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傍話 明治十八年邂逅録 弐

 順四朗がヘレナのお目付け役に選ばれた理由は、実はよく分からない。

 護衛も兼ねる以上、それなりに腕が立つことは絶対条件である。それに加えて、人柄や異国人に対して理解がある――少なくともそのように見える、という点が考慮されたのかもしれない。



 とにもかくにも、ヘレナが来日してから、順四朗はそのお目付け役を懸命にこなしていた。

 来日から三ヶ月はいわば彼女の日本への順応期間であり、それが終われば順四朗は元の業務へ戻るのである。

 周囲から姫に仕える従者のようだ、と時折揶揄されるのは嫌ではあったが、期間限定ならばそれも笑ってやり過ごせた。



 お目付け役とはいえ、ずっとべったりという訳でも無い。朝、ヘレナが寄宿する警視庁近くの洋式に設えた個人寮に迎えに行き、そのまま本庁へと案内する。

 午前中は、ヘレナは日本語教師と語学の授業であるからだ。その為、順四朗は特定の仕事はない。午後から夜までが彼がヘレナに付き添う時間なのだ。

 その日の都合にもよるが、主に今日明日の予定を組んだり、ヘレナに用がある他部署と面会したり、経費精算をしたりといった細々した用事をこなしていた。



「異国の女性(にょしょう)を接待するのは大変だろう、奥村巡査長」



「そらまあ、たまにはこっちの言うことが通じへんからいらっとすることもあるけど。大変てほどでもないなあ」



 ある日、何人かの警察官と立ち話をした時に、そのような話題になった。

 順四朗があっさりと答えると、妙に感心された。



「はあ、凄いのう。俺達なんか異国人てだけで萎縮してまうからのう」



独逸(ドイツ)って聞いても、そもそもどこにあるかもよう分からんしな。亜米利加(アメリカ)より遠いんか?」



「魔女ってのは日本で言う呪法士と聞いてるが、睨まれただけで石になったりしないんか」



 多分、悪気は無かったのだろう。

 しかし最後の一言だけは、順四朗の気に障った。たしなめるような口調で反論する。



「あんな、自分らが異国の人に慣れてへんのも分かるで。上層部(うえ)がわざわざ欧州から呼んできたのがおもろない、と思うのも理解出来るわ」



 一息つく。

 自分の中に小さな火種が生まれているのを、順四朗は自覚した。



「けどな、あの子やって普通の人間やぞ。見ただけで人が石になるなんて、そんな訳ないやろ。それとも自分ら、一人で異国に放り込まれて右も左も分からん状況でやな、そんな人外の化け物扱いされて嬉しいんかい」



 無性に腹が立った。

 常の自分らしくもない、とは思ったが、気がついたら口を開いていた。

 順四朗は知っている。時折ヘレナがどこか遠い目をして、ため息をつくことがあるのを。周囲からの好奇の視線が煩わしく感じるのか、外出の際には帽子を目深にかぶっていることを。

 来日してから二ヶ月が立ち、日本への物珍しさに対する好奇心が減ったらしい。

 その代わりに、母国との差異に苛々を感じているように順四朗の目には映った。



「あ、いや、すまない。そのようなつもりは無かった。言葉の綾というか、申し訳ない」



「......己もちょっと気立ってし、ええです。すんません」



 何となく気まずい雰囲気になり、順四朗は席を外した。

 胸の奥に何やらもやもやとした苦い物を感じつつ、足早にその場を去った。

 本庁の廊下を歩きつつ、外を見る。窓は開け放されており、庭で初等訓練を受けている新人警官らの声が聞こえてくる。

 元気のいい声に背中を押されるようにして、順四朗は気持ちを切り替えた。



 "そや、ええこと思いついたわ。たまには己も体動かさんとあかん。ヘレナさんも連れていけばええし"



