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牛鍋デエト 壱

 今回、後半に食事描写があります。

 休暇の一日目は千駄木や本郷を歩き通し、思わぬ将来の有名人にも会った。

 イベントとしてはお腹一杯状態でもあり、一也は休暇二日目は取り立てて何もしないことにした。

 長屋の部屋の掃除や洗濯、ちょっと出掛けて服を買い足したりなど細々とした雑事をこなす。

 これはこれで有益ではある。隣に住む弥吉少年ともばったり会い、おすそ分けとのことで干し柿を貰ったりもした。近所付き合いは大事である。



「ありがとう、今度何か持ってくるよ」



「いえ、この間横浜のお土産いただきましたし。姉ちゃんも喜んでいましたよ」



「そっか、それは良かった」



 あの隅田川の花火大会以来、弥吉少年とはちょっと親しくなった。

 姉との仲も特に問題は無いようであり、相談に乗った身としては一安心である。

 姉、弥生とその交際相手の仲までは流石に知ったことではないが、出来れば上手く行けばいいなとは願っていた。隣人の不幸を願う程、性根は腐っていない。



「あ、そういえばこの前、姉ちゃんが一也さんのこと話してましたよ」



「弥生さんが?  何を?」



「一也さん、誰かと一緒になったりしないのかしらって。もし意中のお相手がいないなら、ご紹介してもいいって言ってたよ」



 予想外の言葉に、一也は飲んでいたサイダーを噴き出しかけた。ごほごほとむせつつ、聞かずにはいられない。



「どういう風の吹き回しだよ、それ」



「いえ、文字通りそろそろ結婚されてもいいんじゃないかと......隣人として心配しているみたい」



 余計なお世話だ、と喉まで出かかったが、一也は思い止まった。



「お気持ちだけいただいておくと、弥生さんに伝えといて」




******




 結婚について考えたことはあるか、と問うならば、否である。

 確かに明治時代であれば、十九歳は立派に結婚適齢期である。

 だが一也の意識や感覚は、そこから百数十年以上未来の平成のそれである。

 二十歳前後で結婚と聞くと、早過ぎるだろうと思う。



 "それに俺の場合――"



 いつかは元の時代に戻るのだ。

 こちらの時代に来たのが突然だったのだから、いきなり明治から平成に戻る可能性もあり得る。

 偶然、あるいは神の悪戯とやらが作用したとしよう。

 その場合、寝た目覚めたそこは平成でした、という事さえあり得なくは無い。



 結婚に限らず、深すぎる結び付きは無い方がいい。失った時の損失が大きすぎるから。

 端的に言えば、一也の対人関係についての態度はそれを根幹としていた。

 信用はする、好意は感じる。それは人間として自然な感情表現だから否定しない。

 だがそこから先、信頼や愛情まではブレーキがかかっていた。



 勿論こうした心の動きを、全て一也が意識的に行っていたわけでないが、総括するとそのように自己制御(セルフコントロール)していたのである。





 "......止めた、難しいことを考えるのは"



 一也は意識を引き戻した。

 長屋の縁側に仰向けに寝そべっていたのだ。

 秋の青空の片隅に、羊のような雲が一つ二つ漂っている。傾き始めた陽を見ると、自然と夕飯のことが気になった。

 今日はほとんど外に出ていない。

 懐も寂しくは無いことを考えれば、夕飯くらいはちょっと奮発してもいいのではなかろうか。



 "あれ使えば連絡出来るよな"



