温泉 箱根 何故か陸軍 弐
角谷三佐を角谷少佐に変更しました。失礼いたしました。
手、大丈夫。グローブに包まれた手は、冬の朝の寒気に耐えている。動かすことに支障は無い。
足、こちらも大丈夫だ。昨日はきつい演習をこなしたが、どうやら自分の体は思っていたより頑丈らしい。筋肉痛にはなっていない。
目、いける。疲労が積み重なると、視力が一時的に落ちることはある。だが、朝靄がかかっているにも関わらず、自分の目はしっかりと標的を見据えている。
呼吸、問題ない。変な咳も出ない。緊張から荒くもなっていない。脈拍も同様だ。
"よし、いける"
自分に喝を入れながら、一也はそれとなく周りの様子を伺った。
自分の他には六名いるが、いずれも揃いのカーキ色の軍服を着た男ばかりだ。警察の濃紺の制服より、土に溶け込みやすい色である。
彼らの手に握られているのは、十八年式村田銃である。一也から見れば骨董品としか思えないが、そんなことは口が裂けても言えない。
「貴官、変わった銃をお持ちですね」
「あ、はい」
不意にかけられた声に振り返った。
一也の視線が、一人の男を捉える。
他の兵士達と同じようにカーキ色の軍服に身を包みながら、明らかに雰囲気が異なっていた。
目深に被った軍帽の庇の下、どこか物憂げな視線があった。
「昨日は一日中走り詰めで、銃に注意を払う暇も無かったわけですが。こうして直に目の当たりにすると、噂はやはり本当だったようです」
ひっそりと朝靄に溶け込むような静かな口調だ。なのに、その男の言葉は響く。一也は姿勢を正し、向き直った。
「噂とは何でしょうか、角谷少佐」
「ふふ......新式の二挺の長銃を操り、横浜にて二十人の相手をたった一人で制圧した男がいると。それも出来たばかりの警視庁特務課第三隊にね」
男――角谷瑞超少佐の声は明るくも暗くも無い。
ただ、表面的には礼儀正しく振る舞ってはいるものの、どこか危うい気配がする。
一也が黙っていると、角谷は自分の持っている村田銃の銃床を掴んだ。そして無造作にその銃口をふらりと揺らす。
「その見慣れぬ銃の性能のおかげなのか。はたまた、貴官自身が余程優秀なのか。どちらでしょうね、三嶋一也巡査殿?」
「さあ、興味はありませんね。ただ一つ答えられるとしたら」
「答えられるとしたら?」
どこか挑発的な角谷の言葉に、一也は少し反発を覚えた。
多少は世間慣れしたとはいえ、まだ十九歳である。
血気盛んな部分は彼の中から消えていない。
「俺とこのM4カービン改は一心同体だ、切り離して考えようとすること自体が無意味だと思いますけどね」
「ほう、なるほどね。これは小官も認識を改めなくてはならないようだ」
一也と角谷の会話はそこで途切れた。
演習開始の号令が、指令役の将官から飛ばされたのである。
合同演習二日目、全員が同じ演習をこなすわけではなく、各自の得意分野に分かれて演習をこなす予定となっていた。
一也が配置されたのは、射撃中心の演習である。
「拝見させていただくよ、黒の銃士殿。噂に名高い射撃の腕がいかほどの物かをね」
「喋るより射撃に集中した方がいいんじゃないですかね、角谷少佐」
角谷に答えながらも、一也は動作を止めない。
訓練のため、M4カービン改のマガジンに装填しているのは、木をにかわで包んだ模擬弾である。それがきちんとセットされているのを確認しながら、ゴーグルを下ろした。
薄れゆく朝靄の向こう、五つ綺麗に横並びになった標的を視認する。
射撃モードは単発、それだけ最後に確認してからストックを右肩に当てて構えた。
