広がる絶望
舞う、まさに疾風の如く。その風は黒い刃を共にする。
「おおああああっ!」
切り付けるのは何度目か。
天使之翼で頭上を取り、ヘレナが火之禍津に斬りかかる。
両手で持った黒之大鎌は空間を歪めながら迫り、鋼の機体の右手の盾に食い込んだ。
だが切り落とすには足りない。ぶん回すような盾の動きに、威力が殺されていた。
「中々粘るが、そろそろ馬力の差が出てきたというところか」
声と共に振り払われ、地面に叩きつけられそうになった。土埃を立てながら、何とか追撃を回避する。
しかし、もはや疲労感は隠せない。
追撃で放たれたガトリングガンの連弾をかろうじて大鎌で防御、だがそこから火之禍津が更に迫ってきた。
"まるで山だ"
恐らくは排気量を全開にしての突進だ。
ガトリングガンの弾幕をこちらが防いでいる間に、機体そのものを武器として使ってくる。
間違いない、九留島子爵自身の操縦技術が向上、いや、慣れてきているのだ。
「ちっ!」
素早く左に回避、だが相手の攻撃をかわしきれなかった。
掠められただけなのに、鉄の小山のような火之禍津の攻撃は余りにも効いた。
右の二の腕の肉が、血飛沫をあげて持っていかれる。
"重量差がこれほど不利に働くのか"
いや、むしろそれが自然か。目方が何貫あるのか、測ることすら馬鹿馬鹿しい鋼の機体が相手なのである。
激痛に顔をしかめながらも、ヘレナが出来た事は何とか間合いを保っただけ。
今までならば、相手の攻撃に合わせて反撃を入れていた。だが、今やそれすらも難しくなっている。
「ふん、動きが相当鈍くなってきておるな。やはり体にかかる負荷までは、軽減出来ないということか」
優位を確信したかのような九留島子爵の声が響いてきた。答えない。だが、彼の言う通りであった。
加速を繰り返し使用したことにより、脚を中心に体に無理をさせている。
更に黒之大鎌と白之大砲という二つの上位魔術は、ヘレナの精神力を削っていた。
使えると使い慣れているはまた別だ。
「だが、退ける訳がないよな」
「分からんな、ヘレナ・アイゼンマイヤー。何がお前をそこまで駆り立てる? 三嶋一也の死がそれほど堪えたならば、私が言ってやろう」
半ばうわ言めいたヘレナの呟きは、九留島子爵の理解を超えていた。
ほんの少し膠着状態になっていたこともあり、好奇心から聞いてみる。
「あれは事故だ。私と火之禍津という災禍に出会ったことによる、純然たる事故だ。お前が責任を感じることはなかろう。上司が庇うと言っても、物事には限度がある」
「かもしれんな。だがな、九留島朱鷺也」
大鎌を支えに、ヘレナは体を起こす。
ここまでの戦闘による打撲や裂傷が、じわじわと彼女の動きを鈍らせていた。
「そうした理屈の話じゃない。論理性だけで割りきれる話じゃない。私が三嶋君の死を悼み、貴様を許せないのは......私も人間だからだ」
黒之大鎌を右手一本で持ち上げる。傷跡から流れる血は、肌を、袖を伝いぽたりと垂れた。地面に赤い染みを作りつつも、ヘレナの言葉は止まらない。
「私は彼には恩義がある。それは仕事上の関係から生じた物だが、それでも人として返さねばならぬ物だ。少なくとも、私はそう考えている」
自分のような年端もいかぬ異国人を、ずっと上司と慕ってくれた。
独逸から日本に来た時の個人的な理由も、彼は黙って聞いてくれた。
順四朗や小夜子と一緒に飲みに行く時にも、付き合ってくれた。
それらは一つ一つは他愛ないことだろう。取るにも足らないことかもしれない。
だが、それでも尚、ヘレナは。ヘレナ・アイゼンマイヤーは。
自分が三嶋一也と過ごした時間が、その記憶が大切であった。
慕情かと言われれば違う物だが、劣らぬ価値があるだけの物だとは断言出来る。
体は軋む。
どうしても火之禍津の剛腕をかわしきれず、防御した為だ。
自覚しているだけで、十ヶ所近くがみしみしと痛む。
けれども、軋んでいるのはそこではない。
それは大したことなんかじゃない。
もっと軋み、もっと悲鳴をあげ、もっともっと痛んでいるのは。
「――お前は私から、大切な部下を奪っただけじゃない。大切な友人も同時に奪っていったんだ! これで簡単に事故だと割り切れるならば、私は人間なんかじゃない!」
