寂しい夜に語る者
唐突な九留島子爵の来訪により、第三隊のその日の予定は大幅に狂った。
内勤していたヘレナと一也は勿論、巡回していた小夜子と順四朗もである。角谷少佐との会話が予想外に長引き、二人が戻ってきたのは夕方近くであった。
四人で顔を合わせるや、ヘレナが真っ先に口を開く。
「色々と話したいことはあるが、とりあえずは働くんだよ! くっそおお、あの親父のせいで仕事が滞ってしまったあ!」
「ですね、本当は未解決事件の報告書作成と築地近辺の強盗事件の調書読むつもりだったのに」
「わっちのせいでご迷惑を......」
時雨が神妙に謝る様子に、小夜子と順四朗は何となく察する物はあった。
だが、ヘレナが荒れている以上、ここで下手な質問は出来ない。
一也からも「申し訳ないんだけど、とりあえず手伝って下さい」と言われては、尚更それは憚られた。
最近稀に見る勢いで四人が仕事に取り掛かった結果、遂に書類仕事が終わったのは日もとうに落ちた頃だった。
「疲れましたねー」
「そうだね、あー、ぐったりだ」
小夜子がぼやき、ヘレナが応じる。
一也は時雨に指示を出して、お茶を用意させていた。
あとは帰るだけなのだが、昼間の九留島子爵の件がある。ヘレナの方をちらりと見ると、目が合った。
ヘレナはだらしなく椅子に体を預けたままだが、その目配せで察する。
「あの、お疲れのところなんですがいいですか」
「構へんよ、ほんまは己らも話しといた方がええなあって事あんねん。なっ、小夜ちゃん」
「はい。多分、一也さんが言おうとしている事と同じです。九留島朱鷺也子爵、ここに訪ねて来たのですよね?」
順四朗に相槌を打ちつつ、小夜子が切り出す。
何故知っているのかと一也は訝しく思ったが、小夜子がてきぱきと話してくれたお陰で概ね理解出来た。
角谷少佐が情報源とは驚いたが、そう言えば箱根でそれらしき事を聞いた気もする。
「完全に秩父にこもりっきりって訳でもなく、数年前までは東京にもまとまった期間滞在していたらしいんですよ。兵器関係の技術者として、陸軍でも根強い信奉者はいると角谷少佐は言っていました」
「銃の改良にも手出してたらしくてな、それで角谷少佐とも既知の仲やってんて。最近は東京に来る機会も減ったから、いきなり来訪して驚いたって言うてたわ」
「そういうことだったのか......あ、ちょっと繋がりました。技術者畑だから、伊澤博士とも知り合いだったのかな」
「あり得るだろうな、浄霊祭で見た限りでは以前に話したことがありそうだったし」
四人が口々に意見を交わす。
小夜子と順四朗が角谷少佐から引き出した情報は、さほど重要ではなかったかもしれない。
だが、九留島朱鷺也という人物の姿が徐々に浮き彫りになっていく。それを四人全体で共有すること自体に意味があった。
「あと、私が角谷少佐にですね。九留島子爵が今回の浄霊祭に参加したと話して、そうする理由に心当たりはありますかと聞いたんですが」
「何か知ってそうだったか」
「いえ、角谷少佐自身はご存知無かったです。ただ、私達と会う前に直に九留島子爵と会ってましたから」
ヘレナに答えつつ、小夜子は何気無く窓の外に目をやった。
「――適切な素材が見つからず、苦労していると話したらしいんですよ。それを聞いた時は何か分からなかったんですけど」
「素材ね、なるほど」
「兵器に転用出来る霊魂と言っても、何でもいいって訳じゃないんですかね」
一也が口を挟む。
その背後で時雨が身震いしているのは、九留島子爵の血も涙も無い言い方を思い出しているからだろうか。「怖い話なんせ」と呟くその横顔は、いつにもまして青白い気がする。
幽霊なのにとも思うが、一度死を経験したからこその恐怖ということもあるのかもしれない。
とりあえず後で声をかけてやることにして、一也は小夜子に聞くことがあったと思い出した。
「高城清和と美憂の二人については、何か分かったの?」
