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傍話 君が叫びに応えよ、我が銃 後編

 人の身が意識しようがしまいが、日々は淡々と流れていく。

 霜月(しもつき)が終わり、翌月の師走(しわす)も暮れに近くなってきたある日、岬は小さな楽しみを反芻していた。



 "二十五日だから、今日は店を閉めた後、中村さんに連れていってもらおう"



 屋台の片隅に置いたカアドを見る。

 何度も触ったせいで、カアドの隅は丸くなっていた。

 初めてのクリスマスという物を前にして、心は僅かながらに浮き立つ。

 防寒用の小袖羽織の袖に手を入れつつも、それが楽しみでならなかった。



 "耶蘇のことは知らないけど、西洋の神様ならきっとおっかないことはしないでしょ"



 それに中村がいる。どういった理由か知らぬが、西洋文化をよく知る彼が一緒ならば大丈夫であろう。

 今日はまだ姿は見せていないが、もうじき来るはずである。

 来たら笑顔で「クリスマス楽しみですね」と言うのだ。きっと約束を覚えていてくれるはず。



「坂井んとこの娘さんだね」



 急に左からかかったざらついた声に反応、視線をあげると目があった。

 中村ではない。見知らぬ男がそこにいた。彼より頭一つは大きく、黒い角袖を肩に引っ掻けている。



「え......はい、坂井岬です。飴をお求めで?」



「いいや、甘い物は今はいらなくてね。それより」



 ざんぎり頭に手をやりながら、男は薄く笑った。その目が岬の全身を這う。

 その視線のねめつけるような粘りに、思わず一歩引いてしまった。

 男はそんな岬の様子に構うことなく、口許を歪める。



「――もっと大事な物を頂戴しに来たんだ。お嬢さん、ついてきてもらえるか。手荒な真似はしたくない」



 男が角袖の中から取り出した紙が一枚、それが岬の眼前に翻る。

 請求未払い三十円分という文字に眼が吸い寄せられ、そこにかかるように押された角印にぎょっとした。

 崩した字体だったが、それは島岡薬処と読めた。

 事態を理解すると共に、岬の顔から血が引いた。



「さ、三十円って、そんな、ただの風邪の薬で」



「事実なのだから仕方が無い。塵も積もれば山となるってことだ」



 男が無慈悲に告げると、周囲から更に数人の男が岬を取り囲んだ。いずれも風体の良くない男達である。どうしようというのかは一目瞭然であった。

 逃げなければと思うが、恐怖で足がすくんで動けない。

 表情も体も強張らせた岬の手首を、最初に相対した男が捕らえる。



「来な。なあに、素直にすれば悪いようにはしないさ」



 嘘と分かっていながら吐く台詞の白々しさに、血が上りかけた。

 だが、すぐにそれは諦めへと変わった。

 男が見せた請求代金の書面の隅には、間違いなく父の名前と拇印があった。

 嘘だと思いたい、何か騙されているのだろうとは思う。だが事情が分からない以上、坂井家(うち)は普通に薬を買って、三十円ものつけがあるのだ。

 ここで突っぱねてもどうにもなるまい。



 ざわり、と他の屋台から立ち上る動揺が伝わる。

 道行く人がひっそりと足を速める。気になるがかかわり合いにはなりたくない......それはそうだろう。誰も他人の不幸に巻き込まれたくない。



 "ごめんなさい、中村さん。クリスマス、行けそうもないよ――"



 少女のため息が冬の空気に消えた。

 朝の宿場町には何とも言えぬざわめきが漂ったが、それも岬を連れて男達が消えると無くなっていった。

 若干の気まずさだけが、少女の残した屋台に絡んで揺れていた。




******




 心を折る為の脅迫というものがある。

 それは大声による恫喝という分かりやすい形の物もあれば、真綿で首を締めるような静かな恐怖という物もある。

 岬に向けられたのは後者であった。

 


