だ。
俺の頭では暗算できない領域になってしまったので、携帯の電卓機能を使う。ゾロ目になる確率は、約二.五パーセント。ゾロ目で、しかもどの数字かを当てられる確率は……約〇.五パーセントか。
ほぼ不可能だ。こりゃ、確率の高いベットを重ねて確実に稼ぐしかなさそうだ。
といっても、持ち金は二百円しかない。俺とリルは兎屋に引き上げ、侃々諤々と作戦会議をした。慎重派の俺と、大勝ちを狙う流浪のギャンブラー、リルという構造である。
「絶対にゾロ目だ」
一回目でスッたくせに、リルはそう言って譲らない。
「お前さっきは大か小かの賭けに賛同してたじゃねえか」
「たしかにそうだ。しかし実行してみてどうだった? 何も変わっちゃいない! 次は博打師らしく、大勝負に出るべきなのだ、オミト」
誰が博打師だ。
「目的を履き違えてないか? プレイヤーの中で一番になればいいだけだろ。何も金儲けしなくてもいいだろ」
「だって、当たれば勝ち決定ではないか。その方が効率的だろう。それともアレか、金をスるのが怖いのか?」
「人の金だと思って好き勝手言いやがって……」
「ははは、よもや図星か? 弱虫! 弱虫!」
「小学生かよ」
「童貞!」
「……お前、表出ろ」
不毛なやり取りをたっぷり一時間半行い、折衷案で行くことにした。
百円は「大」に。
もう百円は「ゾロ目のどれかが出る」に。
「時間だ」
午後六時になり、ディーラーが通りの真ん中に腰を降ろした。闇市街はお祭りの日かのような賑わいを見せていた。今日が特別ではなくここは一年中こうなのだ。お祭りと違うのは、家族連れや子どもの姿がなく、いるのは仕事をしているかどうかわからないおっさんたちが大勢、という点だ。
サイコロが振られる。
ひとつめは、三。
ふたつめも、三。
俺は息を飲んだ。隣のリルがぴょこんと小さく跳ねた気がした。
みっつめのサイコロが振られ、茶碗の中で踊る。
止まった。
二。
胃に鉄球でも入ったかのように、一気に落胆が広がった。外れた。しかも、大小の賭けも外れたから、持ち金はゼロになった。
「残念だったね」
察したのだろう、俺とリルの顔を見たディーラーがそう言った。そして、のそのそと去っていった。
お互いに罵る気にもなれなかった。俺とリルはどちらからともなく兎屋に向けて歩き出し、朽ちた扉の前に来たところでやっとリルが口を開いた。
「負けたな」
想像以上にめんどくさいゲームに巻き込まれたのかもしれない、と俺は思い始めていた。
初日の敗北から二日経ち、俺とリルは大小というゲームの難しさに打ちのめされていた。
二日目は初日の反省を活かし、二人で「大」に賭けた。賭け金を四百円にしないとどうしようもないと思ったからだ。しかしディーラーが出した目の合計は「七」の「小」で、俺とリルは再び罵り合いをすることになった。
三日目は初めて最初のベットで賭け金を四百円にすることに成功し、最終的に俺が千百円、リルが八百円で結果発表を迎えたが、憑依霊側のプレイヤーが二千四百円という成績を叩きだしたので、俺らの努力と幸運は水の泡となった。
「オミトの悪運ぶりには辟易するよ。十六時台のベットでダブル・ベットに賭けていれば簡単に勝てただろうに。あーあ、あーあ」
再びラジオ焼き屋のカウンターに戻ってきていた。約一週間ぶりに訪れた俺らがげっそりしているのを見た女将さんが「大丈夫かい? 夏バテ?」と心配してくれたが、真相を話すのはやめた。話しても信じてもらえないだろうし、女将さん自身、商売に忙しくて俺らに話した噂話など忘れている様子だった。
俺は確かに悪運ぶりを露呈していたが、リルは「カモがネギしょってきた」みたいなプレイヤーだった。熱くなり、過剰に落胆し、過剰に喜ぶ。前回の結果を気にしすぎるし、大事なところで勘に任せる博打をうった。ディーラーからすると、これほど操りやすいプレイヤーはいないだろう。
「くーっ、あんときゾロ目だったらなあああああ」
リルはカウンターの汚い板に突っ伏し、自分の太ももに向けてぶはぁーっと息を吐いた。競馬に負けたおっさんそのものである。こんな女子高生いやだ。
ラジオ焼きを頬張る。店の外では今も大小のベットが人知れず行われている。俺は現在二百円を、リルは百円を所持しているが、今回のベットでは賭けないことを決めた。理由をひとことで言うと、当たる気がしなかったからだ。
ふいに、ポケットに入れた携帯が鳴る。親父からの着信だ。
「ちゃお。調子はどうよ?」
「なんだその妙なテンション……」
とうに退院しているはずなのに、親父は闇市街へ姿を現さなかった。電話で催促しても、「俺は俺の道をゆく」とかなんとか言ってはぐらかすのだ。
「で、どうだ。勝ち目は見えたか」
俺は傍らに突っ伏すリルをちらりと見る。この姿が現状をよく表している。
「駄目だ。俺らに博才はない」
「ふん。それだからお前は見習いなんだよ。いいか? このゲームに博才なんていらねえよ」
飄々と話す親父に、俺は違和感を覚えた。
「親父、大小知らなかったはずだろ?」
「退院してから覚えたんだよ。あ、俺今マカオにいるから」
「はあ!?」
ここ一年で一番でかい声が出た。リルが「わ。びっくりした」と顔を起こした。
「マカオだよマカオ。大小の本場といえばマカオだ。ここはすごいぞ。いつの間にか、ラスベガスよりも大きいカジノ街になってたんだ。知ってたか?」
「いや……知らんけど……」
毎度毎度、突拍子のない行動をとる男だ。人をびっくりさせないと死ぬ病気にでもかかっているのだろうか?
「で、そっちで大勝ちしてるってわけか?」
「大勝ちってほどでもないな。千ドルくらいは儲けたが」
充分じゃねえか。十万円近いぞ。
「このゲームには必ず勝てる。五感を研ぎ澄まし、ディーラーとプレイヤーの思惑を読み切ることができれば、必ず出しぬける」
そりゃそうだろう。問題は、高校生二人にはそれが難しいということなのだ。
携帯の向こうの異国で、親父が嘆息する気配が聞こえる。
「本来ならお前に任せきりにして成長を促したいところだが、今回は時間制限があるからな。知恵を貸してやろう。ディーラーから課せられているルールを話せ。全部だ」
俺は親父に闇市街でのルールを話した。二時間ごとのベットや、毎日全員百円から始まること。全てを話すと、親父が小さく舌打ちをするのが聞こえた。
「舐められてるな。俺なら一日目でクリアできる。運が悪くても二日かな」
「なんでそんな断言ができるんだよ」
「お前らがやってるゲームには必勝法がある。んで、お前らはそれに気付いていないわけ。もっと言うと、必勝法がわかりやすいようなルールを提示されているのに、わかってないわけ」
俺の脳裏を、ここ数日のできごとが巡った。なんだ? 何かを見落としていたのか?
「わからないか?」
「……イカサマか?」
「違う」
一拍の間。またタバコでも吸っているんだろう。
「一日に行われるベットの回数は?」
これには即答できる。十一回だ。
俺が答えると、親父は妙なことを言い出した。
「九回目と十回目に賭けろ。それ以外は無視していい」
「え?」
言葉に詰まった。なんで断言ができるんだ。
「それは、元金の二百円をその二回に分割しろってことか?」
「そうだよ」
「どこのベットに?」
決まってんじゃねえか、と親父は笑い飛ばした。
「ゾロ目にだよ」
大小のジャックポット的役割のゾロ目。当たれば三十倍、百円が瞬時に三千円に変わる。
「ゾロ目を当てて、あとは何もするな。憑依霊どもは、三千円は超えてこないはずだ。それがそいつらに課せられた設定だからな」
「設定……?」
「憑依霊どもはどれだけ儲けても三千円以下になるよう、ディーラーに命じられているはずだ。データをとってないのか? その日の各プレイヤーの最終金額、すべてのベットの出目。記録していれば、出目に偏りがあることくらい簡単にわかっただろうに」
呆然とした。なんで親父はそんなことが言える? まるでここにいるかのように。そして、たしかに俺とリルは記録を怠っていたのだ。自分たちが負けたあとも、二時間ごとのベットを観察する気が起きなかった。
「つまり、仕組まれていたってことか?」
イカサマはしないと語っていたディーラーを思い出す。あれは嘘だったってことか?
「いいか、仕組まれていない賭け事は存在しないし、イカサマのないゲームも存在しない。よく考えてみろ。お前がゲームに参加してから、何回ゾロ目があった?」
携帯を耳から離し、思いかえす。意外と出たんだよな。リルがゾロ目に賭けた次のベットがゾロ目だったりして、そうやってリルはずっとカモられていたわけだ。
「そういえば、五回くらいはゾロ目だったな」
「お前が参加している間でもそれだけ出てるんだぞ。見てない時を含めたら、確率に対して出ている回数がおかしなことになってるだろ」
ゾロ目が出る確率は三十回に一回。本来なら、三日に一度しか出ないはずだ。
「ディーラーがイカサマを?」
「違う。俺がマカオでやった大小でも、ゾロ目は定期的に出た。大小では、確率論は通用しないんだ」
「サイコロを用いるゲームなのに、確率論が通じないのか?」
「賭け事ってのは人間がやるものだ。機械的にはならねえよ。ま、俺からのヒントはそのくらいだな。あとは現場の若人に任せる。俺はこの地で大富豪になる」
ブツっとそのまま電話は途切れた。これ国際電話か。いくらかかったんだろ。
九回目か。午後六時だから、ちょうど次のベットだ。
「リル」
俺は闇市のスペシャリストを呼ぶ。「んー?」と気だるそうな返事だ。
「最後にゾロ目が出たのっていつだっけ?」
「えっと……昨日の夕方だったはずだ」
「次、賭けてみよう」
リルが顔を上げる。
「オミトらしくないな。誰の入れ知恵だ?」
勘の鋭いやつだ。親父の言う通りにするとも言えず、俺は頭を掻いてごまかした。
「いいから、行くぞ」
ラジオ焼き屋で会計を済ませ、俺とリルはベットポイントに向かった。「どれでも良いからとにかくゾロ目」――エニー・トリプルは、大と小の間にある。ホルモン焼き屋とつけ麺屋の間の路地に記号が刻まれている。誰もお金を置いていない。俺は百円をそこに置き、しゃがみこんで何となくその場で両手を合わせた。最後は神頼みだ。
時間になり、どこからともなくディーラーが現れた。
「時間だ」
いつもの動作でディーラーが座りこむ。生者のように滑らかな動きだ。旦那さんも、他の憑依霊プレイヤーも、確実に動作が滑らかになってきていた。もう時間がないのは確かだった。
最初のサイコロが振られる。茶碗を滑って、出たのは一。
ふたつ目も、一。
三つ目も一だ。
「え」
リルがくらりとよろめき、次の瞬間、俺のろっ骨を折ろうかという勢いで抱きついてきた。
「うわあああああああああああああああああああ! そろった! そろったぞオミト!」
見ればわかる。それより、ろっ骨に続いて首を破壊しようとするのをやめてほしい。
「おめでとう」
ディーラーが様子を察してゆっくり拍手をした。次いで、配当金を配りに歩き始めた。俺とリルはゾロ目のポイントに先周りし、百円が三千円になった瞬間にその金を受け取った。
「ど、どうしてわかったんだ、オミト」
俺にもわからん。でも、おそらくゾロ目は一日に一回くらい出ることになっていたのだと思う。それがどんなカラクリになっているかはわからない。親父はわかっているようだったが。
いずれにせよ、俺の持ち金は三千円だ。親父の読みだと、この金額を超えるプレイヤーは出てこない。俺とリルは塩もつ煮込みで有名な「つきぐみ」でモツを食いながら、日付が変わるのを待った。隣の飲んだくれが「お二人さん、未成年だろ? ませてるねえ」と絡んでくるのをかわしつつ、モツを食った。
0時が近づき、俺とリルは通りの中央へ向かった。毎日そこで結果発表がされることになっていた。
電信柱の下で、弱々しい街灯に照らされ、憑依霊たちは揺れ動く。ここ数日で旦那さんはずいぶん人間らしい動き方をするようになってしまった。こわばっていた関節が滑らかになり、表情も締まりがあるものになってきた。早くしないと、旦那さんの魂は永久の眠りについてしまう。
「では、本日の結果を言おう」
幾分厳かにディーラーが言う。
「初めてだ。我々のゲームで、生者が勝ったのは」
嬉しくはなかった。隣でリルは狂喜乱舞していたが、親父のアドバイスがあったからこその勝利だ。カンニングをした感覚に似ていた。
落ち着き払って、俺はディーラーの厚ぼったい眼を見つめた。
「約束通り、こちらの質問に答えてもらうぜ」
「質問、と、は?」
その言葉はディーラーからではなく、俺の真横から聞こえた。旦那さんが、いや、旦那さんに憑いた霊が俺の言葉に反応したのだ。西野さんがぎょっとした顔で旦那さんのそばから飛びのき、俺にぶつかりそうになった。
「おお」
ディーラーが感嘆の声を上げた。
「七助、六十年ぶりだな」
「ひさし、ぶり、だな」
言葉は途切れ途切れで、口元は不格好にわなないている。それでも、旦那さんに取り憑いた霊――七助は、宿主の魂を蝕み、ついに言葉を獲得した。
「実は、この少年が勝ったら我々の正体を明かさなければならない約束になっている」
ディーラーが愉快な様子で言った。
「お前、らしいな……敵にも敢えて、好機を与えようとするのは……昔からの、悪癖だ……」
「好機を与えて、寸前で勝利するのが好きなのだよ」
「それで、負けては、意味なかろうに」
その通りだ。親父の話だと、このゲームは俺ら寄りのルールになっていたらしいしな。
「まあいい。約束通り話してやろう」
ディーラーはその場に座り込み、電線だらけの狭い空を見上げた。
「七十年前、私はこうして、この場所で座りこんでいた。陛下の玉音放送が流れて日本が負けた、次の年だ。戦争が終わっても人々は飢え、生きるのに必死だった。政府は民衆を助けるのに充分な役割を果たしているとは思えなかった。あいつらはGHQの機嫌ばかりうかがい、民の方向を向いてはいなかった。だから人々にはこういう場所が必要だった。非合法でも良いから、市場が必要だった。それがこの場所だ」
リルが唾を飲み込む音が聞こえた。闇市のことを、当時生きていた人間から聞くのは初めてのことなのだろう。
「私はこの場所が好きだった。毎日誰かと誰かが喧嘩していたし、子連れで飢えている若い母親など見るに堪えなかったが、とにかく活力があった。だからいつもここで座って、通りを眺めていた。毎日そんなことをしていたら、隣で同じように通りを眺めていた男と顔見知りになった。それが七助だ」
ディーラーは旦那さんの顔を見た。旦那さん――七助は、こくりと頷いた。
「俺は七助に何をしているのかを訊いた。七助は、金儲けの方法を考えていると言った。お互いに博打が好きで、私が戦前からチンチロの鉄火場で働いていたこともあって、すぐ打ち解けた。私たちはチンチロでひと儲けできないかと企てた。しかし、ひとつ障害があった。チンチロは戦前から流行っていたから、イカサマの手口も知られてしまっている。なんとか新しいイカサマの手口はないかと思っていたら、残飯シチューを出す店でひとりの朝鮮人と知り合った。それがチホだ」
ディーラーは旦那さんの隣の憑依霊を見上げた。驚いた。日本人の体に、朝鮮人の魂が入っているのか。
