小雪ちらつく夕暮れに
生まれながらの悪人というのは多くはない。
いや、むしろ大概の悪人は犯罪を起こす前に何らかの同情すべき事情がある、こう言い換えた方が自然だ。
その意味では九留島子爵にも同情の余地はある。
"けど、それを一々全部考慮していたらきりが無いんだよな"
一也は筆を動かす手を止めた。
「どうかしましたか?」とかけられた声は、机を挟んで正面にいる紅藤小夜子の物だ。
二人がいるのは第三隊の拠点の一軒家ではない。昨日に引き続き、伊澤博士の研究室である。
死亡確認書の原本を筆で書き写したり、秩父を訪れた査察官の記録をまとめたりしているのだ。
昨日の報告を済ませた時点で、ヘレナから本庁へ直接出向く許可は貰っていた。
「昨日ヘレナさんに言われたこと」
「ああ、はっきり言われちゃいましたね。甘いって」
「そうだね。事情があったら犯罪を見逃してもいいのか、法律を破ってもいいのかって言われたら――そうなんだよなあ」
それは違うだろう。
そう、一也も小夜子もそんなことは分かっている。
理由があれば悪いことをしてもいいか、と言えばそうではない。同情すべき過去や事情があっても、犯罪者に身を落とさず普通に生きている人の方が余程多い。
「仮定の話だけど、小夜子さんは家族が誰かに殺されたとしたら復讐を考えないで済むかな」
一也の唐突な問いに対し、小夜子は表情を曇らせた。胸元に垂れたサイドテールを指で払いつつ、慎重に言葉を繰る。
「分からないです、でも一度も考えないということは無いと思います。一応私も呪法士の端くれですし、犯人に直接手を下す力はあると思いますから」
「そうだよな」
比較的温厚な小夜子でさえ、これである。
若き頃の九留島子爵がどんな性格だったのか、一也は無論知らない。
だが、家族の死を契機に変質していったという推測は容易であった。
「手強いだろうな」
「素直にこちらの言うことを聞いてくれたりは......ないですよね」
「難しいんじゃないかな、二十年も賭けて培ってきた考えを諭すなんて無理だろ」
九留島子爵が流刑囚を自分の実験材料としているというのは、現時点では黒に近い灰色の疑いであり確定ではない。
だが、それを捜査する為のお膳立ては整いつつある。
警視庁特務課第三隊と九留島朱鷺也子爵の対立は、じわじわと明確になっているのだ。
どんな形で激突することになるのかと、一也は考えずにはいられなかった。
"このまま事実を固めていけば、捜査令状発行まではいけるだろう"
一也の中でイメージ出来るのはそこまでだった。
今回の件で難しいのは、流刑囚の管理を九留島子爵に一任して、あとは見て見ぬふりという警察の失態に目を向けねばならない点だ。
第三隊がそれをほじくり返すというのは、身内からの痛い指摘にあたる。そこは慎重に立ち回る必要はあるだろう。
しかし正論なのは間違いないので、捜査令状自体は発行してもらえるだろうし、恐らくヘレナは独逸大使館経由で圧力もかけているはずだ。
令状発行不可は恐らく無い。
再び手と頭を動かしながら、そのようなことを小夜子と話す。
ちなみに時雨は伊澤博士と一緒である。
「良い機会なので、幽霊の持っている能力や意識調査をしてみたい」という伊澤博士の依頼に応えた形だ。
一也に行った電極仮面のような危ない実験はしないと約束してくれたので、時雨も素直についていった次第である。
「ねじまがっているのか、真っ直ぐなのか」
「何がですか?」
「九留島子爵の性根。自分のような人間を増やさない為に日本を戦争に負けさせないっていう考えは、陸軍の人間としては多分正しいんだ。だけど今採っている手段はおかしい」
墨の残りを確認しながら、一也は小夜子と目を合わせた。こくりと頷いた少女は、彼女なりの考えを口にする。