 多分、面会の約束無しにいきなり行っても大丈夫であろう。

 くさくさした気分を発散させねば、体の何処かに澱みそうであった。




******




 その場の空気が張り詰めていた。

 冷や汗をかかせるような、嫌な張り詰め方ではない。

 ぴんと細い糸を伸ばし、それが切れる寸前を見極めるような――自分の神経の限界を試すかのような、そのような空気である。



 順四朗に連れてこられたこの場所は、屋内にも関わらず広い。

 板張りの床は清潔に磨かれている。ダンスホウルくらいにはなりそうな、長方形の部屋だった。壁も同じような板張りである。

 奥の方を見れば、ヘレナには読めない漢字で文字が書かれた白い紙がぶら下がっていた。

 確か、掛け軸と呼ぶんだと思い出す。



「ここな、道場やねん。どうじょう」



 順四朗がゆっくりと発音しながら、室内を見渡す。

 何人かがそこに座っていた。

 せいざ、と呼ばれる足を折り畳んだ奇妙な座り方である。

 だが、皆黒っぽい袴と同色の着物を着込み、その上から鎧のような物を着けている。胴体だけを保護するような鎧だ。

 そして彼らが座る傍らには、たけと呼ばれる植物による剣らしき武器が転がっていた。



「ここは何をするところ?」



「そやな、分かりやすく言えば剣術の鍛練する場所や。あの竹の棒あるやろ。竹刀、しないて呼ぶんやけどな。防具を着けた上で、あれで切ったり突いたりしあう。剣道って言うねん」



「けん、どう」



 順四朗の言葉を繰り返しつつ、ヘレナはその場にいる人達を観察した。

 順四朗が連れてきた、ということはここは警視庁関連の場所なのだろう。だからすんなりと入れたのだ。

 しかし、ここで何をするのか。視線だけで問うと、答えはすぐに返ってきた。



「あっちに手伝いの女性おるから、着替えさせてもらい。これ、やるやろ?」



「私もやっていいの」



「勿論。剣道は警察官の必修や、遅かれ早かれやらなあかんしな。それにたまには思いきり体動かしてみ。すかっとするで」



 そう勧められたならば、やる気も出るという物だ。

 言うまでもなく、魔術師であるヘレナは遠距離攻撃を得意とする。

 だが、けして接近戦も下手ではない。

 そしてそれ以上に、最近自分ではっきり分かるくらい鬱々としている。

 順四朗が勧めるように、竹刀とやらを存分に振るってすっきりしたかった。



「分かった。ありがと、順さん」



「よし、ほな着替えて出てきたら、皆と同じように並び。直に始まるわ」




******




 キュキュッと裸足の足裏が床を鳴らす。

 少し手と手を開けて柄を握る。

 個人個人によって癖はあるらしいが、まずは基本通り真っ直ぐに打ち込むことが重要らしい。

 力任せに握ってはならない。むしろ、緩く手の中で遊ばせるようにだ。



 "包むように持てばいいかな"



 肩の力を抜きながら、意識的に息を吐く。無駄な力が体から抜けた気がした。



「そう、そうです。上手い上手い。筋がいいですね」



 指導役の年輩の男に褒められ、ごく小さく頭を下げた。

 立ち方、竹刀の握り方、構え方、そしてただ真っ直ぐ真上から振る。ヘレナが教わったのはこの四つのみである。

 だが、どうやら飲み込みはかなり速いらしい。



独逸(ドイツ)でもやっていたので。剣道ではないですけど」



「ああ、それでですね。なるほど、道理で構えが堂にいっている訳だ」



 驚かれる程のことかな、とは思う。

 だが、良い意味で驚かれるならば悪い気はしない。

 自分の中の良い気分を、そのまま素直に竹刀に伝える。力を抜いて頭上に持ち上げ、そこから竹刀自体のしなりを利用しながら一気に振り切る。

 指導役の男が息を飲むのが分かった。



 "少し分かった。無駄な力を入れては駄目"