「当時、朝鮮は戦勝国だったから、闇市において絶大な勢力を誇っていた。彼らだけは何をしても警察に捕まらず、やりたい放題だった。上等な肉が手に入らないから、モツなどの臓物を持ちこんだのも彼らだ。まあ、その点は日本人も恩恵に預かったと言えるが……とにかく、私たちは朝鮮人とは関わらないようにしていたのだ。でも、チホは違った。私たちの話を隣で聞いていて、大小という博打を教えてくれたのだ」
チホと呼ばれた憑依霊は、右手を頑張って動かし、サムズアップを作った。
「チホから大小を教わり、私たちは気狂いかのようにそれにのめり込んだ。とにかく面白かった。チホは、様々なイカサマも教えてくれた。闇市の片隅で、我々は飢えも忘れ、子どものように遊んだ。いつしか我々は、稚気の頃からの親友のようになっていた。我々は作戦を実行に移した。七助は声がよく通ったので、闇市を歩く民衆に呼びかけて人を集める役だ。チホはデカが来ないかの見張り。私はディーラーだ」
ディーラーは当時を回想するかのように目を瞑った。
「破竹の勢いだった。金に目が眩んだ民衆を扇動し、金をせしめた。大小は場所を選ばない博打だ。何もないところに賭け場を立ち上げ、民衆から金を巻き上げ、警察が来る前に撤収する。当時の日本にあって、我々が金と食うものに困ることはなくなった」
当時、毎日何人もの人間が飢え死にし、その死体を野良犬が食っていた時代だ。破格の待遇に彼らはのし上がったといえる。
「ある日、いつものように大小をやっていると、小柄な男が近づいてきた。男は特殊警察だと名乗った。私服だったから、チホの見張りをかいくぐったのだ。私たちは一巻の終わりだと思った。しかし、その男はナマグサデカだった。男は自分もひと儲けしたいと言ってきた。それが嘉人だ」
ディーラーはチホの隣の憑依霊を見上げた。あくどい警官もいたもんだ。
「七助が人を集め、私が金を集め、チホが『デカだーーーー!』と叫ぶ。博打をやっていたら民間人でも捕まるから、みな蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。そこに本当に嘉人のような、デカ風の男がやってくるから疑う者はいなかった。あとに残ったのは賭け金というわけだ。誰も我々四人がグルだと見抜けなかった」
シンプルで、しかしよく考えられた作戦だと思った。まさか警官までグルとは思うまい。
「しかしこの作戦にも欠点はあった。本当に警官に追いかけられることもあったし、我々四人がいつも固まって歩くわけにはいかなかった。グルだとバレたらそれまでだからだ。だから、普段は離れて行動し、次どこで博打を行うかを暗号で決定していた」
「それが街全体のベットポイントということか」
リルが話に割って入った。こいつの話を先取りする能力は、大人顔負けだといつも思う。
「そうだ。我々は闇市のいたるところに符号を刻んだ。街全体を大小のベット・シートに見立て、集合場所の暗号としていた。そんな風にして、警官の目をかいくぐっていたのだ」
ディーラーが一息ついて、首を微かに横に振った。
「しかし、落とし穴に突然ハマった。ある日の賭けで、身なりの良い中年男をカモにした。その男は、始めは冷静だったが次第に熱くなり、最後は恥辱で顔を真っ赤にし、財布を空にして去っていった。その男はヤクザの親分だったらしい。次の日私たちは手下に囲まれ、全員が捕まった。ヤクザのアジトで、我々は徹底的にリンチされた。爪を剥がされ、唇を蝋燭で焼かれた。死を覚悟した我々は、朦朧とする意識の中で再会を誓いあった。俺たちはこんなところで終われない。化けて出てやろう、と」
それで本当に化けて出ることはあるまいに。ハタ迷惑な奴らだ。
「で、どうして今年集まることにしたんだ?」
別にいつでも良かった気がするんだが。なんでまた今年にしたんだ。
「偶然、だった」
口を開いたのは七助――旦那さんだった。
「盆で、この世に来ていた。俺と、チホと、嘉人が、この場所で偶然出くわした。霊魂の状態で、だ。あの世に帰る前の、日。俺たちは、計画を実行、することに、した。それ、ぞれ、生者に、憑依をした。それで、死ぬ前に話していた、街を使っての、大小を、やることにした」
「なるほど。あなたたちは、決して成仏していなかったわけではないのだな」
リルがまた口を挟んだ。ずいぶんあの世のことに詳しくなっちまっている。
でも、リルの言う通りだ。盆だからこの世に戻ってきたというなら、それまではあの世で転生の順番待ちをしていたということになる。
「そう、だ。我々は、無知だった。生と死に関して。本当、に、成仏が中断でき、るとは、思って、いなかった。だから、成仏してしまった。でも、我々は、盆で帰ってきた時に、やはり闇市が、気になったのだ。そこには、伝作が、いた」
伝作? ああ、そうか。ディーラーにも当然名前があるのだ。
「私は待っていたのだ。友人たちが復活する日を」
ディーラーが感慨深げに言った。
「私もまた、成仏していた。しかし十年前の盆、生者に取りつくことを思いついた。街から一人の浮浪者が消えたことなど、誰も気づくまい? それから、私は闇市で友人の復活を待った。十年間、サイコロを弄び続けて。そして、その時は来た。友人たちも、生者に取りついて、我々は現世での再会を果たしたのだ」
こいつらはずっと浮遊霊としてさまよっていたわけではないんだな。成仏していたが、盆というきっかけで偶然再会した。それが今年だったというわけか。
「この数日は楽しかった」
ディーラーがまるで子どもかのように呟いた。
「今までの路上大小は準備運動だ。これから、本当の大小を始める。昔のように賽の目で一喜一憂する遊戯をするのだ」
ディーラーだけは十年も前に戻ってきていたらしい。だから動きがスムーズなのか。
「返してよ」
路地に悲壮な声が響いた。声の主は、西野さんだ。
「どうしてあなたたちの都合で私の夫が取りつかれなきゃいけないの。返してよ。私の夫の体を、早く返して」
ディーラーはその様子をじっと見ていた。何の感情も表さず、実験動物を眺めているかのようだった。次の言葉で、俺とリルは拍子抜けした。
「わかった」
いいんかい。だったら、早いとこ成仏してくれや。
「我々はここ数日楽しませてもらった。積年の願いも成就した。もはや現世に執着する理由もない。我々は体を明け渡そう」
やれやれ。何とか平和的解決がのぞめそうだ。
「ただし」
ディーラーの目がきらりと光った。
「まだ普通の大小をしていない。今から大小を行い、勝ったら体を返してやろう。もし君らが負けたら――」
ディーラーがにたりと笑った。
「それでも、体を返そう」
ディーラーがリュックの名間をまさぐり、二つ折りになった板を取りだした。開くと、当然それは大小のベッドシートだ。
「持ち金は百円玉十枚、千円からのスタートだ。連続で五回行い、終了時の金額で雌雄を決する。何か質問は?」
ない。リルも同じようだ。
「じゃあ、いこうか」
すぅっと、ディーラーは深く息を吸った。
「さあ、あとないか。あとないか。張っておくんなさい、デカの来る前」
ディーラーが通りに向けて呼ばわる。街ゆく酔っ払い共、仕事帰りのサラリーマンたちが不審そうな眼を向ける。当然、賭けに乗ってくる人はいない。俺らは己の直感とツキを信じて、それぞれ賭けを始める。リルは二百円を大に、百円を「一が二つ出る」に賭け、俺は三百円を小に賭けた。憑依霊たちも、思い思いの場所に賭ける。
「時間だ」
ディーラーがサイコロを三つ振り、それぞれのサイコロがどんぶりの上で静止した。三・三・一の小。俺は右手で小さくガッツポーズをつくった。隣のリルが「むむむう」と唸った。リルは本当に博才がない。俺が一位に躍り出たかと思ったが、憑依霊の中に「二つの三が出る」に賭けていた者がいたため、俺は暫定二位だ。
次のベットは六、五、三の大。その次は四、六、四の大。どんどんとリルは持ち金を吐きだしていき、優勝争いは俺と旦那さんに取りついた憑依霊・七助のデットヒートになってきた。
四回目のベット、再びディーラーが「さああとないか、あとないか」と呼ばわり始めた時、俺は背後に異様な気配を感じた。
なんだ。
なんだこの、むせ返るような汗臭さと泥臭さは。
「オミト、どうした?」
後ろを向いている俺にリルが声をかける。しかし俺はリルに、自分が見ているものを説明することができなかった。常人には見えないものが俺の目には映っていたからだ。
この世に残留する霊たち。彼らが、ディーラーの呼びかけに応えて大小の賭け場に集まり始めていた。ガヤガヤとお互いに顔を見合わせ、仮初の一攫千金を夢見てベットシートを見つめている。二重、三重にも人だかりができ、俺は暑苦しさを感じていた。実際には七人しかいないのだが、俺だけは三十人の人混みの中で賭けをしている感覚だった。
ここはどこだ。
ここは――闇市だ。戦後の。人間の汗臭さと、生きる力が今より克明だった時代だ。
「さあ、あとないか、あとないか」
ディーラーが手を叩いて客をあおる。そういえば、憑依霊が取りついた体からは、霊魂は見えているのだろうか?
「何がはじまるのかしら」
「大小? こんなの、儲けっこないんだよ」
「面白そう。どうやって賭ければいいの?」
霊たちはぶつぶつと感想を述べ合う。ディーラーの元にしゃがみこみ、小銭を置く霊もいる。堰を切ったように賭け金が積み上げられていく。大にも、小にも尋常じゃない額の小銭が置かれた。もちろん、俺以外の人間には見えていないだろう。
でも俺には見えた。存在しないはずの小銭や、賭け場の熱気も。みんなが稼ぎたくて、食い扶持を確保したくてギラギラしていた。
俺は右手に握っていた百円玉を、一枚ベットシートに置いた。
その場所はエニーナンバー・トリプル。ゾロ目狙いだ。
ディーラーの手からサイコロが振られる。最初の数字は一。
次も一。
その次も、一だった。
勝負を決める、ゾロ目だ。
「見事」
ディーラーが俺を見上げて言った。
「どうしてわかった?」
俺は目を瞑っていた。親父の電話を思い返して、自分の仮説と照らし合わせていた。
うん、そうだ。親父の言っていた必勝法は、多分これだ。
「賭け場が賑わっていたからだ。ゲームが終盤になるにつれて、賭け場の熱気は上がる。そのタイミングでお前はゾロ目を出す。それが――それが、お前らの必勝法なんだ」
ディーラーはニタリと笑った。そして、三つのサイコロを再び投げた。
一、一、一。リルがハッと息を飲んだ。
「まさか、サイコロの目を自由に操れるのか?」
「そうだ。私の唯一の特技でね」
「じゃあ、やはりお前らはイカサマをしていたわけか。約束が違うだろう!」
リルの声が苛烈さを帯びた。ディーラーと憑依霊たちは顔を見合わせ、声を上げて笑った。
「いや、いや、いや。お嬢さん、勘違いをしておられる。街全体の大小では誰がどこに賭けたかはわからないわけだし、ゾロ目を出せるからといって特定のプレイヤーを勝たせられるわけではない。現に、君たちは勝っただろう」
「でも、『次にゾロ目を出す』と仲間に知らせれば――」
「それはしていない。証拠はないがね。だが私たちの矜持にかけて、していないと誓えるよ」
ディーラーの厳しい目線で、リルは途端にしゅんとしてしまった。いいから、俺に喋らせてほしい。
「大小は屋外で、街の片隅で息づいてきた賭け事だ。通行人が突然賭けを始められるから、一回一回参加人数が違う。誰かが大博打をすれば場が盛り上がるし、大勝ちしたらそのプレイヤーの賭け方を真似て、みんな途中参加してくる。場の賭け金がでかくなり、大と小に金が積み上げられた時――こいつらはゾロ目を出すんだ」
そうだ。
街全体の大小でも、賭け金が一番高くなる九回目と十回目にゾロ目が頻発していた。親父が言っていた必勝法。それは、賭け場が熱くなり、大か小に賭け金が積み上げられた時をねらって、一人だけゾロ目を狙うというものだったのだ。
「正解だ」
ディーラーがゆっくりと拍手をしながら言った。
「賭け場には様々な感情が渦巻いている。希望、期待、歓喜。焦り、嫉妬、絶望。それがうねりとなって独特の雰囲気を生み出し、正常な思考回路を奪う。果たして次は何が出るのか? 大か、小か? 大が三回続いたから次は小か? 次も大じゃないか? そうだ、あの大勝ちしている人と同じ所に賭けよう。絶対間違いない。それが我々の用意したサクラだとも知らずに、大衆は扇動される……」
次に出るのは、最も確率が低いはずのゾロ目だ。唯一、大と小どちらにもあてはまらないベット。勝つのはディーラーだけの、聖域だ。ゾロ目はジャックポットなどではなく、ディーラー側が勝つための手段だったのだ。
そこを、射抜く。雰囲気に流されず、場の空気を読む。ディーラーがサイコロを投げた瞬間、ゾロ目に賭ける。それが必勝法だ。
周りの霊たちが熱狂し、雰囲気を教えてくれた。だからこのゲームに勝てるのは俺しかいなかった。霊が見えなければこのゲームには勝てなかった。
だが、ひとつわからないことがある。
「どうして自由にゾロ目を出せるんだ? サイコロか、どんぶりにでも細工があるのか?」
ディーラーと憑依霊たちが再び顔を見合わせた。今度は俺が笑われる番だった。
「残念だが、その読みは外れたな。私はサイコロにもどんぶりにも細工はしていないよ。というか、どこにも細工などしていない。サイコロを投げる時の力加減で、狙った目が出せるだけだ。タネも仕掛けもない」
ディーラーはさらっと言ったが、今、ものすごいことを聞いた気がする。
「……化け物並みの技術な気がするんだが」
「一般的な技術だよ。手品師が指先の感覚だけでトランプの枚数を言い当てられるように、私はサイコロの目を操れる。途方もない訓練が必要だがね」
ディーラーは十年前に浮浪者の体に憑依したと言っていた。始めは指一本動かすのも容易ではなかったはずだ。サイコロの目を操れるまでになるには、どれほどの訓練を要したのだろう。
「さあ」
ディーラーは憑依霊の四人を見回した。
「我々の悲願は果たされた。体を明け渡そう」
憑依霊たちは満足そうに頷いた。憑依されている人たちの輪郭がぼやけたかと思うと、そこから影のようなものが抜け出した。取りつかれていた生者たちは、その場に膝をついて崩れ落ちた。
「あなた!」
西野さんが倒れる旦那さんを支え、その顔を心配そうに覗きこんだ。
「律子……俺は……」
旦那さんは息も絶え絶えだが、に正気に戻っている。その他、憑依されていた人たちもゆっくりと起き上がり始めていた。
「警察と、救急かな」
隣でリルが呟いた。俺はポケットをまさぐり、携帯を取り出してボタンを押した。
一・一・〇。
惜しくもゾロ目ではない。
「本当にありがとうございました」
西野家の二人が俺に深々と頭を下げた。
一夜経って、ここはうちの事務所だ。まだ親父はマカオで遊び呆けているらしく、家には俺しかいない。旦那さんは多少の体力の衰えはあるものの、普通に生活するには問題ないとのことだった。
「でも、びっくりしました。幽霊って現実にいるんですね。これまでは否定派だったんですけど、流石に信じざるを得なくなりました」
相談者の西野さんが昨日と打って変って血色の良い顔で話す。そりゃ、まあな。あれだけの怪奇現象に巻き込まれたら、信じるほかないだろう。
