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蠢き始めた脅威

 床に敷かれた絨毯は厚く、靴音を容易に吸収する。

 幾分古くなってはいるが、その重厚さは屋敷の主に相応しい。中にはこのような田舎に住む主を軽視する者もいるが、言わせておけばいい。

 日本のどこに住もうが、どうせ大した違いは無いのだ。そう、世界の列強から見れば弱者であるという部分からは逃れられない。



 "だが九留島子爵の力があれば、その力関係(パワーバランス)を覆すことが出来る"



 廊下を歩く青年は、今一度その考えを反芻する。

 黒い執事服を隙無く着こなすこの青年の名は、高城清和という。

 さらさらした黒髪の下には、日本人には珍しい青紫がかった双眼が覗く。

 通った鼻筋と合わせて、どこか西洋人めいた印象を与える青年であった。



 埼玉西部の山間部たる秩父だ。三月ではまだまだ到底春とは言えない。

 清和が歩く廊下には、硝子(ギヤマン)が嵌まった窓が並んでいる。

 冬がまだしがみついているような寒気が、時々窓の隙間から忍び込む。

 普段はそれも気になるが、今の清和の顔は何か別の事に集中していた。



 ある部屋の前で、執事の足が止まる。二度の軽いノックと共に、声をかけた。



「ご主人様、清和です。宜しいでしょうか」



「ああ、入れ」



 深みのあるバリトンを確認し、素直に部屋に入室する。

 見慣れた南向きの部屋だ。清和から向かって左側に座る男に、軽く頭を下げた。

 男、九留島朱鷺也子爵もまた、労うように頷いた。



「飯能より連絡がありました」



 清和のこの一言だけで、九留島子爵は何の事か察したようだ。片頬に笑みを浮かべるその顔には凄みがあった。



「ふん、小遣い銭分は働いてくれたということか。やはり準備はしておくものだな」



「恐らく、我々を訪ねる客というくらいにしか思っていないのでしょう。渡した札を破るくらいなら誰にでも出来る連絡方法ですし、やっておいて正解でしたね」



 美憂の特異な呪法である血液呪法の中には、通信に使える呪法もある。

 今回通信手段に使った物は、彼女の血で言依仮名(ことしろがな)を記した札であった。

 一定の条件下であれば、これに何か変化があれば呪法士である美憂に伝わるという訳だ。



「連絡があったのは?」



 九留島子爵の問いに重さと鋭さが加わる。

 単に来たということしか、札の異常からは分からない。

 飯能で一旦休息を取るのか、あるいは一気に通過するか。後者であれば余裕は無い。

 だが、答える清和には焦りは無かった。



「十五分程前です。第三隊が飯能に着いてからすぐに連絡を寄越したとして、大体二時頃に飯能に着いたとみていいでしょう。この時間から山合いを抜けようとするのは、些か難しいかと存じます」



