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山中爆走逃走劇

 手桶に汲んだ水に手を浸す。

 透き通った水は切るように冷たく、今が春とは感じさせない。それに構わず、顔を洗った。

 ぴしゃっと水音が弾け、絡み付いていた眠気が消し飛ぶ。



「冷たっ!」



「当たり前ですよー、その為に顔洗っているんですし」



 思わず声を上げた一也を、小夜子が笑う。

 分厚い寝間着の袖をまくっているせいで、白く細い腕が覗いていた。

 その白い腕もまた水をすくい、少女の顔を濡らす。早春の朝陽に水滴が煌めいた。



「あー気持ちいい。意識がはっきりしますね!」



「おー、ちゃんと早起きしとんな、健康優良児やん」



「おはようございます、順四朗さん」



 旅籠の庭で顔を洗う二人に声をかけてきたのは、やはり寝間着姿の奥村順四朗であった。

 一也の挨拶に手を挙げて応えながら、大きく伸びをしている。



「いやあ、ええ天気やねえ。空気も美味いし、水も綺麗。これで仕事やなかったら、言うことなしなんやけどなあ」



「それだったらそもそも飯能まで来ませんよ......あれ、そういえばヘレナさんは?」



「私が起きた時には、まだ横で熟睡してましたよ」



 三人で顔を見合わせる。

「私起こしてきますねー」と草履をぺたぺたさせて小夜子が旅籠に戻っていくので、

 とりあえず一也と順四朗、それに一也の側にいた時雨は待つことにした。



「ヘレナさん、朝は弱い方でありんすか?」



「いや、知らないよ。あんまりそういう事話したことないし。順四朗さん、何か聞いたことありますか」



「知らんなあー、起こしにいった事とかないしな。おや、言っとる傍から」



 順四朗が親指をくいと立てた先、そこに見えたのは件の人物であった。

「ぐーてんもーげん」とぼんやりとした声を口から吐き出しつつ、ヘレナ・アイゼンマイヤーはのろのろと庭に出てきた。

 長い金髪は乱暴にアップに纏められているが、くしゃくしゃだ。殆ど閉じた瞼から覗く目は、どんよりとしている。

 側についている小夜子は、何やら困ったような顔である。



「あー、あはは。あのー、ヘレナさん、何か今朝は調子悪いみたいなんですよ」



「......見事な寝惚け眼でありんす」と時雨は嘆き。



「......ひっどい寝癖やな」と順四朗は飽きれ。



「......どてら、ずり落ちかけてるし」と一也は嘆いた。普段があれほど凛とした美人なだけに、落差が激しい。



「......仕方ないだろう、低血圧なんだから」



 まるでぼやくように呟きながら、ヘレナは手桶に手を入れた。

 ぱちゃぱちゃと水で遊んでいる内に、少しずつ目が覚めてきたらしい。八割は閉じていた瞼が何とか半分まで開く。



「納豆食べたいんだけどさ、朝御飯に出るのかな。あと湯豆腐とかあれば文句無いんだけど」



「――俺が聞いてきますから、ちゃんと顔洗ってて下さいよ?」



「うん、分かった」



 これほど和食に味覚ジャックされた独逸(ドイツ)人も他にいないのではあるまいか。

 何故か頭痛を覚えつつ、一也は旅籠の厨房に向かうのであった。




******




「横浜や箱根の時は全然普通だったのに、急にどうしたんですか?」



「春眠暁を覚えずって言うだろ、あれだよ。春先は朝が駄目でな」



 助手席に座る小夜子と、一也の真後ろに座るヘレナの会話を聞き流す。

 一也が運転する蒸気動力式自動車(スチームオウトモオビル)は、元気よく煙を吐き出しながら走っていた。

 飯能を後にしてすぐに山道に差し掛かり、今は緩い上り坂をがたがたと進んでいる。



 幸いなことに、ヘレナの低調ぶりはすぐに回復していた。朝御飯を食べ終えた頃には、いつも通りである。