 重さと力で叩き切る西洋剣とは違う。

 ヘレナが好んで使う、光系統の魔術で形成する闘光剣(リヒトデーゲン)とも異なる。

 あれも基本は西洋剣と使い方は同じだ。

 魔力の放出を調整することにより、刃の長さや破壊力を加減出来る点が違う程度に過ぎない。



「緩く握った方が上手ね。遅いから速いが重要」



「言うは易し、行うは難し。それが剣道なのです。はあ、それにしても......奥村君、やはり逸材はどこの国にもいるなあ」



「そらそうやろ、二条さん。ヘレナさん、滅茶苦茶腕利きやねんで。いくら竹刀持つんが初めてでも、飲み込みは速いわ」



 打ち込み稽古を一段落終えて、順四朗が会話に加わる。

 二条と呼ばれた指導役の男は「こりゃ、俺なんか及びもつかんかもな」と笑った。気持ちの良い笑顔であった。



「順さん、稽古どうなる?」



「ああ、今から試合形式で打ち合うねん。ほら、皆、面や小手着け始めたやろ。ここからが本番やからな」



「分かった。ところで、あの一番奥にいる人、誰?」



 先程から気になっていた男がいた。

 二十人以上もの参加者の気配が満ちるこの道場で、ただ立っているだけで異様な剣気をほとばしらせている。



「へえ、やっぱ分かるんやな」



「はい。別に特別なことしなくても――あの人が一番強い」



 ヘレナは確信する。その青緑色の目が捉えているのは、背の高い痩せた男であった。

 格好が他の者と異なる訳ではない。普通の剣道着の上下に身を包んでいる。だが、その細く鋭い目は道場には似つかわしくなかった。

 年若くして実戦を重ねていたヘレナには分かる。

 あの目は、あの雰囲気は、実戦で人を斬り殺してきた者にしか備わらない。

 それも一度や二度では無い。



 見る――丁寧に後ろに撫で付けた髪から、前髪が数本ぱらりと額に落ちている。

 頬骨が高い。どこか西洋人めいている。

 他の者と打ち込み稽古をしていたが、全く危なげなく相手の攻撃を捌いていた。

 そして自分からは一向仕掛けようとはしていない。



「分かりますか、初見でも」



 ヘレナの視線の行く先に気がついたか、二条が話しかけてきた。その実直そうな顔には、畏れと敬意が浮かんでいる。



「剣を持つという条件下なら、あの人は、多分日本で最も強い。昔も今もね。名は藤田五郎、麻布警察署詰外勤の警部ですが......幕末を知る者ならば、こう呼ぶ」



「元新撰組三番隊組長、斎藤一。京都を血に染めた壬生の狼の中でも、最強を噂された男やで」



 二条の後を継ぐように、順四朗がヘレナに説明した。

 訪日前に幕末の歴史を習っていたので、微かにその名には覚えがあった。

 京都を舞台に倒幕派と血みどろの抗争を繰り広げた、無頼の人斬り集団が存在していたと聞いている。

 そう、確かそれが。



「シンセングミ、そしてあの男が」



 桜色の唇を小さく開き、その名を紡ぎ出す。ハジメ・サイトウと。








 試合形式の稽古になると、道場の雰囲気はそれまでの物と変わった。

 それは剣道は初めてのヘレナでも分かるくらい、明らかな変化であった。

 素振りや足捌き、体捌き、打ち込み稽古なども激しい稽古ではあった。竹刀が空を切り裂き、稽古を積む者達の鋭い呼気が響く。

 だが、やはりそこは申し合わせた稽古である。いかに激しく本気であったとしても、型に合わせた稽古の領域は出ない。



 "でも、これは違う"



 行儀よく道場の隅に座りながら、ヘレナは目の前で展開される光景を注視していた。

 先程までとは違い、皆、肩口まで裾の広がった兜、そして肘近くまで覆う小手を着けている。

 兜のことは面と呼ぶとは、順四朗が教えてくれた。

 その完全武装した者同士が、独特の気合いの声を響かせながら竹刀を交えている。



 "試合だから、申し合わせは無い。武器が切れないだけで、これは戦いなのだ"



 剣術の修練を安全に効率よく積む、その為の竹刀であり防具である。

 廃刀令が告知され、実際の刃がついた武器は庶民の間から姿を消している。

 その中で、侍の技を伝える為に編み出されたのが、この剣道という武芸らしい。



 所詮は実戦ではない、と馬鹿にするのは簡単だ。



 所詮は修練の為の武器と技だ、と思うのは簡単だ。



 だが、こうして見ている限り、ヘレナには日本人が脆弱な民族とはとても思えなかった。

 命の危険が無い為、より思いきって打ち込むことが出来る。

 落命の恐怖を感じる必要もなく、無心に竹刀を振るい技を磨くことが出来る。

 練習試合とはいえ真剣にぶつかり合う参加者達の気迫は、まさに戦いのそれであった。

 互いの命を奪う必要の無い、健全で気持ちの良い戦い。



 "これはこれでいいものです"



