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知の最高峰

 六義園を出た後、一也が歩くのは本郷通りである。

 その名の通り文京区本郷を貫くかのようなこの路は、一也には馴染みは薄い。

 無論、警察の業務の上では何度か通ってはいる。ここで言う馴染みが薄いというのは、平成の時代での経験や感覚からである。

 半ば揶揄を込めて文京区はお受験の区と言われる通り、妙な言い方になるが東京二十三区の中でも学業に向いている区だという。

 そう思わせる理由は何か。はっきりしたデータが無くとも、幾つかは挙げられよう。



 まず文京区という字面そのものがある。これが案外馬鹿には出来ない。

 そもそも地名という物は、元々その地域の印象に相応しい地名がつけられる。卵が先か鶏が先かの話になりかねないが、文京区という地名そのものが、ある種の心理的な好印象を与えて人を惹き付ける側面は否定出来ない。



 また、JRの駅が無いことから駅前の繁華街が無く、全体的に閑静で治安が良いという要素もあろう。

 これには幾分高台にあるということも、多少関係してこよう。



 そして何より、江戸の頃から学門や医学関連の建物が多かったのが大きい。

 小石川療養所は、貧民の病気治療の為に設置された全額公費負担による無料病院であるし、湯島にある昌平坂学門所は江戸時代における幕府直轄の学舎であった。

 その他にも、青木昆陽が甘藷の試作をしたりといった農作物の実験も、この文京の地で行われている。



 無論、三嶋一也はこうした事実を全て知っている訳では無い。

 だがのんびりと歩きながらも、この本郷通りの空気が普段通る神田や浅草、或いは八重洲といった辺りとは違うことは分かる。

 団子坂の雰囲気とも似ているが、少し異なる。

 抽象的な表現になるが、あちらは文学が醸し出す通俗的なインテリゲンチャな空気を纏っている気がする。

 知には違いないが、どこか世に対して斜に構えた部分がある。



 "なんつーか、本郷の辺りってやっぱりお受験ぽいっていうか"



 家の間隔にもゆとりがあり、あまりごみごみした感じが無い。

 どこかの婦人が落ち葉を箒で掃き清めているが、その所作一つにも上品さがある――というのは言い過ぎか。

 一也が色眼鏡で見ているのかもしれないが、何となく皆賢そうな感じがするのだ。



 "秋だなあ"



 道端の鬼灯の橙色を目にして、ふとそう思う。

 本駒込を抜けると、畑などはもう見当たらない。

 瓦葺きの民家が多く、住宅街といった様子である。古い家が多いのか、庭に植わった楡や松の木が大きい。

 なるほど、明治時代においては本郷の辺りは郊外型の住宅地、それも結構上品な方だったようだ。そうした土壌があるからこそ、一也が目指す本日第二の目的地も建てられたのだろう。



「お、あれかな」



 微風に呟きがさらわれた。

 緑豊かな敷地が視界に入ってきたのだ。左右に石塀が広がり、そしてそれに沿って何本もの常緑樹が立ち並んでいる。

 石塀はまだ新しい。その灰がかった白色が木陰にひっそりと沈んでいた。

 現代において東京大学と呼ばれる日本の最高学府、帝国大学の敷地であった。




******




 "へー、これがねえ"



 帝国大学、通称帝大の塀沿いに回り込みながら、一也は少しばかり驚いていた。

 そもそも今日帝大を訪れた理由だが、実は特に無い。

 自分には縁の無い最高学府を拝んでやろう、という些か自己卑下した感情に身を任せただけである。高校時の一也の学力では東大など受かるはずもなく、早々に諦めていたのだ。

 従って、今こうしてその前身である帝大の前にいるのは気まぐれの為、というのが最も正しい。



 詳しくはないものの、明治時代に大学が設立され始めたことくらいは知っている。

 東大、早稲田、慶應義塾などいわゆる有名大学はこの明治時代にスタートしているのである。

 西洋に追い付け追い越せ、国を背負う人材を育成せよという命題を抱えているのが、この当時の大学だ。

 それ故、もっと厳めしい感じの建物を想像していたのだが、実物は少し違った。



 "でかいな、これが赤門か"