 問題ないことが分かったので、昨日立てた予定通り、旅籠を後にして皆で自動車(オウトモオビル)に乗り込んだという次第だ。

 ただし、時雨の姿は自動車(オウトモオビル)にはない。

 猩々が襲ってきた際に邪魔になりそうなので、本人の希望で身を潜めている。

 小夜子が提供したお札が、彼女の仮住まいとなっていた。



「昨日乗ったからか、ちょっとは慣れたわ。秩父まで四里くらいやったっけ」



「そんなもんです。自動車(オウトモオビル)で本気出せば、あっという間ですよ」



 順四朗に答えつつ、一也は慎重にハンドルを操る。

 飯能から秩父までは確かに山道ではあるが、それは山越えをする訳ではない。

 横瀬川という川が流れており、そこに沿った道を真っ直ぐに遡るのだ。

 川床に自然と作られた道である為、それなりに広いし斜度もそこまではきつくは無い。



 "とはいえ、最大の問題はそこじゃないんだよな"



 一也の懸念は恐らく全員が抱いている物だ。

 昨日飯能で聞いた猿の妖怪、猩々。

 秩父に入るにあたって、まずはこれを何とかしなくてはならない。

 しかも三十匹余りもいるという。後れを取る気は無いが、気楽に構える訳にもいかないだろう。



「おっ、あそこが山道の入り口だな」



 ヘレナが指差した方向、木々がぽっかりと暗い穴を開けていた。

 その穴の下を横切るように流れる清流がある。あれが横瀬川だろう。

 名も知らない小鳥が囀り、蜉蝣(かげろう)が川中の石に止まっている。風景からは不穏な気配も不吉な予感もしない。



「さてと、行きますか。猩々に会ったら一気に加速して逃げますよ」



 一声かけてから、一也は自動車(オウトモオビル)を木陰へと滑り込ませた。

 視界が緑色を帯び、気温がぐっと下がったように思う。

 多少でこぼこはしているものの、道には石は少なく、またそれなりに広い。これならば何とか進めそうであった。








「来ますよ」



 小夜子が小声で警戒を促したのは、山道に乗り入れて十分ほど経過した頃であった。

 式神の一体を自動車(オウトモオビル)に先行させる形で、偵察に出していたのである。

 それに引っ掛かる物があったようだ。



「間違いない?」



 ぐるりと右に曲がる道に沿いながら、一也が答える。視線は前を向いたままだ。



「ええ、野生の敵意というか、明らかにこちらに勘づいて動いている気配でした。まず間違いないです」



 式神から伝わる情報を手繰り寄せつつ、小夜子も答えた。

 両手で抱き抱えるようにしているのは、一也のM4カービン改だ。運転の邪魔になるので、助手席の小夜子が預かっている。

 いざとなれば、一也にすぐに渡せるだろう。



「そしたらぶっちぎるでありんすか」



「ああ、もうちょい引き付けてから――って、もう来やがったか」



 ポケットの中からの時雨の問いに、図らずも行動で示すことになった。

 一也の視界にもはっきりと映ったのだ。がさりと揺れる藪の中、赤茶けた毛をした猿らしき動物の姿が。

 日本猿より大きいと認識した瞬間、迷わず加速板(アクセル)を踏み込む。

 駆動部(エンジン)が唸り、ぐんと体が後ろに引っ張られたような感触があった。車輪の回転数が上がる。

 見たこともない機械に驚いたのだろうか、猩々達が吠えた。野太い叫び声は、聞いていて気持ちいい物ではない。



「引き離してやる!」



 道の左右、視界の端に赤茶けた姿が映る――だが、それが追いすがるよりも速く、一也と自動車(オウトモオビル)の反応の方が速かった。

 左足で変速機構(クラッチ)を踏み込み、ギアを二速へ、そしてすぐに三速へ叩きこんだ。

 視界の流れていく速度が一変し、それと共に体を突き上げる衝撃も跳ね上がる。



 "こ、怖ええっ!"