「妥当な推測だな。ましてや飯能であの件を聞いたならば、一泊して準備するであろうな。第三隊の面々がいかに猛者といえども――」



「――長旅の疲れを抱えたまま、猩々の群れが潜む山道はいかにもきついでしょうね。私も同感です」



 清和の同意を得て、九留島朱鷺也は首を左に曲げた。その顔が向くのは窓だ。

 やや古めかしい執務室ではあるが、唯一の自慢が大きく造られた出窓である。

 欧州の建築洋式を取り入れたこの窓は今は開かれており、秩父の山並みを一望出来る。



「いよいよ来たか、第三隊。ふ、ふふっ、年甲斐もなく血が騒ぎおるわ」



 昂りを抑えきれないといった様子で呟きつつ、九留島子爵は窓の外を眺めている。

 山一つ越えたそこに、恐らく第三隊の四名とあの幽霊がいる。それを想像すると、流石に平静ではいられないのだろう。

 振り向いたその顔は、獲物を前にした肉食獣めいた何かがあった。



「事ここに至っては、今更合法的に調査などする気もあるまい。私としても、この国の為に粉骨砕身してきた研究が破棄されるのは耐えられん」



「ならば、ここで不幸な事故に遭っていただきますか」



「ああ、不幸な事故にな。帝都ならともかく、ここ秩父なら幾らでも誤魔化しようはある。それに」



「それに?」



 ちょうどその時、陽が陰った。

 いつの間にか空を侵食していた分厚い雲に遮られ、窓から差し込んでいた陽光が消える。

 世界を染めた暗い陰同様の声で、九留島朱鷺也は告げる。



「あの幽霊を手に入れるだけでは、もはや物足りない。開発中のあれを試す良い機会だ。明日までに調整を終えておかねばならぬな」



「使われるのですか......いえ、そうですね。実戦投入するには良い頃合いかと」



 九留島子爵の思惑を察し、清和は少々驚いた。

 だが、確かに悪い考えではない。

 開発中とはいえ、現状で八割までは仕上がっている。それにあの四人が相手ならば、出し惜しみも危険であろう。



「明日が楽しみだな。火之禍津(ヒノマガツ)を前にして、奴等がどんな顔をするか」



「であれば、私と美憂の出番は無さそうですね。あれが動くのであれば、正直人の身ではもはやどうしようも無いでしょう」



「わざわざ偵察まで頼んでおいて済まないが、私一人で十分だろう。ただ、戦場では不測の事態は常に起こりうる。準備だけはしておくように」



「承知致しました。では美憂にも声をかけておきます」



 恭しく一礼して、清和は執務室を出た。

 廊下はしんと静まり返り、先程の物騒な会話が嘘のようであった。この時間ならば、美憂は台所であろうか。




******




「どうぞ、兄様」



 無造作な言葉と共に、ずいと自分の前に勧められた皿を見る。

 白陶器の器に、これでもかとばかりに高菜漬けが盛られている。お茶受けなのは分かるが、少々量が多過ぎはしないだろうか。

 清和が躊躇っていると、ずずと日本茶を啜りつつ美憂が再度勧めてくる。



「別に全部食べてくださいなんて言いません。気を抜いてたら切りすぎてしまったので、ちょっと手伝ってくださいまし」



「どう見ても、ちょっとという量では無いんだが」



 別に高菜漬けが嫌いな訳ではないので、食べろと言われたら食べるのは問題ない。

 だが、ちょっと小皿に取り分けたという量ではない。大人の掌一杯にごろりと乗る程の量の漬け物など、何をどうやったらこんなに切り出せるというのだろう。



「ご主人様にお出しする時とそれ以外で、何故こんなに差があるのか不思議だよ」



「......あ、あれですよ。人生浮き沈みが激しい物なのです。細かい事は気にしない方が長生き出来ますよ、兄様」



 美憂が僅かに顔を赤らめ視線を逸らす。

 兄としての贔屓目を割り引いたとしても、この妹は優秀なメイドである。

 だが九留島子爵がいない時は、時々あり得ないような失敗をする。笑って済ませられるような失敗なのでいいものの、普段が優秀なだけに不可解としか言えない。



「きっと、兄様の前では甘えが出てしまいますのね」



 たった一人の肉親にこう言われては、清和もそれ以上何も言えない。

 黙って箸で高菜漬けを摘まむ。二、三切れ飲み込んだ後、おもむろに口を開いた。



火之禍津(ヒノマガツ)を使うそうだよ。先程ご主人様がそう仰った」



「まあ。それでは、あっさりと片付いてしまうかもしれませんわね」



 さらりと恐ろしい事を言いつつ、美憂は高菜漬けをぽりぽりと咀嚼する。

 警視庁の誇る特殊部隊がもうすぐ来ようというのに、まるで動じた様子は無い。

 兄と二人で日本茶を啜る姿は、ただの休憩にしか見えなかった。



「お前が感じた通り、奴等は飯能に着いたところだ。今日は恐らくそこで一泊だろう」



「同感ですわ、兄様。それではこれから迎撃準備ですの?」



「ああ。流刑囚共を一時収用し、牢に閉じ込めておく。戦いの邪魔をされては面倒くさいからな。ご主人様は火之禍津(ヒノマガツ)の機体準備に入られた。私達も後で手伝おう」



