その執事、高城清和
一也らと高城美憂が甘味処で不可思議な夕御飯を共にしていた頃合いを、二時間ほど遡る。
空は深い深い夕暮れの赤を西から投げかけており、人々が家路につこうかという時間帯だ。
防寒着に身を包み街路を歩く男女二人連れも、またその群衆の中の一欠片であった。
「教会の捜査令状はあと数日もすれば、か。流石に申請から一週間以内は無理か」
「ええやん、別に。どっちみち九留島子爵の尻尾掴まへんと、俺ら動かれへんもん。そない急がんでもええわ」
「取れる物は早めに押さえておくに越したことはないさ。いつ不都合が発生するか、分からないのだから」
「そりゃそうやけどな、あんまり生き急いだら早死にするで」
口調は軽快ながら、会話内容は至極真面目という好対照を纏い二人は歩く。
随所に真鍮の鈕がついた茶色の革のコオト姿の女がヘレナ・アイゼンマイヤー、黒っぽい角袖羽織姿の長身の男が奥村順四朗である。
全くの余談であるが、警視庁支給の外套にするか、外套だけは私服にするかは本人の自由であった。
今日は二人ともたまたま私物の防寒着を着ていた次第だった。
「一也んら、上手くやっとるんやろか。ちょっと心配やな」
「ああ、資料作成か。少々失敗しようが時間がかかろうが、構いやしないさ。誰だってそうやって仕事を覚えるんだからな」
「えらい優しいやん。己に対してとは偉い違いやなー」
やれやれ、と言いたげな調子の順四朗に対し、ヘレナの返答は率直だった。頭二つは低い位置から、見上げるように言い返す。
「そりゃあ三十路の男に要求する仕事には、優しさなんかむしろ侮辱だろう。それくらいは私も心得ているぞ」
「相変わらず男前で――」
「何か文句でもあるのか?」
「ありまへん!」
ぴしっと背筋を伸ばし、順四朗は返答する。
ぎろ、と睨んだヘレナの眼が怖かったとは、冗談でも口に出来ない。
「私ほど物分かりが良く、美人でしかも頭の回転の速い上司がいて、何が不満なんだ?」と脅されるのが関の山と知っているからだ。
"おかしい、独逸から来た時はもうちょい可愛げあってんけどなあ。育て方間違うたんか"
そう遠くない昔の記憶を広がる夕暮れに重ね合わせるも、今をどうにかしてくれるわけでもない。
隣をすたすたと歩くヘレナは、洋の東西関係なく美人であろう。
その透き通るような白い肌は青みすら帯びており、夕陽を反射する金髪は灼熱を携えていた。
間違いなく美しいのは認める。認めるのだが。
「あれやな、武器の機能美ってやつやわ」
「ん? 何か言ったか?」
「な、なーんにも。今日は雪降るかもーって言っただけやでー」
あからさまな順四朗の誤魔化し笑いではあったが、ヘレナは気にする様子もなかった。
ふっと笑みを瞳に込めて「おかしな奴だな」と呟くのみ。彼女はすぐに前に向き直る。
「今日はもう帰ろう。乗り合い馬車を頼む、途中まで乗っていけよ」
「え、己も乗ってええん?」
特務警視であるヘレナは、帝都を巡回する乗り合い馬車ならば結構な距離を無料で利用出来る。
現代風に言うならば、タクシーチケットを持っているようなものである。
しかし同乗させてくれるとは、順四朗の予想外であった。
「一人乗ろうが二人乗ろうが同じだ。お前の下宿、築地だったよな。高輪から歩くのもしんどいだろ、乗れよ」
「ほな大きに」
声を弾ませ、さて道行く乗り合い馬車を捕まえるかと、順四朗が手を上げかけた時であった。
不意にその背に投げ掛けられた声が、彼を反転させる。
静かな、だが確かな意志を感じさせる若い男の声だ。
「帰るのは少し待っていただけますか、奥村順四朗警部補」
反転、視界に入るは約三間の距離を隔てて立つ男が一人だ(一間=約1.8メートル)。
黒っぽい洋物の外套を前を開けて着ている。縁は銀糸で刺繍され、中々に手の込んだ品と順四朗でも一目で分かった。
いや、より問題なのはそれを着こなす本人か。
「ども、今晩は。高城清和さんやったよな」
「覚えていただいて光栄ですね、ああ、ヘレナ特務警視もいらっしゃったのですね。これはご挨拶が遅れました」
「それは構わないが......何か御用か、執事殿」
ヘレナが訝しげな声で問う。
清和の雇い主である九留島子爵とは、つい先日舌戦を交わしたばかりである。
おまけに、現在は捜査令状発行の為に活動中なのだ。
不審に思わない方が無理だろう。
「本日帝都を離れますので、そのご挨拶にと伺った次第ですよ。それを逃げると思われては心外なのでね」
「へえ、それでわざわざ己らを尾行けてたんか。ご苦労なことやなあ」