チュン、という何とも表現し難い軽い音と共に、一番左端の標的が揺れた。
一也の初弾が命中したのだ。
電動式トイガンであるM4カービン改には、射撃後の排莢と装填の動作が必要無い。
命中を確認するや否や、そのまま一也は隣の標的目掛けて撃ち込んだ。これも命中だ。
余計な動作が少ない分だけ、一也の射撃は速い。そして正確だった。
全く外さず、五つの標的全てに弾痕を刻み込むまで、さして時間はかからなかった。その様子を見ていた周りが微かにどよめく。
「ほう、中々やりますね。では、良いものを見せていただいたお礼に、小官も」
「どうぞ、俺は一応終わったので」
場を譲った一也に軽く一礼し、角谷が射撃の場に着いた。迷いの欠片も見せず、彼は十八年式村田銃を構える。
重量がそれなりにあるにも関わらず、その動きには乱れが無かった。
銃が弾丸を飛ばすプロセスの中で、絶対に銃士がこらえねばならぬ部分がある。
基本事実であるが、銃とは鉛弾を少量の火薬の爆発によって飛ばす武器である。
狭い銃身の中、撃鉄が落ちて雷管を叩く。刺激された雷管は発火し、火薬を爆発させる起爆剤として機能する。その爆発力を推進力とし、弾丸が銃口から吐き出される。
つまり、極々小規模とはいえ、銃士はその爆発の反動を自分の体に受ける訳だ。
銃撃の後、まるで弾かれたように銃口が上を向くのは、その反動の弾みである。
"こいつ、安定してるな"
一也は軽く目を見張った。
銃撃に付き物の反動による体勢の乱れ、それが角谷少佐は小さい。
まったく無いわけでは無いが、他の陸軍の兵士達の半分程度しかぶれがない。それが次の射撃の安定性と、準備の速さに直結していた。
五回。
それが、角谷少佐が全ての的を撃ち抜くまでに鳴らした銃声だった。
つまり、全ての的に一発で当てている。
これを成功させたのは、三嶋一也と角谷瑞超のただ二人だけであった。自然と、他の者はこの二人に注目する。
「ふふ、やはり射撃と射撃の間において、村田銃では貴官に敵わないようですね」
軍帽を直しつつ、角谷が一也の方を向いた。
やや癖のある髪を帽子の中にしまいながら、彼は真っ向から一也を見据える。
「それって銃が同じなら、俺に負けないって言ってるのと同じだよな。随分な自信家だ」
その視線を受けながら、一也も答えた。
もはやライバル意識を隠そうともしない相手である。
ならば、こちらもいい子でいる必要も無いだろう。
「負けないとは言ってはいませんよ、三嶋巡査」
「へえ、ならどういう意図か教えてください」
「勝てる、と言っています。小官が貴官にね」
その言葉に一也の心が軋んだ。
ざらっとした砂やすりのような物質が、プライドの一部を傷付けたような気がする。
刻まれはしない、だが無視するには少々気になる掠り傷だ。
「言うね。でも演習はまだまだあるんだ、それが全部終わってからでもまだ言えるかな」
それでも怒りはぐっとこらえ、一也は平静を保った。
グリップを握る右手だけに力を込め、息を意識的に吐く。
怒るな、と自分自身に言い聞かせる。
冷静さを欠けば視野が狭くなる。二日目もまだ始まったばかりであり、しかも角谷の周りには兵士達がいる。
孤立無援状態で、妙な対立を煽るのは危険だった。
一也の反応に、角谷は「正論ですね、結構」とだけしか反応しなかった。
逃げたか、あるいは秘めた自信の現れか。それを確かめる術は、一也には無かった。
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射撃の演習は立射だけではない。