 口には出さないが、心臓が爆発しそうであった。

 無理もない、慣れているとは言い難い蒸気動力式自動車(スチームオウトモオビル)に乗り、尚且つある程度広いとはいえ、未舗装の山道である。

 小石や枯れ枝を踏み越えながら、時折視界を遮る枝葉を車体で引きちぎって走っているのだ。

 石炭の燃焼にもむらがあるのか、いきなり速度が上がりもすれば下がりもする。



 "けど、追い付かれるわけには"



 必死であった。

 平地ならともかく、山の中では明らかに地の利は向こうにあるのだ。

 ホゥ、ホォォオォウと風が抜けるような奇妙な吠え声が、後方から追いかけてくる。

 猩々の声だ。それが駆動部(エンジン)のがちゃがちゃした機械音に遮られた。

 何匹いるのかも分からない、姿を視認している暇も無い。ただ運転だけに集中する。



「こ、これほど揺れるのかっ!?」



「黙って! 舌噛みますよっ!」



 驚きを隠せないヘレナに注意した。

 大袈裟ではない、所々ある段差やでこぼこは車体を容易に跳ね上げた。視界の揺れは左右だけでなく上下もあるのだ。

 もう時速50キロメートルは出ているだろうか。

 一也の今の腕では、この道を踏み外さずに自動車(オウトモオビル)を走らせることの出来る限界だ。

 これで追い付かれたら打つ手が無いが、俊敏な猩々でも流石にどうにもならないらしい。

 一也の必死の運転が効を奏し、こちらと相手の距離が離れていく。



 だが流石は山の中の道である。

 じわじわと続く上り坂が、急に左に切れるように曲がっていた。普通に曲がれば、大幅な減速は避けられそうもない。追い付かれてしまう――いや。

 咄嗟に減速板(ブレーキ)を最小限に踏み、変速機構(クラッチ)を半分浮かせる。

 駆動部(エンジン)の動力が行き場を失い、がこんと力が抜けた状態になる。



「ここで左に!」



 ハンドルを切った。車体が左に急激に方向を変える、だが止まらない。カーブの外へ振られた状態となり、車体の右側面に斜面が迫る。

 乗り上げる、と小夜子が、ヘレナが、順四朗が覚悟したその瞬間である。



 タイヤが軋んだ。護膜(ゴム)が土を噛み、表現し難い音を立てた。

 後輪が前輪の方向転換についてこれず、横滑りになった。

 方向(ベクトル)が異なる二つのエネルギーが、車体を盛大に軋ませる。

 息が詰まりそうだった。だが斜面ぎりぎりまで振られながらも、自動車(オウトモオビル)は持ちこたえた。



 一也が変速機構(クラッチ)を繋ぐと同時に、加速板(アクセル)を一気に踏み込んだのだ。

 カーブの外へと働く遠心力に、自動車(オウトモオビル)の前へと進む推進力が勝った結果だった。

 盛大に黒い煙を二本の煙突から撒き散らしつつ、後続の猩々の群れを引き離す。見事なまでのドリフトである。



「な、なんちゅう運転やねん!」



「殆ど減速してなかったんじゃ......」



 順四朗と小夜子から驚きの声が上がった。山道だけではなく木立をも走る猩々であったが、もはや声も聞こえず姿も見えない。

 一也の会心の走りであった。「よし!」と小さく笑い、ようやく少し速度を緩める。



「全く......大した物だな。生きた心地がしなかったよ」



「すいません、あれしか手が無かったので」



 ヘレナに答えつつ、一也は自動車(オウトモオビル)を進ませる。木漏れ日を突っ切るように、更に前へ前へと。








「ああ、下りに入りましたね。もうちょいかな」



「凄い運転でありんしたなあ」



 時雨の返事に心の中で頷きつつ、一也は慎重にハンドルを切った。

 最初の逃走を成功させてから更に二回、猩々の群れに追われたが、それらも全て振り切った。

 コツを掴んだのか、自分でも驚くほど運転技術が向上している。この短い下りを終えれば、山道は終わりのようだ。



「猩々もこれ以上は出ないといいですけどねー」



「三十匹くらいはいたんちゃうの。数える暇も無かったけどな」



 小夜子と順四朗がほっとした面持ちで言葉を交わす。