「お代は確かにいただきました。親父にも伝えておきます」
「ええ。では、私たちはこれで」
二人が玄関に向かい、奥さんの姿が見えなくなると、すっかり生者らしい顔色が戻った旦那さんがちらりと俺に耳打ちした。
「ねえ、うちの家内、最初は信じていなかったんですよ。僕が夜な夜な夢遊病で家を抜け出すのも、自分が嫌われているから、僕が無意識に家から出たがっている証拠だと思っていたらしくて。笑っちゃいますよね」
旦那さんががちゃりとドアを閉めた途端、俺はため息をついた。
「で、あんたらはどうするつもりだ?」
俺は後ろを振り返った。そこには宿主を失った憑依霊が四体、やけにニコニコした顔で突っ立っていたのだ。
「やっぱり久々に会うと積もる話があってね。君が生者と話している間、昔話に花が咲いていたのだよ」
「また成仏しないとか言い出すんじゃねえだろうな」
俺はぎろりと睨みをきかす。また生者に取りつかれでもしたら敵わん。
「まあ、今回はこれくらいにしておいてやる。我々は充分遊んだからな」
半世紀前に死んだ大人の言葉とは思えない。呆れていると、家の中に光の柱が現れた。
「我々は一年後の盆も現世に来ることにした」
「もちろん、盆の間だけだ。きちんとあの世に帰るさ。来年も君と遊べることを楽しみにしている」
「集合場所はわかっているな。闇市の、ゾロ目の刻印だ。きっと待っているぞ」
光が、だんだんと白んでいく。憑依霊たちはお互いの手を握りながら、あの世へと旅立っていった。
「……はあ」
やっと終わった。憑依されていた人たちの命に別条はなかったし、闇市の噂もこれで収まるだろう。
俺が自室への階段を上がり、またグダグダな夏休み生活へと戻ろうとしたその時、親父の机の黒電話が鳴った。
俺は再びため息を吐き、不機嫌な声音で電話を取って「はい?」と言った。
「こ、こんにちは」
親父だった。なぜかひどく怯えた声をしている。
「……なんだ、親父か。いまどこにいる? なんで帰ってこない?」
「えーっと、それが、大負けしまして。今、残金が六十二円しかないんだ。マカオから動けなくなりました。迎えに来てもらえないでしょうか」
「……泳いで帰ってこい」
容赦なく電話を置く。
親父がギャンブルで勝つなんて、おかしい気がしていたんだ。
窓を開けると抜けるような夏空が広がっている。どこかで風鈴が鳴っている。
俺にはそれが、どんぶりの底をサイコロが滑る音に聞こえる。
誰かリルを知らないか
盆が終わり、この世とあの世が再び寸断された。
街中にいる霊の数も減って、俺は再び怠惰な夏休みに戻っていた。
と言っても九月の足音はそこまで迫っており、蝉の死骸を見かけるたび、俺は休暇が残り少ないことを実感して嘆くのだった。
実際その日も、俺は昼間に起きベッドの上でぼんやりしているだけだった。暑さがピークを迎えた頃に、事務所のドアが開いて誰かが入ってくる音が聞こえた。
「オミト、いないのか?」
声の主は俺の親父である。先日マカオまで単身旅行に行き、大小というギャンブルで持ち金をすべて失った。日本大使館に泣きついて強制送還されてきたのが一週間前のことである。特に悪びれる様子もなく、「大使館の用意した飛行機だった。ビジネスくらい乗れるのかと思ったら、エコノミーだったぜ」とだけ吐き捨て、あっさりと元の生活に戻った。
我が父ながら、なかなかのクズっぷりである。
「んあ?」
俺はドアから首だけ出して応答した。
親父の不細工な髭面が階下からこちらを覗いている。
「客だ。悪いが、茶を出してくれ」
「へーい」と答え、俺は一階に下りた。跡取りになるために修業をしている身だ。一応親父の言うことは聞くようにはしている。
親父のデスクの向かいに座っているのは、小奇麗な中年女性だった。黒髪で、目鼻立ちがはっきりしている。どこか異国情緒を感じさせる顔立ちだった。肩が細く、手足がすらっとしている。
茶を出せということは、この女性は死んではいない。
「失礼します」
湯呑みを机に置いた時、俺はふいに違和感を覚えた。
あれ、なんだこの人。
「……」
思わず長めに視線を合わしてしまい、女性は軽い会釈を俺に返した。
なんだ、どこかで会った気がするぞ。
「うちのせがれです。助手みたいなものなので気にしないでください」
親父は俺を親指で指してそう言った。
「話を戻しましょう。お宅で、ポルターガイスト現象が起こったと?」
女性はこくりと頷いた。
「ちょうど、一週間前からになります。こんなのどこに相談したら良いかもわからなくて……こちらだったら、怪奇現象を話しても大丈夫かと思いまして」
「ええ。うちは怪奇現象を専門に扱っていますから、ご心配なく。それで、ポルターガイストはどのくらいの頻度で起きますか?」
「えっと……一日に一回くらいです」
「時間帯は?」
「まちまちです。夜のことも、朝のこともあります」
朝にポルターガイストか。夜のイメージが強いが、朝も朝で不気味そうだ。
「具体的には、どのように発生しますか?」
親父が訊くと、女性は少し言いよどんだ。
「具体的に、とは?」
「ポルターガイストと言っても色々ありますから。例えば、花瓶が突然倒れたりとか、風もないのに電球のヒモが揺れたりとか。ひどいのだと、家中の家具が浮き上がってしまうようなケースも報告されていますが、まあ、ごく稀なケースですね」
「あ」と女性が思いついたような声を出した。
「それです、うち。机とか椅子とかがひとりでに浮き上がって。一番ひどい時には、大きなタンスすら宙に浮かびました」
それを聞いて、親父はポリポリとこめかみを掻いた。
「そうですか……ちなみにそれは同時にですか? 机やいすやタンスは、同時に浮かび上がります?」
「はい。一個だけ浮かぶ時もありますけど、複数のことが多いと思います。タンスが浮かんで、リモコンが部屋を横切って。テレビなんかで見るポルターガイストそっくりです」
「ふむ……それは紛れもなくポルターガイスト現象と呼んでいいでしょう。して、何かきっかけは思い当たりますか? どこか心霊スポットに行ったとか」
女性はそこで、うーんと考え込んだ。
「私、全く霊感なくて。幽霊っぽいものを見てしまったとかも全然ないんですよ。この間までお盆でしたけど、いつも通りお墓参りに行ったくらいで」
「なるほど。ま、きっかけがなく始まってしまう心霊現象もあります。ポルターガイストは例外なく、それを引き起こしている霊が存在していますから、まずはその霊を見つけ出すことから始めましょう。ご自宅の場所を教えていただいても――」
親父は女性の様子を見て言葉を切った。
「どうかしました?」
「あ、失礼しました。関係ないとは思うんですが、ポルターガイストが始まったと同時に、うちの娘が家出したんですよ。そういえば、同時に始まった出来事だなと思って」
「娘さんが? それは心配ですね。警察には届けたんですか?」
驚いたことに、女性は首を横に振った。
「いいえ。お恥ずかしい限りですが、うちの娘は家出の常習犯なんです。家出と言っても、三日くらい経つとひょっこり帰ってきて、下着の替えを持ってまた家出する、というサイクルを繰り返しているんですが。いっそのこと半月くらい帰ってこなければ捜索願いを出そうと思うんですけど、三日だと中途半端で、警察にも相談できなくて。いつ帰ってくるかわからないので、私は家を離れられないんです」
家で怪奇現象が起きているのなら、本来であれば家を出ていきたいはずだ。
「ちなみにお年は?」
「高校二年生です。学校へはほとんど行ってないのですが」
「お名前は?」
女性が「ああ」と声を漏らした。
「そういえば、私もまだ名乗っていませんでしたね。私は赤川美和子と言います。娘は、赤川リルという名前です」
「あ、」
俺が話を遮った。どうしてこの人を見たことがある気がするのか、納得できた。
この人はリルの母親だったのだ。
「知り合いか?」と親父が呟く。
「ああ。ほら、前に話した……」
これだけの言葉で親父が勘付いてくれるかはギャンブルだった。実のお母さんの前で、「腕にAAFの傷があるやつ」とは言えないからだ。リルが母親に話していない可能性もある。案の定、親父はピンと来ていないようだった。鈍感なやつめ。
「あの、俺、娘さんの居場所わかりますよ。よければ、赤川さんがご心配されていることをお伝えできますけど」
そう言うと、美和子さんの表情がぱっと明るくなった。
「本当ですか。ああ、来た甲斐がありました! リルはどこにいるのでしょう?」
「ちょっと説明しづらいですが、飲み屋街の空き家を寝床にしていますよ。今から行ってみます」
俺が言うと、親父は「うむ」と厳かに喉を鳴らした。
「じゃあ、そっちはお前に任そう。俺は美和子さんと一緒にポルターガイストを調べに、ご自宅に行ってみる」
親父と美和子さんはそそくさと事務所を出ていき、あとには俺が残された。
さて。
俺は自室に戻り、身支度を整え、チャリにまたがって闇市街を目指した。それにしても、リルの母親が依頼人として来るとは思わなかった。あいつが家出少女だということはわかりきったことだったが、三日に一度の頻度で帰っているとはな。素性のわからないやつだったが、意外と常識的ところもあるもんだ。
闇市街へは大小事件以来足を踏み入れていない。元々足を向ける理由は、リルにアドバイスを請うためだった。闇市関連の依頼が舞い込まない限り、来る理由はないのだ。たまにラジオ焼きと塩モツ煮込みを食いに来るくらいかな。
闇市街入口のガードレール脇にチャリを止め、俺は細い路地を進んだ。相変わらず小汚い路地である。潔癖症の人は端から端まで歩けないだろう。足元も気をつけていないと、ネズミの死骸があったり、酔っ払いの吐瀉物が残っていたりする。三十メートルほど進むと赤川リルが寝床にしている廃墟、「兎屋」に辿りつく。
「おーい、リルー?」
施錠の役割を全く果たしていないボロボロの引き戸を俺がガンガンと叩くと、普段ならひょっこりとリルが顔を出す。なるほど、リルの異国的な顔立ちは母親から受け継いだものだったのか。あのお母さんも、若い頃は相当美人だったに違いない。
「おーい」
再び呼びかける。しかし返事がない。
闇市マニアの少女は当然のように懐古主義であり、女子高生の身でありながら携帯電話を所持していない。連絡手段は手紙か地声だ。
仕方ないので中に入る。大小事件の時は随分ここで時間を潰したものだ。お陰で、板が腐って弱くなっている部分は頭に入っていた。
内部は木が剥き出しになっており、家電などは一切ない。ただリルが集めた闇市に関する資料や書籍が、机の上に雑然と置かれているだけだ。
リルがいないのは一目瞭然だった。しまったな、親父に何て報告すりゃあいいんだ。
俺が顔をしかめて外に出ようとすると、視界の端に何かが映った。
その正体は机の上にあった。前来た時にはなかったものが、あったのだ。
それは俺の部屋にもあるようなCDプレーヤーだった。俺は目を丸くしてしまった。
こんな現代的なものをリルが持つなんて。
コンセントの先を見ると、この部屋で唯一生きている電源に伸びていた。リルがこの部屋で何かを聴いていたということだ。
俺は人差し指でツマミを切り替え、電源を入れた。キュルキュル、と小気味の良い音がしてCDプレーヤーは何かを読み込み始めた。
てっきり俺はリルがこの部屋で玉音放送のCDでも流していたのかと思った。しかし予想に反して流れてきたのはムードのある管楽器のメロディと、艶のある男性ボーカルの美声だった。
船を見つめていた ハマのキャバレーにいた
風の噂はリル 上海帰りのリル リル
甘いせつない 思い出だけを
胸にたぐって探して歩く
リル リル どこにいるのか リル
だれかリルを 知らないか
黒いドレスをみた 泣いていたのを見た
戻れこの手にリル 上海帰りのリル リル
夢の四馬路の 霧降る中で
なにもいわずに 別れたひとみ
リル リル 一人さまようリル
だれかリルを 知らないか
海を渡ってきた ひとりぼっちできた
望み捨てるなリル 上海帰りのリル リル
暗き運命は 二人で分けて
共に暮らそう 昔のままで
リル リル 今日も逢えないリル
だれかリルを 知らないか
俺はそこに立ちつくし、流れる音楽をただ聴いていた。どうしてリルというワードが頻出しているのか。なんでこんな古風な歌謡曲の中に、俺の知っている女子高生の名前が組み込まれているのか。呆然としている間に曲は二番、三番と過ぎていき、その中にも「リル」という歌詞は頻繁に歌い上げられていた。
ボーカルが「だれかリルを 知らないか」と最後のフレーズを歌った瞬間、俺の目の前でそのCDプレーヤーが突如として浮き上がった。
身をかわす間もなく、俺の顎めがけてCDプレーヤーは体当たりを喰らわせ、俺はあっけなくその場に倒れ込んだ。
「ぐっ……いってぇ……」
ぶつけた顎と後頭部が同時にガンガンと痛んだ。脳が揺れたのか、吐き気も大きくなってくる。混乱する頭の中で、ひとつの単語が反響していた。
ポルターガイスト。
視界が紙の渦で覆い尽くされた。リルの集めた資料が、宙を舞っているのだ。
俺も生まれてからポルターガイスト系の怪奇現象とはずっと付き合ってきた。でもここまで酷いのは初めてだ。物理学者が見たら卒倒してしまうような光景が繰り広げられている。美和子さんが言っていた通り、机と椅子も浮き上がった。
これほど酷いポルターガイストを引き起こす可能性があるのは二つ。
すさまじい怨念を持った一人の霊か。
すさまじい数の悪霊か。
倒れた俺を誰かが覗きこんでいる。知らない男だ。
その顔は邪念に満ちている。
殺される。
視界がぼやけていく。
意識がシャットアウトされる間際、男が口を開いた。
「……違ったか」
「オミト、おい、オミト」
俺の意識を再起動させたのは、聞き覚えのある声だった。
目を開けると、倒れている俺になぜか馬乗りになっているリルが目に入った。
「……重いわ」
「あ、生きてたのか」
「死んでる方に賭けんなや。降りろ」
リルは素直に俺の体から降りた。綺麗な髪が陽光に反射し、キラキラと光った。
「……おい、いま何時だ? やけに太陽が明るい気がするんだが」
「ん? ああ、九時だぞ。朝の」
「……ええ……」
十六時間くらい気を失っていた計算になる。携帯を見ると、案の定親父からの着信とメールが数十件入っていた。
「で、オミトよ。どうしてここで寝ていたんだ? 愛情表現としてはいささか屈折していると言わざるを」
「愛情表現じゃねえよ。お前を探しに来たんだよ。お前こそ、なんで昨日の昼にここにいなかった? お陰で殺されかけたぞ」
リルが「あー……」と声を漏らし、苦い顔になった。
「じゃあ、オミトも襲われたんだな。あいつに」
「オミトもって……じゃあ、お前もか?」
「ああ。五日ほど前、私がここで戦後の白黒写真を眺めてニヤニヤしていたら、突然家具や紙が宙に浮かび上がったんだ。めちゃめちゃびっくりしたぞ。私はオミトと一緒に心霊現象を体験したことはあるが、一人の時に体験したことはなかったからな。で、びっくりしすぎて尻もちをついていたら、部屋の中央に黒い雲の塊みたいなのが現れたんだ」
黒い雲?
