歓楽街にて出会う者達
吉原という場所は、東京の中にありながらもう一つの町のようなものだ。
堀に囲まれ隔てられているというため、廓という名で呼ばれることもある。
無論これには別の意味もあり、吉原という場所に繋ぎ止められた遊女や女郎そのものを指す言葉でもあった。
そのせいであろう、彼女らが使う独特の言葉遣いを廓言葉と称するのは。
「あら、そこのお兄さん方。ちょっと寄っていかんぇ?」
「すいません、俺、警察官なんで」
「まあ、警察の方でいらしたん。それはご苦労様でありんす。そしたら、お仕事が終わりましたら――ね?」
「は、はあ......」
「何がはあ、ですか、一也さん。そんな暇あると思ってるんですか!?」
第三隊の四人が吉原に一歩踏み込むや否や、道行く一也に浴びせられたのはその廓言葉の洗礼であった。
遊郭の軒下、ちょうど日陰になるような場所から客引きの声がかかる。
何となく曖昧な返答をしていると、後ろを歩く小夜子に怒られたのだ。いきなり前途多難であった。
「ああらぁ、いい彼女がありながら、吉原に足を運ばれるなんて罪なお方でありんすな、ふふふ」
「お仕事帰りにちょっと息抜きされるだけなら、浮気とは言いませんえ?」
「わっちらとの時間も、それはそれで楽しおす......逃したら損しますえ」
他二人、別の遊女らもまた艶やかに口を開く。まだ陽も高いせいか、三人とも比較的きちんとした着物姿である。
それにも関わらず、長い煙管を口の端にくわえ流し目をくれる姿には、ぞくとさせるような色気があった。
「やばい、はまる人ははまりますね」
「せやろ。言い方は悪いけど麻薬みたいなもんやな。吉原っちゅう場所全体が、東京の他の地域から隔絶された別世界やねん。堀を造ったのは遊女の逃走を防ぐ以外にも、外界とは別の夢の世界を印象づける為もあったんやろうな」
一也と順四朗が言葉を交わす中、その後方でヘレナはぺしぺしと小夜子の頬を軽くはたいていた。
先程からサイドテールをいじる小夜子の目が、虚無的な暗い光を放っていた為である。
「く、くく......そうですよね......所詮、一也さんだって男ですもんね、身近にいるこんな小娘なんかより綺麗に着飾ったお姉さん達の方が――」
「しっかりするんだ、小夜子君。誰も君を泥臭くて汗臭くて色気の無い小娘なんて言ってないぞ、自信を持て」
勿論、ヘレナには悪意は無い。
だが、彼女の励ましは励ましには全くなっていなかった。
色々な意味で不器用な女である。
「ふ、ふふふ、そうですか、私は泥臭くて汗臭くて色気も無くて取り柄も無い、ただのちびっこだとヘレナさんまで!」
「そ、そんな酷いことまで言ってはいないじゃないか! 自分を追い詰めても何もいいことはないぞ、冷静になるんだ!」
「......今のはあの異人の方が悪いでありんすなあ」
「わっちも同感でありんすなあ。あぁ、あの小さい方、可哀想でありんす......」
「姐さん、小さいて言うたら余計に傷つくでありんす。あっ、凄い目で見られ――」
遊女達の顔が蒼褪めた。
視線だけで人も殺せようかという迫力で、小夜子が睨みつけた為である。
「すまない、連れが迷惑をかけた」とヘレナが謝りながら小夜子を引きずっていかなければ、どうなっていただろうか。
「あの人ら、本当に警察官でありんすか?」
残された遊女の一人がぽつんと呟く。
「昨今の警察官には、面白い方が増えられたんでありんすなぁ」
「あの背ぇの高いお兄さんなんか、賭場にいそうな雰囲気なんす」
残る二人も顔を見合わせた。
もしヘレナがこの場にいたのならば、頭を抱えていただろう。
それでも警察官らしくないという感想を抱きながらも、遊女達の表情は優しかった。
「きっといい人達でありんすよ」
******
明治二十一年如月の六日。
当初聞いていた予定通り、警視庁特務課第三隊の四名は吉原に足を踏み入れた。
初めての歓楽街にどぎまぎする一也を始め、少々浮き足だったのは事実ではある。
だが任務を前にして、いつまでも浮き足だつような腑抜けばかりではないのもまた事実であった。
いや、正確には浮き足だった頭を冷ますような相手しかいなかったからだが。
「やあ、久しぶりだね、三嶋巡査。元気にしているかい。殊更に聞くが、その魔銃の調子はいかがかね」
「その顔を見た途端に気分が悪くなったよ、伊澤博士」
一也が憮然と答えた相手は、その皮肉を全く気にした様子はなかった。丸眼鏡をかけた痩せた男は肩をすくめ、小さく苦笑する。
彼、伊澤博士と一也は初対面では無い。
