男女二人戦闘準備物語
手のひらに残る衝撃に顔をしかめつつ、一也は歩いている。その隣には小夜子がいた。木戸の家から帰る途中である。
往路との違いは一也が例の魔銃を背負っている点だろう。肩紐付きの袋に収納されたそれの威力は先程確認したばかりだ。
歩きながら小夜子は周囲を見回した。
何人かの村人が畑仕事に精を出している。今日は特に変わりはないと連絡も受けていたので、少なくとも今は気は楽だった。
その小夜子の気持ちを汲んだわけでも無いだろうが、春風に乗って二匹の白い蝶が目の前を舞っている。音も無く静かに舞う様に自然と心が和む。
「朝から気にはなっていたんだけどね」
「何がでしょう?」
一也が問い小夜子が答える。一也も見るとは無しに、蝶のつがいを目で追っていた。
「昨日野犬と遭遇したわけだけど、今朝から今まで襲ってくる危険は考えなかったのかなと。紅藤さんや村の人の様子を見る限り、こう、野犬の襲撃を過度に恐れているようには思えない」
「そうですね。山に踏み込んだ時はともかく、村の近くに奴等が出てくるのは殆どが暗くなってきてからでしたから。それが一つ」
答えつつ、小夜子は右手の人差し指を立てた。
続いて中指がそれに沿うように立てられる。ピースサインの形だ。
「それに警戒してばかりでは農作業が進みませんから。一日でも休めばそれだけ畑は荒れてしまいます。だから皆、内心は怖いとは思いますけど、端から見たら普通に生活しているように見えるんですよ。これが二つ目」
「理解出来たよ」
「もっとも常日頃から村を覆う形で索敵をやっていますから、敵が来たら見つけられますよ」
小夜子が言う通り、ごく小さい紙人形を式神として使役している。一也に説明した通り、完全に索敵の為だ。今は十体ばかりを村の周囲に配置していた。
隠密の呪法を修めている者ならば、あるいは式神の気配を察知してその索敵の網をすり抜けられるだろう。
だが通常はこれで十分であった。
「呪法って便利なんだね」
「ええ、人によって得意な呪法が違いますけどね。私は攻撃系の方は苦手で......」
残念そうに小夜子は言うが、もし彼女が火炎やら電撃やらを放つのならば――まさにファンタジーの世界である。一也としては見たいような見たくないような複雑な気分であった。
のどかな農村の風景が二人の目の前に展開されている。
江戸時代との違いは、郵便局員が制服を着ていたり、たまに着物の中にシャツを着込んだ者がいたりすることだろうか。
ついつい一也は"もし江戸時代にトリップしていたら、自分もちょんまげにしなくてはならなかったな"と考えてしまう。
そういう意味では多少なりとも西洋式の文化があるのは助かる。
「あの、三嶋さんに聞きたいことがあるんですが」
「え、はい」
どうしても小夜子からは一也を見上げる形になる。20センチ――七寸以上の差があるならば仕方ないことではあるが、それがちょっと悔しい。
「紅藤って呼びにくくないですか。私を呼ぶとき名前で呼んでもらっていいですよ」
「え......」
小夜子からすれば、別にどうということは無い。実際、村人の間では小夜ちゃんと呼ばれることの方が多いのだ。
家全体を指すか、あるいはきちんとした場合にしかわざわざ紅藤さんとは呼ばない。家に鍵をかける習慣すら無い村だと、隣近所の人間とはその程度には親しくはなる。
一方、一也にとってはちょっとした問題だった。
基本的に女の子を名前呼びするのは彼は苦手であった。馴れ馴れしいという気がしてならないのだ。
特に独身の若い女の子を名前呼びすると、いやらしい中年男のようだと感じる。過去に名前呼びした女性は、短期間交際した彼女一人だけであった。
「苗字で何か不都合でもある?」
「ありますよ。戦っている最中にお互い呼ぶ時、呼びやすい方がいいですし。紅藤だと二音節、小夜子だと一音節です」
それは理屈だと一也からすると言いたいが、筋は通っている。
結局渋々ながらもそれを受け入れたところ、「じゃあ私も一也さんて呼びますね! お友達ですから!」と当然の如く宣言されてしまった。
もはや面倒になり「いいです」としか一也は返答しなかった。
――名前で呼ばれるなど、いつ以来だろう。
面映ゆいような、恥ずかしいような気持ちが一也に忍びこんだが、すぐにそれは背中の重みが消し去った。下手すると今日にでも二人の名前はこの世から消えるかもしれないのだ。
そうならない為に最善手をうつ。
あの獰猛な野犬を撃ち殺すと覚悟を決めた瞬間から、一也は取れる手段は全て取るつもりだった。
木戸の家から戻り、小夜子と基本的な作戦を練る。
こちらから出向くのか、それとも待つのか。それぞれの利点と欠点を踏まえた上で大まかな方針を決め、そこから詰めていくのだ。
「待って迎撃した方が確実ですよ」
