貴方と出会えて
一也と時雨は、しばしその姿勢のまま固まっていた。
いや、正確に言えば時雨が一也を引き留めていたのである。
そのまま放置しておけば、一也が遠くへと流されてしまいそうであったから。
「間に合って良かったでありんす」
「間に合ってって、どういう意味なんだ」
「そのままの意味やよ。一也さんが手遅れになって、本当に取り返しがつかない状態になる前に間に合った。そういう事でありんす」
時雨の説明を聞いても、一也は腑に落ちなかった。怪訝な表情を隠しもしない。
「今一つ意味が分からないけど、どっちにしても俺もう手遅れだよね。死んでしまったんだからさ」
実に滑稽な表現だと思いながら、一也は肩にかかった時雨の手をそっと外した。自分が死んでしまったからか、冷たいとも感じない。
時雨の返事は無い。その点に微妙に違和感があったが、構わず話し続ける。
「......死んだんだからさ。さっきまで俺は自分の人生を見ていた。生まれてから、ちょっとずつ大きくなっていって、ごく最近までの俺が生きてきた過程を見た。これって死後の世界へ行く準備なんだろ?」
「――そう、でありんす」
「やっぱりそうか。多分時雨さんは見送りに来てくれたんだと思うけど、だけど」
一也の語尾が震えた。
「だけど、もう終わりなんだから、これ以上の手遅れなんて無いだろ」
自分の人生をまざまざと見せつけられて、一応覚悟は出来た。
その筈だった。
けれども、心は揺れる。死という一文字は、これ程までに重いのか。
「本当にそれでいいんでありんすか」
時雨が問う。一也が戸惑っていると、重ねて問うてきた。
「一也さんは本当にこのまま亡くなってしもても、それで満足なんでありんすか。心残りが無いんなら、わっちはこれ以上は引き留めないでありんす。けれども」
ぽつりと時雨の言葉は途切れ、周囲にさざ波のような波紋が広がる。
「そうではないなら......わっちは一也さんの力になれるでおす」
「え?」
「ごめんやす、言葉足らずでありんしたね。一也さんを生き返らせることが出来る、そう言いたかったんよ」
「本当か!?」
一也の声が大きくなった。
半信半疑どころか八割が嘘だろうと思ったが、時雨がこんな時に冗談を言うとも思えない。
時雨が頷く。その表情は至極真面目であった。
「はい......わっちの霊魂の権利をお譲りすることで、一也さんのぶったぎられた人生を繋ぎ合わせるんでありんす。体が死にきっていない今であれば、まだ間に合うはず」
「待った、今、何て言った。一番最初に」
「霊魂の権利をお譲りすることで」
氷片が一也の心を滑り落ちた。
無言のまま、時雨を見詰める。目で問い詰めた。
気が乗らないといった様子ではあったが、時雨はゆっくりと口を開いた。
「一也さんもご存知の通り、わっちは幽霊でありんす。今回ようやく成仏の機会を得て、あと少しで極楽浄土へと昇天することになりやん。ここまではええ?」
「ああ、問題ない」
「わっちも生前に聞かされたり、幽霊なってから他の霊に聞いただけなん。でも昇天した後は、自分より前に亡くなった家族や知人の霊魂と再会したり、来世への準備をしたりするんでありんす」
そう聞いても、一也にはピンと来ない部分はある。
死後の世界なんか誰が見たのか、という気はする。
けれど、時雨の表情から彼女が真剣にそう信じているのは伝わってきた。
ならば、少なくとも彼女にとっては、それは真実なのだろう。
「何となく理解出来る。天上での時間があるってことだよな」
「ええ。それが霊魂の権利。輪廻転生の環に連なり、来世へと転じる前の安息の時間でありんす。わっちは......その権利を、一也さんを生き返らせる権利に引き換えるでありんす」
覚悟か。痛みか。それとも、それらを上回る優しさか。
複雑な感情が時雨の言葉に絡みついている。
それは分かる。だが又しても一也の心に氷片が落ちた。
おぼろ気ながら理解出来た気がする。
「それをすると、時雨さんはどうなるんだ」
半ば以上予期はしている。それでも聞かずにはおれない。
「わっちはこれで終わりでありんす。一也さんに霊魂の権利をお渡しするので、わっちはここで消滅するんよ。成仏とは違って、完全に消え去るでありんす」
「そんな......駄目だ、駄目だろ、そんなの。時雨さん、あんた言ってただろ。成仏して極楽浄土に行きたいって。あの夜、俺に話してくれたじゃないか」