 文机の片隅を見る。

 そこにあるのは、手のひら大の小さな紙人形だ。

 連絡用にと小夜子がくれた式神である。これに書き込むなりメモを持たせれば、主人の所へ飛んでいって伝えてくれるらしい。

 ややタイムラグはあるものの、メールに近い。



「本日、新橋の牛松に牛鍋食べに行こう、と。じゃ、任せたぜ」



 ささっと書いたメモを持たせると、小さな式神は颯爽と飛んでいった。




******




 電気の代わりに夜の闇を払うは行灯、提灯、あるいは灯火だ。

 酔っぱらったサラリーマンの喧騒に代わり、三味線や琴の調べに交じって密やかな男女の声が聞こえてくる。

 視覚と聴覚その両方から、ここ新橋がビジネスマンにお馴染みの気さくな飲み屋街ではなく、もっと艶やかな地域であることを嫌でも感じる。



 例えば一也と小夜子の横を通りすぎる二人を見れば、それは一目瞭然だ。

 江戸友禅を粋に着こなした旦那衆、彼にそっと寄り添う島田髷の女の組み合わせは、宵闇に紛れて艶っぽい香りを漂わせてくる。

 声高に叫ぶ訳でもない。だが密やかに歩いているだけでも、男と女の関係がとろりと色を成しているようであった。



「一也さん、早く行きましょうよ! 牛鍋が逃げちゃいますよ!」



「逃げない、逃げない。慌てていると転ぶよ」



「そんなドジ踏むわけない、あうっ」



 しかし、小夜子と一也の二人連れにはそのような色っぽい雰囲気は皆無であった。

 牛鍋というご馳走に心が逸る余り、小夜子が柱から吊るされていた提灯に頭をぶつけている。

「うう、邪魔ですこれ」と額を押さえる姿を見て、まだまだ子供だなと一也は密かに笑った。

 自分のことはちゃっかり棚に上げている。



 とはいえ、小夜子の気持ちも分からなくもない。

 動物の肉の接取が解禁されて以降、牛鍋といえば晴れの象徴である。一也と小夜子も一度しか食べに行ったことはないのだ。



 芸者や遊女の街でもある花柳街たる新橋だが、食に関しても有名どころは多い。性欲と食欲が密接に関連している証拠である。

 今日二人が訪れる牛鍋屋"牛松"も、そうした名店の一つであった。

 何故そこにしたかと言えば、以前に第三隊で行ったことがあるからである。

 実に単純な理由であるが、インターネットも雑誌もないので意外とこういう理由で店を決める者は多かった。





 空腹と期待を抱えた二人が黒い暖簾をくぐったのは、それから間もなくのことであった。

 昔の武家屋敷を改築したという店構えは、太い古木を用いたどっしりした物である。

 "牛松"と太い筆で白く記された店名も、またその店構えに恥じない強い印象があった。



 "おっと、これは"