「何と言えばいいのかな。雲のような、影のような、煤のような。それがだんだん大きくなって、私に近づいてくるのだ。本能的に敵意を感じて、それ以来ここには帰ってきていなかった。で、もう収まったかなと思って帰ってきたら、なぜかオミトが寝ていたというわけだ」
なるほどな。ポルターガイスト現象は赤川家の母と娘、二人に降りかかっていたのか。
「収まってねえよ、全然。あ、そうだ。お前一回母親のところに帰れ。連絡入れるだけでもいい。お前の母ちゃん、心配しすぎて俺の事務所に相談しに来たぞ」
「なん? どうしてうちの母が、オミトのところに」
俺はあぐらをかいて、リルを見上げた。気のせいか顔が赤らんでいる。
「お前の実家でも同じように、ポルターガイストが起こったんだとよ。黒い雲うんぬんは言ってなかったが。とにかく一度帰れ。お前が家出していようと勝手だが、今回は依頼だからな」
「…………して、」
リルの薄い唇からかすれた言葉が漏れた。
「どうして余計なことをするのだ。私のことなど、放っておいてくれれば良いのに……」
「そりゃ、母親だからだろ。心配してくれてるんじゃねえか」
リルが大きな瞳で俺を睨んだ。目力のある人に睨まれると怖い。
「知った風なことを言うな。君も君だ。そんな依頼など、蹴ってくれれば良かったのだ」
「ああ?」
リルにしては理不尽な物言いだ。推理する時はあんなに理知的なのに。
「蹴るなんて、できるわけないだろうが。第一依頼を受けるのは親父で、俺には決定権は――」
「うるさい。そんな説明は聞きたくない。とにかく、私の家のことに関わるな」
リルは踵を返し、兎屋の引き戸を開けた。
「おいリル、待てよ」
早足で去ろうとするリルの腕を取る。しかし、すさまじい力でリルは俺の手を振りほどいた。
はっとする。俺とリルの間にはリルの右腕がある。久しぶりに「AAF」の傷跡を見る。
消えない印。
かつて凌辱を受けたという証。
現代を生きている赤川リルに刻まれた戦後のマーク。
「……リル、どこへ行くつもりだ」
リルは今や涙を溜めていた。
「教える筋合いは、ない」
引き戸が閉められ、俺だけが残された。なんだかフラれたみたいでバツが悪い。辺りを見回すと、ポルターガイストによって書類が床に撒かれたままになっていた。裏返しになった椅子、俺に一撃を喰らわせたCDプレーヤーも転がっている。
「あ」
しまった。あの歌のことをリルに訊くのを忘れていた。訊いても教えてくれなかっただろうけど。転がっているプレーヤーに近づき、CDを取りだす。表面には何も書かれていない。俺はポケットからハンカチを取り出し、ディスクを包んでショルダーバッグに入れた。
ハンカチを仕舞っていたのと逆のポケットが振動する。親父からの着信だ。
「オミト、今どこにいるんだ? どうして連絡をよこさなかった」
怒っているような声音ではない。その段階は通りすぎて、単純に心配しているようだった。
「すまん。色々しくじった。とにかく、一度事務所に戻る」
十分後、俺は自宅兼事務所に戻っていた。玄関のドアを開けると、髭面の親父が不機嫌そうな顔でソファに座ってタバコをふかしているところだった。
「なにがあった?」
「色々」
「だろうな。ちなみに、赤川さんの家に行ったが、ポルターガイスト現象は起こらなかった。うんともすんとも言わなかったぞ。俺の見た限り、タチの悪そうな霊もいなかった」
俺は親父の向かいのソファに腰掛けた。
「ポルターガイストなら、こっちで起こったさ」
「なに?」
俺は一部始終を話して聞かせた。話の最後にショルダーバッグからCDを取りだして、ソファの間にある机に置くと、親父はゲジゲジ眉毛を歪めてそれを眺めた。
「その赤川リルって娘さんと関係がある曲ってことか?」
「わからん。でも、相当古い曲だぞ。曲調が昭和っぽい」
親父は自室からCDプレーヤーを持ってきて、ディスクを中に入れた。
俺が兎屋で聴いた曲が流れ出す。
「……知らない曲だな。俺の生まれる前の曲かもわからん」
曲が終わると同時に事務所のドアが開いた。依頼者の赤川美和子さんだ。CDプレーヤーを挟んで座る俺らに一瞬不思議そうな顔を見せた後、「こんにちは」と挨拶をした。
「こんにちは、赤川さん。十時のご予約でしたね。さっそく調査報告をするのでこちらにどうぞ」
親父が俺の方のソファに移動し、親父のいたところに赤川さんが座った。
「あのう……このCDプレーヤーはなんですか?」
「報告に必要なんです。ま、追って説明します。まずは娘さんについてですが、息子が会えたそうです。ですが取り逃がしたとのこと。それについては息子を罵倒していただいて結構です」
いや結構ですじゃねえよ。母親の話題を出した瞬間人が変わっちまったんだから仕方ないだろうに。
「で、ここからが謎なのですが。息子が娘さんに会った時、そこでもポルターガイストが起きたそうです。つまり、娘さんが現在寝床にしている場所で」
「……どういうことなのでしょう」
「私も息子から報告を受けた時、びっくりしました。例のポルターガイストは赤川さんの家に取りついているのではなく、赤川家の人間に執着しているのです」
美和子さんの表情が曇った。
「私たち家族を襲っているんですね。でも、どうして」
「どなたか心当たりはありませんか? 赤川さんに恨みを持つような人物。それも、もうこの世にいない人を挙げてくださると望ましい」
「恨み……」
親父と俺は美和子さんの次の言葉を待ったが、美和子さんは考え込んだまま口を開かなかった。親父は揉み手をして、「では、これをお聴きいただきたいのですが」と言ってCDプレーヤーを操作し、曲を流した。
イントロが流れ始めた瞬間、美和子さんがぱっと顔を上げた。
「この曲は娘さんの寝どこにあったCDだそうです。息子が手掛かりになるかと思い、拝借してきました。私どもが気になっているのは、なぜ歌詞の中に娘さんの名前が出てくるのか、という点です」
「これが、リルの部屋に?」
美和子さんは俺に目を向けた。俺が頷くと、美和子さんはぎゅっと目を瞑った。
「本件と関係あるのかはわかりませんが、一応お聴きします。この曲をご存知ですか?」
親父が訊くと、沈黙のあとで、美和子さんがゆっくりと口を開いた。
「やっぱり、あの子にとってこの曲は特別なのですね。最近なくなったと思っていたら、やっぱりあの子が……。この曲は戦後まもなくヒットした『上海帰りのリル』という曲です」
「上海帰りのリル……?」
「たしか、津村謙という歌手が歌っていたと記憶していますが。お恥ずかしい話、この曲こそ、リルに家出癖がついてしまった元凶なのです」
「元凶? この古い曲が?」
「はい。歌詞を聴いていただくとわかるのですが、曲中に登場するリルという女性は、娼婦なのです。娘のリルは、自分の名前が娼婦からつけられていると知って、それはもう酷い癇癪を起こして。それを知って以来、娘は家を空けがちになってしまいました」
親父がゴホンとひとつ咳払いをした。
「それは確定的なのですか? 単なる偶然の一致ではなく、名前の由来は本当にこの曲なのですか?」
美和子さんはゆっくりと頷いた。
「間違いないと思います。リルという名前は他界した夫が名付けたのですが、夫は昔からこの曲が大好きだと言っていましたから」
「赤川さんとしては、娼婦が由来の名前をつけることに抵抗感はなかったですか?」
「私も他の名前を提案したのですが……。夫は、自分の子どもには絶対にリルと名付けると決めていたのです。それこそ、私と出会った時からその話をしていました。夫はリルという名前に異様なこだわりを持つ人でした」
俺と親父は視線を合わせた。話が奇妙な方へ歪んできた気がする。
「旦那さんは、その理由について何か話していました?」
「うーん、それが明確な理由は話してくれませんでした。ただ『リルという名前が好きなんだ』としか。あ、でも……」
美和子さんが首を傾げた。
「なぜかわからないけど、夫と出会った時、第一声がリルという言葉でした。『失礼ですが、あなたの名前はもしかしてリルではないですか?』と話しかけられたんです。私、初対面の人間の名前を当てようとした人に出会ったことなかったから、おかしくって」
さらに話が奇妙になってきた。親父の眉間のしわが深さを増している。
「ちなみに、旦那さんはいつお亡くなりに?」
「えっと……約十年前です。リルが幼稚園にいる頃に、癌を患いまして。『リルが物ごころ付くまでは死にたくない』、と、口癖のように言っていましたが」
「ふむ……その頃お住まいだったのは、今のおうちですか?」
「いいえ。夫に先立たれてから、親戚を頼ってこちらに引っ越してきました。それまでは北陸の方にいたんです」
「なるほど……」
今度は親父が黙り込んだ。その代わり、俺が口を開く。
「その、旦那さんの写真はありませんか?」
「え、あ、はあ」
不自然に思ったようだが、美和子さんは携帯に保存してある写真を見せてくれた。面長の男性が自宅ではにかんでいる写真。俺はたっぷりとそれを眺めて、美和子さんに携帯を返した。
「どうも」
「あのう、夫とポルターガイストは、何か関連があるんでしょうか?」
俺はほんの数ミリ首を横に動かした。親父はそれを感じ取って、作り笑いを浮かべる。
「その可能性は低いでしょうな。旦那さんは、赤川さん、ましてや娘さんに恨みを募らせていたとは思えないですから。とりあえず今日のところは、娘さんの無事くらいしか報告できることがありません。不甲斐なくて申し訳ないですな」
「いえ、私としてはリルの無事がわかっただけでも嬉しいです。娘の元にも怪奇現象が及んでいると聞いて、心配にはなりましたけど……。でもこれで、私は家を出られます」
そうか、リルがいつ帰ってくるかわからなかったからこの人は家にいなければいけなかったのだ。俺がリルに実家のことを伝えたことで、リルが家に帰ってくることはなくなった。少なくとも、この件が解決するまでは。
「私は、しばらくホテルに滞在します。多分――ええと、駅前の『ホテル・ニューウエスト』にすると思います。また進展があったら、ご連絡ください」
「ええ。赤川さんにも生活がおありでしょうから、一刻も早い解決を目指します」
美和子さんは神妙な面持ちで去っていった。去り際に俺に微笑んだのは、娘を見つけてくれたことへの報酬と捉えて良いのだろうか。
「さて」
扉が仕舞った瞬間、親父が胸ポケットからタバコを取りだした。
「で、どうなんだ」
「俺が気絶する直前に見た男とそっくり。というか同一人物」
「じゃあ、ポルターガイストの正体は旦那さんか」
「でも、理由はなんだ?」
「さっぱりわからん。妻と娘を襲う悪霊なんざ、前代未聞だ」
俺は気絶する間際のことを思い出す。
あの悪意に満ちた目。彼がリルの父親だったのだ。
「『上海帰りのリル』かあ。また、戦後だ。単なるポルターガイストの案件だったのが、ややこしいことになった。事態を混乱させるのはいつだって戦後の事情だ」
「それだけややこしい時代だったんだろ」
俺と親父は合わせてため息をついた。
「赤川さんの話を整理しよう。鍵を握るのはリルという名前だ。赤川さんの旦那さんは昔からリルという名前に執着していた。で、生まれた娘にもリルと名付けた。その名前の由来は『上海帰りのリル』という曲中に登場する娼婦だった。成長し、それを知った赤川リルはショックのあまりグレて家を飛び出した」
「……そうか」
点と点が繋がった。リルが戦後のことをあれほど調べていたのは、『上海帰りのリル』という曲を調べるため――自分に娼婦の名前を授けた父の真意を知るために違いない。
「どうした?」
「リルは、戦後や闇市に関することが大好きだった……。きっと、この曲のことを調べていたんだと思う」
「ふむ。最近の事件に関して、お前にアドバイスをくれていたのはその子ってことだな。何も家出することはねえと思うが。年頃の女の子はわからん」
リルの動機はわかったが、どうしてリル父は自らの妻と娘を狙うのか。そこがわからないと進展は望めない。
「親父」
「うん?」
「ポルターガイストには、どう対処すれば良い?」
「うーむ」
親父は短くなったタバコを灰皿に押しつけた。
「ポルターガイスト現象ってのは、種類がとても多い。本件のように家具が複数浮かび上がるのもポルターガイストなら、机に置いたコインがほんの少し動くようなしょぼいのでもポルターガイストと呼ぶ。起こる理由は、霊の主張だ」
「霊の主張?」
「霊が何らかの感情を生者に訴えてる場合が多い。一番多いのは単なるイタズラだ。子どもの霊が生者と遊んでほしくて物を動かす。生者はびっくりするけど霊には悪意がない」
怪奇現象で一番ありふれているのは「触ってないのに物が動いた」系だ。あれも分類としてはポルターガイストに入るのか。
「家族の霊が『もっときちんと供養してほしい』と訴えるために自分の遺影を倒してみたり、多岐に渡る。本件の場合は明確な敵意だけどな。殺意と呼んでも良いだろう」
殺意。
殺意を愛すべき家族に向ける。それも、自分はすでに死んでいるのに。
なんて底知れない感情だろう。
「で、どうやって対処すべきか、だが。生者が暴れてるのと同じだ。落ち着かせて、宥めて、話を聞くしかない。幸運にも俺らは奴らが見えるからな。とにかく対話に持ち込むんだ」
「対話、か」
抗戦してはいけないってことか。難しそうな対応だ。
「わかった。親父、案内するよ」
俺が言うと親父がニヤッと笑った。
「お前の遊び場に連れて行ってくれるのか」
「ああ。闇市に行こう。リルの寝床――兎屋に、またリルの親父さんが現れる可能性は高い」
昼飯をカップ麺で済ませた後、俺と親父は闇市街に足を向けた。結局俺はここと事務所の往復しかしていない気がする。
「いい街だな」と親父は気に入った様子だ。たしか外見に似合わず下戸だったと記憶しているが。
朽ち果てた廃墟「兎屋」は闇市街の真ん中にある。俺は慣れた手つきで引き戸を開け、頭をかがめて中に入った。親父も後からためらわずに付いてくる。
中は乱雑としていた。俺とリルが別れた時のままで、俺を襲ったCDプレーヤーが床に転がっている。それを拾い上げ、机に置く。壊れてなければ良いが。
プレーヤーの埃を払っていたら、部屋に異変が起きた。中央に雨雲のようなものが渦巻き、それが除々に人型に変化していった。同時に兎屋の内部にある物体は、俺と親父以外のすべてが浮かび上がった。
来た。
リルの親父さんだ。
「待て!」
野太い声で呼びかけたのは親父だ。
「俺らは赤川リルではない! 赤川美和子でもない! 俺らはお前たち霊魂と対話できる者だ! お前と話がしたい!」
嵐は収まらない。書類が舞い、CDプレーヤーは発砲スチロールのように吹き飛んでしまった。
「あの! えっと、お前にもメリットのあることなんだ! 頼む! 俺らの話を聞いてくれ! あの、聞いてますか?」
どうやら親父の声は全く届いてないらしい。突風に目を細めながらちらりと親父を見ると、若干泣きそうになっていた、
「すいませええん! この通りですから! あの、キリないから! とりあえず話きいてくれないと前に進んでいかないんですよ。ねえ? 俺の声聞こえてます?」
駄目だこいつ。
だが、親父の叫びが届いたのか、風はだんだんと弱まった。
CDプレーヤーと全ての書類が床に落ちたあと、黒雲の中から一人の男が姿を現した。
幽霊とは思えない、驚くべき存在感の男だ。面長で神経質そうな顔をしている。グレーのスリーピース・スーツを着ており、まるでどこかの駐在大使かのような見事な出で立ちだったが、男の両目がそれらの輝きを一切打ち消していた。
男の両目は完全に死んでいた。
完全に狂っていた。
身が焼けるほどの絶望を永い時間浴び続けた結果が、両目に表れていた。
霊の見えない人たちには何て説明したら伝わるだろうか。生者でもヤクザや人殺しがいるように、「こいつ、雰囲気やばいな」と感じる人間に遭遇したことがあるだろう。そのような感じと言えばいいだろうか。
俺は男の目を見れなかった。正直、足がすくんでいた。
親父は男の目を見据えていた。
「おい、どうして奥さんと娘さんをつけ狙う? お前の未練はなんだ?」
男がマネキンのような口を開いた。
「あれは妻でも娘でもない」
俺と親父は視線を合わせた。禅問答のような返事だった。
「じゃあ、なんだ?」
「偽物だ」とリルの父は答えた。
「偽物? 血が繋がっていないということか?」
「血は繋がっている。しかし魂が違う」
魂?
