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傍話 明治十八年邂逅録 参

「奥村君、止めなくていいのか。いくらなんでも、藤田警部の相手は無理だろう。怪我する前に止めさせた方がいい」



「んなこと言うても今更無理やで。ヘレナさんだけやのうて、あちらもやる気になってもうてんもん」



 顔をひきつらせる二条に、順四朗は諦め気味に答えた。

 そう、もはや自分が割って入る隙など無い。二人の間の緊迫した空気、それが何よりの証拠である。

 いきなりこの道場最強どころか、帝都東京最強の称号を持つ藤田五郎こと斎藤一に喧嘩を売る。

 その暴挙に出たヘレナに対し、周囲の視線は冷たい。「異国の人じゃ知らなくても無理は無い」とでも言いたげに、ほとんどの者は小馬鹿にしたような顔であった。



 "そら、普通に考えたらそうやけどな"



 順四朗とて信じられぬ。

 いくらヘレナが素質があるとはいえ、今日初めて竹刀を握ったばかりなのだ。

 斎藤の剣は、修練に修練を重ね、尚且つ実戦経験を上積みした物だ。天賦の才だけでどうこう出来る物ではない。



「二条さんはどっちが勝つ方に賭けるよ?」



「賭けなど不謹慎だろう......敢えて賭けるなら、藤田警部。それも圧勝だよ。手加減くらいはしてくれるとは思うがね」



「さいですか。そしたら己はヘレナさんに賭けるわ」



「正気かね?」



「半分だけな。後の半分は、お目付け役としての身内贔屓や」



 事も無げに言い放ち、順四朗はヘレナの方を見た。

 お手伝いの手を借り、ヘレナが防具を身に着け終わったようだ。斎藤の黒い剣道着とは対照的な白い剣道着姿が眩しい。

 面の隙間から覗くその顔は、少しも恐れなど抱いてはいなかった。



「警部を前にして、あの冷静さは大した物だがね」



「まあ、正直きついとは思うけど、それでもな。なんかやってくれそうな気がすんねん、あの子やったらな」



 順四朗の言葉に、二条はただ「うむう」と唸っただけであった。

 その間に、ヘレナと斎藤が向かい合う。こうなれば試合が終わるまでは、もうどうにもならない。

 順四朗、二条、そして周囲の全ての人間の視線を集める試合が、間もなく始まろうとしていた。







 剣道の面に取り付けられた格子越しに、ヘレナは斎藤の様子を伺う。

 歳の頃、四十余りか。

 体力的には全盛期とは言えないだろう。毎日のように新撰組で剣を振るっていた幕末よりは、剣術も多少は落ちているだろう。

 だが、それを以て侮れる相手ではない。



「どうしたかな、お嬢さん。かかってこないのかい」



 斎藤の声が響く。

 その視線が自分の一挙一動を捉えているのを感じつつ、無言のままヘレナは自分の左に動こうとした。

 即ち、斎藤の右。順四朗を一撃で降参せしめた、あの激烈な突きを警戒しての動きだ。



「ふむ......筋は悪くない。動きの狙いもな。だが、甘いっ!」



「ちっ!」



 火蓋が突然落とされる。

 ゆらゆらと竹刀を揺らしていた斎藤が、いきなり仕掛けたのである。間合いを掴ませない構えから、一気に踏み込んでの面。

 これをヘレナは竹刀で受ける。腕全体にかかる重く鋭い一撃を、渾身の力で押し戻した。

 まさか受けられるとは予想していなかったのか、周囲からどよめきが上がる。



「これしきで仕留められると思うな!」



 飛び込む。

 果敢に相手の手首を狙う。

 両手で竹刀を持つ構え故、手の周辺は竹刀による防御が難しい。

 それを見抜いたヘレナの一撃は、しかし、あっさりとかわされた。

 受けられたのではない。足捌きだけで避けられたのだ。



 "こうも簡単にだと"