時雨が自分の一生を話してくれた時だ。
その時聞いた言葉と、今さっき時雨から聞いた説明がぴたりと噛み合った。
時雨が成仏したいというのは、幽霊として行くべき場所に行きたいというだけではない。
「ええ、話したでありんす。今もその気持ちは変わってないんよ」
「変わってないなら――ないなら、止めろよ。あんたにだって会いたい人はいるんだろ。極楽がどんな場所か知らないけど、自分の気持ちに嘘ついてまで......俺に何かしてくれなくていいから」
時雨の両肩にすがり付くようにして、一也は願った。
自分の中での葛藤を吐き出した一也を、そっと時雨は抱き締める。
長い着物の袖で一也の顔が隠れた。
「嘘ついてなんかないんよ。今でもわっちはやっぱり家族にも会いたいし、昔の想い人かておるもん。会えるかどうかは不確実でありんすけどね」
「だったら」
「けどね、それ以上に。わっちは一也さんに生きていて欲しいんでありんす。わっちは何だかんだ人生を全うして、幽霊になってからも長う生きてたやん。けど一也さんは二十年くらいしか生きてないんしょ。それに――」
ふっと薄く、時雨は微笑んだ。
「――あの時、一也さんが助けてくれたから、今のわっちがいるんでありんす。ほんの短い間でしたけど、一也さんと一緒にいて、本当に......本当に楽しかったんよ。吉原の外の世界も見れたし、第三隊の人ともお話出来たし、それに貴方という殿方に恋が出来て」
時雨のその言葉は、一也を説得する為の嘘では無かった。
伝えたいと思っていた言葉が、ごく自然に唇から生まれる。
例えそれが自分の消滅という恐怖を伴うとしても、ここで伝えずしていつ伝えるのだ。
「......独りぼっちやったわっちを最後の最後で救ってもろて、こんなに暖かい感情を教えてくれたん。だから、わっちは自分の願望を叶えるよりも、一也さんの為になりたいんでありんす」
「けどさ、それじゃ何のために俺はあの時、あんたを助けたんだよ」
一也は力なく首を振る。
だが、時雨もまた首を振り、そっと一也を抱き締めた。
「わっちに悪い思うんやったら、一也さんは一生懸命生きて。あんな九留島なんて人に負けずに、皆を助けてあげて。そしたらわっちは十分でありんすから」
「......いいのか、それで」
九留島の名前に、ぴく、と一也の肩が震えた。
「ええ。どうか、どうかわっちの分まで――貴方は生きてくださいまし。恋心を抱くことを禁じられてきた花魁の、最初で最後の恋に情けをくださいまし。これがわっちの花道でありんす」
「......分かった」
時雨の肩に顔を埋めたまま、ようやく一也は頷いた。
だが、中々顔を上げられない。どんな顔をすればいいのか、分からないのだ。
「一也さん、そんなに悩まんといて。わっちはええから。ほんに一也さんにはようしてもろたもの」
「ああ、けど、ごめん。あんたの申し出を受けるって決めたのに、決めたのにさ。どんな顔をすればいいのかさえ」
一也の声が詰まった。
自分にまとわりつく時雨を鬱陶しく思ったことは、一度や二度ではない。
それにもかかわらず、時雨は一也を助けだそうとしているのだ。自分の身を犠牲にして。
「そのままのお顔でいいでありんすよ、ほら」
笑いながら、時雨はひょいと一也と顔を合わせた。
二人の視線が重なる。
「しゃきっとするでありんす!」と時雨が喝を入れる。
「男前が台無しやよ。一也さんが笑ってくれんと、わっちも命の託し甲斐がないでありんす」
「......そう、だな」
気まずさと情けなさからうつ向いていたが、ようやく一也は顔を上げた。真正面から時雨を見る目には、僅かながら光が戻っている。
「そう、そのお顔でありんすよ。わっちの好きな一也さんのお顔」
「よせよ、照れるだろうが」
「この後に及んで、別に照れるもないでありんしょ?」
この特徴的な廓言葉も聞き納めか。
時雨が出した手を取りながら、一也は覚悟を決めた。
ここまで言ってくれているのだ。時雨の魂まで背負う責任と共に、自分は生き返ってみせる。そして九留島朱鷺也を倒してみせる。
お互い触れあった手がぼんやりと光り始める。それを心地よく感じながら、一也は聞いた。
「時雨さん、最後に何か俺が出来ることは無いか」
「うーん、そやねえ......あっ」
手から生じる白い光は、徐々に強くなる。それを浴びながら、時雨は小さく声をあげた。