 本郷通りに面する和式の門の前に立つ。木製の分厚い観音開きの扉は、その丈が一間半近くありそうだ(一間は約1.8メートル)。

 しかもただ単に門があるだけではない。

 門の上には大きな屋根があり、入り口としての風格を強調している。赤門の通称の通り、綺麗な赤に塗られており結構インパクトがある。知らずに見れば城門と見間違えそうだ。

 守衛なのだろうか、制服を着た男がその前に立っている。

 平成のカジュアルな大学しか知らない一也からすれば、重厚感が半端ではない。



 だが、圧迫感は不思議と感じなかった。屋根瓦が少し丸みを帯びたデザインだからか、あるいは時折門を通る帝大生の溌剌とした話し声がするからだろうか。

 門から少し離れて塀の向こう側へ視線を上げれば、すうと天へと伸びた糸杉が立っている。

 その濃緑が門と不思議と調和して、雰囲気を和らげていた。



「英文法の宿題やってきとるか」



「いやあ、昨日は歌舞伎観に行ってて、全くなあ」



「そうかあ、俺もじゃ」



 背後からそんな声がしたと思うと、二人の学生が一也を追い抜かしていった。

 二人とも絣の着物に袴、手には皮帯で留めた何冊かの本という時代がった格好である。

 しかし、今の会話からすると帝大生とはいっても勉強だけしているという訳では無さそうだ。



 "さて、このままここで待っていても芸が無いし"



 塀に持たれつつ、門の方を見る。

 正直若干の気後れはあるが、ここまで来たら興味の方が先に立つ。

 意を決して、ふいと大きな門へと近づくと、守衛らしき男に「学生証はお持ちですか」と聞かれた。

 なるほど、予想通りである。一也が懐から取り出したのは、無論学生証ではない。



「警視庁特務課第三隊の三嶋一也です。定期巡回の為、立ち入らせていただけますか」



「これはこれは、お務め御苦労様です!」



「特に案内などは不要です、では失礼」



 泣く子も黙る警視庁、その中でも特務課と言えば秘密裏に行動することも多い。その為、ほとんどの敷地内への立ち入りが黙認される。

 無論、今回は仕事では無いので、そういう意味では違反行為だ。ただ第三隊の仕事の性質上、急に公的機関へ踏み込む場合も少なくなく、悪事を働かぬ限りは黙認されている側面はあった。



 少々の後ろめたさを感じつつ、それでも一也は帝大の門をくぐった。

 茶色の路が緑の芝生を突っ切り、真っ直ぐ前へと伸びている。黄色く色づいた銀杏並木が頭上を華やかに彩っており、視線を落とせば芝生の緑と銀杏の落ち葉の黄色が良い対比を見せていた。

「これが帝国大学か」と一言呟き、ゆっくりと空気を吸う。

 なるほど、空気まで違う気がする。

 雰囲気にあてられているせいもあろうが、都心の真ん中にもかかわらず、糸杉や銀杏など木々がこれだけ豊かなのだ。あながち気のせいばかりとは言い切れない。



 "駒込辺りは畑が多かったことを考えると、帝大はぎりぎり都会と呼べる東京の端に建てられたってわけか"



 建設当時は、ここらは学門に最適な緑豊かな郊外だったのだ。

 政府の目論み通り、落ち着いた環境下に置かれたこの最高学府から数々の人材が育っていった。

 一也は東京の発展には詳しくないが、恐らく第二次大戦前くらいまではそんな感じだったのだろうと推測する。

 つまり、敗戦後の復興によって東京の人口は膨れ上がった。その結果、帝大の敷地は住宅に飲み込まれ、本郷通りにもビルが立つようになったのだろうと。



 江戸から東京へと都市名を変えた時には、将来それほど東京の人口が膨れ上がるとは予想だにしなかったに違いない。

 それも無理はないな、と一也は密かに思う。

 明治の世を半年ほど過ごしたから分かる。

 この時代の人々は、日本は世界において小さな島国という事を嫌という程教えられているのだ。

 それが百数十年後には、東京は世界有数の大都市になるとは夢にも思うまい。



 言うまでもなく、一也は平成の東京を知っている。

 だからこそ、日本の最高学府は文京区本郷という都心の閑静な街並みの中心にあり、そのように最初から建てられたと思っていた。

 だが違うのだ。時代と共に都市は変わり、帝国大学は東京大学と名称を変え、それと共に立地条件も変わっていったのだろう。



 そんな感慨に浸りながら歩いている内に、視界の一角が建物に占められつつあった。

 テレビで見たことのある東大の安田講堂かと思ったが、どうもそうではないらしい。

 一也は知らぬことではあったが、時計塔が目立つ安田講堂は大正十四年に竣工されている。即ち明治二十年には無い。



 今、一也が目にしているのは帝大法学部の講堂であった。

 赤煉瓦を多用した壁面は落ち着きがあり、張り出したファサードは角度の緩いアーチを描いている。

 ちょうど玄関に入る前の準備として、そこで埃や雨を落とすように誂えたかのようである。

 建物自体は二階建てであり、さほど大きくはない。

 だが、あの鹿鳴館を設計したコンドルによる講堂である。こじんまりとしながらも、そこには確かな存在感があった。



 "うちの大学と全然違う"