 左。ヘレナの目が(はし)る。視界の隅から自分を狙った竹刀、それが斜め上から打ち落とされる。

 袈裟切りに近いかと見抜いた瞬間には、自分の竹刀を横に倒しこれを見事に受けていた。

「はあっ!」と自然に気迫に満ちた声が出る。体の中で血が暴れそうな錯覚を覚えた。



「お、おいおい、あの独逸(ドイツ)から来たとかいう子、凄いな」



「一度ならず二度までも、藤田警部の攻撃を受けている!?」



 どよめき。それが微かに耳を叩く。すぐに意識の外に飛ばす。

 そんな暇は無い。

 雑音に耳を傾ける一秒が、即座に試合を決める一撃を許す。

 その領域の戦いに、今自分は身を浸しているのだ。

 速度を上げろ。自分の最高速まで、ぎりぎりまで脚力を、身のこなしを、剣速を引き上げろ。

 それを以て初めて、ようやくついていける程の相手だ。



「ふふ、中々楽しませてくれる」



 だが、それでも。



 ヘレナが、自分の持てる最高速の領域に突入しても。



 この男はしっかりと動きを見定めてくる。



 ととととっと軽い連続音が道場の床板に鳴り、ヘレナの姿を視認することが難しくなってすらいるのにだ。

 一本調子で右、あるいは左に回るのではなく、小刻みに拍子を変化させ、前後左右に幻惑しようとしているのにだ。



「惑わされないか、流石は新撰組最強と謳われただけはある」



「剣道の常識にはまらない、西洋式の足捌き――中々に見事。だが、所詮は小細工に過ぎん」



 ヘレナが精緻に築いた守りの間合い、そこへ無遠慮に斎藤が踏み込む。

 ほぼ反射的に、ヘレナは面を叩き込んだ。だがそれがあっさりいなされる。続く右からの胴も流された。

 舌打ち一つ、打ち終わりに方向転換して斎藤の反撃を封じるのが精一杯であった。



 端から見れば一進一退の攻防である。

 だが、順四朗には分かっていた。ヘレナが既に全力近くまで力を振り絞っているのに対して、斎藤はまだ余裕を残していることが。

 先程、自分が試合をした時に竹刀を交わしているからこそ、現時点の斎藤の本気度は大体把握出来ている。



 "地力ではやっぱり斎藤さんなのはしゃあないか。ヘレナさんもこれで終いってわけやない、と思いたいけど"



 激しい攻防から一転、二人は構えたままである。

 竹刀と竹刀の間は僅か一尺に過ぎず、その極近い間合いが互いの神経を削り合っていた。

 瞬発力を考えれば、斎藤もヘレナも瞬きの内に切りかかることが出来る。



「予想を遥かに上回る......信じられんな」



「せやね。剣道自体は初めてでも、動き自体はものごっついわ。物が違うわな」



「であれば、番狂わせがあると見るかい」



 二条の問いに、順四朗は即答した。



「難しいやろ。元新撰組三番隊組長、その引き出しはまだあるやん。全く勝機が無いとは言わへんけど」



 本音であった。

 乱戦の中で培った乱撃も、得意の左手の片手平突きも、斎藤はまだ見せていない。

 いかにヘレナが逸材とはいっても、常識的に考えればそれを凌げるとは思えなかった。

 ヘレナにこれ以上の奥の手、あるいは策が無ければここまでだろうか。






 静から動へ、二人の間の緊張が弾ける。

 仕掛けたのはヘレナである。ふわりと揺らめくような動き、左からの小手。

 斎藤はそれを難なく避けるが、ヘレナは回避そのものを計算に入れていた。最初の踏み込みが着地すると共に、床の反発すら利用して更に踏み込む。

 腕の長さでは自分が不利、それを埋める為の接近戦だった。

 右からの面、それが受けられるや、切り返しての下段切り、更には突きと次々に技を繰り出す。

 けして温い攻撃では無い。

 返し技を警戒する程の余裕も無い。

 自分が持てる全てを引き出しての猛攻なのに――崩せない。



 "これでも駄目なのか"



