拝啓 未来の大作家へ
"何故こんな事態になっているんだ"
腕組みをして椅子に座りつつ、一也は考える。
狭い部屋だ。
微かに薬臭いのは、ここが医務室だからである。部屋の壁にくっつけられるように置いてある薬棚を覗けば、磨りガラス越しに大きな薬品ボトルが見えた。
しかし、一也が気にしているのはそこではない。
袴のまま足を組み換えて、一也は目の前のベッドを見た。
白いシーツに包まれるようにしてそこに寝ているのは、先程拾った男である。
あのまま放置しておく訳にもいかず、とりあえず帝大の医務室に連れてきたまでは良かった。
そこで預けて「じゃ、俺はこれで」と言いかけた時に、帝大勤務らしき医者に呼び止められたのだ。
「あの、大変申し訳ないのですが」
「え、何か......」
「彼、夏目君のことでお願いしたいことがありまして」
思えばここで断るべきだった。
元々、一也はこの男とは何の関係も無いのだ。
しかし、面識こそないものの、夏目金之助――つまりは将来の夏目漱石と知ってしまっただけに、好奇心からついつい断れないまま医者の話を聞いてしまった。
何となくめんどくさい事を言われそうな予感がしたのにだ。
穏やかな表情をした医師が語るには、この夏目金之助なる男は帝大生ではないらしい。第一高等中学校という学校の学生らしかった。
中学生にしては大きいな、と一也は思ったが、恐らく自分が明治の常識を知らないだけだと判断して黙っていた。
結果論だが、この判断は正解であった。
「優秀な生徒でしてね。ご存じの通り、一高の卒業生の多くは帝大に進学します。その為、一高生の中で優秀な子は、先んじて帝大にちょくちょく顔を見せる子もいましてね」
なるほど。
断片的ながら一也は理解した。第一高等中学校とは帝大に入るための予備校か、あるいは下部組織のような組織なのだろう。
中学校という名称を自分の常識に当てはめないようにすれば、納得はいった。
そして医師の話し方からすると、どうやらこの夏目金之助君は帝大の方でも見知った顔のようだった。
「優秀なんですか、この人?」
「掛け値無しに。学年でも一、二を争う程でしてね。来年には卒業して、うちに入学出来るのではないかな」
「へえ、それはまた......」
「ただ、どうも体が余り強くないようでしてね。時々風邪を引いたり、それでいて無茶をしたりで」
医師の困ったような顔を見て、何となく嫌な予感はした。だが適当な口実が見つからぬ内に、厄介事は向こうの口から飛び出した。
「警察官の方にお願いするのは恐縮なのですが、彼を一高の寮まで連れて行ってもらえませんか? 時々ふらふらする傾向があるので、こちらも不安でして」
「え、いや、しかし」
「もし上司の方が何か言いましたら、帝大の方からご説明に伺いますので。何卒、ご協力頂きたく」
その上司ことヘレナ・アイゼンマイヤーに知られたら、いい顔をされないのは間違いない。
「業務と偽り大学の敷地を闊歩とは、いい身分だな?」くらいの小言は言われそうだ。
ここは話がこじれない内に丸く収めた方が、と判断する。
自己保身だなとは思うが、怒られたくはない。
一也が承知すると、夏目君が寝かされた医務室に案内され、そして今に至るという次第であった。
昼食は帝大の方で天麩羅蕎麦を用意してくれたので、腹の具合は問題はない。
蕎麦一杯で買収されたような気もするが、敢えて気にはしないことにする。
しかしいつ目覚めるのだろうか。医務室の古びた柱時計によれば、もう一時半である。
夏目君を医務室に運んでから、恐らく二時間近くは経過しているだろう。
ふむ、と小さく息を吐く。
別にこれといって用事が無い休日ではある。しかし、興味だけで見学していた大学の一室で、ただぼんやりと時間を潰すのはそれはそれで苦痛である。
急病人を途中で放り出すのも気が引けるし、まだ寝ているようであれば無理にでも起こしてしまうか。
