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傍話 明治十八年邂逅録 壱

 船着き場に設けられた小屋の中、奥村順四朗は寒そうにしながら火鉢にあたっていた。

 襟巻きを直しながら、小屋の外を見る。三月でもあり、海沿いの風景はのどかさよりも寒々しさを感じさせた。

 外に出れば、潮風が冷たそうだ。せめて今の内にと暖を取る。



「旦那ぁ、人待ちですかい」



「んー、ちょっとねえ。もうすぐ独逸(ドイツ)からの船が来るやろ、それ」



 船着き場の管理人に話しかけられ、順四朗が答えた。

 ふああ、と一つ欠伸をしながらの表情は緩い。

 生来の垂れ目もあって、眠そうな顔である。



独逸(ドイツ)からの船ですかい、ええ、あと一時間ほどで着く予定ですね。異人さんのお出迎えですか?」



「うん、まあお出迎えやな。面倒やけどしゃあないわ」



「はは、こう寒いんじゃあねえ。炭の追加はあるんで、必要なら言ってくださいよ」



 人の良さそうな管理人に礼を言いつつ、順四朗は「あと一時間もかい」と呟いた。

 欧州と日本を繋ぐ船の航路は長く、それ故目的地にいつ着くかは途中の港で電報をうって連絡される。

 今朝、警視庁で受け取った電報は下田から発信されていた。

 本日中に品川に着くとの文を受け、出迎えの為に順四朗が派遣されたという訳である。



 "一時間程度のぶれなら仕方ないわな"



 待つ覚悟を決めてから、順四朗は右手を開いた。

 握っていた紙片が開き、そこに書かれた文字が見える。"ヘレナ・アイゼンマイヤア嬢出迎えのこと"という一文を確認する。



 "顔も知らんのに分かるやろか"