 反転しての勢いに乗った左胴、これもあっさり受けられた。

 のみならず、斎藤にはね飛ばされる。

 あわや、壁近くまで後退を余儀なくされた。

 慣れぬ竹刀を握る手は痺れかけており、上手く力が入らない。



「いい攻撃だったよ、お嬢さん。とても今日が初めてとは思えない。見事な物だ」



「それはどうも」



「ここらで降参したらどうかね。貴女はよくやった。ここで退いても誰も笑いはせん。潔く負けを認めるのも、一つの綺麗な引き際だと思うがね?」



 斎藤の降伏勧告を、ヘレナは無視した。ただ竹刀を突き出し、自分の意志を示す。



「生憎諦めが悪くてな。勝利の可能性は最後まで追うのが、私の主義だ。まして自分から仕掛けた試合だ、自ら退くなど有り得ないのさ」



「......なるほど、女と見て侮った俺が間違いだったか。ならば」



 ヘレナの心臓が一つ鳴った。

 斎藤の構えが変わる。

 そうだ、先程順四朗との試合で見せたあれだ。来ると分かっていながらも回避出来ない、あの左片手平突きが来る。



「これで決めてやろう」



 狼の牙が唸りをあげた。






 回避も不可、防御も不可。

 絶対的な速度と威力を秘めた一撃を前に、取れる手段は殆ど無い。

 だが、全くの零でもない。ヘレナが取った手段は、その場の全員の予想を斜め上に裏切った。

 無理に立ち向かえば、間違いなくやられる。

 それならばと唯一空いた空間、即ち後方へとヘレナが跳んだのである。



 だが斎藤は狼狽しない。

 獲物が後ろに逃げたなら、更に前進して突きで捉えればいいだけのことである。

 まして道場には壁がある。ヘレナは自ら追い込まれにいったようなもの――そのはずであった。



「何っ!?」



「貰った、斎藤一!」



 まさか、と誰もが目を疑った。後方の壁を蹴りつけ、ヘレナはその反動で斜め前へ飛んだのである。

 真っ当な剣道の作法では有り得ない、曲芸めいた動きだった。

 二段目の突きで、斎藤の速度は落ちている。そこへ目掛けて、道場の天井近くまで舞い上がったヘレナの渾身の一撃が叩きこまれた。




******




「今思うとやなあ、やっぱり止めておくべきやったと思うんよ。まさか、あそこで壁蹴って攻撃するなんてなあ」



「またその話か、もういいだろ、時効だよ時効」



 ぼやく順四朗の顔をちら、と見ながら、ヘレナは天麩羅にかじりついた。

 二年前とは異なり、今は箸を使うのもお手の物である。「相変わらずここのかき揚げは最高だ」ともぐもぐやっている姿は、とても独逸(ドイツ)人とは思えない。



「いいところで話は切られた訳ですが、結局試合はどうなったんですか?」



「おー、そやった、肝心の所を話してなかったな」



 ここ、日本橋のとある天麩羅屋のお座敷で卓を囲むのは、ヘレナと順四朗だけではない。

 三嶋一也と紅藤小夜子も同席している。

 もっとも小夜子は天麩羅に集中しているため、昔話の途中で合いの手を入れてくるのはほとんど一也だけであった。



「意表を突いた空中からの一撃やったけど、それ防がれて返しの胴入れられたんや。つまり、隊長の一本負け」



「話聞く限りは惜しいとこまでいってたみたいですが、やっぱり負けかあ」



「ああ、確かに強かった。むしろ竹刀ではなく、飛び蹴りでもかましてやればよかったかもしれない」



 一也の感想に、ヘレナが真顔で答える。それを聞いた順四朗は目を剥いた。



「何言うとんの、隊長の蹴りで道場の壁に穴が開いてやな、あの後大変やってんで! 本庁のお偉方にはえらい叱られるし、二条さんにも謝らなあかんかったしな!」



「男が小さいこと言うなよ。斎藤氏だって私の善戦を誉めてくれたじゃないか。もっと世の中を広い目で見ろよ、順四朗」



「そうですよ、順さん!」



「それは小さなことを必死で片付けてから言うてや、隊長! あと、小夜子ちゃんに順さん言われる筋合いないねん!」



「怒ると禿げますよ、順さん」



「禿げへんわ、あと一也んに順さん言われるんも好かんねんけど!?」



 順四朗は両手で顔を覆った。

 何故自分はこうも年下にいじられているのだろう、何か悪いことをしたのだろうか。

「まあ、気にすんなよ」とヘレナが酒を注いでくれたが、そもそもあんたが悪かったんだろうと言いたくもなった。

 賢明なので、口には出さないだけである。



「けど、ヘレナさんが日本に来た時はそんなに大人しかったんですねー。今と違いますねー」



「何を言ってるんだ、小夜子君。私は今も昔も変わらず、大人しくて可愛いと思うんだがな。異論は認めない」



「隊長の場合は凛々しくて格好いいんじゃ――いえ、すいません、はい」



 小夜子に答えつつ、ヘレナが一也の突っ込みを視線だけで封殺する。

 その三人を眺めつつ、順四朗はふっと表情を緩めた。

 あの時、三ヶ月だけ面倒を見た独逸(ドイツ)からの魔女は、今こうして自分の居場所を見つけて一人の人間らしく笑っている。自分を隠すことなく、部下を率いて生き生きとしている。

 彼女がそうなるまでの一助を担えたとするならば、己を少しは誇ってもいいのかもしれない。



 "再会した時は、こない男勝りになっとるとは予想してへんかったけどな。びっくりしたわ"



 この春、第三隊の結成時に順四朗はヘレナと再会した時のことだ。

「やあ、久しぶりだな、順四朗。元気にしていたか」と腕組みをしていたヘレナの姿には、自分の後をついてきていた少女の面影はまるでなかった。



 ほんのちょっと、それが寂しく。

 また、ほんのちょっと、それが嬉しかった。

 このことは他の誰にも話していない。



「でも、ちょっと見たかったですー。順さんて言いながら、おしとやかに笑うヘレナさん。すごく可愛らしかったんだろうなー」



「しかも日本語片言なんですよね。こう、あれですね。萌えって奴ですよね」



「も、萌え? 三嶋君は時々良く分からない言葉を使うな」



 小夜子と一也のからかい半分の賛辞に、ヘレナは少し決まり悪そうであった。

「ほな、ぼちぼち今日はお開きやな。秋の夜長いうても、深酔いは体に毒やで」と順四朗が声をかけ、会計を済ましに立ち上がる。



「悪いな、順四朗。いつも気を利かせてもらって」



「はっ、当たり前のことしとるだけやで。昔も今もな」



 ヘレナの方は振り返らないまま、順四朗は小さく唇の端に笑みを滲ませた。

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