「死人や幽霊や囚人といった弱い立場の人は、その目的達成の為にはどうなっても構わない。だから研究材料にでも何にでもなれって感じなんでしょうね」
「真っ直ぐに目的を達成する為には、曲がった手段も辞さないと思っていて。それを実行し続けている内に――」
おぞましい想像が脳内に浮かぶ。急に喉の乾きを覚え、一也は手元の湯呑みから茶を啜った。
「――手段自体が目的にすり替わっている可能性もある」
「だとしたら怖いですね。秩父の領地やお屋敷って、戦争が出来るくらい物騒に手を入れられてたりしそう」
「ありそうだね。順四朗さんの話だと、幕末の頃から技術者として有名だったらしいから」
わざと軽い口調で答えながらも、一也はその可能性は高いのではないかと考えていた。
東京と比べれば、秩父は人の目が届き辛い。かなり大規模な武器があったとしても、十分隠し通せるはずだ。
あるいは、陸軍も未曾有の武器開発をあてにしてそのような僻地をあてがったのか。
「あら、雪ですね」
小夜子の声に視線を横に振った。
うっすらと埃をかぶった窓の向こう、確かに白い物がちらついている。
そっと窓に指を置くと、屋外の冷気が伝わってきた。
「積もるかもしれないね」
「こう寒いとお汁粉が美味しいですよね」
「......よく太らないよな」
一也の何気ない一言であったが、小夜子は顔を赤らめた。
「な、何でそんなでりかしいに欠けること言えるんですかあ! 一也さんなんか嫌いですよ!」とそっぽを向いてしまったが、とりあえず放置しておくことにする。
すぐ機嫌を治すであろうことは分かっていたので。
「あっそー、嫌いで結構、こけこっこー」
「最近扱い悪くないですかああ!」
******
「ありがとうございました、明日またお邪魔します」
最後に一声かけて、一也らは研究室を後にした。
伊澤博士や他の警官らはまだ残って働くらしく、手だけおざなりに振ってくれた。
さほど遅い時間ではないが、雪が降る黄昏の刻限である。外に出ると、冷えきった空気が首筋を撫でてきた。
「まだまだ春は遠いみたいだな」
「そないおっしゃるなら、わっちが暖めて差し上げるでありんす。ほら、このすっきりと透き通った手の何て暖かいこと」
「いやあ、ほんとに――って、突っ込みどころ満載過ぎてどこから突っ込めばいいのか」
「か、か、か、一也さん、わ、わ、わ、私の手ならあ、あ、あ、暖かいんじゃないですか」
いつも通りの一也と時雨の掛け合いに、小夜子は必死で割り込んだ。
意図は明白、彼女にしては最大限の勇気を振り絞ったのである。
事実、時雨は内心で拍手を送った程だ。
だが彼女の勇気は実を結ぶことは無かった。
「そりゃあ幽霊と比べたら人間だしね。体温あるのは当たり前じゃね?」
愛用のインバネスコートのポケットにざっくりと手を突っ込んだまま、一也は無愛想に答えるのみ。
別に意地悪しているわけではない、これが素なのだ。
「......そうですね」と項垂れる小夜子からは、しょぼーんという効果音が聞こえてきそうであった。
二人を見守る時雨が思わず涙するほど、痛ましい風景である。
"なんやかんや言いつつ、わっちはそう長くはこの世におられんおし。お若い二人が上手くいくにこしたことは無いでありんす"
一也を憎からず思うのは事実であるが、時雨もそこは物の道理をわきまえた花魁上がりの幽霊である。
ひとしきり一也に引っ付くことで、恋愛渇望症的な物は消え去った。
そうしてふと考えると、小夜子の恋を然り気無く応援してみたいと思うようにもなったのだ。
表面的には、まだ小さな意地悪はしているが。
「全くこう寒いと嫌でありんすねえ、どこぞで暖かい物でも召し上がったら如何でおすか? そう、お汁粉でも」
「お汁粉っ!?」
時雨の提案は、萎れた小夜子を元気づけるには十分であった。