 当然の疑念が生まれたが、何とかなるやろと自分自身に言い聞かせた。






 管理人の言った通り約一時間の後、待ち望んだ船が着いた。順四朗はその船体に視線をくれる。

 船を見るのは初めてではない。

 しかし、本格的な海外渡航用の大型汽船を見るのは、これが初めてである。

 内心で感嘆の声をあげつつ、順四朗は自分の任務に努めることにした。船に注意力を奪われて、出迎えねばならぬ人物を見落とすなどはあってはならない失態だからだ。



 船と岸の間に渡された舷梯(タラップ)を注視している内に、何人かの異国人が降りてきた。皆旅装に身を包み、船員が降ろした荷物に手を伸ばしている。

 だが、その中に順四朗が出迎えるべき対象はいないようであった。若い娘と聞いていたが、そういう年代の女は見当たらない。

 異国人の外見年齢は良く分からないのでいきなり見落としたか、と不安になった矢先のこと。



「......あの子かな」



 最後に降りてきた娘に目が留まる。

 金髪というのか、日本人には無い太陽の光のような髪色をしていた。その黄金色の髪を翻しながら、軽快に舷梯(タラップ)を踏んでいる。

 若い娘の一人客は彼女だけのようだ。多分、間違いは無い。



「あー、あのー、御令嬢(ふろいらいん)。ヘレナさん、ですか?」



 意を決して話しかけた。

 ゆるりと順四朗の方に振り返り、娘が視線を合わせる。見たことの無い青緑色の双瞳に射ぬかれ、僅かに怯んだ。



(ヤー)。ヘレナ・アイゼンマイヤーです。けいさつ、のかた......?」



「良かった、日本語少し話せるんやね。ええと、まいんなーめいすと、おくむらじゅんしろう、けいさつ、でむかえ」



 順四朗の挨拶に、ヘレナと名乗った娘はパッと表情を綻ばせた。

 Mein name ist、つまり自分の名前は~と名乗る独逸語である。

 出迎えの人間が母国語で挨拶してくれたことが、余程嬉しかったらしい。



「Danke、ありがとう、おくむら、さん」



 たどたどしい発音ながら、ヘレナが日本語を話せることに順四朗は安堵した。

 とりあえず警視庁に案内すべく、ヘレナの手から重い旅の荷物を預かる。

 初対面の二人の間に会話は弾むべくもなく、互い無言ではあったものの、不快な沈黙では無い。

 待たせておいた馬車に案内しつつ、順四朗は密かに緊張感を解いた。まずは問題無しらしい。



 片や、欧州は独逸(ドイツ)より請われて来日したる魔女の末裔の娘。

 片や、日本の警視庁に名を連ねる若き巡査。

 二人が邂逅したのは、明治十八年三月。花冷えの空気漂う品川港であった。




******




 奥村順四朗という男を語ろう。その折にて年齢二十四歳、出身は大坂の極々平凡な日本人男性だ。

 強いて言うのであれば、職業が警察官であることか。

 西洋式のサーベルが警察官の標準装備にも関わらず、彼は日本刀の帯刀を許可されている。江戸末期に鍛造された狂桜なる銘を持つ愛刀は、順四朗の実家から持ってきた一振りである。



 他に人目を惹く要素といえば、凡そ六尺と大抵の人より高い身長とすらりとした体躯であろうか。

 警察官らしからぬやや垂れ目で優しげな目付き、後ろで結んだ長い髪、それに疎らな不精髭が特徴と言えば特徴だ。

 どこか甘く崩れた魅力が漂う男であった。



 その名の通り、四男坊の彼は家を継ぐ気も望みも無かった。

 東京に流れてきたのは、地元のしがらみが鬱陶しかったに過ぎない。

 帝都東京で一旗あげる、という気概も無く、彼は日々をそれなりに真面目に楽しく生きていたのである。



 "けれど人生分からへんなあ。何で己が異国の女の子の町案内しとんねん"



 自分の半生を振り返りつつ、順四朗はそっと隣を見た。

 初めて見る日本の風景を、その子は目をじっと凝らして見ていた。

 少女と言うべきか、女と言うべきか微妙な年頃らしく、纏う雰囲気は開花しかけの花を思わせた。

 まだ肌寒い三月の空気の中、さしてそれを気にしているようでもない。

 船に積んで持ってきた外套を着込んでいるとはいえ、微塵も寒さを感じさせないのは素直に凄い。



 ヘレナ・アイゼンマイヤーと名乗った彼女は、聞けば欧州における魔女の末裔であるらしい。

 警察機構の強化の為、わざわざ警視総監が呼び寄せたというのは、順四朗が上官から聞いたのだ。順四朗に対して何も説明しないまま放り出すほど鬼ではない、という訳ではないだろう。