昨年の春、呪法の才能試験と称して、この伊澤博士に電極地獄にはめられたのだ。
そのおかげで狙撃眼と鉄甲が使えるようになったが、人間一度痛い目に遇わされた以上は警戒して当然である。
「うむ、負けん気の強さは重要だよ。その鼻っ柱の強さがあれば、私の更なる実験にも耐えられよう。どうかね、一杯?」
「そんな酒に誘うように軽く言わないで下さい。絶対嫌ですね」
「三嶋君が嫌がるのも分かるな。私だってごめん被る」
ヘレナが口を挟む。眼鏡の奥からちらりと見て、伊澤博士は首を曲げた。
「ヘレナ君もお元気そうだ。欧州きっての魔術の名家か、いや、実に研究魂が疼いてたまらんのだが」
「ぶっ飛ばしていいかな、博士? あなたが警視とはいえ、私の権限は時に階級を超えるからな。アイゼンマイヤー家に託された"制裁"の異名、知らぬ訳でも無かろう」
「つれないのだね。いや、ならば仕方あるまい」
「相変わらず変人やわ」
ヘレナに冷たく断られても、伊澤博士は全くめげてはいないようだ。
順四朗は呆れたように呟き、小夜子は怖そうにその背に隠れる。
そもそも研究室を拠点とするこの人が、何故こんな場所にいるのか。
伊澤博士と第三隊が話しているのは、吉原の中のとある屋敷の一部屋である。
歓楽街という特殊性を鑑みて、吉原には特別に自治権が与えられていた。
一也らがいるこの屋敷は、その自治権を行使する為の実務を行ういわば集会場なのだ。
場所が場所だけに、そこまで華美な細工や仕様は施されてはいない。
とはいえ、伊澤博士の存在は確実に浮いている。誇り臭い研究室と西洋から輸入した白衣が似合う男である。他のどんな場所でもいまいちしっくりこない。
当の本人は気にせず、ようやく本題を切り出す。
「さて、いつまでも遊んでいる訳にはいかぬな。君らも聞いての通り、今回の浄霊祭の総指揮は私が執るのだよ。理由は簡単だ。霊の中には生者に友好的な霊もあれば、敵対的な悪霊もいる。しかし、いずれにしても手頃な霊ならば研究材料として捕まえたい」
「見上げた研究者根性ですね、感服しました」
一也の静かな皮肉に、伊澤博士は気がつかなかったようだ。ばっと白衣をはためかせ、大きく右手を振るう。
「物がなんであれ、一心に道を極める為に邁進すること! これこそが科学に限らず、人の可能性を切り開く唯一の方法なのだ。分かるかね、そこのちっちゃい呪法士?」
「ちっちゃいって余計ですよお!」
憤慨する小夜子を気にもせず、伊澤博士は部下の警官を呼んだ。五人の警官達がさっと入室するや、部屋の壁にそそくさと大きな紙を張る。
びっしりと細かい文字が記入されていたので、一也はざっとそれに目を通した。どうやら今回の浄霊祭の注意点を列挙し、具体的な行動計画に落とし込んだ物らしい。
「すっげえ詳細に書いてますね。つまり、これに従って動くようにってことですか」
「どれどれ......む、正直ここまできっちり詰められていては反論の余地無しだな」
一也に続いて、ヘレナも頷いた。順四朗と小夜子は、計画自体にはさほど興味が無いらしい。
「己は体動かすのに集中するんで、どんな計画でも素直に従うで」
「ご飯の時間さえ確保されていれば、がんがん霊を成仏させちゃいますよ!」
このような具合であった。
一也もまた表情を引き締める。
なるほど、ただの研究馬鹿では無いようだ。
全員が納得した顔を見せたからか、伊澤博士も機嫌は良さそうであった。
だが、その表情に不意に影が射す。
「これはまだ公開されていないため、話すのは初めてなのだがな。今回の浄霊祭、ちょっとした観客......いや、見るだけにとどまらぬ人が来るのだよ。私が任命されたのは、彼の接待役も兼ねてのことだ」
「観客やて?」
「一般人が立ち入り禁止になる訳では無いが――私達の浄霊自体を見に来るというのか。物好きだな」
順四朗とヘレナが怪訝そうな顔になる。
無理もない。
吉原全体で霊の大掃除をする浄霊祭は、祭の名称こそあれど見世物ではない。警察などの機関が動く公式業務である。観客の存在など、普通は有り得ない。
「うむ、通常なら断るのだが相手が相手であるからな。幾ばくか手も貸してくれるというし、首を縦に振らざるを得なかったのだ」
「つまり、その人偉い方なんですかー?」
「まさか、名前も出せないようなやんごとなき方って訳じゃないでしょ。誰なんです」
小夜子に続いて一也が問う。一拍置いて、伊澤博士が答えた。
「姓は九留島、名は朱鷺也。その身に授かった爵位は子爵」
何か苦々しい物を含んだ声であった。その名を聞いて即座に反応したのは、奥村順四朗だけである。