 男達に連行される間、脅されたりはしなかった。暴力も振るわれなかった。

 ただ目隠しをした馬車に乗るよう促され、何処かに連れていかれた。

 十五分ほど走っている間も、そこから降ろされ広い蔵のような場所に押し込まれてからも、目立って暴力的な扱いは受けてはいない。



 だが、じわじわと日常から切り離されていく恐怖はある。

 金を払えと罵声を浴びせられるならば分かりやすいのだが、この場合は違う。

 最低限の指示を聞かされるだけ、後は沈黙である。

 堅気らしからぬ男達に囲まれ、何をされるかも分からない不安が岬の心を苛む。



 岬を顔を上げた。

 自分が閉じ込められた建物は、蔵かあるいは倉庫なのだろうか。奥の壁の隅の方に筵が敷かれ、そこに座らされた。荒い目の筵は着物を通して足に刺さり、その鈍い痛みを堪えねばならなかった。

 視界は薄暗く、壁の高い位置に設けられた格子だけが唯一の明り窓のようである。



 "どうしよう......"



 自問。

 考えてもどうにもならないが、こんな状況では出来ることは限られる。

 最初に声をかけてきた男の他にも、計十名近い男達が岬を取り囲んでいた。

 ここに連れてこられてすぐに「薬代を払ってもらうまでは、出られると思うなよ」と言われ、それからずっとこのままであった。

 風邪薬で三十円もするわけない、と言いたかったが、この状況ではそうも言えない。

 口に出した瞬間に、拳が振るわれそうで怖かった。



 "三十円なんて大金、何かの間違いよ"



 四人家族が食べていくのに、月に六円もあれば足りた時代である。三十円となると五ヶ月分相当だ。

 冷静になってみると有り得なかった。父が薬を買う時に騙されたとしか思えなかった。

 だが――それを立証する手段が無い。

 証文を調べれば何か分かるかもしれないが、そのような猶予も時間も手段も無い。外部との連絡も取れないのだ。



 孤立無縁の窮地に追い込まれてから、時間だけがただ経過していく。



 ぎょろぎょろとした男達の視線が薄闇を通して届く。



 しん......と底冷えのする空気が肌へと染みる。



 外部の音はほとんど聞こえない。時折、男達が囁く声だけが耳に届く。



 "もし、払うと言えば解放されるのかな"



 言えるものならば言いたかった。



 "けど、飴売りのお金だとすぐに払うことなんか出来ないから"