俺は大小事件のことを思い出していた。体を憑依霊たちに乗っ取られた生者たち。しかしリルと美和子さんの体が乗っ取られているわけはないし、意味がわからん。
「リルとは誰だ?」
親父が質問を続ける。リルの親父の表情がいくらか人間らしくなる。
「愛する女性だ」
「娘さんじゃないのか?」
「娘はリルではない。リルは失われてしまった。誰かリルを知らないか。誰かリルを……」
リルは娘じゃなく、愛する女性?
リルとリルの父は、禁断の恋をしていたのだろうか。俺の脳裏に変な妄想が湧き起こる。でも、だったらリルを殺そうとするはずがない。リルの父の言葉には一貫性がない。
親父は質問に窮したようだった。だから次の質問の無理やり感に俺は失笑しかけたが、返ってきた言葉には絶句した。
「お前は誰だ?」
「……俺は磯村治朗だ」
「ああ?」
ポカンと口を開けたのは親父だった。
「違う。赤川さんの家であんたの仏壇を見たが、あんたは寺島雄二という名前だったはずだ。遺影の写真も見てきた」
「違う」
「あんたは寺島雄二じゃないのか?」
「俺は磯村治朗だ」
幼少期のリルは寺島リルという名前だったらしい。今は美和子さんの旧姓を名乗っているのか。
「あんたの目的は?」
「赤川家の抹殺だ」
「なんでだよ……」
親父が癖っ毛の頭をボリボリと掻く。
「……じゃあ、あんた、仕事は何をしていた?」
リルの父はロボットのような口調で答える。
「外交官」
「外交官か。どこに駐在していた?」
「中国だ」
「それは西暦何年の話だ?」
リルの父は親父をぎろりと睨んだ。それだけで人を呪い殺せそうな目つきだったが、親父は涼しい顔をしていた。
「一九四九年まで中国にいた」
「……んん?」
俺は思わず眉間に皺を寄せた。昔すぎないか? リルの父が何歳で亡くなったかはわからないが、そんな昔から生きているとは到底思えない。
親父を横目で見ると、なぜか驚いたような――いや、驚きを無理やり隠しているような表情になっていた。
「一度だけ聞くが、成仏する気はないのか?」
「ない。俺はずっと赤川家の人間を探していた。色々なところを彷徨っていた。ようやく見つけたのだ。赤川家の人間を殺すまで、俺が冥界に行くことはない」
きっぱりとした口調だった。
「……わかった」
親父は踵を返し、兎屋を出て行こうとした。
「親父、もういいのか?」
「ああ。もういい」
引き戸を無理やり開けると、闇市街には雲の隙間から薄日が差し込んでいた。
俺らは幽霊屋敷と化した兎屋を出て、闇市街からも抜け、国道沿いを歩いた。
「どういうことだと思う?」
俺が訊いた。リルの父の話は矛盾だらけで、正気を保っているとは思えない。
そのことを親父に言うと、「そう感じたか?」と親父は険しい顔をつくった。
「ここまで怨念が強い霊を相手にするのは久しぶりだ。昔、北陸の方に住んでいたと美和子さんは言っていたな。自称・磯村治朗は、北陸からここまで十年かけて辿りついたというわけだ。家族を殺したいという一心で」
「動機がわからん。なんで家族を殺す必要があるんだよ?」
親父が顔をしかめた。
「魂が違うから、か。抽象的な言い方だな。もう少し情報を集める必要がある。俺は美和子さんに報告しに行ってみるよ」
「そのまま伝えるのか?」
「ああ」
ポルターガイストの正体は、亡くなったあなたの旦那さんです。あなたと娘さんを殺そうとされているのですが、身に覚えはないですか?
すさまじい報告だ。でも親父なら飄々とした口ぶりで話すのだろう。
「美和子さんの口からもっと旦那のことを聞きださにゃ。お前は娘の方を頼む。なんとか見つけ出せ」
「でも、また逃げられるぜ」
「美和子さんの話にあっただろ。娘は父親に娼婦の名前を付けられたことを忌んでいる。自分を襲ったポルターガイストの正体が父親の霊だと知ったら、また反応も変わってくるだろう」
俺はこくりと頷いて、親父と分かれた。たしかに、赤川家に話を聞くのが一番の近道だ。
親父が見えなくなった途端、俺の脚は止まった。楽しげに歩いていた女子高生の一団が邪魔そうに俺をよけていった。
リルを捜す。携帯を持っていない家出少女を捜す。
それって恐ろしく難しいことなのではないだろうか。
彼女にゆかりのありそうなスポットを思い浮かべる。でも、あいつに関係あるのって闇市街しかなさそうだ。というか、俺の知っているリルは闇市に根を降ろした家出少女でしかないのだ。そこから移動した彼女など、見たことが――。
「あ」
ひとつ思い浮かんだ。
資料館。あいつの趣味が詰まった二階の戦後コーナー。
路面電車を使うのが面倒で躊躇ったが、そこしか浮かばなかったのだから仕方ない。
十分後、俺は古めかしい緑の電車に乗り込んでいた。出発する時に車掌さんが「出発します」と言ってベルをチリンと鳴らすのがレトロだ。
AAF事件の時と同じように、四つ目の駅で降りた。受付にいるのも同じ職員さんだ。頻繁に資料館に足を運ぶなんて、勤勉な学生だと思われているかもしれない。
二階に上がる。ここで初めてリルとまともに話したのだ。
上がった瞬間に、古めかしい畳のような匂いが鼻につく。二階のフロアにはベンチに座って世間話をする爺さんが三人と、浮浪者が一人しかいなかった。
空振りだ。もうアテがなくなってしまった。俺もベンチに座って休みたくなってきた。ベンチに向かって歩み始めると、すぐにポケットが振動した。親父からの着信だ。
さっき分かれたばかりなのに。
「どうした?」
「やられた。いま、美和子さんのホテルが火事になってる」
「え? それで、美和子さんは?」
俺は携帯を耳にぎゅっと押し付ける。親父の声の後ろに人のざわめく声や、サイレンの音がしたからだ。
「わからん。ホテルからもう逃げてるのかもしれん。今ホテルの前で野次馬してるが、運び出されてくる人の中に美和子さんはいない。すでに逃げたか、それとも」
逃げ遅れて、まだ中にいるか。
「原因はリルの父さんか?」
「それしかないだろう。いわゆる『鬼火』ってやつだ」
「霊が火をおこすことなんてあるのか?」
言った瞬間、それが愚かな質問だと気付いた。霊が出る場所に、『火の玉』は付き物ではないか。親父は独りごとのように話を続ける。
「発火元が知りたい。美和子さんの部屋だといいんだが」
「発火元ならすぐ逃げれるもんな」
「ああ。美和子さんの泊まった部屋の一階下なら最悪だ。逃げられない。それによって磯村の知能が測れるってもんだが……まあいい。娘は見つかったのか?」
ドキリとするが、俺は平静を装う。
「さっき捜し始めたばっかじゃねえか。まだだよ」
「いいか、絶対みつけろ。磯村が次に狙うのは赤川リルだ。リルに手を出されたら終わりだ。お前にかかってる。このままじゃ、赤川家はあの世に引きずり込まれるぞ」
ぶつりと通話が切れた。俺は三十秒ほどそこに立ちつくしていた。
美和子さんが死んだかもしれない。そのことが俺の頭を埋め尽くしていた。
どうしてだ? どうして妻と娘を殺すんだ? どうしたらそれを止められる?
彼の――磯村治朗の未練とは何だ?
痺れた足で階段を下り、資料館を出る。受付のお姉さんが俺を見て不思議そうな顔をする。さっき入ったばかりの客がもう出てきたからかもしれないし、俺が割とでかい声で鼻歌を歌っていたかもしれない。
俺は『上海帰りのリル』を歌っていた。今ならその歌詞に共感できると思ったからだ。
「――リル、リル,何処にいるのかリル……」
だれかリルを、しらないか。
だれかリルを――。
「あっ……」
ひとつ思い浮かんだ。リルをよく知ってる人を見落としていた。
資料館から出て路面電車に乗る。さっき来た線路を再び戻る。終点まで乗ると、そこは先ほどまで俺と親父がいた街だ。俺が目指しているのは闇市街だった。
ラジオ焼きの女将さんならリルの消息を知っているかもしれない。俺はそう考えたのだった。
兎屋とラジオ焼き屋は数件しか離れていない。俺は兎屋の前を通り過ぎ、ラジオ焼き屋の戸を開けた。
「いらっしゃい! 何名様?」
威勢の良い声は女将さんではなかった。もっと若い女性の声だ。
「あ」
お互いに間抜けな音が漏れた。俺を出迎えたのは誰であろう、赤川リルその人だったのだ。
「リル……お前、闇市から出てったんじゃねえのかよ」
リルは俺を見るなり唇を尖らせ、不機嫌を隠そうとはしなかった。
「そんなことは一言も言っていないぞ。行き先を教えるつもりはないと言っただけだ。お前こそなんだ、幽霊でも見るような顔つきをして」
「あらあら、いらっしゃい」
後ろから出てきたのは雰囲気を察知していない、柔和な笑顔の女将さんだった。
「あら、リルちゃんから教えてもらってなかったの? 最近、リルちゃんお店を手伝ってくれてるんだよ。若い子の手があっておばさん大助かりさ。リルちゃんならお客さんも寄せてくれるからね」
「ふん、偉いだろオミト。私も労働というやつをするようになったのだぞ。ちゃんと賃金もまかないも出るのだ」
「労働は人として当然……いや、そんなことはどうでも良い。女将さん、リルを少し借りてもいいですか?」
女将さんの承諾を得て、俺はリルの手を取って小汚い路地裏に出た。
「なんだオミト、ついに私に愛の告白か? 生憎ここじゃドブネズミに聞かれ――」
「そんなんじゃねえよ。いいからよく聞け!」
俺は溜まっていた怒りを爆発させた。自分でも驚くほど大きな声が出る。しかしもう歯止めが効かなかった。リルが怯えたような顔をしているが、気にしない。
「お前の母さんが泊まってるホテルが火事になった。原因はお前の父さんだ! お前の実家と兎屋を襲ったポルターガイストも、ホテルの家事も、発端は全部お前の父親だ! こんなところで何をしてるんだ? 早く母さんの元に行ってやれ! じゃないと、お前まで殺されちまうんだよ」
「な、な、な、なんの話だ? オミト、痛い」
気づいたらリルの両肩を掴んでいた。ぱっと離すと、リルは両手で自分の両肩を抱いた。
「私の父はすでに他界しているぞ。それに、ホテルが火事だと? どういうことだ?」
俺はぜえぜえと息切れを起こしていた。一気に話し――いや、叫びすぎた。
「お前の母さんがポルターガイストを避けて泊まったホテルが、火事になってる。親父から連絡が入ったから間違いない」
俺の言葉が、じわじわとリルに染み込んでいった。「火事」と呟き、リルは唇をわななかせた。
「助かったかどうかは、わからないのか」
「わからん。親父から多分また電話が――」
と言ってたら再び着信だ。ポケットが震えている。
「親父? どうなった?」
「いま運び出された。青葉病院に来てくれ」
「青葉病院か。わかっ……」
俺は呆気にとられてしまった。青葉病院と言った瞬間、リルが駆けだしたからだ。
今度は俺から逃げたのではなく、青葉病院へ向かって。
何かと縁のある病院だ。
青葉病院に入る瞬間、俺はそう感じていた。大小事件の時、ここの病院には随分足を運んだものだ。
自動ドアをくぐると、仏頂面の親父が待っていた。
「おう」
俺と、隣のリルをじろりと睨む。
「煙を吸い込んだだけだそうだ。命に別条はねえよ。死者はゼロだそうだ」
「……はあ……」
隣でリルが安堵の息を吐いた。心なしか、少し背が縮んだかのようだ。
「行くぞ」
親父に連れられて、俺とリルは三階の病室に向かった。院内は嵐のような忙しさだった。火事の負傷者が一斉に運び込まれてきたのだろう。看護士さんが鬼の形相で階段を駆け下りてきたのをよけて、俺らは美和子さんの病室に辿りついた。
大小事件で訪れた時と同じ、四人部屋の病室だ。親父に促され、リルがカーテンを開けた。
「リル……」
美和子さんは仰向けに寝かされていた。青白い顔をしている。「久しぶりね」とリルに弱々しく微笑むと、リルの両目から大粒の涙があふれ出た。口元が何かを言おうと歪んだが、リルは何も言わなかった。何も言えなかったのかもしれない。
「さて、美和子さん」と親父が事務的な声音で言った。
「いくつかお聞きしたいことがあります。体調が優れないところ申し訳ないのですが」
「いえ、ちょっと煙を吸い込んだだけで、体はなんともありませんから大丈夫です。どうぞお掛けになってください」
美和子さんに促され、俺と親父は丸椅子に腰かけた。リルは呆然とした様子で突っ立っていた。
「出火した時のことを伺いたい。どういう風に火事だと知らされました?」
美和子さんはゆっくりと上体を起こし、髪を手で整えた。
「単純に、火災報知機が鳴ったんですよ。びっくりして部屋の外に出ると、もうパニック状態で。宿泊客が上の階から下に殺到しているところでした。多分ですけど、私の部屋の一階下から出火したんだと思います。それで、私も急いで部屋を出ようとしたんですが……」
美和子さんはリルを気遣わしげに見た。
「ですが、どうしたんですか?」
親父が容赦なく先を促した。
「何かおかしなことがあったんですか?」
「ええ。確かに見ました。あれは……夫でした。階段を降りている途中、踊り場で立ちつくしている男性とすれ違いました。一瞬でしたが、あの人は確かに夫だったと思います」
「美和子さん、さっきお話しした通りです。あなたの旦那さんは霊体となって、なぜかあなたがたお二人を殺そうとしている。心当たりがあるならお話しください。次にみつかったら、ここの病院も火事になってしまう」
美和子さんは神妙な顔で考え込み、視線を自分の膝の辺りに落とした。
「夫に命を狙われるような心当たりはありません。生前、夫婦仲は悪くありませんでしたし、供養も充分したと思っています。どうしてかしら……」
美和子さんはしんどそうに目を瞑った。
「それに、夫はどうして私の泊まっているホテルがわかったんでしょう。幽霊ってそういうものなんですか? もしかして私、夫の霊に取り憑かれているのかしら」
俺と親父は視線を合わせた。
「美和子さんは誰にも憑かれていませんよ。もしそうなら、我々親子にわかります」
「そうですか……リル、あなたはどう? 何か心当たりはない?」
美和子さんが未だにぐずぐずと泣いているリルに優しく声をかけた。