「すいません、その二人については角谷少佐も詳しくなくて。ただ、あの二人しか召し使いらしい方はいないそうです。何処に行くにしても、高城兄妹が付き従うみたいですね」
主従関係は堅固と見て良さそうだ。
ヘレナが許可するのであれば、どちらかあるいは両方に接触して内部から切り崩す手もあった。
だが一也はそれを諦めた。恐らく、あの三人の結束は普通のそれよりも堅い。
小夜子と一也を中心とした情報交換が一通り終わった。
何となく暗くなった雰囲気を振り払うように、順四朗がヘレナに声をかけた。
「九留島子爵がここに来て何言うたのかは分からんけど、何となくは想像つくわ。これ以上の情報共有はどうするん。もう遅いし、明日にします?」
「明日にする、疲れた。端的に言うと、あいつは気に入らん。皆、もう引き上げだ」
ヘレナが席を立ち、帰り支度を始めた。
それを合図に、全員が重い腰をあげる。
今日明日で片がつくような件ではないことは明らかであった。
******
長屋に戻り一息つくと、どっと疲れが出た。
最近購入した室内用の角灯に火をいれる。灯油を燃料とした炎は硝子の透明な窓越しに、ゆらゆらとした暖かさをもたらした。
一也がその火を見ながら何となくぼーっとしていると、その横に時雨が静かに寄り添う。
「一也さん、こんなところで寝たらいけませんえ。お風邪を召すでありんすよ」
「......分かってる」
ぽそりと答える。
昼間、怯えたような時雨の顔が寺川亜紀の顔に重なったことを思い出した。
何故だろうか。どこか儚げな雰囲気がするところが似ている気もするけれど、顔はあまり似ていないのに。
小さな痛みが胸に甦る。中西廉、毛利美咲、中田正の顔を連鎖的に思い出したのだ。
"駄目だな、俺"
顔を伏せた。
二月の寒さは長屋の壁を染み通り、項垂れる一也の体をそくそくと締め付ける。
ただでさえ感じる心細さが、そのせいで更に加速するようだった。
"くそ、何で急にこんな気分に"
普段はそうでもない。
だが、ふとした瞬間に弱気の虫が顔を出す。こんな寒い夜は尚更であった。
時雨の方を見ると、目が合った。
幽霊か。そういえば今まで聞いてなかったな。
人寂しさも手伝い、一也の心が振れた。
「あのさ、時雨さんは何が原因で亡くなったんだ」
気がつけば、そう聞いていた。綿が入ったどてらを羽織りながら、火鉢に炭をくべる。
「そうやねえ、それだけ話すよりは、わっちが生きてた時のこと話した方が分かりやすうござんすよ。少し長い話になりんすが」
「いいよ、聞く」
一也の短い返答に頷き、時雨は距離を離した。
彼女の青白い顔が、角灯の明かりに照らされる。照り返しのせいか、少しだけ生きている人間のようだった。
「もうずいぶんと昔の話でありんすなあ......下手をすると、元の自分の名前も忘れてしまいそうになりんすよ」
寂しそうに一つ笑みを浮かべ――花魁の幽霊は語り始めた。
一也さんもご承知の通り、わっちの時雨という名前は元々の名前ではないのでありんす。
花魁として吉原に売られてから、この身に頂いた源氏名なんすよ。
父様と母様からつけてもろうた名前は――おりん、と言うでありんす。
おりん、おりんと呼ばれて、日の暮れるまで遊んでいた頃も確かにわっちにもあった。
そう思うと、妙な気分になりんすよ。もう百年近くも昔になりんすなあ。
この身をおりんと呼んでくれる人は、もうこの世のどこにもいないでありんす。
ああ、そんな顔をしないでええんよ? もう、わっちも子供の頃に周りにいた人達の顔は忘れかけてるでありんすから。
それほど、遠くまで来てしまったということだけなんすから。
吉原に来た理由はもうありふれた話で、飢饉で小さなわっちを家に置く余裕が無くなったなんす。
禿って、一也さんご存知でありんすか。まだ花魁らしく高く髷を結うことの出来やん、小さい――そうやねえ、九歳か十歳くらいの下働きの女の子を指す言葉なん。
最初連れてこられた時、わっちは小さかったからその禿としてお店で働き始めたんよ。