「なるほど、そうであれば囚人達には今日明日は福音ですわね。開墾労働がお休みになりますもの」



「そうだな。もっともその代わりに、遺体回収の仕事が付いてくるんだが」



 血生臭い会話であるのに、清和と美憂の表情は淡々としていた。まるで日常茶飯事だとでもいうかのようだ。

 青紫と赤紫、色合いの異なる目を合わせた後、言葉を継いだのは清和の方であった。

 若干それまでよりも、声の調子(トオン)が落ちる。



「あの四人の血が手に入るならば、やはり貰っておくのか」



 兄の問いに対する妹の返答は、間を開けなかった。



「はい。新鮮な血は私の呪法には不可欠ですから。保存さえ利くならば、いくらでも戴きたいところですわ」



「......そうか。そうだな」



「あら、どうしたんですの、兄様。今までだってそうしてきたではありませんか。血を啜らねば呪力を保てないことなど、あの頃に比べましたら大したことありませんわ」



 美憂の赤紫がかった目が、遠くを見るような目になる。すっと椅子から立ち上がると、黒いメイド服の裾が優雅に舞った。



「兄様と二人、貧民窟で明日なき日々に喘いでいたあの頃に比べましたら、これぐらい何ということもないのですから。だから兄様」



「何だ」



「そんな痛ましい顔をなさらないでください。私は......美憂は、兄様と一緒に働くことが出来て、九留島子爵にお仕え出来て。そんな現在(いま)が幸せなのですから」



 それが嘘でも強がりでもないことを、清和は知っていた。

 だが、美憂が幸せという単語を口にする度に、自分の心に痛む物があるのもまた事実であった。

 ちく、と棘が刺さるような小さな痛みは、けして致命傷にはならない。

 けれども今まで刺さった回数が多すぎて、心のどこかはいつも流血している。



「そんなお前の強さを、ご主人様は高く評価しているのだと思うよ。だから美憂」



「はい、兄様」



「明日は勝とう。特務課第三隊の連中に勝ち、清や露西亜(ロシア)にも勝ち、お前のその体質を治しに大陸へ行こう。それまでは私がお前を守ってやるからな」



 口癖のように自分に根付いた言葉を、また清和は口にする。

 自分の中の原動力を確かめ、闘志を静かに燃焼させる為に。

 美憂はしばらく黙っていたが、やがて泣き笑いのような何とも言えない面を伏せた。



「......写映機(カメラ)集音機(マイク)遠隔声機(スピーカー)の調子を見て参りますわ。猩々達が悪戯しているかもしれませんから」



「分かった、頼む」



 それが涙を見せぬ為の口実であることを知りながら、清和は気づかない振りをした。

 自分の演技の下手さを自嘲しながらも、そうせずにはいられなかった。




******




 見上げる。

 自分の両脇に立たせた何本もの篝火、それが揺らめく度に、正面に立つそれもまた揺れる。

 黒とも銀とも取れる、金属質(メタリック)な塊がそこにはある。

 何とも表現し難き重量感を伴い、それは確かにそこにある。



「く、くくくくっ! (つい)に、(つい)に、お前を稼働させる日が来たのだ......!」



 自分の嗄れた声が喉から這い出る。

 もはや自分は若くはない。だが、それがどうしたというのだ。

 確かに年は取ったかもしれない。体力も筋力も速度も反射神経も、若い頃と同じとはいかない。

 戊辰戦争で自ら陣頭指揮を取ったあの頃からは、やはり老いたのだと認めざるを得なかった。



 "だが、私は、この九留島朱鷺也は、人の叡智を以て、肉体の老いを超越したのだ"



 仕えていた主家も、守るべき家族も、自分に仕えてくれた家臣も――皆全て失い、絶望の果てに叩き込まれたあの地獄から、二十年。

 戦争に勝利するための力を、技術を求めて、陸軍に従事して、この僻地である秩父で実験と研究を繰り返してきた日々だった。

 この年月の間、高城清和と高城美憂、ただ二人の兄妹だけが信頼出来る従者であった。

 あの二人には十分に報いてやろう。

 美憂の体質克服のみならず、良縁があれば引き合わせてやるくらいはしてやる。

 苦難の日々を支えてくれた二人には、その程度の感謝の念はある。



 だが、まずは目の前の物に集中する。

 詰めを誤っては洒落にもならない。自分の知識と技術の粋を集め、これを作り上げたのだ。

 失敗は許されない。



「お前ならば私に夢を見せてくれる。そう信じているぞ、火之禍津(ヒノマガツ)



 鉄緑色の着物の両袖が高々と上がった。

 狂気を狂喜に含ませた低い声は、どことも知れぬこの暗い空間に漂う。

 その声に反応したかのように、うずくまる金属の巨躯が震えて見えたのは錯覚だろうか......いや、それは確かに動いていた。

 小さな、本当に小さなぎこちない動きではあったが、重厚な軋みを響かせる。

 何の物質が触れる音か、ギシュともギシとも取れる音が時折聞こえた。



 聞く者次第では、それは獣の咆哮にも聞こえるだろうか。あるいは鉄や鋼の武器が生み出す衝撃音に聞こえるだろうか。

 どちらにせよ、酷く不吉な恐ろしい物を予感させる響きであった。



「外部からは精々これが限界か。やはり真価は人が乗ってこそだな」



 ギシュ、ギシと不気味な音を立てるその物体の周りを歩きつつ、九留島子爵は静かにそれに触れた。

 篝火だけが光源であるにも関わらず、その場所に触れる手には躊躇いが無い。

 じんわりと手に伝わってくる金属の冷たい感触に満足そうに微笑み、数瞬遅れて伝わる熱には感動すら覚える。



 "ふむ、動力伝達には問題が無さそうだな。ならば機体調整(チューニング)に移るとしようか"



 技術者(エンジニア)としての自負が働き、九留島子爵を動かす。自分の産みの親の心情など知る由も無く、火之禍津(ヒノマガツ)と名付けられたそれは。



 九留島朱鷺也の執念を賭けた、その殺戮機械は。



 ゆっくりと立ち上がった。

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