「俺も同意する。ただ、いつまで待てば来るのかというのが分からないが......」
一也の疑問に対し小夜子は「一週間待って何も無ければ、こちらから行きましょう」と提案した。
事前準備が整えやすく、また地の利が活かせるのは間違いなく待機戦だ。小夜子にしても防御系の呪法を使いやすい。
ただし、野犬の群れにびくびくしながら過ごす村人の心理を考慮するならば、あまり長く待てるものでは無かった。
一週間――それが二人が下した限界待機期間である。もしこの間に野犬が現れなければ、その時は山狩りしてでも奴等を狩る。
当然人手が必要になるので、村の自警団にも出動を要請しなくてはならない。「出来ればその前に片をつけたいですね」という小夜子の言葉は、危険な状態を早めに片付けたいという願望と村人を山の中という不利な状況で襲われる事態の回避の両方からくるものだ。
「来るさ、きっとね」
「ずいぶん自信があるみたいですけど、一也さん、根拠は?」
「勘だよ、というのは冗談だ。群れを率いる奴には面子がある。それを還さないと舐められる」
確信という程ではないが、多分来るだろうなとは一也は考えていた。野生動物を取り上げたテレビ番組でそんなことを言っていた――というのが彼の根拠ではあったが、それだけではない。
「これまでも野犬の群れは村へ侵入している。それに俺が追い払いはしたものの、あくまで痛みを与えただけで出血もしていない。威嚇程度に過ぎないと覚悟を決めれば、あの野犬の群れなら突っ込んでくるだろう」
「それに頭領格ならば、そもそも威嚇射撃では止まらない......ですか」
「ああ、向こうは俺の銃がこれしかないと思っているからな」
小夜子に答えながら、軽くM4カービンのストックを叩く。カツンという乾いた音が二人が座る部屋に響いた。
熱心に話しこむ内に徐々に日が傾いてきたようだ。障子の隙間から伸びる影が長い。その一欠片を横顔に受けながら小夜子は視線を走らせた。
一也が側に置いている二挺の銃、それが夕日の残照を受けている。銃身が赤く染まり何とも言えない迫力がある。
「英吉利語で悪魔撃破と銘打たれた銃があろうとは思いもよらないでしょうね。これならそれこそ一撃で――」
「当たればね。当たらなければ何の意味も無いよ」
頼りない返事をしている割に、一也の表情は暗くは無かった。
そもそも初めて実戦で本物の銃を撃つのだ。簡単に当てられるなどと思うのはいくら何でも楽観的過ぎる。
そのリスクがあるなら、当てられるような工夫をすればいいだけのこと。
その為の作戦を二人で練っているのだ。
その作戦の成功率を高めるための待機戦なのだ。
「私の使える呪法を全部説明した方がいいですね。どれをどう使うかによって一也さんの取れる手も変わるかもしれませんし」
「頼みます。何か書く物ありますか?」
一つ頷き小夜子は墨と硯、細い筆と和紙を一枚持ってきた。
小学校の書道以来の道具に面食らいながらも、一也はぎこちない手つきでそれを使わせてもらう。
そう、考えてみればシャーペンはおろか鉛筆すらこの時代には普及してはいないのだ。
「一也さん......墨使ったことないんですか?」
「......相当久しぶりだね」
ぎこちない手つきを見かねてか、小夜子が哀れむような目付きになる。一也は努めてそれは気にしないようにした。
******
周囲が暗くなっていく。
夕日が沈んでいくと共に、東の空から青が暗くなり次第に空気は闇に染まっていく。
じわじわと、しかし確実に。
襲撃がいつあるかは分からない。
今日か。明日か。それとも一週間経過してもまだないか。
ヒタヒタと水が満ちるように、三嶋一也と紅藤小夜子の中で張り詰めていく物があった。
「――来ますかね」
ぽそ、と一也が呟く。
何となく家にいる気になれず、二人は紅藤家の外に出ていた。
自然と育ったらしき山桜の幹に寄りかかる。視界の上の方で咲きかけの白い花がちらついた。濃紺の空をバックにその白が鮮やかな印象を残す。
「――どうでしょうか」
ポツリ、と小夜子が答えた。一也とは少し離れた辺りに立っている。
軽く目を閉じているのは、村の周辺に張り巡らせた式神を操っているからだ。野犬の群れが近づいてきたならば即座にそれらが小夜子に警戒を発してくれる。
野犬がいつ来るか分からないため、二人は既に戦装束である。
一也は着物から迷彩柄のBDUに着替えているし、小夜子は着物の袖が邪魔にならぬようたすき掛けにしていた。
空振りに終わるかもしれないが、命がかかっているのだ。
この数時間を利用して、二人の間で既に作戦は組み立てられていた。ただし、もし野犬がこちらの想定外の行動に出たら――不発に終わるかもしれない。例えば一匹ずつばらばらになって村の四方から侵入してきたら?