心であった。
自覚しないまま、ヘレナは確かに泣いていた。その青緑色の目から、透き通るような涙が零れる。哀しみという感情が器から溢れ、そしてそれは闘志を煽る。
ヘレナの萎えかけていた気力が再び燃え上がる。
それを認め、九留島子爵は操作桿を動かした。鋼の期待はそれに応え、無言のまま蒸気を噴き上げる。
「なるほど、だからここまで無駄な抵抗を続けると。いい加減、こちらも出力は回復している。それが分からんほど馬鹿ではあるまい、と踏んでいたが――そこまで覚悟しているならば仕方ない」
この時、九留島子爵は"場合によっては、第三隊の三人を逃してもいい"と考えていた。
ここまでの戦闘で、火之禍津もかなり損傷している。死に物狂いでかかってきたならば、それは更に酷くなる。
実戦による情報収集はもう十分であったし、止めても良かった。
"だが、それでは収まらぬか"
口の端をにぃ、と歪ませた。
追い込まれているにも関わらず、ヘレナは全く諦めない。
それを受けて立たぬ程、九留島子爵は無粋な男ではなかった。
「ああ。せめてその機体の腕一本でも貰っていくぞ」
ヘレナが構えた。
黒之大鎌が猛るように漆黒の濃度を増す。
殺気は風となり、彼女の足許の砂塵を散らした。涙はもはや消えている。
"あと何分持続出来る?"
黒之大鎌を振るうが、火之禍津の盾に阻まれる。
かなり損傷は与えたものの、まだ完全には壊れていない。しかも防がれただけではない。
"腕に反動が――くそっ!"
頑丈な盾に切りつけ続けたことで、ヘレナ自身の体が痛む。気力で補ってきたが、ふとしたはずみにそれも切れそうになる。
この科学技術の粋を一人で相手にすること、約三十分。体力も底をつきつつあるという事実を直面せざるを得なかった。
強気と弱気が交錯する中、それでもヘレナは――ただ一人、鋼の機体に立ち向かう。
******
「割って入る隙すらあらへんわ」
「完全に傍観者ですよね、私達」
火之禍津とヘレナが激闘を繰り広げる中、奥村順四朗と紅藤小夜子は隠れていることしか出来なかった。
望んでそうなった訳ではない。ヘレナの邪魔になるため、戦いの場から締め出された形である。
"なんちゅう情けない有り様やねん"
順四朗は心中穏やかではない。一也の仇も取りたいし、ヘレナの助力もしてやりたい。しかし現実がそれを阻む。
あの堅牢極まりない奇怪な鋼の塊相手には、自分の抜刀術は通用しないだろう。
いや、万に一つ、足首などに決まればという気もしなくはない。だが、それは期待するには余りに低い確率だった。
「秩父まで何しに来たんか分からへんな。恥さらしもええとこやんけ」
自嘲そのものが口をつく。
目の前では、じりじりとヘレナが劣勢に立たされている。
もし敗北すれば、次は自分と小夜子の番だ。
そうなる前にいっそ切り込んでやるか、と思わなくもない。
「それは私だって同じです。一也さんの仇どころか、身一つ守れてないんですから」
小夜子もまた、忸怩たる思いであった。
情けないどころの話では無い。いや、むしろ情けないだけならばいい。更に問題なのは、このままだと犬死にするということだ。
"一也さんの遺体を回収することすら出来ず、縮こまっているだけ......不様そのものです"
ひたすらに自分の無力が悲しかった。
確かに迂闊に出ようものなら、火之禍津の餌食である。
一也に続いて順四朗か小夜子が犠牲になれば、ヘレナが動揺するのは明らかだ。
"だから退いているのが一番まし――でも"
これほどの屈辱は無い。
三嶋一也の死という衝撃がひとまず過ぎ去った後、二人に共通するのは虚脱感だった。
これほどまでに自分達の力が及ばない戦闘があり、その戦況をただ見ているだけなのだ。
のろのろと小夜子は首を回す。倒れた一也を確認しようとしたのだ。
長距離狙撃の為に一也が遠ざかった位置からは偶然近づいたものの、それでもここから二町近い距離がある。地面に倒れた姿は、まるで黒い点であった。けれども、せめて見ずにはいられなかったのだ。
涙が滲んだ視界を擦る。
やっぱり駄目だ。あんな寂しい場所で、一也はたった一人で倒れたままだ。
ぽつんと、一人で......一人?