順四朗の言葉に清和は沈黙で以て答える。
ただ挨拶の為だけならば、第三隊の拠点を訪ねれば済む。
わざわざ独逸大使館の近くで声をかけるなど、尾行していなければ無理な所業だ。
往来の人通りが途切れ、順四朗と清和の視線が真正面からぶつかった。
互いの真意を探ろうとする注意深く疑い深い視線は、急速に濃くなる夕闇に染まる。
「隊長、悪いけど先に帰っててくれへん。どうもこの執事さん、用があるのは己みたいやし」
「そうしていただけると助かりますね。仰る通り、用があるのは奥村さんだけですから」
「何だ、私は蚊帳の外か。順四朗、いいのか? お前がそう言うならば、私は遠慮なく失礼するぞ」
明らかに不穏な清和の訪問であったが、ヘレナには恐怖は無い。
油断は無論していないが、人通りの多い町中で声をかけたということは、暴力行為を働く気は無いと踏んだからだ。
それに何より、順四朗には全幅の信頼を置いている。
「構わへんで、上司の手ぇ借りなあかん場は他にあるからな。ちょちょっと片して、己も帰るわ」
「分かった、では任せる。それでは高城殿、お先に失礼する。Auf Wiedersehen」
「Sehen wir uns wieder、ヘレナ特務警視」
ヘレナのさようならという独逸語に、清和がまた会いましょうと独逸語で返す。
言外の意味を汲み取り、魔女は心中でにやりと笑った。「中々達者ですね、では」という言葉を最後に、その場を辞去する。
時折人々が行き交う中、そこに残るは二人のみ。
「他の人に邪魔やし、ちょっと場移さへん?」
「構いませんよ、むしろこちらもその方が都合がいい」
はらりと白い粉雪がちらつき始める中、順四朗と清和は人通りの中を歩く。
品川より程近い高輪という土地は、明治二十一年において開発と未開発が未だ混在している場所である。
居住用の邸宅などよりは、役場や大使館などの公的機関の建物が多い。今日、ヘレナと順四朗が足を運んだ独逸大使館もその中の一つであり、そしてそうした土地にも一つ二つは人通りが少ない場所があるものだ。
順四朗と清和が足を踏み入れたのもそうした場所の一つであった。
「やはり東京は都会なのですね、こうした場所一つ取っても綺麗に整えられている。秩父ではこうはいかない」
「まあ、この辺は異国の人も結構通るしねえ。綺麗にしとかんと政府も面目立たへんのやろ」
清和に答えつつ、順四朗は足を止めた。
ここは往来から少し外れた場所、庭園という程の広さは無い。
端から端まで十五間程、そこに石畳を敷き詰めた散歩小路だ。
小路の横には小さな花壇が作られているが、あいにく冬の為にそこには土しか無い。むしろ、等間隔に植えられた杉の木の方が趣がある。
「なるほど、勉強になります」
とは言うものの、高城清和は帝都の土木見学に来た訳ではなかった。
その青紫がった目は散歩小路を一撫ですると、目の前の順四朗に向かう。
圧迫感は無い。
どちらかというと飄々とした人好きのする男だ。
だが、それは一面に過ぎないだろうと清和は踏んでいた。
「ほんで、話って何なん。寒いからさっさと話してくれると有り難いんやけどね」
「強いて言うなら、こうして対面していること自体でしょうか」
「どういう意味やねん、それ?」
一方、順四朗も清和を観察していた。
背は自分と同じくらい、約六尺か。外套とそこから覗く執事服に包まれており、体格はそれ以上は分からない。
年は自分よりは二、三歳若そうだと見積もった。
そして相手に問いつつも、実のところその目的は半ば予想はついていた。
「近い将来の敵手を間近で見させていただく、と言った方が分かりやすいでしょうね」
「はっきり言うねんなあ。けど、己もそういうん嫌いやないで」
やはりか。より直線的な表現やったな、と順四朗は思う。
「ここ数日間、奥村さんのことは調べさせていただきましたからね。ここ二年半で巡査から警部補まで一気に昇進されたこと。特務課第三隊隊長、ヘレナ・アイゼンマイヤー特務警視の随一の部下――」
「だって部下三人しかおらんし、己が一番付き合い長いだけやもん。随一って大袈裟やな」
「――呪法を施された銘刀、狂桜を所持し、同時に呪法補助式抜刀術"影爪"の使い手であると。三嶋一也、紅藤小夜子の両名にとっては、頼れる先輩とも聞いています」
「はあ、よくお調べで」
惚けてはいるが、実のところ順四朗は少々驚いていた。
清和が調べた情報自体は、隠している訳でもなく通り一辺の物である。
だが、少なくとも相手の調査が本気であることは分かった。