通りに微かに積もった雪を蹴散らし、小柄な少女は一也の方へ振り向いた。
赤を基調とした小袖羽織からも、微かに雪が散る。
「一也さん、あそこ行きましょう、あの店。去年あんみつ食べたお店です。確か冬はお汁粉出してたはずですよ!」
「ああ、あの雨の日に行ったとこね。いいけど」
「よし、そうと決まれば善は急げです。こんな寒い夜は、あんこたっぷりのお汁粉で暖まるのが一番! 時雨さん、いい提案です!」
「おほほほ、礼には及ばんでありんすよ」
律儀に礼を言う小夜子に、時雨はぐっと親指を立てて返す。それを見た一也は軽く驚いた。
「よくそんな近代的な仕草、知ってるな。亡くなったの、江戸時代だろ」
「花魁の観察力、舐めたらいけませんえ。道行く異人の方がされてるのを、一也さんの背中から見かけたんでありんすよ。がんばれー、いいねー、みたいな合図でありんしょ?」
「恐れ入りました、大体あってるよ」
「二人とも遅いですよー! 早く行きましょうよおー!」
一也と時雨の前方から、小夜子が振り返る。
一人の銃士と一人の幽霊は小さく笑いながら、すぐに彼女に追い付いた。
どこからどう見ても、穏やかな仕事帰りの風景であった。
たとえ、ちらつく雪を通して彼らの背中に鋭い視線が注がれていたとしても。
熱めのお茶を一口含み、一也がほうと息を吐く。小夜子は向かいに座り、時雨は卓の上にふわふわ舞っている。
注文を取りに来た店員は目を見開いたが、泡を食って逃げるようなことはなかった。聞けばたまに幽霊連れの客もいるらしい。
「わっちら幽霊が市中に溢れる日も遠くないでありんす......くくく、世界を我が手に!」
「そっか、じゃあ今すぐ成仏させなきゃですね」
「冗談、冗談でありんす! はあはあ、小夜子さんは恐ろしい子でおすな」
「あ、あの、早くご注文をお願い出来ないでしょうか」
恐る恐るといった店員の声に、時雨と小夜子は戯れを止めた。
幽霊の為、空腹を感じない時雨はともかく、小夜子はお汁粉目当てで来たのだ。
しかしそれだけでは物足りない。
「もう夕御飯も食べちゃいます。山菜蕎麦とお汁粉、お汁粉はお蕎麦の後で」
「俺も頼んじゃおう。天麩羅うどん、お握り、くずきりで。くずきりは黒蜜ね」
「お、このお店はお食事処でもありんすね。そしたらわっちはみたらし団子で――」
小夜子と一也に続き、時雨が真剣な顔で注文する。
その額に小夜子が思いきりでこぴんをくれた。
奇妙な叫び声をあげ、時雨がのけ反る。
「い、痛いでありんす! 暴力反対! 幽霊にも人権という物がありんすよ!」
「貴女、そもそもお食事出来ないじゃないですか! 何で普通に注文してるんですかっ!」
「たまには生きてる時の気分を味わいたかったんでありんすよっ。そもそも吉原にいた時は、普通にご飯食べに出たりも出来なかったんでおすから。こんな風にお店に入ること自体、嬉しいんでありんす」
涙目になって訴える時雨を前にすると、小夜子も強くは出られない。
「今回だけですよお」と釘を刺した上で、自分の勘定につけてやることにした。
「おー、気前いいなあ。どういう風の吹き回しなんですか。小夜子さんが奢るなんて珍しいや」
「人を守銭奴みたいに言わないでください。ちょっと可哀想かなと思っただけです」
「ありがとうでありんす、小夜子さん。でもお代は自分で出せるでありんすよ。三途の川の渡し賃の六文銭が、ほら、ここに」
「えっ、それ渡したら駄目なやつじゃね?」
「時雨さん、それがないと成仏出来なくなっちゃいますよ」
「......ありがたく奢っていただくでありんす」
三人がわいわいやっている内に、注文が運ばれてきた。
湯気が立っている蕎麦やうどんは、小雪ちらつく今日のような日にはいかにも美味そうである。