 岬も子供ではない。

 十四歳にもなれば、借金のカタに取られた娘がどのような扱いを受けるのかは知っている。

 この男達が直ぐには岬を女郎部屋へ放り込むような真似をしないのは、恐らく雇い主らしき島岡薬処の指示だろう。

 時間をかけてこちらの心をへし折り、それから処分する気なのかもしれない。



 冷えた体に、更に悪寒を感じさせる考えが上乗せされた。恐怖がまた一つ、岬の心を侵食していく。






 事態の変化は唐突だった。



「......そろそろ待ちくたびれたねえ」



 粘っこい声が、薄暗がりを通して聞こえてきた。男の一人が岬をじっと見ている。その目もまた粘っこい。



「ふん、確かに少々疲れたな」



「でしょう? どうせ最後には行き先は決まってるんだ、ちょっとくらいね」



 ざんぎり頭の男が応じると、男は喜悦を声に滲ませる。

 男が女を値踏みする声である。それは岬を警戒させるに十分であった。

 変わらぬ岬の様子に業を煮やしたのだろうか、いや今はそんなことを考えている場合ではない。

 小袖羽織を抱き締める岬に一瞥をくれ、ざんぎり頭の男は大儀そうに頷いた。



「いいか、傷をつけるなよ。大切な商品になるのだから」



「分かってますって。ひひっ、そう怖がるなよ」



「俺らの分も残しておけよな?」



 口を開いた男がじり、と岬に近寄ると、他の男達が囃し立てた。周囲の空気が変わっていく。それは着物を通して、岬の疲れた体と心に突き刺さった。

「止めてください!」と叫ぶつもりが、ひゅうと乾いた息しか漏れない。喉すら上手く動かなかった。



 情けなさに涙が滲み、恐怖で背が震えた。

 男のごつごつした手がゆっくりと自分に這い寄ってくる。

 それを避けることすら出来ず、ただ壁に背中を預け立ち尽くすだけだった。



「......けて」



「んん、聞こえないなあ? なーに言ってるんだあ、この娘ぇ?」



 男の嘲笑、岬は声を更に振り絞る。

 駄目だ、自分から望みを捨てていては。

 大声を出せば、もしかしたら何かが起こるかもしれない。

 外を通る誰かが、不審に思ってくれるかもしれないのだ。

 どんなに小さな可能性であっても。



「神様でも誰でもいいです、助けてくださいお願いっ!!」



 叫んだ。

 喉が張り裂けよとばかりの岬の声に、一瞬だけ男達は虚を突かれたように動きを止めた。

 だが何も起こらない。誰もその悲痛な叫びに応えるはずもなく、嘲笑がさざ波のように広がる。

 終わった、と岬が項垂れたその時。



「メリークリスマス、ちんぴらども」



 奇跡が薄暗がりを貫いた。




******




 その声の主が誰なのか、その場の誰もが分からなかった。

 建物の扉を蹴り開け、逆光を背にした人物に見覚えが無かったのだ。

 否、一人を除いては。



「な......中村さん!?」



「遅くなって済まない。場所を特定するのに手間取った」



 まだ驚きが喜びを圧倒している岬だったが、近寄ってくる小柄な黒いマント姿の男が誰かくらいは分かる。

 男達が唐突な第三者の登場に呆気にとられている一方、中村廉也はそれを無視するかのようである。コツコツと靴音を響かせながら、彼は建物内へと踏み込んだ。



「おい、糞共。さっさとその子を引き渡せ。今なら命だけは許してやるよ」



 眼鏡をそっと外しながら、中村が口を開く。

 その目が凄惨なまでに冷たい光を湛えていることに、何人が気がついただろうか。

 中村の侮蔑に、反射的に男達が吠える。



「んだ、てめえ! ここが何処だか分かってんのか!?」



「外の連中もいるんだ、無事で出られると思ってんじゃねえぞ!」



「外の連中? ああ、あのガラクタ共か。皆片付けさせてもらったよ。息はしてるんじゃないかな」



 中村の涼やかな返答、その場の空気が数度下がったような錯覚を覚える。

 それがはったりや虚勢ではないことは、この蔵の位置を考えれば明らかだった。屋外の手勢を片付けない限り、ここまでたどり着けはしない。

「殺れ!」とざんぎり頭の男が号令を飛ばすや、男達はぱっと左右に分かれた。

 暴力沙汰にはそれなりに慣れている。この小柄な優男が何者かは知らないが、油断は出来ないことだけは明らかだった。



 短刀や棍棒など、それぞれの得物を抜いて男達が迫る。

 熟練とまではいかぬが、たった一人を殴殺するには十分な迫力と速度を備えている。

 五秒もあれば、中村は床に転がされるだろう。どんな達人でも、この間合いにおける数の差は絶対的な不利だ。



 だが、その常識が一瞬で覆る。



一響六弾(シックスオンワン)