乗り合い馬車でも使って届ければいいだろう。
"夏目金之助かあ。確か夏目漱石がペンネームで、本名はこっちなんだよな"
薬が効いてきたのか、穏やかな寝顔を夏目君は見せている。こういう形で有名人と接触するとは、一也からするとちょっとした驚きだった。
それほど読書家ではないが、夏目漱石の著作は幾つかは読んでいる。
その後書きにある著者略歴もさらっと読んではいたので、どうにか思い出した次第だった。
"話してみたい気持ちはあるんだが"
一也もミーハーな部分はある。
著者本人がいるならば、ちょっと聞いてみたい気持ちはある。
だが、果たしてそれは適切か。
"今、目の前にいる若かりし夏目金之助君は、小説家としての漱石じゃないんだよな"
漱石が小説家になったのは、もっと歳を重ねてからだ。
一也は夏目漱石の生年月日など知らないが、風邪で倒れた男は若い。自分とほぼ同年代、つまりは二十歳前後に見える。
多分、この頃の夏目金之助は小説にはまるで縁が無いはずだ。優秀な一高生以上でも以下でもない。
"とすると、まあ俺が別に話題に出来ることは無いか"
あっさり一也は諦めた。
興味は霧散し、さっさとこの将来の小説家を送り届けることだけに集中しようと決める。
夏目金之助が目を覚ましたのは、それから間もなくであった。
「......ここは」
「帝大の医務室だよ。気分は」
「ええと、どちら様ですか」
「通りがかりの警察官です、夏目金之助君」
不思議そうな顔を向ける相手に対する一也の言葉は端的だ。
簡単に状況を説明すると、夏目君は申し訳なさそうに俯いた。
落ち着くように声をかけてから、一也はコップに注いだ水を渡した。見た感じ、多少は落ち着いたようである。
「すみません、ご迷惑をおかけして」
「いや、まあ、仕方ないよね。医者に頼まれたのもあるし、今から君を一高の寮に届ける。ただ、事情だけ聞いてもいいですか」
一也の言葉に、夏目君の目が動く。
無言、それを承諾と受け取り、一也は更に問うた。
「体調が悪いのに、何故わざわざ外出したんですか。大人しく寮で寝ている方が良かったのでは」
返答はすぐではなかった。どう答えたものか、と迷っているようである。
急かすでもなく待っていると、やがて夏目君は口を開いた。
「Stray sheepってご存じですか」
「迷える羊だろう。君が池の側で呟いていたのを聞いた」
「聞かれていたんですね。そうか、あの時、後ろにいた方が」
気がついていたらしい。
一也が首肯して頷くと、ぽつぽつと夏目君は話し始めた。その視線はシーツと窓からの風に揺れるカーテンの間を往復する。
一也と視線を合わせるのを恐れているようでもあった。
「僕は一高に何とか入ったんですが、何だか性に合わないのです。勉学は好きですが、どうも雑念が入りまして」
ぽつり。言葉が一瞬止まった。
またすぐに話し始める。
時々考えを纏めながら話す為、夏目君の話は思いの外長くなったが、要点だけに集約するとさほど難しい内容ではなかった。
夏目金之助は、幼い頃実家から親戚筋に養子に出された。これがそもそもの発端である。あまりに幼かった為、養子に出された当時は事情は分からなかった。
だが成長するにつれ、そうもいかなくなる。
自分は両親に捨てられたのだ。両親は自分が可愛くないから、養子に出したのだ。
生来頑固なところもあり、金之助少年はそう思うようになっていた。
特に養父も養母も辛くあたった訳ではない。
更に言えば、明治の世において子沢山の夫婦が一人、二人を養子に出すのは珍しくは無いことではある。
しかし一般的とはいえ、個人個人がどう感じるかはまた別の話である。
実親への複雑な思いと屈折感を抱いたまま、夏目少年は成長していった。
