降り積もる感情が色を変え
机上で立てた計画は、所詮は机上の計画だということはよくある。
しかし今回に限っては、それは杞憂であった。伊澤博士の立てた計画書を片手に、第三隊の四名は黙々と吉原の遊郭を綺麗にしていく。
それは浄霊という程の物ではなかったかもしれない。
建物に染み付き、埃や汚れと同化してしまった人の陰湿な感情――それらが性質の悪い霊の溜まり場、あるいは産出の場にならぬようにするための地味な作業だ。
「こうして霊符を決められた場所に置いてっと」
「よーし、そしたらこの廊下の隅に若水を適量こぼしますよー」
順四朗と小夜子が軽快な動きで動き回り、手順を着々と進めていく。
霊感が薄い順四郎はともかく、小夜子は呪法士という職業上それなりに霊感は強い。
だからもし遊郭の内部に霊が潜んでいるなら、それを感知出来るはずなのだが、少なくとも明確な気配は無かった。
「ぽちゃりっと。はい、綺麗綺麗」
「その若水の下から呻き声が聞こえてくるのに、全く無視か――」
「ほんとに掃除気分ですね」
鼻唄すら唄いそうな小夜子の横で、ヘレナと一也が顔を見合わせた。
ヘレナの指摘した通り、小夜子の溢した若水が廊下にうっすらと広がっている。
霊験あらたかな水の清らかさに負けたか、その水面にはボコリ、ボコリと霊の顔が浮かび上がっているのだ。
それらが微かに立てる呻き声は小さいものの、無視出来るほど小声でもない。
"うっ、気分悪くなりそうだ"
実際、一也は耳を塞ぎたくなっていた。大した力は持っていないとはいえ、建物に染み付いた霊というのは概して執着心が強いのだろうか。
浄化の儀式に抗うかのごとく、陰鬱な響きを含んだ声が不協和音のように聞こえてくる。空間が汚される――強いて言えば、そのような感覚に近い。
「煩いですよお、静かに!」
しかし、小夜子は全く意に介さない。
声の聞こえてくる方向を睨み付け、気合い一発で黙らせる。その一声だけで、若水に触発されていた霊達がたちまち退散した。
遊郭の一角が静けさを取り戻す。
「紅藤君は全く物怖じしないのだな、大したものだよ」
「えー、ヘレナさんだって普段は全然平気じゃないですか。どうしたんですか、今日は?」
「むー、気が進まないといったら、ちょっと違うんだが」
浮かぬ顔をしながら、ヘレナが霊符を一枚ぺたりと壁に貼る。遊郭らしく、艶やかな朱に塗られた壁に白い霊符はよく映えた。
「敵意剥き出しで向かってくる霊であればな。悪霊として容赦なく叩き潰すか、あるいは浄霊させてやるんだけどね。こういうじめっとした、陰気臭くて霊とも障気とも言えない奴は......単純に気持ちが悪いんだよ」
「ああ、それは分かる気がします。気力を削がれるというか」
相槌を打ちつつ、一也はその場を見渡した。
ここは遊郭の二階だ。建物の真ん中を吹き抜けにしてあり、反対側の廊下が見渡せる。
風通しのいい贅沢な造りではあったが、ここも男が一夜の夢を買う場には違いない。
ふと思う。
何年も何十年もこの建物は、女が偽りの愛を囁き、男がそれは幻影と知りつつ金を払う現場を見続けてきたのだ。
むしろそんな場所に人の感情が滞らない方が――不自然ではないか。
昼間の客は少ないが、こうして自分達が見回っている間も何人かはこの遊郭にいる。閉ざされた部屋の中、夢と知りながら......いや、夢だからこそ愛を貪る行為に耽る者達がいる場所だ。
"流石に俺達がいる間は控えているだろうけど、それでも少しくらいは触れ合ったりはしてるのか"
浄めの儀式を手順通りにこなしつつも、やはり時折視線は感じる。
自分の部屋から遊女達は出てこない。それでも、襖の細く開けられた空間や、曲がり角の陰からそっと寄せられる視線があった。
微かに白粉の香りが建物内に漂っている気がする。
"落ち着け、意識しちゃ駄目だ"
男の本能を理性で殺す。
隣の順四朗を見ると、意外なことに落ち着いていた。
鼻息荒くしているかと思っていただけに、その様子は予想外だった。
「順四朗さん、こういう場所でも平気なんですね」
「ん? 一也ん、どうかしたん」
「いや、ほら、そこはかとなく遊女の人達の香りや気配が漂ってるじゃないですか」
「しとるわな。そんなん慣れとるわ。悲しいことに、どっちか言うたらお仕事の方でな」
垂れ目気味の目を伏せながらの返答に、一也は黙った。