 何が――起こったのか。



 カランカラン、と空になった薬莢が床を転がったと気がついたのは、後のことである。

 中村が懐から回転式拳銃(リボルバー)を抜き放ち、ただ一度の銃声を以て包囲しかけた男達を倒したと......現実味を欠いた光景に理解が追い付く。

 有り得ない早撃ちであった。



 何が起きたのかも分からず、激痛に身を捩る男達が床に転がっていた。

 床は血に染まり、一瞬にして地獄絵図が展開される。それを作り出した張本人は涼しい顔だ。

「あ、足、俺の足がああ!」と叫び倒れた男の頭を、容赦なく中村が蹴り上げた。奇妙な呻き声一つ、その場が静けさを取り戻す。



「謝る気すらないなら、もう容赦はしない。お前らの罪をその身に刻め」



 中村の言葉を挑発と受け取ったのだろう、残った男達の顔色が朱に染まる。

 残りは、首領格のざんぎり頭の男も含めて三人だ。回転式拳銃(リボルバー)が弾切れならば、たった一人を抑えることは難しくはないはずである。

 だが、その思惑を封じたのは中村が抜いたもう一挺の回転式拳銃(リボルバー)だった。



「くっ、てめえ......!」



「吠え声だけは一丁前だな。その子から離れろ、指一本触れるなよ」



 歯を軋らせるざんぎり頭の男に、中村が命令する。

 生殺与奪の権利を誰が握っているのかは明らかだった。

 先程見せた早撃ち、あれがもう一挺の銃でも可能ならば、何かおかしな真似をした途端に銃弾の餌食である。

 それを理解したのか、あるいは中村の本気が伝わったのか、男達がゆっくりと岬から離れた。岬も恐る恐る中村の方へと逃げる。



 二人と三人の間合いが開く。もし男達がここで諦めたのであれば、このまま終わっていただろう。中村の方も貴重な弾丸を消費する必要は無かったはずだ。

 だが岬を後方に確保しながら、中村は信じられない行動に出た。



「これでもかかってこれないか?」



 ガラン、と重い音が響く。

 あろうことか、二挺の回転式拳銃(リボルバー)が床に投げ捨てられていた。それも中村の背後にである。

 自分から進んで無手になった敵に対し、男達が怒声をあげる。



「どういうつもりか知らねえが!」



「なめやがって、ぶっ殺す!」



 男達の内、二人が突っ掛かった。

 重い拳と蹴りが中村を襲う。その背後からは、ざんぎり頭の男が抜き放った拳銃で狙っていた。

 拳と蹴りをかわせば、弾丸の餌食。かといって黙って受ければ、吹っ飛ばされる。

 逃げ場など何処にもない。



 岬が思わず悲鳴をあげかけた瞬間、彼女は信じられない光景を目にした。

 一言で言うならば電光石火そのものが、鮮やかに目に焼き付けられる。



「障壁展開」



 左右から迫る拳も蹴りも届かない。どころか、男達は体勢を崩す。まるで見えない壁に弾かれたようだった。

「呪法だと」と片方が目を見開いたのが精一杯、だが中村の反射神経の前にはそれ以上は何も出来なかった。

 掌底、そして回し蹴りがそれぞれに入り、二人が吹っ飛ばされる。



「神速」



 そして姿がかき消えた。

 拳銃で狙うはずの標的を見失い、ざんぎり頭の男が狼狽える。

 超高速移動を可能にする呪法を使い中村が間合いを詰めていた、と気がついた時にはもう遅かった。



「――終わりだ、雷迅」



 蔵の中の薄暗がりを引き裂いたのは、稲妻にも似た白光であった。

 激しく視界が揺らされ、岬は反射的に目を閉じる。十秒程の沈黙の後、恐る恐る薄目を開ける。



「う、わあ......」



「久しぶりだし、こんなものかな。呆気ない」



 こちらに踵を返しながら、中村が呟く。彼が肩にかけた黒マントがふわりと揺らいだ。

 その背後では、ざんぎり頭の男が悶絶している。腹を電撃に抉られ、ほとんど意識は手放しているように見えた。

 白目を剥きながら、時折痙攣しているのは電撃の残した爪痕だろうか。



 "良かった"



 自分は助かったんだ。



 "良かった、中村さんが助けに来てくれたんだ"



 岬はぺたりと座り込んだ。

 助けられたんだ、もう安心なのだという実感が安堵となり膝を崩す。

 は、はは、という力無い笑いが口許から零れる。



「立てるかい?」



 再び眼鏡をかけながら、彼女の恩人はそっと手を差し出した。

 遠慮しながら触れたその手は、思ったよりも小さく、だけど力強くて綺麗であった。



「あ、ありがとう......ございます」



 何とかお礼を伝えたところで、緊張がどっと弾けた。




******




 いつもの場所に行ったら、飴の屋台だけが残されていた。変だなと思い、周りの人に聞いて分かった次第だ。



 それであたしが連れ去られたって分かったんですね。でも――



 でも、何だい。何で助けてくれたのか、ということか。



 はい。だって見るからに柄の悪い連中に引き立てられて、厄介事だっていうの明らかじゃないですか。なのに、中村さんはこうして来てくれて......



