牛鍋デエト 弐
人は何故美味い物を食べる時、これほどまでに無言になるのか。
それは食事という物がただの栄養補給ではなく、個人の性格や行動形成に密接に関連する文化であるからだろうか。
しばしば食という行動は、人を哲学的にする。
更に箸で肉をつまみつつ、三嶋一也は意外に高尚なことを考えていた。
結構食べ進めており、目の前の鉄鍋の中身はそろそろ底を突きそうだ。
美味である。タレをまんべんなく絡めた牛肉の柔らかさを堪能し、一也は満足であった。
牛鍋の主役は無論牛肉であり、その実力を遺憾なく発揮していた。美味い物の前に人は無力である。
「結構、葱がいけるんだよな」
「一也さんもそう思います? このへたりかけた中のしゃきしゃき感がいいですよね」
「名脇役だ」
小夜子の同意の通り、葱の食感が良いアクセントになっている。霜降りの牛肉の柔らかさを存分に堪能しつつ、贅沢にもそれに飽く瞬間がある。
そこに葱の価値がある。火が通り、元々の辛味が和らげられちょうどよくなっている。それに肉汁を含んだタレが含まれるのだ。
当然、味の一体感は壊さない。壊さない範囲で、葱は確かに個性を主張する。
辛味、苦味、そして野菜固有の甘味が心地よい。
肉という絶対主役を引き立てる名脇役、それが牛鍋という料理における葱の存在価値であった。
「第三隊ならヘレナさんが牛肉で、俺らは葱だな」
ぽつりと一也が漏らした言葉の意味を、小夜子はすぐに察した。口の中の物をこくん、と食べ終わってから、そっと口を開く。
「主役と脇役ということですか?」
「そう。ヘレナさん一人で二役はこなせる。俺らはヘレナさんの邪魔をしないよう、引き立て役であればいい」
「うーん、戦闘に限ればそうですよね。一也さんはそれが不満です?」
「不満は無いよ。別に自分が主役にならなきゃとは思わないし、人にはそれぞれの役割があるってだけだから」
そう、それは納得している。
だがヘレナ・アイゼンマイヤーという主役がいなければ、第三隊はその輝きを失うだろう。
一也のその予感はほぼ確信に近かった。
別に今心配することではないが、ヘレナが独逸に帰国した後はどうなるのだろうか。
そもそもその時まで四人全員が無事でいるのか。自分はまだ明治にいるのか。
「何か怒ってます? 怖い顔ですよ」
「え、ああ、いや何でもないです。ちょっと考え事を」
「牛鍋のお代わりをすべきかどうかですね?」
「......まだいく? さっきので肉三皿目だよね?」
むう、と小夜子は迷ったような顔になった。
五尺に満たない小柄な背丈にもかかわらず、小夜子は食欲旺盛である。そこそこお腹は満たされてきたが、あと一皿くらいはいけそうだ。
迷う。
ここでもう一皿追加しても、まだいける。
小夜子には遠慮という言葉は無い。安くはないが、所持金はある。
一也と一緒に食べる牛鍋は格別だ。もう一皿行くべきだ、と自分に発破をかけたい。
だがここで肉に手を出したら、他の料理には手が出ないだろう。
ご飯と食後の果物か菓子くらいしか無いのだが、せっかくであれば全部食べたかった。
全てを味わった上での満腹感も得たい。肉の魅力との葛藤の末、断腸の思いで断念する。
「ぐ、ぐぐっ、止めておきます。他の食べ物が入らなくなりますっ」
「そう、了解。賢明だと思うよ」
「ですがその代わりにですね」
一度は伏せた面を小夜子は上げた。
やや上目遣いの視線が、鉄鍋と白いご飯に交互に疾る。
大きな黒い瞳が天井の提灯の光を受け、強い光を放っていた。
ただならぬ雰囲気に、一也は僅かに気圧された。
「その代わりにとは」
「お肉の追加を頼まない代わりに、牛鍋の底に残ったタレを――」
まさか。
一也は驚いた。そこに目をつけるとは思わなかった。
小夜子の言い出そうとしていること、それは魔性の魅惑を放つ。禁じ手だ、止めねばならない。
刹那の反応でもって、一也は小夜子を遮った。
「止めろ、二度と普通のご飯が食べられなくなるぞ!」
「――ご飯にかけて、思いっきりかきこみたいんですよねっ! もう、思う存分に!」
ああ、言ってしまった。
もうこれは引き返せないぞ、と小夜子は自分に落胆する。