 ぴん、と背筋を伸ばしたヘレナの視線の先で、勝敗が決した。「面あり、一本!」と審判の声が響き、今まで打ち合っていた二人が礼をして下がった。

 間を置くことなく、次の者が前に出る。ヘレナの見知った顔であった。



「いやあ、緊張するなあ。こんな大勢の前で、しかも大先輩が相手やなんて」



 飄々とした様子はあくまで崩さず、奥村順四朗が立つ。その何気ない動作一つにしても、既にこの男が臨戦体勢にあるのは明らかであった。



「大先輩なんて微塵も思っていないのだろう、奥村君。ま、お手柔らかに頼むよ」



 順四朗の相手をするは、あの男。元新撰組三番隊組長、藤田五郎こと斎藤一であった。

 順四朗とほぼ同じ六尺前後の身を揺らし、道場の真ん中に立つ。まだ構えてすらいないのにその体から放たれる気迫に、思わずヘレナは身構えそうになった。



 "見せてもらいます。日本最強と言われたその剣術を"



 座したまま、ヘレナはその剣気を受け止める。

 他の参加者もぐるりと道場の壁に沿い、二人を囲むようになった。「どちらが強いかなあ」という誰かの呟きが漂い、消える。

 皆が見守る中、順四朗と斎藤の二人が対峙する。正座した状態で一礼、竹刀を構え、そこから立ち上がるまでの所作は流れるが如く。



「始めっ!」



 審判の声が響いた。








 強い。これ程までに強かったのか――ヘレナは瞠目した。

 日本に着いてから、護衛兼付き人として、奥村順四朗にはよくしてもらっている。

 無論、剣術の腕も相当だとは分かってはいた。

 だが、今こうして彼の剣技を目の当たりにすると、自分が見てきたのは極一部に過ぎないのだと分かった。嫌でも分からされた。



 竹刀とは思えぬ鋭い斬撃が舞い、それを支える足捌きも見事である。

 一見動きが地味に見えるのは、無駄な動きを極力省いている為だろう。

 時に小さく小手を狙い、時に大きく面を狙う。

 その上で防御も疎かにはしない。

 今の自分に何が出来て何が出来ないかを把握し、その上で最高手を積み上げている。



 "そうか、これまではそれを見せる必要が無かったから"



 ヘレナは順四朗の剣技を思い出す。

 東京の実態を知ってもらうという名目の為、何度か順四朗はヘレナを外へ連れ出していた。低級霊や死霊憑きなどを相手に「こういうのがうろちょろしとんねん」と順四朗はぼやきつつ、その愛刀を振るって撃退していたのだ。

 勿論、手を抜いていたわけではないだろう。

 だが、その全力を振り絞る程でも無かったのだろう。

 今、ヘレナが見る順四朗の剣に比べれば、あの時のそれは数段落ちる。



 真剣と竹刀の差があるため、並列に比べることは難しいのかもしれない。

 しかし、それでも尚、順四朗の剣捌きは一流と呼んで全く差し支え無かった。



 "だが、それでも崩せないとは"



 ヘレナが目で二人の動きを追う。

 鍔迫り合いを仕掛けた順四朗がいなされた。

 間合いを大きく外されたところに、斎藤が鋭く小手を打つ。これを竹刀の柄で受けるも、若干の隙が生じる。

 そして、そこを見逃してくれるような甘い相手ではなかった。



「ぬん!」



「うおっ!?」



 斎藤が左からの逆胴を狙い、それを竹刀を縦にした順四朗が受ける。

 太く束ねた竹刀が軋む音がした。その音が消えるより速く、斎藤が後方に跳ぶ。



「大したものだ、奥村君。竹刀とはいえ、俺の剣をこうまで凌ぐとは」



「ははっ、そう言いつつまるで焦ってないやん。全く斎藤さんも人が悪いで」



「ふん、違いない。人柄が良くてはあの幕末の京都を――」



 束の間の会話の中で、斎藤が構えを変えた。

 それまでの正眼とはまるで異なる。左手を大きく引いている。手の高さは肩の辺り、その左手に握った竹刀は道場の床と水平。

 つまりは片手平突きの構えであった。



「――生き残ることなど不可能だったんでな。良く粘った、だがここらで終いにしてやる!」



 新撰組最強と言われた男の声は、けして威嚇するような響きは無かった。

 だが、次の瞬間繰り出された一撃は、ヘレナの予想を遥かに超えていた。

 真っ直ぐ突進、そしてそこからの全力の左片手平突き。斎藤が放った一撃は、ただこれのみ。

 それも当然、あの大きく左手を引いた構えからはそれしか打てない。



「は、はは......参りました。いやあ、やっぱ勝てんもんやねえ」



 力なく、竹刀を下ろした順四朗が笑う。

 その青ざめた顔がはっきりと見えるのは、彼の面が右の肩口で引きちぎられていたからだ。紐で結んで固定していたにもかかわらず、そこを狙い済ましたかのように斎藤の突きが貫いていた。