幸いだったのは、彼が他人から抜きん出て頭が良かったことである。天下の帝大へのストレートコースである一高に入学し、そこでも好成績を挙げていた。
傍から見れば前途洋々である。
「そのうち、ふと思ったのです。僕はこのまま帝大に入って、それで満足なのかと。これでいいのかなと」
"何とも贅沢な悩みだな"
はっきり言い切る夏目君に対し、ただ一也は黙って聞いているだけである。まだ熱の余波が残る顔で、夏目君は話し続けた。
「ご存じの通り、帝大生は国を背負って立つ存在です。卒業後は官僚になる人も多い。そのような要職に、僕みたいな半端者がなるべきなのか」
「何故半端者と?」
「いつまでも親の影を振りきれず、うじうじしているからです......日本男児として恥ずべきことながら、この思いをどうにも出来ぬのです」
随分とストイックである。
そんな悩みを抱えている内に、ここのところ涼しくなったせいか風邪を引いた。
一人寮の布団にくるまり、あれやこれやと思い詰める内にどうにも頭を冷やしたくなったのだという。
後から思えば傍迷惑な話であるが、一高の寮から帝大までは遠くない。
静かな池があるのも知っていた。
寮の狭い自室にいるよりは、まだ綺麗な水でも見ながら過ごす方が気分も良かろうというのは理解は出来る。出来るのだが。
"思い込み過ぎじゃないのか"
一也からすれば、ちょっと理想主義に走り過ぎている。
十全の環境の下で育つ人間など、そうたくさんはいない。実親へのコンプレックスに悩む自分を認めたくないだけ、と言えなくもない。
無論、可哀想だなとは思う。
だが、彼には優秀な頭脳があり、周囲もそれをバックアップはしてくれてはいるようだ。
"でなきゃ、帝大の医者が親身にはならないだろ"
とはいえ、真っ向からそれを指摘するのも面倒だ。
結果、一也が行ったのは「それで羊は去ったんですか」という一言を投げかけただけである。
「いえ、まだ迷ったままです。何をどうしたらいいのか、良く分かりません」
「そっか。あ、馬車が来たみたいだから行こう」
夏目君に声をかけ、一也は腰を上げた。
一朝一夕で片付くことではないと知りつつ、未来の大作家に手を差し出す。
風邪のせいか、まだふらふらする夏目君は素直にその手を握った。
******
「夏目君は勉強以外に楽しいことはありますか」
「勉強以外に。そうですね......俳句はたまに詠みますね」
「ああ、良い趣味だ。だけど他にも何か言いたそうだけど」
迎えに来た馬車の中で、一也は夏目君に問う。
口ごもる夏目君の様子にピンときたのである。
知らない間柄だからこそ、言えることもある場合もある。
もしそういう事があるならば、この場で全部言ってみたらという気持ちもあった。
どうせ二度と会うことは無い仲だ。
その事実に背を押されたか、あるいは風邪のせいで理性のたがが緩んでいたのか。
馬車の車輪のかたこと鳴る音に混じって、夏目君は素直に吐露した。
「物語を......書いたりですかね」
「物語?」
「ええ、通俗的なって言われそうですが、巷間で小説と呼ばれる物を。勉強の合間にちょこちょこと」
「ああ、なるほど。それはその、他の人に見せたりは」
「いやいや、まさか! 人に見せる程の出来じゃあないですよ」
慌てて手を振る夏目君の様子に、一也は必死で笑いを堪えた。
貴方の小説は将来日本中で読まれますよ、と言ったらどんな顔をするだろうか。
そう言ってやりたい誘惑を振りきり、水を向ける。
「こう、あれですか。書いてみたい物語はありますか」
「ああ、そうですねえ。いや、どうかな。僕はまだ若輩だし、それに中々難しいから。でも」
「でも?」
「いつかは自分の好きな話を思い切り書けたら、このもやもやが晴れそうな気もするんですよ」
「何をどうしたらいいのか、という迷いが晴れると」
「ええ。今はまだ夢物語ですけどね」
小説の話をする時、夏目君の顔は明るかった。それを認め、一也はほんの少しお節介を焼くことにした。
