小さな肩、小さな手
"暇だ。やることが無い"
村長の家に行ってくる、とだけ言い残して小夜子がいなくなると、一也は暇になった。紅藤家には今は彼しかいない。会話が成立するかはともかく話し相手もいないし、暇潰しの為のツールも一也は持ち合わせていなかった。
スマホのアプリでも使うかと一瞬思ったが、電池切れを恐れてすぐに諦めた。M4カービンのバッテリーならば幾つかストックはあるが、スマホのそれは持っていない。充電手段を確保していない現在、起動させたくは無かった。
例え、それが二度と圏内になることは無いとしてもだ。
「たまらんね、これは」
独り言と共に一也は温くなった番茶を飲み干した。茶は勝手に飲んでいい、と小夜子に言われていたのだ。
日常的にはミネラルウォーターやサイダーをよく飲む一也であったが、そこは日本人である。お茶が飲めるというだけでも多少は嬉しい。
タイムスリップ......場合によっては、日本以外の場所に飛ばされていた可能性もある。
例えばこれがアフリカの奥地にでも飛ばされていたなら? 中央アジアの僻地にでも飛ばされていたなら?
喉を潤すことさえ難しかっただろうな、と考えつつ、一也は湯飲みを手の中で回した。黒い釉薬で覆われたそれに視線を落とす。揺れる小さな水面に自分の顔が映った。
少し不安そうだな、と一也は自分の顔を見ながら考える。だが思っていたよりはましだった。時代は変わってもここが日本だということが、やはり一也には嬉しかったのだろう。不幸中の幸いとでも言うべきか。
頭の中ではもう一つ別の事を考えている。小夜子が言い残した銃の事だ。彼女が言うには他の銃とは一線を画す機構らしい。村人の誰も使えない、そんな造りの銃を......自分が扱えるのかというと普通に考えて無理だろう。
確かにトイガンとはいえ、そこそこの種類の銃を触ってきた自覚はあるが。だからと言ってそんな伝説の武器のような銃を手に取り、更にはあの化け物みたいな巨大な野犬を撃ち抜くなど、まさに出来たら神業だ。
――だが、そう頭では理解してはいるのに心のどこかでそれを見てみたい、と願う自分がいた。
一也はそれを認めざるを得なかった。極限状況に追い込まれた中で、感情が振り切れたのかもしれない。
それでも一也は嬉しく思う。僅かな、本当に僅かな虚構のような望みではあるが、興味を惹かれることがまだあったのだから。
くあ......と軽く呻きながら一つ伸びをする。ポカポカと暖かい陽光を浴びていると自然と眠くなってきたのだ。
縁側の端に座布団を折り畳み、一也はそこに頭を置いた。僅かに沈むような感触があり、そっと目を閉じる。どうなるかは分からないが休める時には休むべきだろう――
緩い眠りからの目覚めはやはり緩かった。人の気配をうっすらと感じた一也は座布団の枕から身を起こす。「あれま、起こしちゃったみたいね」という陽気な声に「いえ、すいません。こちらこそこんなところで寝てしまって」と頭を下げる。
声をかけたのは小夜子の母親だった。細面の顔は年相応の皺があり、そこから生活苦が忍ばれはしたがどこか小夜子に似た上品さがある。一也は朝に一度会っただけだが、感じのよいおばさんだなというのが率直な感想だった。
日が少し高くなっている。小夜子の母親がここにいるのは昼食時だからだろう。汗を手拭いで拭う姿に"健康的な労働"というタイトルをつけたくなる。
返事はしたものの、他に何を話していいか分からずボーッとしていると「お腹空いてないの?」と聞かれてしまった。よく見ると台所の方で何やら湯気が立っているのが見える。
竈、というのだろうか、アニメの昔話で見た石造りの台の下では薪がパチパチと音を立てて燃えていた。
「お相伴に預かっていいんですか」
申し出は有り難いが、幾分ためらった。
確かに小夜子を助けはしたものの、一宿一飯の恩はすでに受けている。さほど裕福では無さそうなこの家にとって、一也の一食分はさほど軽くは無かろう。
「あらあら、いい若い人が遠慮せんと。娘を助けてもらったお礼よ、大した物はないけれど」
「ん、んん、それではすいません」
とは言うものの、笑顔で勧められると一也もそれ以上は固辞しなかった。そろそろ紅藤家に甘えてはいられないな、と言う思いはあるが空腹には代えられない。
小夜子の母親が木の椀によそってきた中身を見ると、茸や山菜が入った汁である。山の自然の野性味溢れる香りが鼻をくすぐり、一也はこれなら食べられるなと安堵した。何せ二十一世紀ではないので、自分の想像を上回る食べ物が出る可能性もあるのだ。
小夜子と小夜子の父親はまだ外にいるらしい。先に食べていいものかどうか迷っていると、「うちのにはお弁当持たせているし、小夜子はお昼はあまり食べないからねえ」とあっけらかんと言われてしまった。
全く相手がどんな人間か知らないのに、歳上の人間と差し向かいで食事をするのは少々億劫ではあった。だが食べ始めてみると、意外にもそんなことは無かった。