 暖簾をくぐったその瞬間から、一也の鼻をくすぐる匂いがある。

 焼かれた牛の肉と脂の香ばしい匂いであった。どこか甘さを感じさせるそれが、容赦なく胃袋を刺激する。

「お二人様でいらっしゃいますね。こちらにどうぞ」と座敷に案内されながら、その匂いの素に惹かれるのも仕方がないことだろう。



「牛鍋久しぶりですね。一也さんが誘ってくれなければ、中々食べようとも思いませんし」



「一人で食べるもんじゃないしな」



 案内された卓につきながら、小夜子と一也は顔を見合わせる。

 勤務後なので、小夜子はいつもの着物姿である。

 長屋が近い為、時折互いの部屋で一緒に食べる機会もあるにはあるが、牛鍋となると確かに初めてである。

 個室ではないものの、衝立で隔てられた空間だ。それほど周囲を気にする必要も無さそうであった。

 献立は潔く牛鍋しかないため、迷う必要すらない。

 適当に見繕ってもらった日本酒が、徳利からほんのり湯気を立てている。

 そろそろ寒くなってきた為、燗をしてもらったのだ。



「じゃ、僭越ながらお酌させていただきますね」



「とっとっと......溢れる寸前だな。じゃ、お返しに」



「えへへ、一也さんにお酌してもらうのって嬉しいですね。久しぶりじゃないですか?」



「んー、そうかなあ。ああ、でもそうかも。皆で飲みに行く時は、小夜子さん、ヘレナさんや順四朗さんから注いでもらうことが多いし」



 くい、と一也はお猪口を傾ける。

 小夜子の反応が面白いからか、年上二人は小夜子に飲ませるのが好きらしい。

 最近は自分の限界が分かってきたからか、小夜子も泥酔はしなくなってきた。神谷バアの電気ブランでべろんべろんになっていた事を思い出し、一也は不意に懐かしくなる。



「やだ、一也さん思い出し笑いですか。何考えていたんですか?」



「いや、あの夜、小夜子さんが電気ブランでへべれけになっていたなあって思い出していただけ。大変だったんだよ」



「そ、それは――もう、言わないでくださいよ。反省してるんですし!」



 ばつが悪いのか、小夜子が顔を赤らめる。

 彼女の中では、あの泥酔は翌日のすったもんだと一組になっている為、それが余計に恥ずかしい。

 足を滑らせた一也にのしかかられた件は笑い話ではあるが、少女の身からすれば顔から火が出るような事件であった。

 思えば一也を異性として意識したのは、あれが初めてではなかったか。



 "えへへー、今日は牛鍋に誘って貰えるなんて、嬉しいなー"



 純粋に美味しい物を二人で食べるということ自体が嬉しい。

 更に、相手が休みの日に誘ってくれた、というのが嬉しい。

 我ながら単純だとは思うが、紅藤小夜子の性格は複雑には出来ていなかった。

 東京からほど近いとはいえ、人の悪意や虚偽欺瞞からは縁遠い環境で育ったからであろう。

 警察官になって多少は裏を読むようにはなったが、生来の素直さの方が地であった。



 しかし、彼女が密かに想いを寄せる相手はというと、悲しいかな、まるで別の事を考えていたのである。



 "あー、腹減ったなあ、酒じゃ物足りないんだよなー"



 色気より食い気である。

 いや、無論同じ食事であっても、一人より可愛い女の子と食べた方が美味しいには違いない、違いないのだが......久しぶりの牛鍋にテンションの上がっている一也の関心は、今や牛鍋一色であった。



 明治の食べ物が口に合わぬ訳では無い。かなり昔に遡っているとはいえ、そこは醤油や味噌という日本人固有の食文化には変わりは無い。

 洋食のバリエーションが少ない、という部分に不満はあるものの、一也は主菜となる献立にはさほどの不満はなかった。

 菓子やデザートの種類が少ないのは、これはまた別問題である。



 とはいうものの、いわゆる豪勢な食事という類いになると、一也が心から満足出来る物は少なかった。

 平凡な一市民とはいえ年月の積み重ねと輸入の増加による食文化の進歩の恩恵を、無意識に受けていたのである。

 それをまさに舌で痛感したのは、一度や二度ではない。だからこそ、たまには豪勢な食事を気兼ねなく食べたくもなる。



 それは胡麻油が香る大海老の天麩羅だったり、分厚く切られた鮪の刺身だったり、脂の乗った天然物の鰻にタレが染み込んだ鰻重だったりするのだが――何より美味いと思ったのが、やはり単純に肉であった。

 小洒落た店でならば、西洋より伝わった厚切りの牛の一枚肉を焼いた、いわゆるステーキも食べることは出来る。

 それはそれで一也の好みではある。脂と肉の旨味がごつりとした重量感で舌に飛び込む、あの味は中々捨てがたい。

 だが、それと同等かあるいはそれ以上に、牛鍋の美味さもまた魅力的であったのだ。



「あ、一也さん。お待ちかねが来ましたよ」



 そう声をかけた小夜子も、目がきらきらとしている。



「待ちくたびれたよ」



 一也の声も心なしか弾んでいた。



 女給仕の手で、そうっと牛鍋の具材が入った大皿が卓に運ばれた。

 彼女が手際よく炭火を起こしている間に、一也と小夜子は大皿に視線を移す。

 白磁の大皿に花弁のごとく盛り付けられ大きく広がった牛肉が、二人の食欲をそそって止まない。紅を帯びた赤色の肉に入った白い脂肪、それが網目状に走り肉の赤を引き立てている。

