終局を紡ぐ者達 壱
邪馬魚苦の姿は、戦場を見守る金田らの目にも留まっていた。
体の大きさもさることながら、時折飛翔するためである。
積み上げられた木箱の隙間から濃緑色の皮膚が垣間見える度、そして魔獣の咆哮が響く度、神奈川警察の面々に動揺が走った。
そしてそれは、小夜子に捕まり引き渡された寺川亜紀も同様であった。
「う......そ。嘘、でしょ。あんなの――何で」
折れた肋骨を庇いながら、寺川は呻く。
その顔が青白いのは、何も痛みのせいだけではない。自分が今見ている物が信じられなかったからである。
形容し難い有翼の怪物が、暴れ回っている。
しかもそれを相手に立ち回るのは――流石に距離が遠いので断言は出来ないが、一人の女性のようであった。
恐らく、女性は特務課第三隊の隊長、ヘレナ・アイゼンマイヤーだろう。
では、あの怪物は何なのだ。
第三隊に敵するということは、神戦組に属するのだろう。
だが、断じてあんな怪物は知らない。
神戦組の全てを知っている訳ではないが、あのような怪異妖物を飼っていれば幹部達には間違いなく伝達される。
それなのに何故。
「その顔だと、貴女も知らなかったみたいっすね? ええと、寺川さん」
唐突に聞こえてきた声に、寺川は顔を上げた。
軽く腰を落とした警官は、優しい顔でこちらを見ている。確か、岩尾と言っていたか。紅藤小夜子がそう呼んでいた。
「し、知りませんでした。全く――あんな、あんな醜悪な怪物、見たことも聞いたことも!」
「そうっすか。いや、まあ自分の切り札ってのは仲間内でも隠してたりするっすからね。そうすると、あれが何なのかを推測するには手がかりなしか」
「ふん、知っていようがいまいが儂らがやれることは、一つだけじゃろ。考えてもしょうがない、そうじゃろ、岩尾」
二人の会話に割り込む形で、年輩の男――金田が口を挟む。
太い眉をしかめ、ぐいと遠方を睨んでいる。その姿からは、怯えや恐怖といった負の感情は見当たらない。
それは岩尾も同様だった。
何故だ、と寺川は不思議に思う。
"この人達は、何の特殊技能も無さそうなのに"
金田や岩尾だけではない。
彼らが指揮する神奈川県警の警官達も、顔こそひきつっているが怯えた様子は無い。隊列も崩さず、無駄口一つ叩かないまま、この港湾地区を封鎖している。
いかにこの明治時代が、怪異妖物や呪法といった要素満載の時代とはいえ、あんな禍々しい存在を見慣れているとは思えないのに。
"何故、逃げないの"
見知らぬ怪物に震える二の腕を抱き締めて、寺川は問う。
「逃げなきゃとか思わないんですか」
「ん、ほんとは容疑者が勝手に口聞いちゃ駄目なんですけど、ま、非常事態だしいいか」
寺川の問いに、岩尾が肩を竦めた。金田は無言で前を向いたままである。
「理由は二つっすね。まず、僕ら神奈川県警は、ヘレナさんら特務課第三隊の皆さんが神戦組と交戦している間、この港湾地区を封鎖するよう命令を受けているんす。それはとりもなおさず、全部横浜市民の安全を守る為。僕らが勝手に逃げたら、万が一の時、誰が市民を守るんすか?」
「......もう一つは?」
「あー、一つ目の理由と被るんすけどね」
ちょっと照れたように言い淀み、それでも岩尾は口を開いた。頼りなげな垂れ目を伏せて、彼は言葉を選ぶ。
「悔しいでしょ。力が無いって理由で逃げたら。ヘレナさんらがわざわざ東京から来てくれて、こうして身体張って戦ってくれるのに。現地の県警の僕らが逃げたら、あの人らに顔向け出来ないじゃないすか」
それは大きな声ではなかった。
辺りに響くような声では、けしてなかった。
にもかかわらず、その岩尾の発言の中の強さに、寺川は怯まずにいられなかった。
「――立派、なんですね」
「別に立派なんかじゃないっすよ。日本国民の安全守る為に、僕ら警察官てのはいるんです。職務に忠実にあらんとすれば、こうなるってだけです。ま、ちょっとばかしは、あんたら神戦組なんかに舐められてたまるかって気持ちもありますがね」
「岩尾、その辺にしとけ」
徐々に語調を強める岩尾の肩を、金田がぽんと叩く。熟年を迎えた警部は、言葉も無い様子の寺川を見据えた。その太い唇が少し歪む。
「のう、嬢ちゃん。儂はな、四民平等を本気で目指してたっちゅう神戦組自体は嫌いやない。色んな考え方があって当たり前やし、今の明治政府のあり方が万全て訳でもないことくらいは分かる」
大きな声では言えんがな、と付け足し、再び金田は口を開いた。
「けどな、どんな世の中でもな、そこに生きてる人ってのがいる。儂にも長年連れ添った妻もいれば、可愛い娘もいる。そういう身近な幸せってもんを傷つける輩には、絶対屈しない。その誇りを失ったら、警察官は続けられん。自分の、そして国民の大切なもんを守る為に、わしらはこの職業やっとる。一言で言うなら、そういうことや」
「......」
重かった。