年の功なのか、小夜子の母親は距離感の取り方が上手い。一也が答えづらいかなと思う質問は巧みに避け、それでいて無理の無い範囲で話してくれる。
ぽつぽつと話す内に一也の気持ちも和らいだ。当たり障りの無い答えを返している内に、自然に会話は小夜子のこととなった。
「――小夜子さんに野犬を倒す手伝いを頼まれました」
一也がそう言うと、小夜子の母は「そう」とだけ答え小さく笑った。少し悲しそうな疲れたような笑みである。
「......通りすがりの方にまでそんなことをねえ。お困りになったでしょう」
ごめんなさいね、と付け加えたその横顔が急に老けたように見えた。一也は少し踏み込む。
「あの、そんなにこの村困っているんですか? あの野犬の群れにやられて?」
「旅の方に言うのもあれですが、正直言いますと......そろそろ限界かもしれません」
「そんなにですか......」
箸を置き、一也は言葉を濁した。先程小夜子に聞き忘れたが、警察は頼りにならないのかと聞いてみると「こんな村をわざわざ警護してくれないですよ」ということだった。
聞けば警察庁の発足以来、帝都東京の犯罪率は劇的に下がりはしてはいるらしい。だがその恩恵は、未だに吉祥寺村のような武蔵野の一角までは及んではいなかった。
全く別の角度からの話にはなるものの、一也からすればお洒落タウン吉祥寺がこのような山あいにあるということも改めて驚きであり、また野犬の集団と彼が持つ吉祥寺のイメージが重ならない。それが不思議な感じはしたが、明治二十年という時代は未だ荒々しさを残していた時代であったのだ。
薄々気づいていたが、どうも現在一也が生きる明治時代は教科書で学んだそれとは少し違うようだ。あんな巨大な野犬など日本にはいなかっただろうし、小夜子が使う呪法というのも妙であった。聞いた限りは魔法である。
"平行世界というやつか?"
胸中に浮かんだ疑問を口にするのはためらわれた。その代わりに眼前の話題に集中する。
「小夜子さんしか呪法士というのはいないのですか」
「ええ。この村にはあの子一人だけなのよ。あの子も呪法の力なんか無ければここに縛られなくてもいいのに」
「どういうことです?」
一也の問いに小夜子の母は直ぐには答えなかった。遠い目を庭の方に投げる。
「三嶋さんはご存じない? 呪法士は得手不得手はあれども特別な力があるの。だけど、それがあるからこそ村の人は呪法士に頼ってしまうのよ」
「それって」
「何から話せばいいかしらね......小夜子はたまたま呪法の天分を持って生まれたの。最初にその兆しを見せたのは四歳だったかしら――」
ぽつぽつと途切れつつも、小夜子の母親は話してくれた。
彼女によると、小夜子の呪法の才能は自然と開花していったようだ。式神を用いた戦闘補助や防御陣の構築、更には索敵結界などの呪法を幾つか習得しているという。他人とは異なる自分の能力を嫌がることも溺れることもなかった。
上手に使えば呪法は便利な代物である。殊に山で迷いかけた子供を見つけた時など、小夜子も誇らしげであったという。そこまでは良かったのだ――小夜子も村の人々も。
「――いつからかしら、村の人がことあるごとに小夜子に頼るようになったのは。村を脅かすような賊が出た、誰かが何かを失くした、隣村との街道が土砂崩れで塞がれた。そういったことがあると、まずは全部小夜子に持ち込まれるの。中にはあの子がどうにも出来ないこともあるのに」
「......小夜子さんはそれには何も?」
「断れない性格なのかしらね。だから、本当はあの子ね。東京に行きたいって思っているんだけど――行けないのよ。村の人を捨てておけないからって言ってね」
聞いているうちに一也は言葉を失った。紅藤小夜子とは昨晩出会っただけであり、彼女について一也は何も知らないに等しい。
だが、恐らく十五か十六歳と思われる少女の双肩には、今や村の運命がかかっているという。それは普通ではないだろう。
中学生かあるいは高校生が自分の希望する進路を圧し殺して危険な任務についている。
いや、周囲の期待からつかざるを得なくなっている。
そうやって自分の感覚に置き直すと、一也の心にさざ波のように揺れる物があった。
自分の隣に座った小夜子の姿はとても小さく。
昨日、棒を振り回して野犬を追い払ったその華奢な手を膝の上で揃えて。
あの小さな少女は――どんな思いで一也に野犬の討伐を頼んだのだろうか。
何とも言えない気持ちのまま、一也は部屋の隅の自分の私物を手にとった。
身を守るBDU――バトルドレスユニットは破れもほつれも無い。愛用のM4カービンはまだマガジンも替えのバッテリーもある。これだけでも昨日は野犬の群れを追い払うことは出来た。だが一也の装備では所詮そこまでだ。殺傷能力は無い。
逆に言えば、もし十分な火器があれば。自分にそれを撃つ知識と技術があれば――あるいは。
知らず知らずの内に、一也は拳を固めていた。その目に力が戻りつつあったが、それに本人が気がつくことは無かった。