 それだけこの独逸(ドイツ)から来た娘が重要人物であり、重きを置いている証拠である。



「順さん、あれは何ですか?」



 幾分たどたどしい言葉遣いながら、ヘレナはしっかりと発音した。その指先は一軒の店へと向けられている。

 東京随一の繁華街たるこの銀座の風景が、珍しくて仕方ないらしい。先ほどからずっとこんな調子である。



「ああ、ありゃ呉服屋やね。て言っても呉服て分からんよな。服、ふーく」



「服......kleider」



 順四朗がゆっくり発音しつつ、自分の制服を触ったので分かったらしい。

 ふむ、と頷く彼女の前を、風呂敷包みを持った商人や帽子に着物姿の紳士が行く。

 ちらちらとヘレナの方を見るのは、異国の人間が珍しいからだろうか。だがヘレナにはそうした視線を気にする様子は見られなかった。

 勿論、日本に来たのは初めてであり好奇心もあるのだろう。

 だが会話は不自由であり、風習もまるで知らぬ環境にも関わらず、ヘレナはほとんど臆した様子が無い。

 歳は十八とのことだが、年齢以上の落ち着きが感じられた。



「みて、みたいのですが」



 その一言に頷き、順四朗は呉服屋の戸をくぐった。背が高いので、文字通り身を屈めるようにしてである。

「いらっしゃ、え?」と挨拶しかけた主人が、ヘレナの姿を見て固まった。

 その様子に順四郎が苦笑する。



独逸(ドイツ)ていう国から来たばっかりの子やねん。少しだけやけど日本語話せるし、ようしたって。あ、そもそも買うかどうかも分からんねんけど」



「ダメ......?」



「ああ、いえいえ。滅相もありません、うちに外国の方が来るなど初めてでして。とんだ失礼をいたしました、何なりと申し付けくださいませ」



 ヘレナが眉を寄せたのを見て、主人が慌てる。

 早口なので分からなかったらしく、ヘレナが怪訝そうな顔をした。

 順四朗が端的に「大丈夫や」と言うと、満足そうに表情を緩めた。

 おっかなびっくりの店員が案内の下、棚に展示されていた反物にそっと手を伸ばしている。



「異国の者には珍しいんやろうな」



「気に入っていただければ何よりです。あの、差し支えなければどういった方で?」



「そやねえ、あの子が賓客、己が下僕?」



 幾分皮肉っぽい順四朗の返答に、店主は「賓客で下僕、ははあ」と得心したように頷く。その反応に順四朗は慌てた。



「いやいやいや、冗談や冗談! 何で納得してんねん!?」



「あ、いや、これは申し訳ありません。賓客と聞きまして、なるほどどこか高貴な家の出なのかと納得しまして。お綺麗な方ですな」



「ふうん、で下僕ってのはどうやねん」



 順四朗の問いに、主人はそっと目を逸らした。無言が故に、逆に雄弁である。



「さよか......そんなに己は下僕らしさが板についとるように見えたんか」



 心なしか肩を落とした。



「いえ、そういう訳ではなくですね、こう内面から滲み出る謙虚さが伝わるといいますか」



「流石、商人(あきんど)。口が上手いやん。ええわ、そういうことにしといたる」



 こんなことで腹を立てるのも大人げない。気を取り直し、順四朗は考える。

 品川で出迎えたのは僅か三日前、つまりヘレナのお目付け役を開始してからたったの三日しか経過していない。

 なのに全くの赤の他人の目からでも、奥村順四朗という男は下僕っぽく見えるのだとしたら。



 "元々そういう下地があるっちゅうことやん"



 自分で思い付いておきながら、頭を抱えたくなった。

「うわあ、勘弁してや」とその場にしゃがみこむ順四朗の気持ちなど知らぬまま、ヘレナが楽しそうに声を弾ませる。



「Ziemlich! きれい、きれい!」



「ありがとうございます。もしお気に召していただければ、お着物に仕立てあげさせていただきます......あ、買う、服、作る、でございますね」



「ちょ、ちょ待って! そんな勝手に話進めんといてや!」



 店主が上手くヘレナに取り入ろうとするので、順四朗は慌てた。警視庁からヘレナの小遣いはもらっているが、反物から着物に仕立てなどしたらいくらかかるというのだ。浪費は避けねばならなかった。



「う、順さん、これだめ?」



「あかん、これ買うたら後で何も買えなくなるで」



 懇願するような顔のヘレナに、頑として無理だと言い張る。

 その一方で、更に新しい反物を持ってこさせようとする店主に、さっさと釘を刺す。



「あかんで、今日は見せてもらうだけや。なんぼ持ってきても買わへんで」



「いえいえ、これは私どものご好意に過ぎません。どうぞ存分に見ていただけますよう」



「お、えらい気前いいやん」



「今回買っていただけなくても、次、あるいはその次には買っていただけると信じておりますから!」



「本音駄々漏れの商人(あきんど)ってあかんのちゃうの!?」



 順四朗の突っ込みを、店主は微笑で受け流した。

「おっ、これはいけませんな。気前の良さそうな方を見ると、ついつい良い物を提供したくなりまして」とさりげないお世辞を添えて、すっと後ろに引っ込んだ。

 押して駄目なら引いてみろ、ということだろう。



 興味津々といった様子のヘレナに根負けしそうになるが、順四朗は見るだけだと粘り強く主張した。

 来日早々あまり勝手をされては困るのだ。「(ヤー)」と渋々首を縦に振りながらも、ヘレナはしばし名残惜しそうな顔であった。







「順さん、順さん」



「何やねん?」



「お腹空いた。ご飯」



 呉服屋を出てすぐ、ヘレナがそう主張した。

 確かに既に昼時である。

 昼飯にするのも悪くは無いのだが、順四朗には懸念が一つあった。



「お箸、分かる?」



(ナイン)、無理、難しい」



「やろうな、しゃあない」



 そうなのだ。

 一度ヘレナに箸を見せて使わせてみたのだが、全く使えなかった。独逸(ドイツ)で来日前に日本語を学んだ時に、見せてはもらったらしい。だが練習時間もなく、それだけで終わっていた。

