涼しい話、泉の神々(卅と一夜の短篇第16回)
侍というのは勝っているときはなるほど威勢は良いのだが、一度負けると、その負けをずるずると引きずって、そのうち勝てなくなり、すっかり意気消沈してしまう。まったく哀れな生き物である。
わたしの主人は菊池氏に縁があったので、南朝方だったが、九州探題今川了俊が攻めてくるとあっけなく負けてしまい、あわれ落ち武者となって逃げなければならなくなった。
わたしの主人は文字通り、矢尽き、刀折れるまで戦った。実際、わたしの帽子は折れて、どこかに飛んでいってしまったし、刃ときたらボロボロで、よほど腕のいい砥師に出さなければ、戦働きはできない。どのみち擦り上げになるから、わたしは小刀になってしまう。
だが、わたしの主人は砥師のことなど考えている余裕はなかった。何せ、落ち武者である。見つかれば、死ぬだろう。だが、わたしの主人は死にたくなかったと見え、百姓に変装することにしたらしい。空っぽの箙を捨て、兜と甲冑を捨て、汗だくの鎧直垂をどこかからかっぱらった百姓の野良着に変えた。そうやって落ちぶれたなりで筑後の山を逃げるわけだが、筑後の山というのはまた険しい崖か荒れ狂う水のどちらかしかなかったので、わたしの主人も逃げるのにはだいぶ苦労した。森は突然、谷へ落ち込んで川の上に差さって、通れなくなる。仕方なく谷に沿って上流へ歩いて、どこか川を渡れるところはないかとチラチラ見るのだが、大きな岩がせり出した懸崖は猿だって渡れっこない難しい土地だった。疲労困憊したわたしの主人はひいひいと情けない音を喉から絞り出し、歩いていたが、ついにとうとう谷に降りられる森のなかに川の源を見つけたときは小躍りして喜んだものだった。わたしの主人はずっと歩きどおしだったから、喉が渇いていた。そばを大量の水が流れているのに崖を降りられずにお預けをくらっていたものだから、余計に水が欲しくなり、それが叶わず、うらめしいものだから、負け戦のくさくさした気持ちも手伝って、生きながらにして、あさましい妖物に身を落としそうなくらいだった。
さて、わたしの主人はわたしを横に置いて、顔を水の湧く砂の上へ突っ込んで、思う存分飲みまくった。冷たい水がうまくてうまくて、なぜだか我が主の目が涙で潤んでいた。
「死にたくないのう」
わたしの主人は死にたくなかった。どうしても死にたくなかった。死なずに済むには正体を隠して、南へ逃げるしかない。決断のときは迫っていた。
「のう、お前」わたしを鞘から抜き出すと、ぐりぐりした目に涙を浮かべたまま、わたしの主人は話しかけてきた。「お前をここに置いていくことにしたよ。こんなことはしたくないが、お前を持って歩いていては、わしが侍であることが知れてしまう。そうなれば、この首は胴から離れてしまうのだ。だが、わしは生きたい。死にたくないのだ。もう一度、生まれた土地へ戻り、女房を抱いて、子どもの頭を撫でてやりたい。生きられるものなら百まで生きたいのだ。だから、お前をここに置いていく」
ここ、とは水の湧く砂と水草のきれいな大きな水たまりである。水たまりの周囲は緑樹をのせた岩に囲まれていた。岩はどれも滑らかな、というより、女の肌のように艶めかしかった。何百年と水に当たって、角が取れたのだろうな、とわたしはそのとき思っていた。
わたしの主人は湧き水の真ん中までざぶざぶ歩いていき、ちょうどいい塩梅に砂が広がり、ちぎれた水草がくるくるまわるところを見つけると、わたしをそっと沈めた。柔らかく冷たい砂の上に鎮座して、主を見上げると、絶えず揺れ動く水面越しにすっかり泣きじゃくった主の顔がぐにゃぐにゃになって見えた。まったくよく泣く侍である。だが、悪い男ではなかった。
こうして、わたしは主人なき身となった。かの主はわたしが錆び朽ちて、土に溶けるをよしとせず、わたしを水に浸したわけだが、むしろ水のほうが錆びやすいのではないかと思った。が、いらん刀の空心配だった。清らかな泉には刀を錆びさせるうろんさ、怠け、不信心といったものがなく、水の冷たさは大村の砥石をピタリとあてがわれたようで、なかなかどうして居心地がよい。知己も得た。イワナを相手に碁を打ったり(駄目詰めを急ぎ過ぎるせっかちな打ち方をする相手ではあったが)、サンショウウオと水棲生物の審美眼についてのんびり話したり。退屈することもなかった。
夏の夜になると、泉の甘露を目当てに蛍がやってくる。己が刃文を際立たせてくれるのだから、光を嫌う刀はいないものだ。夜の虚空を舞う蛍の姿はそれはきれいで、その光のくるくるまわるさまは天女の息吹が水の飛沫を舞いあげたかのよう。