地に腹這いになった状態から撃つ伏射、走りながら撃つ走射、その場で体の向きを次々変えながら撃つ複射等、同じ射撃といっても状況によって姿勢が変わる。
今回の演習項目は、こうした色々な射撃の状況を想定した物だった。
"サバゲーやってた時は、あんまり意識はしなかったけどさ。いざ正式に訓練受けると違うもんだな"
順調に演習項目をこなしつつも、一也は改めて思う。
一也がやってきたサバイバルゲームでは、止まった相手を撃つ訓練などはしない。
フィールドに出る前のウォーミングアップとして、何発か試し撃ちする程度だ。
流石に大学の部活では、静止状態からひたすら的を狙うだけの基礎訓練は無かった。
確かに当てることは出来る。
実戦にほど近いサバゲー経験者だからこそ、止まっている的を狙う事は普段より容易だ。
速度の差はあっても、ある程度動き回る人間に比べれば楽ではある。それでも、演習から学ぶべき点はあった。
"たまにはこうして基本に立ち返るのも悪くないね。基礎固めっぽくてさ"
M4カービン改の引き金に指をかけながら、他の演習参加者の姿勢を伺う。
盗み見といってしまえばそれまでだが、良くも悪くもサバゲーに慣れた一也の目には新鮮であった。
見る、自分の中に落としこむ、いい部分は取り込む。演習をこなしながらも、目に映した物を自分にフィードバックさせていく。
「ふう、中々厳しい」
「そうですね、でも楽しくないすか?」
一也の反応に、独りごちた兵士は黙りこんだ。何と答えるべきか、迷っているようだった。
「寒いし、いい加減腕も疲れてきたけど、でも俺は楽しいですよ。皆さんとこうやって演習出来て得る物もあるし」
「警察官にも、色々な人種がいるものですな」
小さく笑って、その兵士は銃を膝の上に置いた。今は演習合間の休憩時間だ。
「俺は第三隊でも射撃専門なんで。他の人は違いますけどね」
「ええ、知ってはいる。だが、こうして実際に目の当たりにすると――お若いな」
「十九歳です。来月、二十歳になりますね」
ケーキくらい買うか、と一也はちらりと考えた。
だが、そもそも売っているのか。そして、一緒に祝ってくれる人がいるのだろうか。
へこみそうになったので、気持ちを切り替える。
「ほう、いや、その若さで大した腕です。二十人を相手にしたというのも、満更誇張ではないのかな」
「ああ、やっぱり嘘か、あるいは冗談だと思われてます?」
「正直に言うと、最初に聞いた時は信じがたかったですね。今はあり得るかもしれない、と思っている」
「......なるほど」
そう来たか。
この陸軍の兵士は、特に悪意はこちらに持っていないように見える。
にもかかわらず、それでも半信半疑らしい。実際に一也の実力を演習を通して見てもである。
角谷少佐とのやり取りで残ったしこりが、再び首をもたげそうになる。
"そういえば、あいつどういう奴なんだ?"
ふと興味が沸いた。雑談として聞いてみるのも、悪くはないだろう。
「角谷少佐のこと、ちょっと聞いてもいいですか。俺、初めて見ましたが上手いですよね。射撃姿勢も安定しているし、繋ぎの動作も速い」
「ああ、少佐ですか。そうですね、まだお若いですが、こと銃撃については熟練者ですよ。亜米利加に短期留学された程です」
「え、それって射撃手としての訓練の為に?」
「だけではないでしょうがね。複数の候補者がいたんですが、九留島子爵の推薦があったと聞いて――」
そこまで話したところで、兵士は急に口を閉じた。表情が固くなっている。
「失礼、少々喋り過ぎました」と一方的に会話を打ち切り、その兵士は立ち上がった。
どう見ても様子が妙である。
"何だよ、急に?"