うふふ、勿論そんな小さい子やとお客さんなんか取れやんよ。
そやねえ、姉様達がお座敷に上がって、長唄やお琴するのを見せてもろたりね。
勿論、お膳運んだりやお客さんのお使いを頼まれたりしながら、ちょっとずつちょっとずつ吉原の作法を覚えていったでありんす。
唄も、踊りも、お茶の作法も、お琴や鼓も、そして床の間のことも全部仕込まれたなんすよ。
十六歳の時でありんしたなあ、水揚げされたんは。
はあ、分かりやんすか。
その、初めて男の人に抱かれることを水揚げと言うでありんすよ。
言い換えれば、吉原の女としての最初の一歩でありんす。
もう戻れやんなあ、と天井を見上げたことは今でも覚えてやんよ。幽霊になった今でも。
一也さんは吉原で遊んだことは、ああ、無いんでありんすね。
基本的に吉原ではお客さんは優しいでありんすから、わっちらは抱かれると言うてもそう酷い扱いは受けないでありんす。
けれども、やっぱりおなごらしく好きな人とだけ枕を共にしたいという願いは――無かったと言えば、嘘になりまっしゃろね。
ただ、考え方によってはそれは贅沢な話でありんす。
花魁として生きる覚悟さえあれば、最低でも食べることと寝る場所だけはありんす。
正直言うて、それはとても魅力的やんよ。特にわっちみたいに、食い扶持減らしの為に吉原に売られた者にとっては。
もう二度とひもじい思いはしたくないなあ、と考えると、好く好かんという考え自体が贅沢に思うようにありんした。
男の方に一夜限りのご奉仕をして、自分がこの生活を維持出来るんなら......普通の女としての心は捨てようと、そう決めたなんす。
ああ、ずいぶん長う話したでありんすね。
そう、お客さん取り始めてから六年程経って、そこでわっちの人生は終わったんでありんす。
享年二十二歳。
亡くなった理由でありんすか、月並みでありんすけど、肺病でありんした。
空気が停滞する廓の中におりまっしゃろ? 一度流行り始めると、逃れるんが難しおす。
それにわっちらは体もあまり動かしませんえ、体力がよろしくないでおすから。
あの年はわっちの他にも何人か肺病で亡くなりおしたんよ。
死ぬ時の事は今でもはっきり覚えてるでありんす。
病が他の人に感染せんよう、遊郭の外れに一人ぽつんと置かれおした。
日もろくに射さへん部屋ん中、咳で苦しんでても誰が助けてくれるわけでもなく......哀しかったでありんす。
ああ、こうして自分は一人で死んでいくんだなあ、と。
よう来てくれはったお客さんも、病にかかった花魁にはもう目もくれやん。恨むほどの気力は無い代わりに、ただこんな寂しい形で人生終えるんが哀しいなあと思って。
自分でも分かるくらい、息が細うなってね。心の臓が静かになっていって――そのまま冷たくなりんしたよ。
時雨の長い話が終わった。
ジ、ジジ、と火鉢が震えるような小さな音を立てる中、一也と時雨は身じろぎ一つしなかった。
パチン、と炭が弾ける。それを切っ掛けにしたかのように、ようやく一也は顔を上げた。
「じゃあ、それが無念となって残ったから時雨さんは幽霊になったってことか」
「そうでありんしょね。それでも無念を抱いて亡くなる方は、他にもようけいたと思うでありんす。だから、わっちの場合はたまたまなのかもしれやんよ」
「そりゃまあ、そうかもしれないが」
どう返事をしていいか迷いつつ、一也は考える。
これまで煩いだけだと思っていた時雨だが、それはどうやら表面的な物だったらしい。
いや、それも彼女の本質の一つなのだろうが、少なくとも全てではない。
当たり前だが、彼女には彼女の生きてきた人生があった。
その中には当人にしか分からぬ辛いこと、悲しい出来事もあったのだという当たり前のことを、一也は痛感する。
わざと明るく振る舞うことで取り繕っている部分もあるのかもしれない。