「何かあるのか」
「わっちね、吉原入ってから自分の本当の名前、呼ばれたことないんよ。あの夜に話したでありんしょ?」
「覚えてるよ」
「だから――最後に、一也さんに呼んで欲しい。時雨やのうて、わっちが生き生きしてた時の名前で」
はにかむように、時雨は微笑んだ。
まるで少女のようなその微笑みが、一也にその名を呼ばせる。
手を掴む力を僅かに強め、万感の想いを込めて、一也はその名を口にした。
「ありがとうな、おりん」
「良かった、一也さんの口から言うてもろて」
時雨の伏せた睫毛から、ほろほろと流れる滴があった。それは周囲の水にも溶けず、淡い光の粒子となる。
その間にも、合わせた掌からこぼれる光は一層強くなっていく。
幾層にも重なった光が二人の周囲を駆け抜けた。
時雨の体はそれに溶け、一也の体を包み込む。いつしか水の流れは途絶え、ただただ真上へと浮き上がるような感覚がある。
水底が泡立った。
それと共に体は軽くなり、気分が高揚していく。
一際光が強さを増し、もはや目を開けているのが不可能になった。
"上か"
目を閉じてから、爪先で水底を蹴ってみる。
体が浮いた。
一度浮くと、後はじわじわと浮上速度が上がる。白い光の帯に包まれながら、一也の体はどんどん浮上していく。
暗い灰色の潮流を後にする。
ごぽり、と大きな泡が弾けた音に紛れて、確かに一也は聞いたように思う。
「さよなら、一也さん」と。
それは、華やかながらも切なく、洒落っ気がありながらも純朴であった、一人の女の最後の祈りであった。
******
目覚めは突然だった。
熟睡した後の自然な起床のように、瞼はしっかりと開いた。
仰向けに倒れていたと気がついたのは、首筋に感じた草の感触だ。
斜めに傾いだ視線を天に向ければ、太陽が見えた。
"生きている"
一也は手足を動かす。
遠くの方から音がする。聴覚も働いているらしい。
グローブに包まれた両手の指を、コンバットブーツを履いた足をゆっくりと動かした。
問題ない。体に傷は無いようだし、呼吸も出来る。
ただ、火之禍津の主砲にやられたBDUとインバネスコートは別だ。胸の辺りに大きな穴が開いている。
"流石に服までは元に戻らないか"
上半身を半ば剥き出しにしながら、一也は立ち上がった。
音がした方を見ると、あの巨大な機体が暴れているのが見えた。
戦っているのはヘレナだろうか。見覚えの無い黒い鎌のような武器を携え、凄まじい速度で斬りかかっている。
だが一也が驚くより先に、ヘレナが吹っ飛ばされた。
"まずいな"
地面を削りながら、何とかヘレナが着地する。
恐らくこんな攻防を何度も続けていたのだろう。制服は何ヵ所も破れている。
自分が倒れていた間に、実質一人で粘っていたというところだろうか。
"時雨さんはやっぱりいないか"
気配がない。
もしかしたらと思ったが、やはり彼女は消えたのだろう。
感慨――だが、それも一瞬に過ぎない。
後でいい。自分を助けてくれた彼女を悼むのは後でいい。
それより今はやることがある。
"魔銃は何処だ?"
運がいいことに、一也からさほど遠く無い場所に転がっていた。
飛び付く。大丈夫だ、灼熱弾による銃身のダメージは抜けている。これなら撃てるだろう。
一也の右手がグリップを握る。
何度も何度も練習し、体に染み込ませた動きだ。一度死んだくらいで忘れるものか。
右肩に押し付けた銃床が、銃身のぶれを消す。
微かに残る火薬の匂いを感じる。銃口の向こうに見える敵の存在を感じる。
本当に戻ってきたと一也が実感出来たのは、この瞬間であった。
マガジンに装填されているのは、黄色の弾底の特殊弾だ。こいつに内蔵された呪法は電撃だったはず。
ならば効くか。
両手を通して呪力を流す。パチッ、と小さく弾けるような音がした。
一也の期待に応えるかのように、銃身の周りに黄白色の火花が瞬いた。
放電現象かと気がつく。呪力の量が増しているのかもしれない。
行くぞ、と叫んだのは心だろうか。
体の芯が熱い。なのに頭の芯は怖いほどに冷えている。
極限まで研ぎ澄まされた集中力は、一也の周囲の世界をスローに変えた。
これで外す訳が無い。
「見とけよ、時雨さん」
ぽつりと呟くと共に、一也の視界は色を喪う。ただ一点、猛威を振るう鋼の機体のみが銀色の影となる。
躊躇わずに引き金を引いた。
「雷光弾」
魔銃の銃口から一条の閃光が迸った。