順四朗はその様子には何も言わず、処置の終わった部屋の襖を静かに閉める。
「歓楽街には事件が付き物って言うたら言い過ぎやけど、様々な人情や事情が絡む場やからな。他の地域に比べたら、やっぱり事件は起きやすい傾向はあるわ。なー、隊長」
「そうだな。第三隊が結成される前の話だが、私も吉原での殺人事件を手掛けたことがあるよ。窃盗や暴行は言うに及ばずといったところか」
答えつつ、ヘレナは三階への階段を上がる。
手すりや段の一際深くなった染みに目をやり、それに一瞥をくれた。「ついてこい」と後方に声をかけながら、再び前を向く。
「三嶋君。吉原は確かに歓楽街だ。全くそれに反応しないようだと、逆に心配ではあるが......」
「はい」
「一方で潜在的な犯罪の温床であることも事実だ。今回の浄霊祭、色々な遊郭に足を踏み入れることになる。一つ注意するとすれば、見た目の華やかさだけに惑わされるな。ここほど赤裸々に人の欲や業といった感情がさらけ出される場は無い」
「ありがとうございます」
神妙な顔で頷く一也の肩を、ヘレナはぽんと一つ叩いた。
三階の廊下に飾られた燭台が、二人の影を長く伸ばす。
装飾を主目的とした照明らしい。
順四朗と小夜子も、すぐにその人工の明かりの中に入る。二人の影もまた、床と壁に黒く伸びた。
「そう思うと、この建物を浄めるっていうのは必要なんでしょうね。降り積もる心の軋みが、いつかは生者の考えに悪影響を及ぼすかもしれないと考えたら」
「へー、一也さんでもそういう考え方するんですね。ちょっと新鮮です」
小夜子がいつの間にか右に並んでいた。
「銃士だからって別に心霊の類いを全否定はしないよ。長年使っている器物には、魂が宿るとも言うしさ。思い入れってのは馬鹿に出来ないもんがある」
「ああ、付喪神ですね。なるほど、そうするとこの吉原全体が――」
一度黙り、小夜子は視線を素早くさ迷わせた。
妙な気配は無い、だが緩くこの場を包むような異質な空気はある。
日常から隔絶された非日常、一夜の夢のさ迷う場所ならばこそ、むしろ異質であることが自然なのだろうか。
「――人の想いを糧とした、霊や怨念の居住区なのかもしれません」
「そういう事情を薄々理解していながらも、吉原の落とす利益は馬鹿には出来へん。そして政府高官の中にも通う奴はおる。諸々の事情が噛んで、吉原は危うい安定の下で繁栄を続けとるわけや」
「順四朗、上手いことまとめたようだが――お前、時々通ってるんだろ。聞いたことあるぞ」
ヘレナの一言に、順四朗が慌てた。
「そ、そんなことあったかなあ~、いやあ、歳取ると忘れっぽくなってもうてなあ」とのたまうも、一也と小夜子は微妙な顔にならざるを得なかったのである。
「男の業かなあ」
「男の業なんですよねえ、あっ、一也さんも?」
「俺は行ってない、行ってない」
一也の必死の弁明だったが、紅藤小夜子は「本当かなあ」と疑わしげな様子をしばらく解かなかった。
日が沈むまで、第三隊の面々は各遊郭を訪ねてひたすらに業務をこなした。
伊澤博士からもらった計画書通りにこなせばどうにか三日間で綺麗に終わるはずという、それが心の支えである。
何気に腰を屈めたり、膝を曲げたりと繰り返していると辛い動作が多い。
一也の感覚だと、野球部やサッカー部なのに球技ではなく地味な筋トレだけやらされている、に近い。
「うおっ、冷たっ!」
しかも場所によっては、その場所にこもった感情のしこりが嫌な気配をもたらす。
寒さでかじかみかけた指に、嫌がらせのように更に冷気が染み込んだ。怪我や傷は無いが、うんざりではある。
「ううむ、歓楽街の繁栄の陰で私達がこんなに地味な仕事していることなど」
「だあれも気にしてへんし、むしろ邪魔やと思われてるんちゃうの」
「えー、何だか報われないですよねえ。やっぱり誰かに感謝されたいなあ、なんて思うのは贅沢ですかー?」
ヘレナ、順四朗、小夜子も少しばかりぼやく。肩をぐるぐる回したり、首を鳴らしたりと疲れている様子だ。
特に霊障には一番敏感な小夜子は、精神的にもぐったりとしていた。しかも何か嫌なことでもあったのか、唇を尖らしていた。
「どうかしたの?」
「う、ええと......その、作業中に出くわした男の霊にお尻触られて。それを思い出しちゃって」
「うわあ、何て言ったらいいか」