「一也さんには、ほんに感謝しているでありんす。あの浄霊祭のお仕事のおかげで、わっちを吉原に縛りつけていた目に見えん霊的な鎖が切れたおし、ふらりと浮かれてたでありんすね。そこをあの男の地縛霊に目を付けられて襲われてたところを、一也さんに助けていただいたんよ。あのままやったら、危のうおした」
「今一つ分からないんだけど、あの霊に捕まってたらどうなったんだ。仮に補食されたとして、それは成仏とは違うの?」
「全然違うやんよ。いい成仏というのは、この世への未練や恨みがましい気持ちが無くなった状態を指しやん。晴れがましい形で成仏すると、霊魂が天に昇って極楽浄土に行けるでありんす」
「ああ、うん、なるほど」
「けれんど、霊魂が跡形も無く食い散らかされたり未練を残したまんま破壊されたりしたら、そうはなりやん。行き着く先は、地獄でありんすね。運良く輪廻転生の輪に引っ掛かるまで、鬼達の拷問にかけられる。業火で焼かれて、針の山で串刺しにされる。わっちら幽霊にとっては、それは物凄う恐ろしいことなんでありんす」
時雨の説明は、正直ぴんとはこない。死んだらどうせ一緒だろう、と思ってしまうのだ。
だが、この考え方の違いは仕方がない。相手は明治どころか、江戸時代に生を受けているのだ。
霊魂の行く末についての考え方、引いては人生観が異なるのは当たり前だった。
少なくとも、時雨はそう信じているということだけは理解した。
「そっか、なら俺が命の恩人――幽霊に命の恩人てのも変だけど、まあ、そういうことなんだな。じゃあこのまま俺に憑いていけば、幸せな成仏が出来ると」
「率直な話、そうでありんす。でも一也さん、わっちの好みのお顔なんで......しばらくお側にいたいという気もするんでありんすね。あ、いえいえ、そんな長い期間じゃあないんよ。ほんの五年くらい?」
「十分長いわ」
白眼を剥きそうになった。芽生えかけた時雨への同情心が萎みそうになる。
「冗談やよ。多分、長くても二、三ヶ月くらい。吉原への縛りが無くなったから、あんまり長い間は人の世にはいられないでおすよ」
「それぐらいなら譲歩してもいいか。あれだな、幽霊ってのも大変なんだな。死んでからも、幸せな成仏を叶える為に色々あってさ」
「色々あるんは一也さんもと違います?」
時雨の言葉はけして鋭くはない。
だが、それは何故か一也の心に沈んだ。
目が合う。花魁の幽霊は、こちらを覗きこむような視線だった。
「何でそう思った」
「今日、九留島子爵と話している時に。一也さん、わっちを庇ってくれたでありんしょ。あの時に、不意に思うたんよ。ああ、もしかしたらこの人、前に守りたくても――」
パチン。また火鉢の中の炭が弾けた。赤い火の粉が微かに舞い、それを見届けてから時雨は唇をまた開く。
「守れなかった人がいたんちゃうかなあ、て。上手く言えやんけど、そんな感じが一也さんからしたでありんす」
「そう、か」
肯定も否定もせず、一也は言葉を詰まらせた。
だが時雨にはそれで十分伝わったのだろう、いとおしむかのように一也の右手に自分の左手を重ねる。
幽霊なので体の熱は無い、せめて気持ちだけでもという考えからの行動だった。
頼りなく、ふわふわした感触しか与えられない手しか時雨は持たないから。
「わっちはただの幽霊なんで、大したことは出来んおす。けれど、もし一也さんがわっちに話すことで、ちょっとでも楽になるでありんしたら幾らでも聞きますえ」
けれども、その心が、冷たいはずの幽霊の手の暖かさが、一也の心を押す。黒々と固まった痛みを、躊躇いつつも何とか口にした。
「何ヵ月か前に、俺は友達に、先輩に銃を向けたんだ。理由はあった。彼らは非道な事に手を貸していたから、そうせざるを得なかった。だけど――それでも他に手は無かったのかなって思う時はある」
目許を前髪で隠すように項垂れた。
話すことで胸のつかえは幾分ましにはなりはしたが、それだけだった。
「悪い、聞き流してくれ」と付け加えて、時雨から視線を外す。
後悔はしないはずじゃなかったのかと、自分の弱さを叱咤しながら。