「書いたらいいんじゃないかな、小説」
「えっ」
夏目金之助は瞠目した。
当時、小説は低俗な読み物と目されていた時代である。
言ってはなんだが、天下の一高生に執筆を勧めるなど普通はあり得なかった。
だが、目の前の男はそれを平気で口にする。
そういえば名前も聞いていないことに、今さら気がついた。
「でも多分今じゃないと思う。小説ってさ、自分の中から生む物だから。夏目君が自分を半端者なんて卑下する必要は無い。けれど、一高生の立場を降りて小説にかまけようってのはちょっと違うんじゃないかな」
話しながら、一也は考える。
夏目漱石ではなく、夏目金之助に何をどう伝えればいいのか。
いつか貴方は大作家になるからガンガン書け、と言えたらどんなに楽か。
だが、それは絶対に言ってはならない言葉だった。
将来がある若者に無責任に夢を見せるのは、それは容易い。けれども、ただ甘言を与えるのは優しさでは無い。
「俺は上手く伝えられるか分からないけれど、もし帝大を出たなら普通の人とは違う経験が出来ると思います。そうした経験は、きっと小説を書く際にも役立つはずだし」
「それはそうですよね、うん......」
「君は半端者なんかではないと思うよ。むしろ養子に出されても、帝大に入る資格を持てるほど勉強した自分を誇るべきだ。今日会ったばかりの人間がこれ以上は言わないが」
言いたいことは言えた。
自分の拙い言葉が背中を押す一助になればと、一也は願う。
それと同時に、あの夏目漱石にもコンプレックスがあったのかと思うと、妙に親近感が沸いた。
誰だって若かりし頃は、迷いの一つや二つあろう。
若者特有の気の迷いと呼ばれてもいいではないか。
青臭い理想であっても、他人から見たら馬鹿みたいな悩みでもいいではないか。
「皆、Stray sheepなんだよな――」
時代の気紛れに翻弄され、明治に居場所を見つけようとする自分を振り返る。
一也とて迷える羊の一匹である。致し方なかったとはいえ、昔の友人を手にかけた。親兄弟とは離ればなれである。
どうにもならないと迷い、悩み、だがそれでも。
「ちょっと気が楽になりました」
「それは良かった」
夏目君の礼に、一也は小さく頷いた。
馬車がその速度を落としたのが分かった。そろそろ一高の寮なのだろう。
聞こうかどうか迷ったが、結局興味に負けて一也は最後に問うてみる。
「つかぬことを聞きますが、犬と猫ならどちらが好きですか」
「猫ですね。何でも知っていそうで悠然としつつ、どこか間が抜けたようなところが。あの、それが何か?」
「いや、何でもないんだ」
やっぱりか、と一也は小さな満足を胸に秘めた。キイ、と音を立てて馬車が止まった。
******
結局、一也は最後まで自分の名前を言う機会が無かった。
一高の寮に着いて、夏目金之助を寮長に引き渡して、それで終わりであった。
「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げる金之助君には、ただ「お大事に」とだけ告げた。さっぱりした別れであった。
その夜、散策を終えて長屋に戻ってから、一也はごろりと畳の上に寝転んだ。長時間の散策で適度に疲れ、一つ大きな欠伸をする。
ふと日中の出来事を思い出し、壁際の小物入れの蓋に手を伸ばした。
堅い樫製の蓋を開け、久しぶりにその中の物を手につまみ上げる。
それは黒い耐水ビニールの財布である。一也がタイムスリップした時に使っていた物だ。
二つ折りになった札入れの部分を探ると、お目当ての物が運良くあった。
「あー、やっぱ面影あるなあ」
やや古びた千円札を指でひらひらとさせながら、一也はそれを洋灯の光に透かした。
中央に印刷された髭が特徴的な男の顔は、奇妙な縁があった一高生の顔にどこか似ていた。