「……あのポルターガイストは父が原因だったのか。十年前に死んだはずの父が……」
「ああ、そうだ。リルちゃん、何か知っているなら話してほしい。戦後のことを調べていると息子から聞いているよ。それに、『上海帰りのリル』のことも調べているんだろ?」
親父が聞いたこともないような優しい口調でリルに言った。リルは親父を見て、それから俺を見た。リルの双眸に燃えるような光が戻ってきている。
強い意志の籠った目。
俺の知っている赤川リルだ。
「私はずっと調べていた。どうして自分の名前にリルというワードが使われているのか。娼婦として歌われている女性の名前が……」
リルは戦後史が大好きな変態女子高生ではなかった。亡き父の遺した自分の名前に苦悩する、思春期らしい思考の持ち主だった。
「『上海帰りのリル』は、実話を元にした曲だ」
リルが判決を申し渡すような口調で言った。
「この曲は昭和二十六年、戦後の名作詞家である東条寿三郎によって書かれ、『ビロードの歌声』と称された津村謙によって歌われ、大ヒットした。ある文献を調べていたら、東条寿三郎のインタビューが載っていた。それによると、彼は東北へ里帰りをした時に、ある酒場で戦地から復員してきた男と知り合いになったそうだ。その男が語った内容から、『上海帰りのリル』ができたと語っている」
「実話……? あの歌詞の内容は、事実ってことか?」
「そうだ、オミト。あのCDの曲には、事実が描かれている。君が知っているということは、兎屋のプレーヤーで聞いたのだろうな。歌詞の内容を追ってみよう。この曲は男性側から書かれたものだということがわかる。かつて男とリルは上海で出会った。時代から考えると、男はおそらく日本から来た外交官、リルは外国人を相手にしていた高級娼婦だろう。リルはかつて日本にいたのだが、何らかの理由で上海に渡り、四馬路――つまり、上海の四番街に娼婦として住みついた。当時、アヘン戦争に端を発する南京条約によって、上海は外国人に支配されていた。フランス、イギリス、オランダ、そして日本。それぞれの国のテリトリーを『租界』と呼ぶ。フランス租界やオランダ租界などは、上海とは思えないヨーロッパ情緒あふれる街並みだったと聞く。男は日本租界に赴任してきた外交官。日本から来た二人はこうして上海で出会った」
「でも、それだとリルって名前がおかしくないか? 随分外国人っぽい名前に聞こえるが」
「リルは日本から来たというだけで、純日本人ではないのだと思う。私は満州人だと考えているが。二人は恋に落ちた。最初は娼婦とその客という間柄だったが、いつしか商売を忘れてしまった。だがそんな時間も長くは続かない。男に日本からの帰還命令が出てしまう。かくして二人は離ればなれとなったのだが、男はリルを忘れられなかった。戦後、租界という制度が崩れリルも日本に帰国したが、男のもとに消息は届かない。風の噂でハマのキャバレーにいたらしいが、リルに辿りつくことはできない。そこでこの歌が生まれる。『だれかリルを知らないか』。男はリルの姿を求めて彷徨い続ける」
俺はリルの話を聞いて衝撃を受けていた。見ると、親父もポカンと口を開けている。
「リル、その外交官の男の名前はわからないのか?」
リルは首をかすかに横に振った。
「わからない。東条のインタビューには『酒場で出会った男』としか書かれていなかったから」
でも、俺と親父にはわかる。その男の名は、
「磯村治朗だ……」
しかし、決定的な矛盾がある。『上海帰りのリル』の物語は戦時中のことだ。リルの父親とは年代が違いすぎる。
「佐久間さん、どういうことなのでしょう。娘の話が本当なら、どうして夫は生前、その歌詞の男性のようにリルという女性を追い求めていたんでしょう。夫とその男性が同一人物なはずがありません。時系列がまったく合わないですから」
親父はずっと難しい顔をしていたが、美和子さんの問いにようやく口を開いた。
「たしかに同一人物ではない。ですが旦那さんは稀有な運命を背負っていたのかもしれません。おそらくですが、旦那さんは前世の記憶を引き継いでいたのでしょう。そう考えると、旦那さんが自分の名前を『磯村治朗だ』と言ったのも辻褄が合う」
「前世の記憶? そんなことがありえるんですか?」
「相当なレアケースですね。前世の記憶を断片的に持っている人は珍しくないのですが、全部忘れずに持っているのは十億人に一人くらいの割合でしょう。旦那さんは前世で磯村治朗という名の外交官でした。そして曲の通り、娼婦のリルと出会い、別れた。結局磯村はリルを見つけられないままその生涯を終えることになった。彼は成仏し、輪廻は巡る。生まれ変わった時、何らかのミスで彼の記憶は消えずに引き継がれてしまった。磯村治朗の記憶を持つ寺島雄二の誕生です」
兎屋で磯村が語っていた内容とも合致する。非現実的な話だが、それしか道筋はなさそうだ。
「前世って……輪廻転生って、本当にあるんですね……」
美佐子さんがしみじみと言った。一般人からすればそこも驚きだろう。
「あります。輪廻は通常、肉体と記憶が抹消され、魂のみが受け継がれる。しかし旦那さんは記憶も受け継がれてしまった。リルを捜す旅は、現世で再び始まってしまった」
「え、でも」
俺が口を挟んだ。
「磯村さんは記憶を受け継いだからいいけど、娼婦だったリルはとっくに亡くなってるだろ? つまり――」
全員の目がリルに注がれた。リルははっとして体の前で手をパタパタと振った。
「な、な、ないぞ? 私に前世の記憶なんてこれっぽっちもない」
「そう」
親父がリルに優しげに言った。
「それが磯村にとって大問題となった。磯村は上海リルも同じ運命を辿っているに違いないと思ったんだ。自分が前世を覚えているように、かつて愛したリルも前世を覚えたまま転生しているに違いない、と。美和子さん、あなたと初めて会った時に磯村がかけた言葉が全てです。『失礼ですが、あなたはリルという名前ではないですか?』……あなたは単純に、似ていたんですよ。かつて自分が愛した、上海のリルと」
美和子さんの顔からみるみる血の気が引いていった。吐き気を催したかのように口を手で覆い、「似ていた……?」と呟く。親父は構わず続ける。
「磯村はあなたにリルの魂が宿っていないことを確認すると、次にこう考えたんです。この人は違ったか。でもこの人の娘にはリルの魂が宿るかもしれない――こんなに容姿が似ているのだから。彼はあなたに好意を示し、結婚するに至った。そして自分の娘に前世で愛した女性の名前をつけた。寺島リル、と」
美和子さんが「だからあの人……」と漏らした。
「リルが物ごころつくまで死にたくないって……」
「そうか、」
俺も気がついた。
「磯村は、娘に上海リルの魂が宿っているか確かめたかったんだ」
「ああ。でも、磯村の思惑は外れた。赤川リルに上海リルの魂は宿っていない。『魂が違うから』と磯村は言っていた。上海リルの記憶を引き継いでいない以上、美和子さんと赤川リルは偽物ということになる。容姿だけ似せただけで、中身が彼にとっては偽物なんだ」
だから、赤川家は抹殺する。狂った思考だ。でも磯村にとってはそれが正義なのだ。磯村治朗として、寺島雄二としてリルを追い続けた男にとっては、リルを見つけ出すことだけが存在理由となってしまっている。
「美和子さん、あなたはどうですか? 前世の記憶があったりしませんか?」
「い――いいえ、私にもありません、そんな……」
「そう。残念だが、上海リルの魂は引き継がれていない。おおかた、上海リルの記憶はもうあの世で消去されちまっているでしょう。前世の記憶が消されていないなんて超レアケースなんだから。現世で上海リルの魂を捜そうなんていう磯村の思惑自体、ナンセンスだったんです」
磯村の未練は永遠に果たされない。理由は単純で、上海リルはとうの昔に死んでしまったからだ。でも彼は諦めきれず、上海リルに似た女性を妻にした。
胃のむかつきが抑えられない。美和子さんとリルの手前口には出せないが、磯村は狂っている。似ているというだけで結婚し、上海リルの転生を願ってリルを産ませた。いまこの病室にいる二人の女性は、磯村によって運命を変えられたのだ。
そして、本当にリルに上海リルの記憶があったらどうするつもりだったのだろう。美和子さんと別れ、リルと結ばれたのだろうか。肉体的には実の娘なのに。
色々なことが頭を巡る。磯村の異常性と、絶望の深さを考えるとくらくらしてくる。彼の目は闇に包まれていた。そりゃあそうだろう。磯村時代と寺島時代、そして現世で死んでから十年。百年以上、いないはずの女性を捜して彷徨ったのだから。
ふと美和子さんの顔が目に入る。病的に白い顔をしている。美和子さんにとって結婚生活は本物だったのだろう。しかしいま、それがハリボテだったと判明してしまった。
「すいません、私気分が悪くなってしまって……」
「……そうでしょうな。こんな話になってしまって申し訳ない。私どもはこれで退散しますよ」
親父が椅子から立ち上がり、俺に目配せをした。俺も立ち上がる。
「私、これからどうしたら」
美和子さんが儚げに言った。親父は振り返り、「いまはとにかく療養してください。ショッキングなことを聞かせてしまった後で、言うことでもないですが」と言い残して病室を出ていった。
「オミト、私は」
「お前は母さんといてやれよ。久しぶりなんだろ?」
「あ、ああ」
俺はリルをじっと観察していた。美和子さんはひどくショックを受けているのに、こいつはどこか他人事かのようだ。美和子さんが火事に遭ったと聞いた時が一番動揺していた。
「オミト、一緒にジュースでも買いに行かないか?」
リルはしきりにパチクリとまばたきをしている。どうしたどうした。
「別にいいけどよ」
俺はリルと一緒に病室を出た。親父はもういない。先に帰ったか、タバコでも吸いに行ったんだろう。
「私はどうしてしまったんだろう」
院内の階段をゆっくりと降りながら、リルが言った。
「あんなに知りたかった真実を知ったのに、どうしてもしっくり来ないんだ。私は自分の名前を携帯で検索して、自分の名前が娼婦から来ているということを知った。知らなくても良いことというのがこの世にはある。私は携帯を捨てたよ。何でも調べられる機械が私は怖くなった」
俺としては連絡手段として持っていてほしい。
「それまでは亡き父が付けてくれたこの名前が誇りだった。だからこそ私は戸惑い、母に説明を求めた。私は未熟者だ。自分が汚れているように思いこんだ。私には娼婦の名前がついている……それだけで全てが否定された気になり、家を出て、闇市街に住みついた。自分の家の近くにそういう街があるのも何かの運命に思えた。そしてむさぼるように戦後のことを調べた」
リルが左手で右の二の腕を抑えた。
AAF。
「その傷は、自分で?」
リルが頷く。
「思えばあの時の私は少しおかしくなっていたのかもしれない。気がついたら私はカッターナイフを持っていた」
私の名前は娼婦の名前。私の名前は娼婦の名前。
リルがしたことは、リストカットの延長だ。
「お前がそんなことをするなんて考えられないな。わりと呑気な性格だと思っていたが」
「この傷に関しては、どうして腕に刻む必要があったのか、私以外理解できないと思う。私はリルが娼婦の名前だと知って以来、学校の友達や知り合いにバレることが怖くなっていた。まるで自分が本当に上海で体を売っていたかのように怯えていた。私はこれでも成績優秀スポーツ万能、皆に好かれる学級委員だったのだ。それが、途端に学校に行けなくなってしまった。誰かが常に私をあざ笑っている感じがしていた。父を思い出す度に名付けの動機がわからなくて胃痛がした。自ら娼婦の証を刻んだ時、すごくすっきりしたんだ。ああ、これで私は許されたと思った。それで兎屋に住んだ。父の真意がわかるまでここで闇市の住人のように振る舞えばいいと思った。オミト、私の気持ちがわかるか?」
わかるようなわからんような。思春期の女子は大変だなとしか感じなかった。俺がイエスともノーとも言わないでいると、リルは久々に笑みを作った。
「ほら、わからないだろう? 私はオミトが思っているほど明朗快活な人間ではないのだよ。じめじめ、くよくよしている」
「というか、それだと戦後や闇市の事が嫌いになりそうなものだが、逆だったんだな」
「ん、ああ。戦後のことを調べていたら、それ自体に魅了されてしまった。初めてまともに話した時のことを覚えているか? 私は戦後の人間の持つエネルギーに圧倒された。単純に、魅了されてしまったのだよ」
資料館での会話を思い出す。リルのキラキラした表情は忘れられない。
「で、さっきのはどういう意味だ? どうもしっくり来ないってのは」
「ふむ」
リルは自販機にコインを入れながら、わざとらしく首を傾げた。
「私は幼少期しか父と関われなかったのだが、どうもそんな思惑を孕んだ人ではなかったように思えるのだ」
「そりゃ、ちっちゃい頃だから思い出補正でもしてるんじゃねえの?」
「そうかもしれんが……なぜか私にはショックではなかった。むしろ、私の名前にきちんと意味があったとわかって良かった」
「お前の父さんは、お前を愛していなかったかもしれないんだぞ?」
リルはリンゴジュースの蓋を開け、うまそうに一口飲んだ。
「私には信じられない。私の記憶では、父は病床に伏せるまで私と母に全身全霊で愛情を注いでくれていた」
「それが思い出補正だっての……」
俺は苦笑しながら缶コーヒーを飲んだ。
「俺はお前の父さんの霊と話した。上海リルを見つけられないまま亡くなったことに関して、深く恨んでるようだったぜ」
「父が、十年経っても成仏できてなかったとはな……」
来た道を戻る。どうしてかリルは口元に笑みを浮かべている。
「なんだよ、その顔」
「いや、大小事件のことを思い出してな。私はあの事件で、死んだはずの人間と現世で話ができた。同じように、父の魂がまだ彷徨っているなら、私は父と話すチャンスがあるのではないかと思ってね」