 その食欲をそそる肉の花の中心、ちょうど花芯にあたる場所には、ぶつ切りにされた葱が並べられていた。

 肉と葱のみのシンプル極まりない牛肉料理、それがここ"牛松"の牛鍋である。



 卓の中央に埋め込まれた特殊な火鉢を覗けば、そこには黒炭がじわと赤く燃えている。

 現代のすき焼きと調理法はほぼ同様、つまりは鉄鍋を火にかけ脂を引き、そこに具材を入れていくだけである。

 関西ではザラメ砂糖を溶かしその上で肉を焼くらしいが、東京を中心とした関東では甘めのタレで味付けをするのだ。

 一度見れば、子供でも覚えられる簡単な調理法。それ故、味のごまかしが利かない。肉質の良し悪し、そしてタレとの相性が全てであった。



 鉄鍋を火にかけた後、一礼して女給仕はその場を去った。後は二人で仲良くという訳である。

 ひょいと一也は鉄鍋を見た。

 鍋の底に、四角に切られた白い牛脂がある。

 菜箸でそれを鍋の底に押し付けるようにさっと引くと、ぱちっぱちっと脂が炭火の熱に応えて跳ねた。

 どうやらもう十分に熱されているらしい。



「じゃ、肉入れるよ。何枚食べる?」



「とりあえず二枚お願いします。足りなかったら、追加で頼んじゃいましょう!」



「いいねえ」



 手際よく一也が肉を鉄鍋に放り込むと、じゅうっと肉と脂が弾けた。網目状に走った脂と肉が立てるその音がまずは聴覚を刺激し、次いで立ち上る肉の焼ける何とも言えぬ匂いが嗅覚を刺激する。

 肉が薄いため、さっと焼いただけでも火が通る。

 赤から茶へとあっという間に色が変わる間に、一也はタレを鉄鍋に注ぎ込んだ。

 黒っぽいタレが鍋底を走り、焼けかけた肉を浸す。

 最初焼く分だけは、タレに浸かる時間をわざと短くしていた。肉の味そのものをメインに持ってくる為である。



「はい、どうぞ」



「すいません、それでは遠慮なく!」



 一也に肉を取ってもらい恐縮しつつも、小夜子は箸を取った。

 どのみち、食事の時間は長いのだ。肉を焼く担当は途中で替わればいい。

 それよりもせっかくのご馳走に集中する。温かい内に食べねば牛鍋の魅力は半減である。



 "――っ、美味しいですねえ"



 一口目、まずは舌に広がったのは甘さであった。

 砂糖を使った菓子の可愛らしい甘さではない。

 自然の恵みを果汁に閉じ込めた果物の甘さとも違う。

 加熱された牛肉から滲み出る肉汁が内包しているのは、活力に溢れた甘さであった。

 溶けかけた脂がそれと一体となり、二口目三口目を止めさせない。



 "柔らかいですねー。薄切りにしているからってだけじゃなくて"



 むしろ肉質の柔らかさを極限まで生かす為に、薄く切っているのだろう。

 肉を噛み締めた時の歯応えや充実感は無くなるが、代わりに舌の上でとろけるような食感が楽しめる。また薄い為に肉と脂の境目が火で溶けて、それがお互いを引き立てていた。

 牛鍋の一番の醍醐味である、肉そのものの味を引き出す厚みがこの柔らかさなのだろう。

 噛むという行為が無い分だけ、余計にそれが引き立つ。



 なるべくゆっくりと味わう。

 醤油を基調とした甘めのタレは、獣肉独特の僅かな臭みを消していた。のみならず、肉の旨味に奥行きと香ばしさを加えている。

 牛鍋の主役は勿論牛肉なのだが、タレが加わることにより味にメリハリが付くのだ。

 小夜子は上手い表現が見つけられなかったが、咀嚼している内にどうでもよくなってきた。



「美味しく味わえたら、それで十分なんですよね」



「いや、全くその通りだと思う。堪能してます」



 久しぶりの牛鍋に満足しつつ、一也は相槌を打った。

 一也が知るすき焼きと比べると、具が肉と葱だけというのはちょっと寂しい。

 だが、これはこれで主役である肉がそれだけ前面に出る。ありだな、と思いつつ、舌の上で存分に肉を蹂躙した。



 二口三口であっという間に肉がとろけた。

 口中一杯に広がった柔らかさが、ダイレクトに味覚を満足させる。

 肉とタレが混ざり、それを飲み込む瞬間がまた良い。悦びにも近い満足感がそこにはあった。



「がんがん焼こう、次はタレ多めで」

 この回を空腹時に書くという過ちを負かし、心理的な重傷を負った作者!

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