「やあ、きれいだ」
と、わたしが言うと、
「ありがとう」
「ありがとう」
と、蛍たちの細い声が返ってくる。
「あまり水の近くに降りてはいけないよ。きみたちを狙って、岩陰にイワナが隠れているからね」
こう教えると、余計なことを言うな、ボロ刀、とイワナが怒るが、わたしは気にしない。終局について、へんてこな独自の規則を持つ魚の言うことにいちいち腹を立てないものだ。
「蛍の光というものはきれいなものだねえ」蛍の季節が終わり、水が冷たくなり始めるころ、わたしはイワナとサンショウウオに蛍に関するちょっとした持論を展開してみた。「火花のように粗暴でもないし、星のように冷たくもない。どうして、あんなふうに光るのか。不思議じゃないか」
「あんなふうに光られるとこっちはますます食欲が高まる」イワナが言った。このイワナは即物的である。
「色がついた光。その象徴するものを読み取るのは、ものの美しさを頭のなかでバラバラに振り分けて、また再構築する力が必要だ。鍛錬あるのみだ」イワナとは逆にひどく抽象的なサンショウウオが言った。彼は耽美主義者だが、哀しいことにのっぺりした顔の造作のせいで美に対して語る彼の言葉は説得力を持たない。
「もっと光を!」イワナが言った。「誰かの言葉だけど、誰の言葉だったかな?」
「サワガニじゃないの?」
「違う。サワガニはこう言った。『やめて! 食べないで!』」
「とにかくさ」と、サンショウウオ。「蛍の光がなぜきれいなのか。なぜあんなふうに光るのか。それを知りたいなら、少しでも多くの光を見なければいけないってことだ」
「お天道様とお月様だけじゃあ足りないってのかい?」
「そりゃあ足りない。光を理解するためにはそれは長い時間を要する。気が遠くなるほどの時間だ」
それからわたしはその気が遠くなるほどの時間とやらに己が刀身を置いてみた。お天道様とお月様が転がりまわるように空を飛び過ぎていった。長い時間――何百年という途方もない時間は泉に棲む我が友に神としての姿と力を与えた。イワナは〈ヌシ〉と呼ばれるようになった。ひどくせこい俗物的な碁を打つ魚だったが、それもヌシになる障害にはならなかったようだ。今では丸太ほどの大きさで泉のなかを悠々と泳ぎ、気分次第で雷を鳴らすことができるようになっていた。サンショウウオのほうは〈龍〉になった。のっぺりした顔のサンショウウオはすらりと美しい白い龍となったわけだが、その姿で美について抽象的なことを語ると、なるほどこいつの言うことは一理あるわいと思えた。
そして、わたしはというと、ヌシにもならず龍にもならず、人の体を得たのだが、それは蛍たちのおかげだった。
友人たちが出世した夏、わたしはあいも変わらず蛍を眺めていた。なぜこうもきれいに光るのか、別に知らずともわたしは何百年と蛍を眺め続けてきた。きれいなものを愛でるのに、なぜ、も、どうして、も必要はないのだ、とは思っていても、やはり、どうしてなのか理解してみたいし、サンショウウオ(本当は龍神さまと呼ぶべきなんだろうが、わたしはサンショウウオと呼ぶ)が言ったみたいに多くの光を見て、光に詳しくなりたいとも思っていた。それにわたしには期待があった。さもしい碁を打つ魚でも碁石みたいに平べったい頭のサンショウウオでも、あのような変化が起きたのだから、わたしだって時間の経過に対して何らかの期待を持ってもいいのではないか? こう見えてもわたしを作ったのは、あの名高き来国俊――の弟子の弟子である。つまり、それなりの矜持はあるということだ。
「刃こぼれさん、刃こぼれさん」
と、蛍たちが声をかけてきた。蛍たちは一度に話しかけてくるのだが、その声が不細工に割れたりすることはなく、いつでも一つの口から語られているかのように話しかけることができた。
「何百年もわたしたちのことをきれいだと褒めてくれてありがとうございます。今夜はそのお礼をします」
というや否や、眠たくて心地よい光が降ってきて、砂が砂鉄のように感じたと思いきや、わたしの刀身の傷は全部なくなり、欠けた帽子もきちんと反りを打っていた。何百年という時間の経過は蛍たちにも神としての特性を与えていたのだ。
「これで刃こぼれさんは刀さんになりました」
蛍たちの合唱がそう言った。
蛍たちはたぶん知っていたのだろう。わたしの修理が終わると、途端にわたしにも神格化の雨が降ってきた。それはまたずいぶんと恩着せがましい気配に満ちていたが、気が付くとわたしは泉のほとりに立っていた。いや、正確にいうと、初めて使う手足に慣れず、もんどりうって、転んでいた。