さあ、食べるかと一也と小夜子が箸を手にした時、店の入り口がからりと乾いた音を立てて開いた。
黒い艶消しが施された格子戸の向こう、そこは四角に切り取られた外界との接点である。
夕暮れの残滓を漂わせたその世界に、小柄な影がすうと立っていた。
「一人ですがよろしいでしょうか」
その声は柔らかにして、だが奇妙に強く店内に響く。
「どうぞどうぞ、ご遠慮なく」
「では失礼して」
聞き覚えのある声だった。
いや、それより先に一也は気がついていた。
こつり、と編み上げ式の革長靴を鳴らし、その人物が店に踏み込んだ瞬間から。
小夜子もまたその人物に目をやっている。
「浄霊祭以来かな、その節はどうも」
「――高城美憂さん、でしたよね」
二人に声をかけられ、その人物は一度だけ瞬きした。
ふわりと脱いだ外套の下から、黒いメイド服が広がる。
その赤紫がった双眼が、さっとその場を撫でた。
「お食事のところ失礼しますわ、第三隊の方々。ご一緒してもよろしいですか?」
伸びのある声は、女性らしい柔らかさと容貌にそぐわぬ鋭さが混じっていた。
相手の狙いが読めずに迷ったが、結局一也は頷いた。
まさかこの店内で暴力を振るわれることもないだろう。一也らの他に客もいる。
「どうぞ」
「一也さんがそう言うのなら仕方ないですね」
「わ、わっちはちょっと遠くに」
小夜子に比べ、時雨が引き気味なのは仕方ないことか。美憂も時雨には一瞥くれただけだ。
一也の隣に少し席を空けて座る。正面に小夜子を見据えることになった。
「三嶋さんと紅藤さんでしたね。ご主人様がお世話になりました。そちらの幽霊さんの勧誘は上手くいきませんでしたが、それは置いておきましょう」
「まだ帝都にいたんですか、暇なんだね」
「暇とは人聞きの悪い。私も兄様もご主人様の命令に従ったまでのことです。あ、すいません。きつねうどん、それと白玉団子を」
とても友好的とは言えない空気の中、一也と美憂の刺々しい会話が始まった。
抜け目なく美憂は注文まで済ましている。どうやら本気で一緒に食事をするらしい。
小夜子が不意に口を開く。
「私達を尾行けていたんですか。この寒い中をわざわざ」
「ええ、もっとも今日で終わりですけれどね。今夜、秩父に戻る予定ですわ。全くご挨拶もしないのもどうかな、と思いましてね」
「ご丁寧にと言うべきなんでしょうけれど、残念ながら尾行していた方に言える程には人間出来ていません。ご容赦を」
小夜子の小さな嫌味は受け流し、美憂は無言で頷いた。数秒の沈黙の後、彼女はくすりと笑う。
「ふふ、面白いですのね、あなた達。幽霊なんかと仲良くしちゃって、何が楽しいんですの」
「それは君には関係ない。九留島子爵にも全く関わりないことだよ」
「ん、三嶋さん。これはただの感想です、お気になさらず」
運ばれてきた自分の注文を受け取りつつ、美憂はまるで表情を変えない。
儀礼的とはいえ微笑んでいるのに、何故か無表情に見えた。
「せっかくのお食事です、伸びてしまいますよ?」と一也と小夜子を促しながら、自分のうどんに手をつける。
その姿に毒気を抜かれたかのように、一也と小夜子も再び食事に取り掛かり始めた。
「あの、わっちには何も言わないんでありんすか」
「ええ、こちらのお二人が貴女を渡してくれるとは思えないので、ここでは諦めますわ」
美憂の時雨への返事に、一也は箸を止めた。するりとうどんが落ちるも、それを気にする暇は無い。
「ここではってことは、諦めきった訳ではないわけだ」
「そうですね。三嶋さんらが最近ご主人様を調べていることも分かりましたし、それであれば」
七味唐辛子をうどんに足す。
慎重にそれを終えてから、美憂は小さく笑顔を浮かべた。
「秩父にいらっしゃる時に歓迎してさしあげる、それで事足りますからね」という言葉と共に。