この分だと、自分の現在の住まいや生家のことまで調べられているかもしれない。
「これくらいは大したことはありません。それに調査を進めているのは、そちらも同じはずだ」
一方、清和は敢えて情報を投げた。
自分達は知っているぞと。
第三隊がこの数日間、九留島子爵が秩父の領地で何をしているのか、それを明らかにしようとしていることを。
そして捜査令状の発行準備を画策していることを。
そうした行動を掴んでいると暗に仄めかす。
「いやあ、そらあ怪しい思ったら調べんとあかんやん。裏付け無しに動くん、禁止されてんもん」
「そうですね。その裏付けを取られそうなこちらがそれに反応しても、別に問題はありませんよね」
「別にええで。反応すること自体、何か後ろ暗い点があるんやろなあとこっちは思うだけやけどな」
「さあ、どうでしょうか。いずれにしても随分私達にご執心だなとしか、私には言えませんが」
黄昏時のことを逢魔ヶ時とも呼ぶ。
昼から夜へと変わる短い時間帯には、魔性の気配が濃くなると言われる為だ。
斜めに射し込む赤い夕陽に、順四朗の角袖羽織が、そして清和の外套が赤に紅に妖しく染まりゆく。
「そらぁしつこくもなるやろう。九留島子爵言うたら、謎多き大物として有名やもんな。もし逮捕出来たら、第三隊の勇名も轟くってもんや」
「ふふ、本心を隠して話すのは気分がいいですか。貴方はそれほど俗物じゃあない、私の目にはあの独逸人の隊長を庇って必死と見えますがね」
二人の影が石畳に伸びる。
黒い人影は杉の影と重なり、また離れる。
それが不吉な舞踏を連想させた。
「そりゃ見立て違いやなあ。庇われるほど、ヘレナ隊長弱くないで。一つ忠告させてもらうけど、あの人怒らせたらめちゃめちゃ怖いで」
「それは奇遇ですね。私達のご主人様も怒らせない方がいいですよ。あの方は目的の為なら、いくらでも残酷になれるお方だ。象が蟻を踏み潰すかのように、何も省みない」
「お互い苦労する上司に仕えとるやん、案外似た者同士ちゃうの」
空気がゆるりと張り詰める。
だが、その緊張の速度はごくゆっくりだ。雨垂れで風呂の水を溜めるかのように、ぽたりぽたりと緊張の水域が増す。
まず常人ならば気がつかない緩い速度で――そして、その緩やかに増していく緊張感の中、順四朗は煙草に火を点けた。
冬の風に紫煙が流れさる。
「一つお聞きしたいのですがね。奥村警部補、貴方にとって正義とは何でしょうか」
その紫煙が流れ去るのを待って、高城清和は話しかけた。
太陽はほぼ落ち、視界に収まる奥村順四朗の姿は闇に溶け込みかけている。
近くの家屋に吊るされた角灯が僅かばかりの光源だった。
「警察官として犯罪者を捕まえるというのは当然としてね。だが、私には貴方がそれ以外の動機で動いているようにも見える。気のせいかもしれませんが」
「......正義ねえ。無いでも無いけど、聞いてどうするん」
また一つ、順四朗は紫煙をふぅ、と吐き出した。
柔らかに形を変え煙草の香りを残して、それは消えていく。
「言うまでもなく、ご主人様は日本国民の命の保全の為に動いておられる。それを相手どろうという第三隊の面子が、いかほどの志を胸に抱いているのか知りたくなっただけだ」
「知りたいみたいやから、簡潔に教えたるわ。自分ら、日本を守る為とか言うてるけど違うやん。幽霊脅して、尚且つ警察の縄張り侵したとこまでは百歩譲って見逃してもええわ。けど、もし流刑囚を好き放題に痛めつけてたら、そりゃあ単なる弱い者苛めやろ。そういうの、大っ嫌いやねん」
「なるほど、それが貴方の正義か。弱い者苛めね、確かにそう見えても仕方ありませんか」
清和は腕組みをして、杉の木にもたれる。
奥村順四朗という男を見誤っていたかもしれない。
飄々とした表情でそつなく生きていく人間と見ていたが、思いの外、不器用な生き方しか選べぬ人間なのだろうか。
ならば試してみるか。
「弱者というならば、それ自体が罪なのではないですか。この世界は、力無き人間に優しくしてくれはしない。弱い者は虐げられ、搾取されるだけだ」
その言葉は本心だった。
十三年前、自分達の両親が亡くなった時のことを思い出す。
両親の葬式が終わるよりも早く、集まった親族はなけなしの遺品を奪いさっていったではないか。
小さすぎて美憂は覚えていないかもしれないが、自分は――高城清和ははっきりと覚えている。
その時、夕闇が消え去った。
靴底で小石を踏み潰すと、じゃりと耳障りな音がする。
「それも一つの見方やな」という順四朗の呟きに、はらりと散った粉雪が重なった。