「へえ、またきな臭い人がお越しになるんやな。名前くらいは聞いたことあったけど、ほんまに生きてたとは」
「九留島――あれ、その名前って確か」
「何や、一也ん知っとるん?」
「年末の箱根で、陸軍の人から。名前だけですけどね」
そうだ、確か合同演習中に角谷少佐の事を聞いた時だ。
彼の亜米利加留学を推薦したのが九留島子爵という話ではなかったか。
だが、一也はそれ以上の事は知らない。
あの時、九留島子爵の名を出した兵士も、どこか様子がおかしくなかったか。
「なるほど、まともに知っているのは奥村警部補くらいか。それならば、私から改めて説明が必要だろうな」
丸眼鏡をくいと直し、研究者が口を開きかけた時であった。部屋の入口の格子戸が、いきなり引き開けられた。
「その必要はない、伊澤博士」
成熟さと老獪さを含んだ声だった。
弾かれたように、全員がそちらを向く。
一也が目にしたのは、開け放された入口に立つ一人の男性、そして彼の左右を守るように従う若い男性と女性が一人ずつだ。
先程の声を発したのは、先頭に立つ男だったのだろう。
「盗み聞きとは趣味が悪いのではないですか、九留島子爵」
伊澤博士が渋い顔で答える。一也の視線は、ごく自然にいきなり現れた男に吸い寄せられた。なるほど、この男が件の人物らしい。
「人聞きの悪い事を言わないでもらいたい。つい今しがた着いたばかりだよ」
男――九留島朱鷺也子爵は、薄い含み笑いを漏らした。
歳の頃、五十前後であろうか。この世代の男性にしては背は高い。五尺と七寸くらいはある(約168センチ)。
灰色の髪は真ん中で分けられ、高い鷲鼻が印象的な顔であった。
"子爵ってことは華族の一人で、つまりは貴族階級か"
刹那、思考と視線が混じる。
なるほど、身なりがいいのはその為か。
隣の若い男に渡した黒い天鵞絨のコートも、見に纏うスーツのような服もどちらも仕立てが良いことくらいは分かる。細い紐タイはセンスの良さが伺えるし、胸ポケットから覗く金鎖は恐らく懐中時計のそれだろう。
上流階級で生きてきた人間だと断定する。
その反面、一筋縄ではいかない男だろうなと一也は考えた。
特に理由は無い、強いて言うならば勘である。
「申し遅れた、諸君。中には知っている方もいるようだが、九留島朱鷺也と申す。今回の浄霊祭にて、その様子を見せていただきたく――」
九留島はそこで一度言葉を切った。髪の色にどこか似た、灰色がった瞳がその場を一瞥する。
「――特別に許可をいただいた。自分の身は自分で守る故、お気遣いは無用である。ああ、こちらの二人は私の付き人だ。清和」
「はっ。高城清和と申します。ご主人様の執事、及び護衛としてお仕えさせていただいております」
若い男の方が答える。
順四朗と同程度の長身に黒の執事服を着込んでいた。
二十歳をやや越えた程度に見える若年ながらも、執事らしき落ち着いた佇まいがその服に合っている。さらさらとした前髪の下、瑠璃のような青紫がった双眼が印象的であった。
だが紳士然とした物腰と相反するのは、左腰に吊るした鞘である。
"直刀、いや、鍔が西洋風だから長剣なのか?"
一也の判断がつかぬ内に、残る女の方に九留島が話を振る。
「美憂」
「はい。高城美憂にございます。メイド及び護衛として、ご主人様にお仕えさせていただいております。お察しの通り、清和の妹にございます」
美憂と名乗った女は腰からふわりと広がったスカートを、両の指でついと摘まむ。
清和の妹と名乗った通り、まだ若い。
一也の目には精々十七か八歳と見えた。
メイドらしく、高襟の黒いメイド服の上に白いエプロンをしている。肩にかかるかかからないかの癖のある黒髪が、その白いエプロンと好対照である。
兄共々整った顔立ちながら、表情に乏しいのが残念だ。
高城美憂はもう一度深くお辞儀をして、後ろに退いた。
その際に眼が赤紫がっていることに、一也は気がついた。瞳の色は、兄と妹で異なるようだ。
「特務課第三隊の隊長、ヘレナ・アイゼンマイヤーです。お初にお目にかかる、九留島子爵」
「とんだ邪魔者かもしれませんが、どうぞよろしく。アイゼンマイヤー家といえば、魔術の名門ですな。警視庁も逸材を迎えたものです」
九留島の返答に、ヘレナは軽く驚いたらしい。「ご存じとは光栄ですね」と切り返す。
「ふふ、地方に引っ込んでいてもね。そのくらいの事は覚えている」
「うちも有名になったものだ、両親が聞いたら驚くでしょう」
二人の会話を聞きつつ、一也はさっと視線を巡らせた。美憂と一瞬だけ目があったが、少女の無表情からは何も伺えなかった。