 そのうち上手くはなるだろうが、今は本人が否定する通り無理である。



 母国から遠く離れ、右も左も分からぬ状態である。食事くらいは負担をかけたくない、と思うと自ずから候補は絞られる。

 箸を使わず食べられるとなれば、即ち西洋料理しかない。まだ店の数は少ないが、近頃はこの帝都東京でも何軒かそのような店があった。



 順四朗が選んだのは、日比谷近くにある西洋料理店であった。

 木造二階建ての家屋は大通りに面しており、大きな看板に"本場西洋料理あり"とでかでかと墨で記されている。

 料金は多少張るにしても、ここならば安心だろうと思ったのだ。



 "なんや落ち着かへんなあ。飯こんなとこで食うん?"



 しかし案内されてすぐ、順四朗は無言でぼやいた。

 順四朗は外食する時、大抵畳み敷きの店で食べる。

 時折、卓につくこともあるが、大体そういう時も蕎麦屋だったり一杯飯屋である。

 そしてそういった店は、大抵店内が薄暗い。

 際立って採光が悪いなどではなく、総じて窓が小さめである為である。硝子が普及していないので、窓を大きく取ると雨風が気になるのだ。

 それに引き換え、二人が入った店は明るい。

 壁の半分近くを大きな硝子窓が占めており、大通りがよく見える。

 天井の一部まで嵌め込み式の硝子が使われており、初春の光が上手く室内に入るようになっていた。



「メニュウでございます、お客様」



「大きに......うん、全然分からん。何かお薦めってあるん? あと、こっちの異国の女の子も食べられそうなもん頼むわ」



「承知しました。お連れの方は亜米利加(アメリカ)の方ですか」



 ピシッと黒い上下で決めた給仕の男が、ヘレナの様子を伺う。

 順四朗が「いや、独逸(ドイツ)やねん。日本来たばっかりで箸使えんからこの店来たんやけど、西洋料理には疎くて己がよう頼まん」と正直に言うと、給仕はヘレナに何か話しかけた。

 順四朗には分からなかったが、多分独逸(ドイツ)語なのだろう。ヘレナが表情を輝かせて返答していたからだ。

 二人の会話はすぐに終わり、給仕は丁寧にお辞儀をして去った。



「頼みました。順さん、カレー。私、カツレツ」



「ど、どうも。あの給仕、独逸(ドイツ)語話せるんやな」



「はい、少し。ここ、お客さん来る。外国語は大事」



「なるほど」



 ヘレナの説明に納得しつつ、先ほどのヘレナと給仕のやり取りを思い出す。

 ただのメニュウの説明、それに対する注文だったらしく短いやり取りであった。

 にも関わらず、目の前の二人が自分が分からぬ言語で話しているという状況に、疎外感を覚えずにはいられなかった。



 理解出来ないのは仕方がない。それでも、言葉のやり取りに参加出来ないこと自体が、妙に不安を覚えさせるのだ。

 自分のその小さな体験を以て、ヘレナの身に置き換えてみる。

 自分以外の全員が、自分に分からない言葉を話す。自分には馴染みの無い服装。欧州の人とは違うであろう、黒い目と髪をした人々。



「――偉いなあ、ヘレナさんは」



「えらい? 意味?」



「凄いってこと。すごい」



 順四朗の柔らかい表情と言い方に、誉められたというのは伝わったのだろう。

 ヘレナ・アイゼンマイヤーは「Danke」と笑い、視線を窓の外へと投げた。

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