殺されるのがオチだぞ、とは言えなかった。自分の妻だった美和子さんすら簡単に殺そうとする奴だ。娘のリルにも同じ対応だろう。
「そうだ」
リルがぽつりと呟いた。謎解きに迫る彼女が見せる、生気に満ちた顔だ。
「オミト、誰かに体を借りられないか?」
「はあ?」
「ふふふふ、これは妙案だぞ。誰かの体に父を憑依させるのだ。そうすれば私と母と父で話しあえるだろう」
リルと目が合う。完璧な造形とも言える二重からは微塵の躊躇いも感じられない。
こいつマジで言ってるのか。
「だってそうだろう。いつまでも逃げていられない。まさか、上海リルの幽霊をどこからか捜してくるわけにもいくまい。元々親子だ、話しあえばきっとわかってくれるさ」
「お前はあの人の目を見てないからそんなこと言えるんだよ」
俺は反駁した。そんな策、実行させるわけにはいかない。それに、誰かの体って誰だ。
「私は本気だぞ。じゃないと次は兎屋が火事になるかもしれない。あんなところが火事になったら、闇市街は終わりだ。街ごと全焼してしまうだろう」
はっとした。そうだ。磯村はすでにあの場所を知っている。いまこの瞬間火事になっても全くおかしくない。
「事態は急を要する。オミト、対応策を親父さんと話しあってくれないか。頼む。私たち家族の架け橋になれるのは、君ら親子しかいないんだ」
真摯な声音で言われて俺は気づいた。事態をわかっていなかったのは俺の方だ。俺は磯村の闇の深さにばかり気を取られていた。
「……わかったよ。お前は? 病室に戻るのか?」
「ああ。母親と二人きりとか、めっちゃ気まずいけどな。そりゃもう、めっっっちゃ気まずいけどな。地獄のような空気になるだろうけどな。すごい嫌だけどな、仕方ないではないか」
そう言うとリルは恥ずかしげに微笑んだ。俺は一階に続く階段を下り、リルは病室に続く廊下を歩き始めた。
「あ、それと」
リルが俺を呼びとめる。
「ラジオ焼き屋に謝っておいてくれ。バイトを抜け出したままだ。今度たらふく食いに行くから許してくれ、と」
俺は嘆息した。この社会不適合者め。
リルと別れ、俺は青葉病院を後にした。夏の生温かい空気が身を包む。今頃リルは美和子さんとどんな話をしているんだろう。そんなことを考えながら家路を辿った。
「磯村を具現化させるしかねえな」
事務所に帰るなり、椅子にふんぞり返って座る親父がそう言った。
「はあ?」
「だから、具現化だよ。磯村を誰かに憑依させる」
専門家の親父が出したのは、素人女子高生と同じアイデアだった。悲しい。
「……そんなことしても、その憑依した磯村はリルと美和子さんを殺そうとするだけだろ」
「残念。そんなことはありえん。憑依したばかりの体は滑らかに動かせないからな。磯村を霊体でいさせるよりも、誰かの体に憑依させちまった方がはるかに安全だ」
俺も対面の椅子にどっかりと座る。一理ある。でも一理しかない。短絡的だ。いくらでも反論の思いつきそうなアイデアだ。
「封印ってことかよ。でも、誰の体を使うんだ?」
親父が容赦なく俺を睨んだ。
「俺かよ……親父がやればいいだろ」
「俺がやると、非常事態が起きた時に対応できる専門家がいなくなる。お前が適任だ」
「磯村の言ってることを俺らがリルと美和子さんに伝えればいいだろ。通訳みたいな感じで」
「逐一か? 嫌だよ、面倒くさい。憑依させちまった方が手っ取り早いだろ」
手間を省くだけの理由で息子を差し出す奴があるか。
「親父はやったことあるのか?」
「俺か? あるぞ。先代――お前のじいちゃんにさせられた。その時はオカマの霊だったな。祓ったあとも一週間くらいは女装癖が抜けなかった。なんか化粧道具とか見るとムズムズするようになっちまった」
「なんだそりゃ」
俺は事務所の汚い天井を見上げた。オカマの霊ととびっきりの悪霊、どっちがマシなんだろうな。
「わかった、やるよ。その代わり親父が責任持てよ。俺の体が乗っ取られたら絶対許さないからな」
「もちろんだ。絶対逃げたりしない」
逃げる? この髭面ならやりかねん。
「実は、リルも同じ案を出してきた。あいつは俺の体を差し出せとは言わなかったけど」
「リルちゃんが? ほう、意外だな。というかお前、あんな可愛いアドバイザーがいるんなら紹介しろよ」
紹介しようにも、お前がマカオ行ったりしてたんじゃねえか。
「リルは、自分なら磯村を説得できると思っているんだよ」
「ふむ。その根拠は?」
「希望的観測だ。自分の父は、自分を愛してくれていたはずだと。最初から上海リル目当てで自分を産んだわけではないだろうと」
「泣かせるねえ」
親父は胸元からタバコを取りだし、火をつけた。
「でも、それしかねえか。上海リルはすでにこの世を去っているんだから。上海リルもこの世に転生しているというのが磯村の読みだが、そんなもんは妄想に等しい。亡き女を想うと書いて妄想だ。妄想に付き合って死人が増えるなんて、許すわけにはいかない」
俺は胎を決めた。絶望そのもののような顔をした磯村に体を貸すことを決めた。どうして決めたのかは自分にもわからん。でもなんだろうな、リルと病院の自販機の前で話した時、中途半端なことはできないと思ってしまった。
私たち家族の架け端になれるのは、君ら親子しかいないんだ。
俺らの家系は霊が見える。霊の相談に乗って、成仏せずに燻っている、それこそ往生際の悪い霊を殺し切る。
自分の仕事についてそう思っていた。お盆の前までは。
でも今は違う。俺らのやっていることはこの世とあの世の架け橋だ。俺には失われた繋がりを蘇らせる能力がある。自分の霊感について、こんなにポジティブに考えられるのは初めてだった。
「決行は?」と親父に聞く。
親父はタバコを灰皿に押しつけながら答える。
「明日。美和子さんが退院したら、だ」
次の日。
相変わらずカゲロウが揺らめくようなきつい日差しが続いていた。その日も俺は昼前まで惰眠をむさぼり、朝食だか昼食だかわからないメシを食い、女子のような時間の掛け方でシャワーを浴びた。
やっと身支度ができた頃、親父が呆れた顔で「もう来るぞ」と言った。親父は見た目に寄らず朝は早起きなのだ。
事務所のイヤホンが鳴る。ドアが開くと、美和子さんとリルが続けて入ってきた。リルがうちに来るのは意外にも初めてだ。
「どうも、赤川さん。一時のお約束でしたね? では、こちらに」
親父に促され、美和子さんとリルは皮張りのソファに腰掛けた。俺と親父は対面に座った。中間の机には、うちのCDプレーヤーが置かれている。
「まずは美和子さん、ご退院おめでとうございます」
美和子さんはおずおずと頭を下げた。
「ありがとうございます。それで、本当なのでしょうか? こちらの……」
美和子さんは俺をちらりと見た。
「息子さんにうちの主人の魂を憑依させて、私たちと話せる状態にする、というのは」
「本当です。やはり、ご家族で話し合っていただくのが一番かと思いまして。うちの息子も納得している策です」
完全には納得してねえぞ。それしかなさそうだから同意しているだけで。美和子さんの隣でなぜかリルが胸を張る。
「本当だぞ。私は霊が憑依している状態の人間と話したことがある。あれだったら、父さんと話すことができるだろう」
「もう亡くなった人間と話す? そんな、テレビみたいなことが本当に……」
美和子さんはとても一般人らしい反応をしていた。そりゃそう感じるだろうな。
「でも私、何を話したらいいか……夫は、私が前世で愛した女性と同一人物ではないかと期待していたのですし」
「美和子、それは違うぞ。昨日も話したではないか」
リルが目くじらを立てた。母親を呼び捨てかよ。
「父さんは、父さんの事情があった。でも、私の父であることに変わりはない。同じように、美和子の旦那だったことにも変わりはない。美和子は私と同じ感覚を持っているのだろう?」
美和子さんは自信なさげに頷いた。
「え、ええ。私も、あの人が本当に思惑だけで近づいてきたとは思えない。あの人はきちんと私とリルを守ってくれていた。でもねリル、大人には色々あるのよ。世の中には完璧に人を騙せる人もいるの」
「どちらにせよ、直接話してみればわかることだ」
リルが鼻息を荒くして俺を見た。まるで獲物を見る目つきだ。
「いいんでしょうか? オミト君の身に危険はないのでしょうか」
美和子さんの俺への気遣いに涙が出そうになる。これこそまともな人間の人情というものではないか。
「大丈夫です。万が一体を乗っ取られても私がなんとかします」
親父が太鼓判を打った。本当だろうな。
「では」
親父が仰々しくCDプレーヤーのスイッチを押した。流れ出すのは、呪われた楽曲、『上海帰りのリル』だ。
磯村は、この曲が流れた場所に現れる。『上海帰りのリル』は磯村を出現させるBGMだ。リルは兎屋で何度もこの曲を流し、曲について研究していた。それに磯村はおびき寄せられ、己の娘を見つけた。
リルは、たまに着替えを取りに実家に戻る。その時に磯村はリルのあとを付けていたに違いない。霊体の磯村は当然リルには気づかれない。磯村はリルと共に赤川家へ。磯村はこうして長い旅路の果てに赤川家に辿りついた。
赤川家でポルターガイストが始まったのがその証拠だ。
そして、次に『上海帰りのリル』が流れたのは、この事務所だ。あの時も磯村はこの事務所のどこかから俺たちを監視していたのだろう。美和子さんは帰りがけに、自分が泊まるホテルの名前を俺らに伝えていた。だから磯村は美和子さんのホテルを特定できた。
俺と親父が『兎屋』で曲を流し磯村と初遭遇したあと、磯村は美和子さんの泊まるホテルに行き、火災を引き起こした……。
多分だが、これが磯村の足取りだ。
曲が二番に差し掛かると、CDプレーヤーが宙に浮きあがった。
「来たか」
親父が呟く。今更驚く人は誰もいない。ポルターガイスト現象だ。
リルと美和子さんのマグカップも浮き上がり、そこら中にコーヒーをまき散らした。事務所のテレビ、書類、文房具類も、まるで魂が宿ったように空を飛ぶ。
「うわあ!?」
リルが情けない声を出した。座っていた重たい革張りのソファまでもが宙に浮かんだのだ。リルと美和子さんは急いでソファから降り、しゃがみこんで怖々と上を見上げた。
磯村は黒い雲が固まって登場するような演出を今回は行わなかった。彼はまるで相談者のように、事務所のドアを開けてゆっくりと入ってきた。
まるで、というかある意味彼も相談者だな。磯村こそ、気が狂う前にうちの事務所を訪れるべきだった。
リルと美和子さんは飛来物を避けるのに懸命で、侵入者に気づいていない。磯村は不可視の霊体なのだから当然だ。俺と親父は磯村と目を合わす。磯村は俺と親父に涼しげな目線を投げ、次いで赤川家の二人を見つけて意外そうな顔をした。
その瞬間、飛んでいた全ての物体が重力に従って床に落ち、けたたましい音を立てた。
「……床、弁償してくれよ」
親父が磯村に言った。ソファが落ちた部分の床はただじゃ済まないだろう。
「これは驚いた」
磯村が相変わらずの硬質な声で言った。
「私が殺したい人間が揃っているではないか。君らは私の邪魔をするつもりだと踏んでいたのだが、手っ取り早くしてくれるとは」
「味方してるわけじゃねえんだよ。穏便にコトを済ませてほしくてわざわざお前を呼んだんだ」
磯村は床に転がっているCDプレーヤーを見た。床に落ちた時の弾みで再び『上海帰りのリル』が再生されている。
「東条め、本当にこんな歌を書くとはな」
「それじゃあ、本当なのか? お前がこの歌に出てくる男なのか?」
俺が訊くと、磯村は「いかにも」と首肯した。
「私は日本政府から上海の虹口にあった日本租界に送られた密使だった。当時、欧州租界の中心は四馬路だったから、情報収集のために私も四馬路の商館に出入りしていた」
リルが調べた通りのことが磯村の口からも語られていた。もっとも、赤川家の二人は宙に向かって話す俺と親父をぽかんと見つめているだけだったが。
「じゃあ、前世の記憶があるのか」
「私は二人分の人生を生きた。合計で百十年間ほど肉体を持って現世で生活していた」
リルの調査と親父の仮説が立証された。磯村はやはり、戦前の時代から魂を引き継いでいたのだ。
「磯村、話してみないか?」
親父が気軽な口調で話しかける。
「今からお前に体を与える。家具を浮かしたり火事を起こしたりしないで、自分の奥さんと娘ともう一度話して見れば良いんだ」
「なんだと?」
「少なくとも、赤川家の二人はそれを望んでいる。二人にとってお前は家族だからな。どうして家族から命を狙われなくてはいけないのか、直接説明を受けたいそうだ。だから二人はここにいる」
「父さん! いるのか?」
リルが虚空に向かって呼びかけた。
「いるなら私と話してくれ! 父さんに話したいことがたくさんあるんだ」
「……リル」
磯村は己の付けた名前で娘を呼んだ。
「……いいだろう」
磯村は初めて生気らしい輝きを孕んだ顔で親父にそう言った。
「よし。オミト、頼んだぞ」
俺は磯村の方に歩を進める。磯村が値踏みするように俺の足元に目を落とす。
「その少年が私の仮宿になるのか?」
磯村も俺の方に近づいてくる。
そして、俺と磯村は両手を合わせた。
背筋が寒くなった。磯村の両手はまるで死体のような感触だった。
ほんの一瞬、意識が遠のいた。今までいたはずの事務所の光景は消え、俺の視界は暗い影で覆われた。眠りに落ちる時のように、体が沈み続けているような感覚があった。
暗い暗い深海に、引きずり込まれている。
目を開けると、そこは事務所ではなく、親父も赤川家の二人も、磯村もいなかった。
俺はどこかの街にいた。闇市街のような狭い路地ではなく、石畳の広い通りだ。辺りを見渡すと、レンガ造りの瀟洒な建物が並んでいた。通りを歩くのは白人で、誰もがスーツを着ている。
「磯村君、ここにいたのか」
後ろから声をかけられた。振り向くと、グレーのスーツを着込んだ恰幅の良い男が、俺に笑顔を向けている。
「ああ、仕事が早引けしてね」
俺の意志と関係なく口が動く。ん? 磯村?