 理由は......幾つかある。話せる物も、話せない物もある。話したくない物もある。ただ一つ言えるとしたら、君にお返しをしたかった。



 お返し、ですか? でもあたし、何もあげてませんよ。



 そんなことはない。この二ヶ月弱、君は俺と普通に会話してくれた。馬鹿みたいに聞こえるかもしれないが、それが俺には嬉しかったんだよ。



 そんなことで......あんな危ない場所から、あたしを。



 そんなことで、だ。事の価値は人によって様々だからな。俺にとっては、重要だったということさ。ま、君が無事で何よりだった。



 ありがとうございます、ほんとに何て言えばいいのか。







 俺はね、嘘をついていたんだ。中村廉也というのは偽名でね。眼鏡も見てのとおり、伊達眼鏡だ。お尋ね者なんだよ。



 だから他人と接することを制限されている。ひっそりと、無難にしろと。息を潜めていなくてはいけなかった。だから、かな。君と話す時間は、俺にとっては楽しかったよ。



 だけど、もう品川を離れなくてはいけなくてね。どのみち年が明けたらそうするつもりだったから、君のせいじゃない。気に病む必要は無いよ。



 絵描きなんてのも嘘の一つ。右肩は捻ったのではなく、外傷でやられていたんだ。今はもう完治したけどね。偽の身分に身をやつすのはお仕舞いだ。



 とんだクリスマスになったが、俺からの贈り物だ。あの絵の道具は君にあげる。使いかけだが、それなりに上質の物だ。使うか売るかは任せるよ。



 さよなら、坂井岬さん。メリークリスマス、そして元気で。




******




 "中村さんはこれに何を描いていたんだろう"



 真新しい画布を前に、岬は思いにふけっていた。

 長屋の庭の隅に画架(イーゼル)を置き、そこに画布を置いている。

 最後に中村がくれた絵の道具ではあったが、あれから一ヶ月が過ぎてようやく触る気になった。



 あの岬の強制連行からの救出事件以降、周囲は慌ただしかった。

 島岡薬処の請求金額は、やはり詐欺による物だと後の調査で判明した。

 請求書に捺印したのは確かに岬の父ではあるが、その請求書の文面が一部精密な二重構造になっていたのだ。

 捺印した後にそこを剥がし、ありえない請求金額を突きつける。そんな全うではない薬の売り方をしていたらしい。



 今回それが表沙汰になったのは、強引に岬を連れ去ったことに加え、後日に匿名で投書が品川警察署に放り込まれた為である。

 その投書には、島岡薬処のこれまでの違法請求の資料が添付されていた。

 差出人は不明だが、岬は中村が手を回したのだろうと信じている。



 "中村さんは偽名だったんだなあ"



 不思議と驚きはなかった。元々、どこか俗世から浮いているような雰囲気があったからだろうか、岬はそれを自然と受け入れていた。

 本名を聞きたいような気もしたが、今となっては聞かなくてよかったのだろうと思う。

 不思議な人だったな、と彼がくれた絵筆を取りつつ、ほう、と息を吐く。寒空に自分の息が白く映えた。



 "ああ、そうか"



 水に溶いた絵の具に筆を浸しつつ、岬は目をそっと閉じた。

 耶蘇教のクリスマスには共に行けなかったが、もっと大きな物を自分は貰えたのだ。

 この絵を描く為の道具も、あんな目に逢いながらも五体満足である幸運も、そして自分を救ってくれた彼を想うこの心も――全てはあの青年がくれたのだ。

 嘘を重ねた、と自嘲して去っていった中村と名乗る青年は、今はどこでどうしているのか。

 それを知る術は岬には無い。



 "だからあたしに出来るのは"



 彼が助けてくれたこの人生を、思いきり生きていくことなんだろう。

 灰色に見えた自分の生活は、今この冬の寂しい陽光の下で燦然と輝いて見える。

 何者にも負けぬ、と白く輝く息吹が自分の中から湧き出るような......錯覚でも構わない。

 岬は目を開け、それを承知の上で力強く筆を手に取った。



「ありがとう、中村さん」



 目が覚めるような鮮やかな蒼が閃き、少女の前の白い画布を彩った。

 しばし自分の思うまま、岬は自由に絵筆を走らせることに没頭した。

 ほんの少し、去っていったあの優しい嘘つきに会いたいと思いはしたが、次に走らせた筆でその思いに蓋をした。



 時、明治二十一年の如月(きさらぎ)は四日の午後。

 冬の透明な寒気も陽光に和らぐ中、宿場町品川の片隅の風景であった(きさらぎ=二月)。

 次回から新章です。

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