恨めしそうな顔になる小夜子に、一也は同情せざるを得なかった。
場所が場所だけに、そういう霊も沸くのだろう。
もっとも霊といっても、邪霊や悪霊にはほど遠い小物だったのが不幸中の幸いではある。
そんな小夜子にヘレナが声をかけた。ヘレナさんがやたらといい笑顔だな、と一也が思った時には既に遅く。
「良かったじゃないか! 少なくとも霊には色気のある尻だと思われた訳だろ、うん!」
「あっ」
「あほっ、何言うとんねん」
「そんな認められ方、いらないですよお! ヘレナさんの馬鹿ー!」
小夜子の抗議の声が、吉原の夕暮れの空に高く響く。だが、失言の当事者は涼しい顔であった。
「その怒りはこれからぶつけるんだな。地味な掃除などではなく、派手に暴れられるだろ」
ヘレナの言う通り、日が落ちても浄霊祭は終わらない。いや、むしろ夜間の方が仕事としては激しいのだ。
一度緩んだ気を再び引き締めつつ、一也は頬張っていたおにぎりを飲み込んだ。休憩時間は終わりである。
「よし、やりますか」
昼間は出番の無かったM4カービン改を肩にかける。
迷ったが、結局魔銃も持った。誤射すれば周囲の建物にも被害が出るため、出来れば破壊力の高い魔銃は使いたくない。
しかし、万が一手強い霊が現れたならば、使用するしかないではないか。
「ぐぐ、さっきの借りは違う霊にぶつけてやります!」
その傍らで、小夜子が式神五体を呼び出す。順四朗もまた狂桜の柄に目をやっていた。
「ほな、ここからが本番言うことで一丁気張りまっか」
「当然だろ。鬱憤が溜まっているのは、皆同じさ。私も含めてな」
革長靴の金具を留めつつ、ヘレナが視線を外へと投げた。
宵闇が忍び寄る吉原の街が、昼間より遥かに艶っぽく、そして怪しげに広がっている。
******
高城美憂は目をゆっくりと見開いた。
時刻は既に宵の口らしく、窓の外は暗くなりつつある。冬の夕方は西の空を赤く染めており、侵食する暗闇に必死で抵抗するようにも見えた。
自分の赤紫がった目にどこか似た色だと思い、開いたばかりの右目に手を当てる。
「美憂」
「兄様」
寝ていた訳では無い。椅子に座ったまま、目を閉じて集中していただけである。兄の清和もそれを承知している。
何度も繰り返してきた事だ。
この呪法を使い始めた当初こそ負担はきつかったが、今はそれにも慣れた。
「茶と菓子を用意してある、食べておいた方がいい。寒くはないか」
「はい、ありがとうございます。特に問題はありません」
なのに。
それは清和も知っているはずなのに、美憂が呪法を使うといつも心配する。
その度に美憂は小さく落胆し、また安堵する。
"自分はいつまでも小さな妹のままなのだ"ということを、清和の行動で否応なく実感させられるからだ。
反発することも出来る。だが美憂はそうすることは無かった。
出来のいい妹であること。優しい兄に従順な妹であること。
九留島子爵の庇護の下、それを続けることが最も心地好く、また清和もそれを望んでいるのだと認識していた為だ。
両親も今は亡く、たった二人の兄妹の家族である。自己表現は二の次にして、可能な限りの穏やかな関係を保ちたい。
それが一番だと――美憂はそう思っていた。
短い思考を折り畳みながら、美憂は茶を口にする。
長時間の呪法の行使は、少女の小さな喉を干上がらせていたらしい。鼻孔に立ち上る茶の香りに、ほっと息をつく。
「現時点では明確な霊的反応は見当たりませんでした。やはり夜にならないと、活発には動かないようです」
「そうか、予想通りだな」
自分とは異なる青紫色が混じった兄の目が、美憂の目に映る。菫の花によく似たその色が、美憂は好きであった。
「ええ、縦横三町の広さです。これくらいならば、私の呪法ならばどこに現れようが感知出来ます」
清和に答えながら、美憂は静かに自分の右手の甲を見た。フリルの付いた袖から覗くそこに、赤黒い紋様が刻まれている。
釘のような何か尖った物体で引っ掻いて描いた線は、奇妙な図形を形作る。
三角形を上下に重ねたような図形、つまり六芒星と呼ばれる形だ。
「吉原中に撒いた血痕からなる血液呪法です。見落とすことなどありませんよ」
メイドの少女は薄っすらと笑みを浮かべ、その右手をそっと胸に押し当てた。
冬の夕暮れを映したその瞳は、一瞬だけ紫水晶めいた妖しい煌めきを見せた。