 分かっていながらも避けられない、いわば不可避の高速の剛突であった。

 壬生狼の牙、まさにそのものである。



「いや、長時間の戦闘ならば君に分があったろう。勝負を急いだ故、切り札を出させてもらったまでのことだ......」



 斎藤が竹刀を引く。

 その顔が涼しいままであることに、ヘレナは戦慄を覚えた。

 強いらしい、とは聞いていた。事実、この道場で見た時からそれが嘘ではないことも理解していた。

 だが、今この時ほど、新撰組最強の称号がどれ程の物かを実感したことは無かった。



 "掛け値無しだ。欧州に於いても間違いなく五指に入る"



 ぞわり、と背筋に粟立つ物がある。

 知らぬ内に、肌が熱を帯びていた。

 日本に着いて以来、大人しく過ごしていた。周囲に迷惑をかけぬよう、言葉はおしとやかにして、立ち居振舞いもそれに合わせてきた。

 異国の風習に慣れないこと、そしてしばしば感じる母国への想いもあった。

 少しばかり、閉鎖的になっていた。



 "いいのか、それで"



 その自問は、今日ここで急に生まれた訳ではない。

 じわじわと心の片隅を侵食しているのを自覚しつつ、どうすることも出来ないままであったのだ。

 だが、卓越した二人の戦いを前にして、ヘレナの気持ちのどこかが弾けた。



 "私は日本に燻りに来た訳じゃない"



 がきり、と心の中の歯車が回る。

 その目は、防具を外した斎藤に向けられた。自分の中にくぐもる熱を、この男ならば受けられるのではないか。

 そう思うと歯止めが利かなくなった。体が勝手に動いていた。



「順四朗、防具を貸せ。次は私が出る」



「え? ちょ、ちょっと、ヘレナさん何言うとるん。初心者やろ、見学しときや」



 慌てて順四朗が止めに入った。

 その場を去りかけていた斎藤が、その視線をヘレナに走らせる。ヘレナの青緑色の双眼が、真っ向から壬生の狼の目を受け止めた。



「ほお。奥村君との試合を見て、怯まずに竹刀を握る気になるとは......流石は独逸(ドイツ)からわざわざ呼ばれただけはあるか」



「Mein Herausforderung、受け取れ、斎藤一」



 立ち上がりながら、ヘレナはその手に握っていた手拭いを投げた。

 ふわ、と浮いたそれを斎藤が掴み取る。

 独逸(ドイツ)式の決闘の申込みだ。本当は手袋を叩きつけるのだが、意図が伝わればそれでいい。



「っ、しゃあないな。そない言うんやったらええわ。ただし一回だけやぞ?」



「ああ、問題無いよ。どのみち、二度この試合をやる余力は残らないさ」



 髪を後ろで括りつつ、ヘレナは瞳を研ぎ澄ませた。

 猫科の猛獣を思わせる獰猛な目付きに、順四朗は思わず一歩引く。



 "まるで別人やん。そうか、これがヘレナ・アイゼンマイヤーの本気――"



 本質を見過ごしていたか、と順四朗は自分の眼力の無さを嘆いた。

 初めての異国に少し戸惑っていただけだったのだ。むしろ、これこそが魔女(ヘレナ)の本質なのだろう。



「面白い。お嬢さん、手加減は出来ないが後悔は無いな?」



 再び道場の中央に戻りつつ、斎藤が渋い声で笑った。その左手に握られた竹刀が、ひょうと空気を切り裂く。



「私をお嬢さんと呼ぶならば、元新撰組三番隊組長とやらの眼力も知れているな、斎藤一」



 ヘレナは防具を順四朗から受け取る。

 その動作にも言葉にも迷いは無い。

 先刻までの借りてきた猫のような大人しさは、どこかに置いてきたようだ。



「"制裁(ストラーフェ)"の二つ名の真価、その身で味わえ。手加減は無しはこちらの台詞だ」

私の挑戦状=Mein Herausforderung

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