樹につかまりながら、立ち上がり、泉のほうを見ると、あの美しい蛍たちが水面すれすれに飛んでは泉の水を飲んでいた(今ではイワナはヌシだから蛍を襲わない。ヌシが小さな虫を食べたら、ヌシの沽券にかかわるからだ)。わたしは蛍たちに礼を言って、山を下りることにした。
人の腰に差された時代が大昔なものだから、当代の人間がどのように暮らしているのか、さっぱり分からない。不安もあったが、なにこっちは何百年と泉で暮らした神さまだとどっしり構えてみたが、山の樹々のあいだにとても硬くて歩きやすい道がうねうねとどこまでも続いているのを見ると、や、これはだいぶ違うことになってきたぞと用心を始めた。そして、歩きやすい道をてくてく進むうちに道は深い谷に差し掛かったのだが、そこには見事な鋼鉄の橋がかけられていて、何の苦労もなく、そして、橋が落ちるのではないかという心配もなく、谷を通り過ぎた。昔の主人が谷にあたっては何度も降り口を探し、険しい崖に沿って、とぼとぼ歩いた時代には考えられなかったことだ。わたしは人の世がわたしの考えていたよりもずっと変わっているらしいことにすっかり期待して、はやく人の住む場所へ出ていきたいものだと焦る気持ちを押し鎮めながら(というのも焦って歩くと転ぶ。まだ、体に慣れきっていないのだ)、硬い道を歩いた。すると、突然、二つの白い光が見えたかと思ったら、轟音を上げて、わたしのそばを飛び過ぎていった。何かの動物が妖怪にでもなったのかと思ったが、わたしは後にあれが自動車と呼ばれるもので、今生の世では馬のかわりをしているということを知った。
真ん中を歩いていると、目がぎらぎらと光る化け物――自動車に跳ね飛ばされそうなので、道の端を歩いた。
森が開けると、信じられないほどの光が散りばめられた平野が目の前に突然投げ出された。それは人の住む町であった。そこでは光が海辺の砂粒ほどに存在し、一つ一つの光が動き、震え、明滅していた。高く聳え立つ光の群れがあれば、そのふもとを忙しく動き回る光もあり、この分だと地中にも光が溢れているのだろう。わたしはくらくらしながら、この光の海へと降りていった。
人の町はまず自動車が走る道があり、その道に沿って、家や店を立て、その家や店が光り輝いていた。そこに見受けられた道具や食べ物はどうやって食べるのか、どうやって作るのか、まったく見当がつかなかったが、それでも全てのものが光を家来にしていた。光は道具を売るため、食べ物を売るため、そして光そのものを売るために輝いていた。
「これは何という道具か?」店の番をしている女人にたずねた。
「それは電球よ。電球見たことないの?」
「うん」
「これはね、電気が流れて、光るの」
「なぜ光る?」
「電気が流れるから」
「電気とはなんだ?」
「オーケー。言葉遊びならよそでやって」
つまり、人間はこの、山裾から入り江の上までを埋める膨大な量の光がなぜ光るのか説明できないが、それでも光を愛でるのに障害はない、というわたしと同じ考えに落ち着いているらしい。
大きな社ではその境内に人と囃子の音が満ち、食べ物を焼いている匂いが光を赤みがかった靄のなかにこもらせている。笛と太鼓の音は昔を思い出す。昔とは比べ物にならないほど光を焚くこの時世でも社の楽の音と集まる人々は変わらないということが分かると、妙に嬉しくなった。これは興味深い変化だ。先ほどまでわたしは見慣れぬ出来事、見慣れぬ光が嬉しくてしょうがなかったのに、今では社の光と音と人の懐かしさに安らぎを覚えている。
社を出ようとしたが、着流し姿の人が奔流となって押し寄せてくるので、外に出られない。それどころかわたしは別の出口から境内を追い出されていた。人の流れは川の土手にぶつかって左右に別れた。土手の上は人でいっぱいだった。筑後川を思い出す。あれは大いくさだった。あのころはまだ南朝も勢いがあり、わたしの主人も元服して間もない血気にはやる若武者であった。あのころからどれだけの時間が経ったのだろう! 今、集まる人々は誰一人寸鉄も帯びていないが、壮齢の男から小さな娘子まで、何かいくさに似た高揚にとりつかれている。
これはなんぞ起こるぞ、と心構えをしていたのだが、空にバーンと大きな音を立てて、火の玉が飛び散ったときは腰を抜かすかと思った。赤、青、緑と色を変えながら光の尾を引いて落ちていく火の玉が川の水にじゅっと音を立てる。空で火の玉が数百の光に分かれて飛び散るたびに、人々は、おお、とか、わあ、とか鬨の声を上げた。これは今世のいくさだろうか? 矢合戦のかわりに川を挟んで火の玉を投げ合うような――。