「時雨さんがいない」
「ん? どうかしたん?」
岩陰に身を隠しつつ、小夜子と順四朗が向き合う。指で指し示しつつ、小夜子は声を潜めた。
「一也さんに憑いていた時雨さんが、いないんですよ。遺体の周りにいるだろうと思っていたのに」
「あの熱線でやられたんか?」
「違うと思います。一也さんが倒れた時、時雨さん、遺体にしがみついて泣いてましたもの」
「あ、せやったな。けど、そしたらおかしいやん。何処行ったんや、あの幽霊の姐ちゃん。気力無くしてそのまま成仏したんやろうか」
正直、順四朗にとって時雨の行方はどうでもいい。
気にはなるものの、現状は命の取り合いの真っ只中だ。そこまで考えを回す余裕が無かった。
だが、小夜子は妙に気になった。
目を閉じて、時雨の気配を探る。彼女の仮の隠れ家となる札は、小夜子が作って一也に渡した物だ。それを通じて、一也の周囲を探ってみた。
「まだ消えてはいないみたいです。でも、何だか変」
反応はある。消えてはいないのは確かだ。
だが、妙に遠くに感じるのは何故だ。そして何故、姿が見えない。
胸騒ぎを覚え、小夜子は無意識に拳を握った。
"時雨さん、何をしようとしているんですか"
その声無き願いに答える者はいない。
******
何処なんだろう。ここは一体何処なんだろうか。
自分は誰なんだろう。いや、自分とは一体何を指しているんだろう。
それは細い糸のような思考であった。切れ切れになった、今にも途切れそうな思考はとりとめがない。
感覚という物が朧気であり、前後左右も分からない。
ただ、何となく暗い場所にいるような気はした。
光が射さない、暗く寂しい海の底のような――そんな印象がある。
"海。海って何だろうか"
断片的な思考を続けていたそれは、不意にそんなことを思う。
自分でも分からないまま、海という単語が浮かんできたのだ。海か......ああ、そうだ、海とは広く大きな水の集まりだ。魚が泳いでいる。
うん、いいぞ。青く透き通った綺麗な海もあれば、暗く重い海もある。海に沿って砂が集まった場所は、確か砂浜と言うんだよな。
海を手がかりにして、それは考えを飛躍させる。
海と対になる空を思う。空に浮かぶ雲を思う。空は朝には青く、夕方には赤く染まる。
夕方、ああ、そうだ。夕方から時が経過すれば、夜になる。真っ暗で、だけど星は綺麗で、そうだ見上げたことがあったはずだ。
次から次へと関連する語句を思い付く。
その度に、付随する記憶が浮かんでくる。
池の表面に、ぽかりぽかりと空気の泡が浮かぶかのように。
まるで脈絡も無く、幾多の言葉が溢れだす。それは言葉と共にある記憶も呼び起こし、記憶はそのまま映像となる。
映像――そうだ、目の前に広がるこれは映像だ。
ということは、目に見えるということだ。俺には目があるということなんだろう。
それはふと気がつく。
俺......今、自分は、自分の事を俺と呼んだのだ。俺は俺の事を俺と呼ぶ、そういう性格だということだ。
自分で初めて意識する。すると益々、目前に展開される映像はより鮮やかに、より印象深くなっていった。
分かる。俺には分かる。
これが自分に関係あるということが分かる。これは俺の周囲にあったこと、俺が見聞きしてきたこと、俺が感じてきたことなんだ。
俺の人生が展開されている、そういうことなんだ。
感覚が鋭くなった。周囲の重く暗い水のような物が、ごぽりと音を立てた気がする。そう感じると、やはりそういう物らしい。
手を意識する。ああ、そうか、俺には手があるんだ。その手で水を掻きながら、今度は足を意識する。
足もある。記憶に違わない二本の足だ。
ここが何処なのかはまだ分からないが、水底のような場所に立っているのだろうか。妙に足裏がくすぐったい。
"息が出来る。生きている、いや、馬鹿な。そんなはずは無いよな"
思考がよりはっきりしてきた。
先程までの散漫さが消え、代わりに筋道立てて考えられるようになった。
自分の頭の中に浮かんだ言葉には、自分という存在の個性が宿る。
単語一つ一つもそうであるし、複数の単語を束ねた文脈ならば、それはより鮮明だ。
ならば、それが表す物は何だろう。
ならば、それを構築する主体は何だろう。
俺は俺の名を呟く。
全ての記憶の中から、その名を探り当てて、まだ拙い発音で必死に呟く。
それはこう聞こえた。
「三嶋一也」と。