確かに休憩も終わりに近づき、お喋りに興じている訳にもいかなかったのだろう。
だが、それにしても唐突過ぎはしないだろうか。一也が思い当たる節はただ一つだけだ。
"九留島子爵、ねえ。軍部の重鎮なのかな"
警察関係者なら多少は知己もいるが、一也は軍部には疎かった。当然、九留島なる人物も知らない。とりあえず重要ではないと判断し、それより目の前の演習に集中することにした。
"得る物はある"
自分なりに馴染んではいたが、射撃姿勢の修正が必要だろうか。少なくとも、検討の余地はあるかもしれない。
"そして、それとは別にだ"
腰を上げ、次の演習項目へと向かう。
一也からやや遅れて、角谷が歩いていた。
互いに意識はしなくとも、この少人数なら嫌でも何をしているかは把握出来る。
そして、一也の中のどことなく面白くないという思いが消えない。
"俺は軽視されているのか"
平凡な構成員とはいえ、二十人を相手にして横浜で勝利したのは事実である。
誇張はしたくないが、事実は事実として認めてほしかった。
角谷にしても、他の兵士達にしても所詮は警察と舐めているのかもしれない。
笑ってやり過ごせ。
勝手に言っていろ。
むきになるのは大人げない、実力を見せつけて黙らせればいい。そう思っていた。
午後になり、その日の演習も七割は消化した頃、その一言を聞くまでは。
「お見事ですね、三嶋巡査。だが演習では上手くいっても、実戦は違うということは認識した方がいいですよ」
「は?」
傍らを通り過ぎざま、角谷がかけた一言。それを無視出来るほど、一也は人格者ではなかった。
「鳴り物入りで創設した第三隊の名誉の為に、神戦組事件の解決はことさら大袈裟に虚飾された。良くあることです。だからそんなにむきになって」
戸惑う一也に構わず、角谷は囁き続ける。
その物憂げな視線とは裏腹に、一言一言が毒となって耳に忍び込んできた。
「自らの力を示そうと、しゃかりきにならなくてもいいんですよ。演習でいくら頑張ってもね」
「――御託はそれだけか?」
一也の声が低くなった。
これは明らかな侮辱だ。それでも安い挑発に乗ってはならない、と最後の理性が抵抗する。
だが結局は無駄だった。
「ふふ、意地になる必要は無いですよ。貴官は確かに頑張りはしたのでしょう。ただ、それを上手く誇張されただけです。組織の見栄の為の宣伝として」
「へえ、そうかよ。そこまで言ったんだ、覚悟は出来ているんだろうな」
自分の中で何かが切れた。
薄い笑いを浮かべた角谷を睨み付ける。
そこにあるのは、怒りであり憎悪である。自分だけではない。戦った神戦組の者達を含めた全ての者を、この男は貶めたのだ。
偏見で見下すにも程があった。
揉めごとと判断したか、指令役の将官が割って入る。しかし、双方もはやそれで収まるつもりは無かった。
肩を抑えられながらも、一也が言い放つ。
「あんたの言う通りだ、角谷少佐。演習でいくら勝ろうが何の証明にもならねえな。その代わりにさ」
「何でしょうかね」
「よさんか、角谷少佐。貴官、合同演習を何と心得る?」
将校の制止を、視線一つで角谷は抑え込んだ。
「ちょっとした演習の演出ですよ。気に病むことではありません」と涼やかな顔でのたまう。
不意に吹いた北風が、彼のカーキ色の軍服をはためかせた。
その冷たい風に、三嶋一也が決意を乗せる。
「演習最終日に、模擬弾使った対人勝負が組み込まれていたはずだ。そこで叩きのめしてやる」
「なるほど、男らしく一対一で実力勝負と」
「いや。そっちは六人でいい、この場にいる全員まとめて相手で構わない」
「......正気ですかね、三嶋巡査」
初めて角谷の声が真剣味を帯びた。
気だるさはもはやない。そしてそれに合わせるかの如く、射撃演習に参加していた残り五人の兵士も顔を強張らせる。
いずれも陸軍遊撃部隊に選抜された強者である。
角谷を含めた六人がかりでいいとまで言われて、何も思わぬような腰抜けではなかった。
ザッと軍靴が音を立てた。
それまで一也と角谷を眺めていた五人が、角谷の方へ一斉に動いたのだ。
二人を止めていた将官も諦めたのか、数歩その場を下がる。
「よろしい、その挑戦受けて立ちましょうか。あまり陸軍を舐めると、後悔する羽目になりますよ」
「こっちの台詞だ。場数の違いを分からせてやるさ」
二人の間の空気が凍る。
銃士同士の譲れぬ物がぶつかり合い、異なる組織のささくれが水面下で刺さり合う。
冬の箱根山中にて、不穏な空気が満ち始めていた。