だが、その落胆は新たなご馳走への渇望の裏返しである。
自分の中で気がついてしまったその渇望を抑えるには、余りにもその魅力は大きすぎた。
「気がついちゃったんです、この組み合わせは鉄板だと。肉汁をたっぷり含んだタレの残り、それをほかほかの銀シャリにかける。これほどの組み合わせは無いんですよ、一也さーん!」
「それは分かる、分かり過ぎる程に分かるけどさ。一度それを口にしたら最後だ、普段のご飯が食べられなくなるぞ!」
「うっ、そ、それは、一也さんの言う通りかもしれないですけどっ。私、自分の気持ちに嘘はつけないんですよおっ!」
必死に止める一也に対し、小夜子は涙目になりつつも頑として意志を曲げない。
単品で十分美味しいのに、それを組み合わせるという技に気がついてしまったのだ。
これは試さなくてはならない、是非にも、今すぐに。
「一也さんも一緒にやりましょうよ、ね?」
蠱惑的とすら言える微笑を浮かべ、小夜子が囁く。
「そんな誘惑に屈する訳にいくものか......今、この瞬間は良くても店を出た途端に惨めな思いをする! 俺はそんなに強くはない!」
一也は必死で抗った。
実家ですき焼きをした時に試したことがあるので、それが美味しいことは知っている。
平成ならばそれも良い。
だが相対的に美味しい物が少な目の明治でやったならば――後が怖い。
「人は思い出で生きていく生き物なんですよ。今ここで幸福を味わうことで、それを支えに人生の辛さを乗り越えられる、私はそれを信じています」
「......いつからそんな弁が立つようになったんだ」
「さあ、勇気を出してください。それとも怖いんですか、一也さん。そんな意気地無しだったなんて幻滅ですー」
宗教家のような慈愛に満ちた表情、それと正反対の強烈な煽りが一也に炸裂する。
こうまで言われて引き下がるほど、一也も大人ではなかった。意を決し、せめて一矢を報いることにする。
「すいません、生卵もってきてください。はい、二つ」
「なっ......た、卵を、何に使うつもりですか。一也さん、あなた何を考えて」
「何に? 決まってる、上からかけるんだよ。牛鍋のタレをかけたご飯の上からね」
押されっぱなしだった一也ではあるが、小夜子の呆然とした表情に溜飲が下がる思いであった。
すき焼きに卵は鉄板ではあるが、明治時代にはまだそのような食べ方は普及していない。
それ故、一也の食べ方は完全に小夜子の意表を突いた。
"駄目です、ただでさえタレとご飯だけでも美味に違いないのにっ! そ、そこに卵のとろとろが上からとかっ!"
予期せぬ更なる美味の予感、それは一筋だけ残っていた小夜子の理性を崩壊させた。
「その食べ方、私も真似させてもらっていいでしょうか!?」
「おや、意気地無しの食べ方なんか真似するんだ?」
「ご、ごめんなさい、さっきの言葉は撤回します。素敵で勇気があってしかも美味しい食べ方を知っている、そんな一也さんに私は何てことを......」
完全降伏といっていい。
小夜子が項垂れる姿に、一也は倒錯した満足を覚えた。
普通に見れば、かなり小夜子は可愛いのである。
その美少女が泣きそうな顔をして、自分の許しを乞うている。中々シチュエーション的には美味しい。
ただし変態にとっては、という枕詞が付くのだが、敢えて一也はそれを無視した。
今この前にある牛鍋のタレ、ご飯、卵の三種の神器を味わう至高の幸せに比べれば......そんな変態性などは些細なことに違いない。
一也はおもむろに牛鍋の残りをよそい、小夜子の茶碗の上からかけた。
手際良く卵を割って、それを更に茶碗に落とす。
艶やかな黄色がタレの茶色とご飯の白に絡む。
三色が渾然一体となり、小夜子の食欲を刺激した。
「さあ、どうぞ。どうせ食べるなら――思う存分」
一也の声が優しく響く。その手から茶碗を受け取りつつ、小夜子はごくりと唾を飲み込んだ。
心の中で一也に感謝する。今ここでこれを食べるのだ。
もう一度食べたくなるかも、という懸念もないことはない。
だが、それよりも今が大切なのだ。
"思い出とは無数の今の蓄積だって、偉い人も言ってましたからね!"