だが、誰一人戦おうとはしない。弾ける光をその目に映し、心を囃すばかりだ。それから半刻、空を染め、光を迸らせた火の玉どもが弾け尽くし、雲霞のごとき人々も潮が引くようにいなくなった。川原には片方だけになった履物や何か焼いた食べ物を入れていたらしい入れ物があちこちに散っているだけだ。
それが切ない気持ちにさせる。蛍の光はこれよりもずっと大人しく、ずっと小さいが、その光が行ってしまった後に虚しさなど残らないものだ。むしろ、光の記憶が目に残り、光は常にそのものの心に宿るのだと教えてくれる。だが、この光はどうも勝手が違う。派手だし、光の強さから色からたくさんあり、見ているあいだは楽しいが、終わると、ひどく心細い。一方で、町の光は尽きることを知らず、常に光り続けている。空の星が見えなくなるほどの光にあふれていては、光の持つ神聖さについて落ち着いて考えることができない。
わたしはあの泉に帰ることにした。サンショウウオは蛍の光がなぜ光るか、なぜあんなにきれいなのか知るには、多くの光を見なければいけないと言ったが、なるほど彼の言う通りだった。
山を登り、例の硬くて便利な道から森へ逸れようとしたとき、赤い光を天井でぐるぐるまわす自動車がわたしのすぐそばで停まった。
「そこのきみ」となかにいた男が話しかけた。「こんな夜に何をしているんです?」
「郷に帰るんです」
「郷?」
「はい。そこの泉の」
自動車には二人の男が乗っていた。着ているものが似通っていて、兄弟のようにも見える。そのうち最初に話しかけてきたほうが、
「身分証明書はありますか?」
と、たずねてきた。ミブンショウメイショというのが何なのかよく分からなかったが、わたしは何も持っていないのだから、
「ありません」
と、答えるしかない。すると、男は手帳を出し、
「氏名と住所は?」
と、たずねてきた。これは頭の痛い問題である。実はわたしの茎に打たれた銘は国俊であるから、これを名とすることもできるが、実際に打ったのは国俊の弟子の弟子である。要するにわたしを打った鍛冶は師匠の師匠の名前を騙って、わたしを売ろうとしたのだ。だから、国俊と名乗ることは嘘になる。だが、わたしは国俊以外の名はもらっていない。だから、
「無銘です」
と、答えるしかない。
「ムメイ・何?」
無銘が何とはいったいどういうことだろう? 無銘は無銘だ。それ以外に無銘があったのだろうか? だが、いかに世が変わろうともこれだけは変わらないだろう。無銘とは無銘のことである。
「無銘は無銘です」
すると、男は手帳に『ム・メイ』と書いて、『外国人?』と書き加えた。
「お国はどこです?」
「筑州です」
男はまた変な顔をした。わたしは相手の好きなように取らせることにした。
「悲しむ家族もいるんだから。まだ若いんだから」
男は『大切ないのち』という薄い本を渡して、赤い光をくるくるまわしながら、去っていった。
泉に帰ると、蛍はまだ飛んでいた。おかえりなさい、とあいさつされたので、ただいま、とあいさつし、川にざぶざぶ入った。刀の姿に戻り、いつもの砂床に転がる。ちゃんとした刀として転がるとやはり気味がいいものだ。イワナとサンショウウオが寄ってきた(わたしは絶対にヌシと龍とは呼ばないぞ)。
「どうだったね? 下の世界は?」サンショウウオがたずねる。
「まあ、悪くはないが。でも、やはり光を愛でるなら、ここの蛍だね。たくさんの光を見て、それが分かった。サンショウウオくん。きみの言う通りだった」
「ときにそれはなんだね?」イワナはわたしが下敷きにしている『大切ないのち』をヒレで差した。
わたしたちはそれを読んでみた。そして、大笑いした。あの奇妙な質問の数々に合点が言った。あのくるくるまわる赤い光はとてつもない阿呆がここにいますということを知らせるための光だったのだ。なにせ、あの二人。わたしが自殺すると思っていたのだから。
「山神が自殺すると勘違いするとは、人間というのはやはり阿呆だな」イワナがふふんと鼻を鳴らした。
「左様、左様」サンショウウオも上機嫌にうなずいた。
ああ、いい夜だ。
知己とともに笑い、水は大村の砥石のごとく、ひやりさらり。
そして、見上げた水面に蛍の光が躍る。
本当に素晴らしい夜だ。
南北朝時代、いくさで刃こぼれした刀を蛍の光が治したという逸話にヒントを得ました。