 口には出さないが、一也も同感であった。山道を全力で運転したせいで、腕が突っ張っているような感触がある。

「山越え成功かな」と気を緩めたのも無理はない。ヘレナに頭を軽くはたかれたのは、その時だった。



「気を抜くなよ、前を見ろ。あそこに何がいる?」



「あっ、あれ、まだいたのか」



 進行方向である山道が下り終わった辺り、そこを見た一也は驚いた。

 何度も見かけた赤茶色の毛をした猿の姿がそこにある。数は多くはない、たったの二匹だ。群れを作って動くという猩々には珍しいが、男と女のつがいなのかもしれない。

 見慣れぬ自動車(オウトモオビル)に度肝を抜かれたのか、二匹ともぴょんぴょんと後方に退いた。



「逃げた......って訳じゃないか」



 一也が自動車(オウトモオビル)をじわりと進ませる。

 山道の終点は、大きく右に曲がりながら膨らんでいる。ちょっとした広場のようだ。

 その中央あたりに、先程の二匹の猩々の姿があった。歯を剥き出しにして、こちらの様子を伺っているように見える。



 "やばっ、ちょっと最後に速度落とし過ぎたな"



 舌打ち一つ。

 本来ならば相手にせず、自動車(オウトモオビル)で置き去りにすればいい。だが最後の下りの足場が悪かった為、かなり速度を落としていた。

 ここから加速しても、下手をしたら間合いが詰まった瞬間に飛び乗られるかもしれない。

 言うまでもなく、それは危険だ。



「あの二匹だけ追い払います。小夜子さん、M4貸して」



「どうぞ。降りた方がいいですよね」



 小夜子に頷き、完全に停車させた。

 二匹の猩々は、こちらを警戒しつつ遠巻きにしている。

 相手が四人もいるため、襲撃するかどうか決めかねているらしい。

 一也としても、追い払いすれば用はない。威嚇するようにM4カービン改を構えながら、相手を観察する。



 赤茶けた長い体毛が一番の特徴だろうか。

 背を丸めて立っているため、正確な身長は分からない。恐らく五尺程度と目算する(一尺=約30センチメートル)。

 長い手をぶらぶらと揺らすその姿はユーモラスとさえ言えるが、時折見える白い牙は鋭い。

 かちん、かちんとそれが鳴る。突き出た顎と狭い額は、確かに猿の特徴であった。



 "オランウータン? いや、あれはもっとずんぐりしていたか。でも何となく似ているかも"



 仮定ではあるが、オランウータンが東南アジアから何らかの事情で日本に運ばれ、日本猿と交わった結果が猩々なのではないか。

 無論これは推測に過ぎず、こちらの取る行動も別に変わらない。

 だが得体の知れない妖怪を相手にするよりは、猿の変異種と思った方が気楽だ。



 この短い対峙を破ったのは、一也だった。

 フルオートに設定したM4カービン改が、容赦なく秒間20発の性能を全開にする。

 猩々も警戒はしていたのだろうが、かわすスペースを埋めるようにばらまかれてはどうしようもない。

 毛の上から撃たれまくられ蹴散らされ、あっという間に逃げ出した。

 ギャアギャアという耳障りな叫び声が木霊のように反響したが、それもすぐに消える。

 後には、M4カービン改の御影石製の弾丸が転がるだけだ。



「完全に倒さんで良かったん?」



「それでも良かったんですが、そこまでしなくていいかなと思いまして。俺達の本命は別にいますし」



「せやな」



 順四朗とやり取りしつつ、一也はぐるりと辺りを見回した。

 これ以上は猩々もいないようだ。心地よい風が吹き、木々の葉を揺らしている。



「一也さんの銃、物凄いでありんすな。びっくりしたん」



「無傷で山越え出来たのは大きいな。よし、小休止するか。ここからは徒歩だしな」



 ようやくポケットから這い出た時雨とヘレナの声に何となく安堵しつつ、一也は「ふう」と大きく息を吐いた。

 ここまでは順調だったが、所詮は前哨戦に過ぎない。

 本命はあくまでここからだ。

 気持ちを切り替える為にも、休息があるのは嬉しかった。

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