近くの建物の窓を見ると、反射した俺の顔が磯村になっていた。
そうか。ここは磯村の記憶の中だ。
「じゃあ、行こうか。英国商館のウィーノックの紹介だから、間違いあるまい」
男がにやけながら言うと俺――磯村もニヤリと笑った。
「やっこさん、相当な女狂いらしいな」
磯村と男は連れだって歩いた。街並みはヨーロッパ風で、歩いている人も白人ばかりだ。でも、看板や標識には英語に混じって漢字表記のものもある。
なるほど、ここは上海租界に違いない。欧米諸国や日本が実質支配していた時代の、上海だ。
黒煙を上げながら走る車や路面電車を横切り、大通りから路地に入る。路地に入ると途端に中国らしい雰囲気になり、雑多なビルや建物が並んでいる。
大通りは明るかったのに、路地はまるで夜のように暗い。しかも、男はどんどんと暗い方向に進んでいく。
「ここだ」
男が足を止めたのは、路地の中で異彩を放つ建物の前だった。この建物だけ場違いに豪華で、真っ白なのだ。なんとなくギリシャのパルテノン神殿に似ている。看板が中国漢字だらけで読めなかったが、最後の二文字は「娼館」だった。
男と磯村が中に入ると、中国人らしい少女に案内され、それぞれ別の部屋に通された。真紅の絨毯が敷き詰められた部屋に入ると、銀色に光るチャイナ服を着た長身の女性が深々とお辞儀をして、ゆっくりと顔をあげた。
その時の衝撃が、磯村の魂を伝って俺にも伝わった。
磯村は一瞬で恋に落ちてしまった。
リルと名乗ったその女の顔、体、そしてその完璧さをまったく台無しにしている娼婦特有の生気のない仮面のような表情も、全てが好きになってしまった。
リルが顔を上げ、驚嘆している磯村を見ると、マネキンのような両目にかすかな光が宿った。
「日本の方ですか……?」
リルと磯村が見つめ合う。磯村の魂を伝って思念が俺にも送られる。
完璧だ。
美しい、ではない。彼女は完璧だ。
「僕は――君と会うために上海に来たのかもしれないな」
場面が変わる。
どこかの商館のバルコニーだ。身がすくむほど寒く、しとしとと音を立てて冷たい雨が降っている。
俺の目の前で、リルが娼館で会った時のように跪いている。しかしリルは自分を買った男にお辞儀しているのではない。
「どうにかならないのでしょうか。留まるわけにはいかないのですか?」
リルは泣いているのだ。感情に満ちた目で磯村を見る。赤川リルにそっくりで、そっくりすぎて俺の鼓動が跳ねあがる。
「私にはどうしようもない。帰還は上役が決めたことだ。君を置いていくのはつらいが……。日本での再会を祈ろう」
リルをバルコニーに残し、磯村は先に室内に入った。その瞬間吐き気が込み上げてきて磯村は吐いた。リル以上にショックなのは磯村の方だった。磯村は運命の女生と出会ってしまったと直感でわかっていた。それゆえに、他の女性に魅力を全く感じなくなってしまっていたし、離ればなれになったら自分は耐えられないだろうとわかっていた。
しかし、帰国の便に娼婦を乗せることが許されるはずがないこともわかっていた。自分が去ったらリルは再び娼館に属し、他の男に身を許すのだろう。そう思うと怨念にも似た感情が全身を駆け巡るのを感じた。
磯村はリルと同じようにがっくりと膝をついた。エリート人生を送ってきた彼にとって、人生最初で最大の挫折だった。
雨が伝う窓に自分の顔が映る。情けない――磯村は心底思った。
「情けない……まったく、俺も落ちぶれたものだ……」
また場面が変わり、俺――磯村は、七三分けの太った男の横顔を見ていた。
「リルという女を雇った覚えはないな」
男がねっとりとした声で言った。
「雇った女は日本に元々いたのが多い。大陸にいた女は聞きわけが悪いからあまり好かんのだよ。日本にいた女は米軍の残虐さを知らんからな。どしどし応募が来るぞ。この米軍特別慰安本部に」
男が不快な笑い声を挙げると、それが残響となってまた場面が変わる。
「それであんたはこんな田舎まで来たってか」
磯村は中年男性とカウンター席で並んでいた。カウンターには御猪口とつまみが用意されている。
「そうだ」
磯村の声はしゃがれていて、服装もみすぼらしくなっていた。
「まだ捜し続けるのか?」
「ああ」
「どうしてだ?」
「俺にはそれしかやることがないんだよ」
磯村が言うと男はうんうんと頷いた。
「レコード会社に頼まれた詩の締め切りが来月なんだが、あんたの話は歌詞になるかもしれんな」
磯村は、今や娼婦のように落ち窪んだ目で男を見た。
「頼む」
「いいのか?」
「実名で出していい。その曲を聞いたリルが、あんたに連絡してくるかもしれない。そうしたらあんたは俺に連絡してくれ。そのことを約束してくれるなら、曲にしてくれていい」
また、視点が変わる。磯村は白衣の男と女に見降ろされている。
「ご臨終です」
「はい」
看護士は事務的な動作で腕時計を確認し、臨終の時刻を書き取った。末期の息を吐く磯村は最後の言葉を残した。
「誰か……リルを……」
国家諜報員まで務めたエリート、磯村治朗は家族も財産も残さないまま生涯を終えた。
彼は運命に従い、両目を閉じて輪廻にその身を委ねた。
そして死んだ途端、磯村は寺島修二として現代に生を受けた。
本来なら成仏すると生き返りの順番をあの世で待ち、生き返る瞬間に記憶を消されて現世に生を受けるはずだが、磯村は何らかの手違いで記憶がそのままでこの世に帰ってきてしまった。
病院のベッドで死に絶えたはずが、次の瞬間にはベビーベッドに寝かされ、幸せでたまらないといった顔の両親が自分を覗きこんでいた。
「ほら、修ちゃん、ママですよ」
違う。
「将来は学者かスポーツ選手かな」
違う。
俺は磯村治朗だ。思っても自分の口からは言葉が出ない。ぼやけた視界に映る自分の両手は豆粒のように小さい。赤子だ。赤子になっている。
磯村はパニックに陥り泣きだした。
「おお、どうしたのどうしたの」
ひょいと持ち上げられ、母親に抱かれる。
「きっとお母さんに抱かれたかったんだね」
リルはどこへ行った。リルはどこへ行った。
磯村はリルの名前を叫び続けた。でも口から出るのは赤子の泣き声ばかりだった。
また視点が変わる。
磯村は再び成人になっていた。そして街中ですれ違った女性を見て、磯村は視界が歪むほどの衝撃を受けた。
リルだ。
あの顔、体、雰囲気――上海で行き別れたリルそのものだ。
やっぱり俺の思った通り、リルも現世に蘇っていたのだ。
振り返り、急いで引き返す。何も考えず、磯村は満面の笑みで女性に話しかけた。
「失礼ですが、あなたの名前はリルではないですか?」
女性は後ずさりして、「え、え?」と話しかけられたこと自体がわかっていない様子だ。
「あ、すいません」
磯村は女性の正面に立つ。
「突然話しかけて。でも、どこかでお会いしたような気がして」
「そうですか? 私は、あなたに覚えがないのですが……」
「でも、僕にはあるんです」
磯村が息巻いて話すと、女性は仕方なしに笑みを作った。
「あはは、なんですか、それ」
再び場面が変わる。
部屋に、赤ちゃんの泣き声が響いている。
「将来は学者かスポーツ選手かな」
「それ、男の子が生まれた時に言うセリフじゃない?」
先ほど出会った女性が綺麗に笑う。ベビーベッドに寝た赤ちゃんがひと際大きい声で泣く。
「おお、どうしたのどうしたの。きっとお母さんに抱かれたかったんだね」
磯村はその様子を見て、ぽつりと言った。
「この子の名前はリルだ」
「え、リル? あなた、もう名前決めてたの?」
「ああ。寺島リルだ」
「リル……あなたが私に出会った時に、当てずっぽうで言った名前ね」
「ああ。君がリルじゃなかったから、この子にリルと名付けようと思う」
女性は「なにそれ」と笑う。
「でも、いいかもしれない。あなたが私をリルだと思って話しかけてくれたから、私たちは出会えたんだもの」
また場面が変わる。
磯村は再び病床に伏せっている。
「残念ですが、手の施しようがありません」
眼鏡をかけた医師がベッドの傍らで告げる。丸椅子に座った女性がさめざめと泣き崩れる。
「……どうにかならないのでしょうか」
母親の様子を頓着しない小さな女の子が、場違いな大声を挙げる。
「お父さん、もう朝だよ? なんで寝てるの? リルと遊んでよ」
リル。
磯村は穴が開くほど娘を見つめる。
「この子が物心付くまでは……」
死ねない。
俺は、この子を育て上げると決めたんだ。上海で出会ったリルと、決別するために……。
目の前にリルと美和子さん、親父が立ちはだかっている。
ああ、戻ってきたんだ。
「父さん、どうして十年も彷徨っていたんだ」
女子高生サイズのリルが言う。俺は父親でもないのに「成長したなあ」と感じてしまう。
「お前たちを殺すためだ」
俺の声で磯村が言う。
「本当に、本当にそれだけなのか? 父さんは上海で別れた女性を捜しだすために、それだけのために美和子と結婚し、私を産んだというのか? 上海のリルじゃなければ、私たちに価値がないというのか」
「ああ。そうだ」
リルがひとつ息を吐く。
「なら私を殺せ」
「何を言ってるの」
美和子さんがリルの手を取る。
「やめなさい、滅多なことを言わないで」
「止めるな、美和子」
リルが俺の――磯村の前に進み出る。その手が――凶刃が届くところまで。
「リル、何をしているの、リル。佐久間さん、娘を止めてください」
しかし親父は、腕組みをして美和子さんを無視した。ただじっと俺を見ていた。そう、親父は磯村ではなく俺の魂を見ていたのだ。
俺の腕が、意志とは関係なくリルの首を絞める。リルの口から「こほっ」と嫌な音が漏れる。
「いやあああああああ、やめて、あなた、お願い。何をしているの、実の娘を、そんな」
美和子さんは俺の腕を掴むが、びくともしない。リルは宙づりになり、口からは涎が流れていた。
俺は磯村の破壊的な思念を感じ取っていた。
殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。
「やめて、せめてリルだけは、お願い、お願い」
リルの顔が青ざめていく。向けられる殺意にただ身を委ねるように手足から力が抜けていく。
「やめろ!」
事務所に鋭い声が響いた。
美和子さんでも、親父でも、ましてや首を絞められているリルでもない。
俺だ。
俺の口から、俺が声を出したのだ。
手を話し、リルを解放する。リルは床に崩れ落ち、激しい息遣いで必死に不足した酸素を補給する。
「磯村、もうやめろ」
俺は、俺の中の悪霊に話しかける。
「俺はお前の記憶を見た。前世も、現世の記憶もだ。そしてお前と感情を共有した」
親父と目が合う。親父は安心しきったように腕組みを解いていた。
「お前が美和子さんを見る時、そしてリルを見る時、愛情がこもっていた。お前は家族を愛していた。上海リルの代わりではなく、一人の女性として、一人の娘として。お前は普通に、リルの父親として彼女を育て上げたかったんじゃないのか」
赤ちゃんだったリルを、美和子さんが抱きかかえていた時。
磯村の胸は幸せでいっぱいだった。上海リルへの想いは薄れ、これから始まる新しい生活に心を躍らせていた。
「……違う」
磯村が俺の口を使って答える。でも、無駄だ。俺にはもうばれてしまった。感情そのものを共有したのだから、いくら弁明しても意味がない。
「……父さん」
床で転がるリルが虫の鳴くような声で言った。
「……父さん、私はずっと疑問だった。どうして娼婦と言われた女性の名前を私につけたのか。父さんが亡くなってしまったから、答えは聞けなかった。でもこうして真実を聞けて、嬉しかった。父さんは最愛の女性の名前を授けてくれたのだな。それが、とても嬉しい」
「リル、お前」
俺がリルに呟いた。お前、娼婦の名前すら受け入れるのか。自分の腕を彫るほど毛嫌いしていた名前を。
ふいに立ちくらみがして、俺の脚はたたらを踏んだ。ぐにゃりと視界が歪む。俺の内部から何かが出ていくような気がする。
体が軽くなったと思ったら、磯村が床で四つん這いになって泣いていた。
「……出たのか。俺の体から」
磯村は肩を震わせて慟哭していた。俺は、リルが話している間、磯村が感じていた感情を共有していた。
磯村が感じていたのは圧倒的な孤独だった。俺はどうしたらいいのだろうという困惑だった。愛する女性を失い、再び家族を得たと思ったら志半ばで死んでしまった。
天は俺に何をさせたかったのだろう。俺はどうしたら満たされるのだろう。
「……父さんは?」
リルが訊く。俺は突っ伏したまま泣き続ける磯村をちらりと見て、「そこで泣いてる」と教えてやる。
「お前と美和子さんに、泣いている姿を見られたくないんだろ」
「でも、どうしてだ。父さんが私たちを家族だと思ってくれていたのなら、どうして私たちを殺そうとしたのだ」
「十年ってのは、そういうことを可能にしちまうような年月なんだよ」
親父が口を開いた。
「最初は上海リルを求めて北陸で彷徨っていたのかもしれない。でも、一年経ち、三年経ち、五年経つにつれて、想いはブレてくる。どうしてこんなつらい旅を続けなきゃいけないんだ。赤川家のどちらかが上海リルの記憶を継いでくれていたら、そもそもこんな旅をしなくても済んだのに、と思うようになる。悪霊ってのはそんなもんだ。最初から憎悪を持っている霊は本当に少ない。さまよううちに、おかしなことを考えるようになっちまうんだ。愛したはずの家族を殺そうと考えたりな」
磯村は泣き続けた。彼に成仏は訪れない。あまりにも強い未練が許してくれない。いるはずのない上海リルと出会うまで、磯村の成仏は叶わなくなってしまった。
俺は目をそらした。あんなに怖かったはずの磯村治朗が、今はただ憐れだった。
「行くのか?」
「……ああ」
事務所の玄関先で、落ち着きを取り戻した磯村が俺らを振りかえった。
俺、親父、美和子さん、そしてリル。
「そこの二人に伝えてくれ。俺は二度と赤川家の前に姿を現さない。その代わり、俺のことはもう忘れてくれ。供養も墓参りもしなくていい」
まだ憎まれ口を叩くか。
「上海リルを捜すのか?」
親父が訊く。それは、いないはずの女性を捜す旅に再び出るということだ。
「俺にはそれしかやることがないんだよ。それと、」
磯村はリルに目をやる。
「歌ってくれと伝えてくれ」
「……わかった」
俺が言うと、磯村はかすかに笑った――ような気がした。
「せめて、今度は暖かい南を目指すかな」
磯村はそう言うと踵を返し、うちの事務所から去っていく。
「父さんはもう行ってしまったか」
リルが心配そうに俺の顔を覗きこむ。
「ん? ああ。伝言を頼まれた」
「なんと?」
「歌ってくれ、とよ」
リルの両目に涙が溢れる。それを止めもせず、リルは元気よく頷いた。
「ああ、わかった」
そしてリルは、去っていく父親の背中に向けて、自分の名前が含まれた歌を歌いだした。
エピローグ
生地が焼かれるじゅうじゅうという賑やかな音がする。女将さんの声が店内に響き、飲んだくれどもの笑い声が重なり合う。
『上海帰りのリル』事件から数日。俺はラジオ焼き屋に来ていた。
「最後に父さんと話せて良かったよ」
隣に座るリルがそう言う。ここ数日は実家に帰っており、闇市街にも来ていなかったそうだ。
「父さんというか、実際話していたのは憑依された俺だけどな」
「まあ、そうなんだが」
リルがくすりと笑う。
「オミトには感謝している。君が私の未練を解いてくれた。これで私は、もう自分の腕を切り刻まずに生きていけそうだ」
「そりゃ、何よりだよ」
確かにリルは生き生きとした顔をしていた。亡き父の想いを継ぎ、ギクシャクしていた母親とも和解し、こうして家出少女って更生していくんだろうな。
「今日は正真正銘、私の奢りだ。遠慮なく食べてくれ」
そう言うと、リルはなぜか自分でバクバクとラジオ焼きを食べ始めた。
「なあ、リル。あの時俺が止めなかったら、お前、磯村にマジで殺されていただろ」
「うん? ああ。そうかもしれない」
何てことのないかのようにリルは答えた。
「そうしたら、私は父さんと直接話せるようになるしな。それも良かったのかもしれない」
化けて出ること前提かよ。
「でも、どこかで確信していた。小さい時の記憶がそう語りかけていた。父さんが私たちに殺意を向けるはずがない、と。本当に優しい人だった。私は父さんが大好きで大好きでたまらなかった」
女の勘ってやつか? 今回は当たったから良いようなものの、紙一重で命を落としていたところだったぞ。
「私はひとつ疑問に思っていることがある」
「なんだ?」
リルは神妙な顔をした。
「父さんは前世の記憶を消し忘れられた、とオミトの親父さんは言っていたな。じゃあ、あの世には死んだ者の魂から記憶を消す役割の『誰か』がいるということなのだろうか」
誰か、か。
それは俺も引っ掛かっている部分だった。もしそういう役割の誰かがいるとしたら、人はそれを「神」と呼ぶのではないだろうか。
「さあな。俺も実際あの世に行ったことがあるわけじゃないから、わからんよ」
俺はラジオ焼きをひとつ頬張り、咀嚼してから話を続けた。
「そうだ、リル。また闇市関連の霊が出たんだが」
「ほう。最近多いな」
本当に多いのだ。輪廻の年代が戦後になってきたから仕方ないとはいえ、それにしても数が多すぎる。
「もう戦後から七十年以上経つのにな。まだまだ未練が残っている霊はいるみたいだ」
「……コンクリートの下には焦土が埋まっている」
リルが突然そう言った。俺には真意がわからず、「え?」と聞き返す。
リルは得意そうに頬を緩める。
「有名な作家の言葉だ。私たち現代人は何の不自由もなくコンクリートの上で暮らしていて、戦争など大昔と考えているが、コンクリートを一枚めくれば焼夷弾に灼かれた焦土が顔を出す。闇市も戦後も、まだ私たちの隣にあるものなのだよ」
まあ、闇市街でメシを食ってると確かにそう思えるが。タワーマンションの高層階にいるやつらは感じられないだろうな。
「だから、また手伝ってほしいんだよ。親父が、次からはきちんと謝礼を払うと言ってる。コンビ復活だ」
「ふむ。謝礼か。悪い話ではないな」
「そうだろ? 明日、うちの事務所に来れるか?」
「ふむ。断る」
え、と俺は呟いた。リルは眉を上げた俺に、満面の笑みを見せた。
「だって、明日から学校だからな」
「あ、」
そうか。リルは、不登校をやめるんだな。
新しい一歩を踏み出すのだ。自分の名前に誇りを持ちながら。
「そうだったな。俺もそうだ。じゃあ、学校が終わったら来いよ」
「それなら良いけれども。謝礼というのは白紙の小切手で渡してくれるのか?」
「どんだけぼったくる気だよ……」
リルがいれば、俺の修業も何とかなりそうだ。またわけのわからない事件に巻き込まれるのだろうけど。
俺は闇市の狭い空を見上げる。夜が更けていく。
この街は現代と戦後、その二つを繋ぎ続ける。
俺はラジオ焼きの最後のひとつをほおばる。
口に懐かしいソースの味が広がる。