もっともらしい理屈をこねる。
そんなことは誰も言ってはいないし、そもそも偉い人って曖昧なんだよ、そんなことより早く食えよと第三者が見たら言うだろう。
そんな幻聴が聞こえた訳でもなかろうが、小夜子は遂に箸を手に取った。
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満ち足りた。
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からりからりと大通りを馬車が行く。新橋の花柳街の灯が後ろに遠ざかる。
それを窓から眺めつつ、一也は良い気分に浸っていた。
向かいの席では、紅藤小夜子が同じような顔をしている。
幸福という二文字、それが二人の間の空気を彩っていた。
ただし、通常ならば若い男女に漂う色恋の香りはそこには無い。あくまで満喫した牛鍋に関してというのが、色々な意味で残念ではあったが、ここにそれを咎める者はいない。
「はあ、最高でしたねー。お肉もあのご飯も堪能しちゃいました」
「俺より食べていたよね、小夜子さん」
「お休みの誰かさんと違って、働いていたんですー。お腹だって空きますよお」
それにしたって食べ過ぎだろう、と一也は思ったが、それ以上は言わなかった。
いい気分になっている小夜子の機嫌を損ねることは無い。代わりに「また行けたらいいね」とだけ言った。
「ですね、今日は一也さんに奢っていただいたので次は私が!」
「え、そう? じゃ遠慮なく。一番高い肉頼もうかな」
「どーんと来いですよ、特別給も出ますからね」
ぷらぷらと足を揺らしながら、小夜子は笑った。
また一也と牛鍋に行けると思うと、自然に笑みがこぼれる。
いや、牛鍋とは限らない。別の何かでもいいのだ。
天麩羅などどうだろうか。あるいは気張って西洋料理でも良い。
とにかく一也と一緒ならば、余程の事が無ければ行きたい。
"ずっとこんな日が続けばいいのにな"
それはもしかしたら、小さなようで大きな希望なのだろう。
三嶋一也と紅藤小夜子の間には、同僚という以外の関係性は無い。
こんな日などという曖昧な時間は、ある日突然に崩れるかもしれないのだ。
約束の無い儚く、居心地がいいだけの時間が今なのだろうか。
「何か俺の顔についてます?」
「ううん、何にも」
「なら、別にいいですけどね。じっと見られると照れる」
軽く視線を外しながら、一也が呟く。僅かにその顔が赤く見えたのは、恐らく酒精のせいだろう。相手の言葉を本気にしない、と小夜子は自分を戒めた。
そうして、自分に落ち着けと心中で声をかけてみる。とくん、と鳴った心臓の鼓動がやけに大きく聞こえそうだった。
"幸せなんですね、私"
例え、この日々が何の保証も無い泡沫の夢であったとしても、それでもいい。
こうして素直に好意を自覚できるというだけで、それで今は十分であった。
また行こう、と一也が言ってくれた。それだけで幸せである。
「そういえば一也さん、昨日はどこに行っていたんですか? 式神ちゃんの連絡もなかったですし」
「ん、ああ、不忍通りから千駄木回って六義園まで歩いたよ」
「......はい?」
小夜子が目を丸くする。それを意に介さず、一也は更に説明する。
「あの辺て結構畑とか多いよね。そこから本郷通りを歩いて、帝大見て帰ってきた。いやー、楽しかったな」
「どれだけ歩いてるんですか、というか、他にお芝居見たりお買い物したりは?」
「してないよ。別に興味ないもの」
しれっと一也が答えたのを見て、小夜子は返す言葉に詰まった。
小夜子も年頃の女の子の端くれである。
休日にやりたいことや行きたい場所は、山ほどある。
もし好きな異性と休日を共に過ごす機会があるならば、一緒にそういうことを楽しみたい。
だが、お互いの趣味嗜好が異なる可能性がある、ということを小夜子は失念していたのだ。
"今後お休みがかぶって、一也さんと一緒に過ごせたとしてもです、ただひたすら歩くだけとか!?"
それはいやだあ、と無言で唸りつつ、小夜子は一也の方を見た。当の本人はそんな視線にはまるで気がついていない。
「あー、明日から仕事か。ヘレナさんが手ぐすねひいてそうだなー」などと言いながらも、それほど嫌そうでもない。
その平和そうな顔を見ている内に、何だか腹が立ってきた。
自分でも理不尽だとは分かっているが、どうにも止められそうにない。
「人の気も知らないで」
「ん、何か言った?」
「何でもないですよーだ!」
ふん、と小夜子が顔を背けると、そのサイドテールがひゅうと揺れた。
突然の不機嫌の理由が分からず、一也は小首を傾げた。
「俺、何か悪いことしたかな」と自問する内に、かたんかたんと馬車が行く。
晩秋の月の下、束の間の平和な夜の一幕であった。