 一也は密かに嘆息した。

 比較自体に無理があるのは承知だが、立候大学の学舎と比べると風格の差は歴然である。

 よくよく見てみれば、雨樋や庇などの細かい箇所には黒い煉瓦が使われているようだ。

 それが全体の雰囲気を引き締めている。



 このこじんまりとしながらも重厚な学舎を眺めつつ、一也は建物の横に回った。

 中に入っても別に問題は無さそうだったが、とりあえず敷地をぐるっと見てみることにしたのだ。芝生の上を歩けば足にも優しい。




******




 帝大の敷地は予想より広かった。

 何学部の学舎がどこにあるかも分からないまま、一也はいつしか奥へ、奥へと進んでいた。

 全体の雰囲気は一也の知る大学のキャンパスと大差無い。

 自転車や原チャリが置かれていない、女学生がいないためむさ苦しい感じがするなど細かな差異はあるが、久しぶりに大学生に戻ったような気がする。



 緑が豊かなこともあり、ちょっとした探検気分である。授業を見てみたい気持ちもあったが、流石にそれは躊躇われた。

 内容についていけるとは思えなかったし、いかに警察官であってもそれは横暴に値するだろう。

 日本を背負う知のエリートの邪魔をする訳にはいかない。



 四つ目の学舎の裏手へと出る、すると急に景色が変わった。

 土の路が煉瓦を敷き詰めた小路になっている。それがゆっくりとカーブして続くのは、小さな石橋だ。

 ぽちゃん、と微かに柔らかい音がした。水場があるのか、と気がつく。

 カーブの終わりまできてから、一也は左右を見た。



 長さ二間程の石橋をかけられた小さな池がある。柳や楓が池を囲み、その葉が水面に影を投げかけていた。

 石橋が西洋風の造りのせいもあるが、風景画の一部のようである。これだけキャンパスが広ければ池の一つや二つあってもおかしくは無いが、それにしても風情がある。

 視線を動かすと、石橋の向こう側、つまり池の反対側に誰かしゃがんでいるのが見えた。

 黒っぽい着物姿の男だ。何故か邪魔をするのが躊躇われて、一也はそこで足を止めた。



 "あんなところで何してるんだ?"



 授業をさぼるならさぼるで、他に時間を潰す場所はいくらでもあるだろう。こんな目立たない場所にある池を眺めて、一体何をしているのか。

 男は一也には気がついていないようだった。

 水辺に近い手頃な倒木に座り、両膝に肘を置いて項垂れている。寝ている訳では無いのは、時折顔を上げることから分かる。

 まだ若そうに見えるが、その思慮深そうな顔はどことなく暗い。



 しばし躊躇った末、一也はゆっくりと石橋を渡ることにした。

 何やら悩んでいるのかもしれず、かといってその男一人を理由に引き返すのも違う気がした為だ。

 邪魔にならないよう、静かに石橋を渡りきった時、ひっそりとした声が聞こえた。



「Stray sheep」



 英語だ。

 見知らぬ男が座ったまま喋ったその英語が――微かに一也の記憶に引っ掛かった。

 Stray sheep、ストレイシープ、迷える羊という意味だ。

 どこで知った、受験勉強では覚えない英単語だ。でも何かの拍子で聞いたような、読んだような気がする。



 知らぬ内に一也は足を止めていた。

 男はこちらに背を向けたままである。その黒い着物姿は細い。

 まだ何か言うかもと一也は思ったが、男は何も言わなかった。



 "単なる独り言か"



 これ以上ここにいても仕方が無い。

 一也が池から離れようとした時であった。ぐら、と男の体が揺らいだ。視界の端でそれを捉え、一也は慌てて振り向いた。

 男が前のめりに倒れている。

 倒木から滑り落ちてこそいないが、両肘は膝から外れており、体を二つに折り畳むような形になっている。



「ちょっと、大丈夫ですか!」



 発作かあるいは急病か。

 慌てて一也は男に駆け寄る。

 急に動かしても良くないと判断し、慎重にその体を支え起こす。

 外傷は無い。だが、着物越しに掴んだ肩がやたらと熱い。

 熱か。顔もよく見れば赤っぽいし、息も荒い。



 "風邪か? 何でこんな体調で外にいるんだよ"



 この池にはあまり人も通らない。

 この男の事情は分からないが、とりあえず帝大の医務室まで連れていこうと決めた。

「立てるか」と声をかけつつ、返事を待たずに肩を入れて男を支える。



「......すいません」



「無理して話さなくていい」



 男に短く答えつつ立ち上がる。

 その時、はずみで男の着物の袂からぽろりと落ちた物があった。

 小さな紙表紙の手帖だ。

 一也が素早くそれを拾い、男に返そうとした時だった。

 手帖の表紙の文字が目に入る。細い筆で書かれており、神経質そうな書体である。



「夏目金之助......?」



 一也は目を見開いた。

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