二人しか手勢のいないこちらは対応に追われて振り回されるだろう。そうなれば極めてまずい。
とはいうものの、そうした点も含めて二人は腹を括っていた。
戦闘とは予想外のことが起きて当たり前なのだ。準備をする上でそれも念頭にいれて、柔軟に対応出来なければならない。
そのため二人の間で最重要の要点だけは押さえておく、ということにしていた。
言うまでも無く、頭領格であるあの巨犬を最優先で倒すこと。多少の不確定要素があったとしても、それを成す策は既に備えてある。
野良仕事が終わったのか、村人達の姿はほとんど無い。
その代わりに家の灯りがあちらこちらに見える。
中にはガス灯が導入されている家もあるが、囲炉裏の火が唯一の灯りという家もまだまだあった。電気が一般家庭に広まるのは未だ先の話である。
「一也さんは東京に行ったことはあるんですか」
村の灯りを見つめつつ、小夜子は問う。そろそろ家で待機しようかと思いつつも一度聞いてみたかったのだ。この謎めいた青年に。
「......ありますよ」
少し間を置いて一也は答えた。心の中で"君の認識している東京じゃない東京にね"と呟きながら。
「そうですか、いいですね。私も一度行ってみたいな」
「――行きたいなら行った方がいい、と俺は思います」
「――はい、でも」
村を置いて自分一人が東京に行けるのか、と少女は悩む。幾度となく繰り返した自問自答が体の中で反響した。
それを知る由もない青年は、山桜を見上げた。白い花びらが春の残寒に抗うように開きかけている。
「行ける内に行った方がいい。小夜子さんはこの村の為に頑張ったのだから、後は自分の好きにする権利がある」
「そう、なのでしょうか」
「ああ。東京には......少なくとも俺の知る東京には、自ら望んで東京で生きる女性がたくさんいたよ」
ほんの少しの違和感――それでも一也が励ましてくれているのは伝わってきた。「ありがとうございます」と答えると「いえ、俺も行くだろうし」と返事があった。
「東京へ、ですか?」
「はい。ちょっと事情があって、はっきりと目的があるわけでは無いけど。行ってみなければと思うんです」
「......じゃあ連れていってもらおうかしら」
「別にそれは構わないですが」
はっきりとした目的が無い、と一也が言ったのは嘘ではない。ただ単に"他人が集まる場所なら、もしかしたら現代に戻れるヒントがあるかも"と考えただけである。
小夜子の方も、東京で何がしたいという明確な目的は無かった。ただ漠然とした憧れがあるだけだ。
自分の人生がこの生まれた村に限定され、やがて終わる。それに対する焦燥のような感情が燻っているからだった。
その意味で二人はどこか近い物があったのかもしれない。
******
一日目。
何も無かった。
二日目。
警戒と準備の確認をして終わった。一也は二挺の銃の手入れを怠らず、小夜子は呪術の発動確認を繰り返した。
この二日間、村の人間にも野犬を見たという者はいなかった。
三日目、夜。
「来た」
夜半、小夜子は眠りから目覚めた。
浅い眠りに落ちていた彼女の意識に訴えるこの感覚。間違いない、式神の一体からの警報である。
意識が覚醒する。布団から素早く起き上がり、さっとたすき掛けであらかじめ着たまま寝ていた着物の袖を巻き上げた。サイドテールの髪もいつも通りだ。
「一也さん」
「ああ」
隣室で寝ている一也に声をかけると、即座に返事があった。どうやら小夜子が起きた気配に反応していたらしい。
カラリと開いた障子、廊下にするりと一也が現れる。既に戦闘準備は整っているようだ。
「――行こうか」
二挺の銃を備えた男は低く、だがはっきりと言い切った。