自分を責めるわけではない。
ただ前に立ち、諭すように語る金田の言葉が――寺川の胸の奥にずしりと沈む。
自分の好き嫌いだけで動いてきたその浅はかさを、見せつけられたような気がした。
寺川は自分の手を見る。銃も何もそこには無く、ひたすらに頼りないその手は――薄っぺらかった。
そんな重要容疑者に一瞥をくれた上で、金田は前に向き直る。その膝は小刻みに揺れていた。「とは言うても、あんなんが向かってきたら怖いのう」と思わず呟いてしまう。
「金田さんもですか、いや、実は僕も本音を言えば怖いんすよね。何をどうやれば止められるのやら」
「素直やのう。怖かったら逃げてもええんやぞ? 若いもんが死に急ぐことはないわ」
金田と岩尾が顔を見合わせる。肩を竦め、岩尾は首を横に振った。
「お断りっす、金田さん。自分も神奈川県警の端くれですから。最後まで見届けるくらいはやりますよ」
「ふん、言うようになったな、若僧が」
金田はふい、と横を向いた。微妙にその声が嬉しそうにも聞こえたが、それを突っ込む間も無く、怪物の咆哮が轟く。微妙に空気が揺らぎ、気を抜けば圧倒されそうになる――人外の叫びであた。
金田が、岩尾が、寺川が、そして神奈川県警の面々が一様に身を引き締めた。
だが、恐怖に身を竦めようともその場を去ろうという者は、一人もいるはずもなかった。
******
魔獣の前腕がしなり、獲物に向けて振るわれる。
鞭を思わせる細くしなやかな指が迫り、ヘレナを追い詰めてゆく。直撃しなくとも、寸刻みに空間を切り裂き、あわやヘレナの体を掠める。それが何度も繰り返されていた。
邪馬魚苦はその度に嗜虐的な声を歯の隙間から溢れさせ、それが余計にヘレナを苛立たせる。
「調子に――」
横に振るわれた敵の右腕を、上半身をのけぞらせて回避。
更に真上から叩きつけられた左腕は、半身を返して空振りさせる。
やられっぱなしは趣味ではない。ヘレナの左手に握られる闘光剣は、煌々と燃えるような光を放っていた。即ち反撃の狼煙だ。
「乗るなよ!」
半身を返し、そのしなやかな体を反転させた。回転させた分だけ詰めた間合い、そして同時にそれは剣に勢いを与える。
得意の左片手横斬り、だがそれすらも届かない。
魔女の一撃を阻むは、水を用いた流体防御だ。空気よりもしなやかに強かに、それが立ちはだかる。
屈辱である。しかし、そこで手を休めるようなヘレナではなかった。
邪馬魚苦が自分に反応するよりも早く、更に斬り込む。
敵の左から回り込み注意を惹いた上で、跳躍。魚を思わせる顔は、ヘレナの視界の左下だ。つまり、まだ自分に奴の歯は届かない。
その背中を跳び越えながら、逆手に握り直した闘光剣を突き立てた。
「これならば!」
体の前面以外ならば、あるいは攻撃が通るか。
ヘレナのその思惑は正しかったらしい。抵抗こそあったものの、刃は確かに邪馬魚苦の皮膚まで届いた。
ブシュ、と鈍い音と共に青っぽい血が噴き出す。それを尻目に、ヘレナはそのまま魔獣の巨体を跳び越えた。一撃くれてやったと喜んでいる場合ではない。
「中々粘ルガ......この程度では倒すには程トオイ」
まだ土谷の名残を留めた声で、邪馬魚苦は唸った。
浅い傷である。
あれだけ回り込まれながら、この程度の手傷ならば――むしろそれは自信につながるだけだ。一撃程度くれてやる。
「非力ダナ。さっさと捩じ伏せてヤロウカ」
人と魔獣の意識の境目をさ迷いながら、邪馬魚苦は吠えた。
ヘレナは体のあちこちに傷を刻まれ、それでも果敢に立っている。
その体は細い。女の身ながら鍛えられてはいるのだろうが、魔獣の体とは比べるべくもない。
なのに、紺色の制服に身を包んだ魔女は――小揺るぎもせず、こちらを睨みつけている。
「惨めナモノダ。矮小な人間の身で今のボクに勝てるわけがナイダロウ」
せせら笑った。ブクブクとあぶくが割れるような声が、歯の隙間から漏れた。
構わず邪馬魚苦は言葉を連ねる。文字どおり、高みから見下ろしてのいたぶりの言葉であった。
「さて、これ以上は力の差を見せつけられるダケダと思うガ。まだ続けるノカナ」
「当然だろう」
ヘレナの返事は即答。迷いなど一分も無く、その桜色の唇が開く。
「人の身から魔獣へと堕落しておいて、いい気になるなよ、小者風情が。貴様などに膝を屈するほど、私は――いや、私達は落ちぶれてはいない」
「フン、言うだけならばいくらでも言えるダロウガ......たった一人で何がデキル」
「一人に見えるならば、貴様の目は節穴だ」
戦闘の中の束の間、魔獣と魔女は向かい合った。
虚ろな大きな目と、美しい青緑の双眼が真っ向からぶつかった。
形勢は邪馬魚苦が有利にも関わらず、ヘレナの表情に気負いは無い。
「何をふざけたことを――お前の周りには誰もイナイダロウガ」
「いるさ。ここにこうして私がいること自体が......何よりの証拠だ」
一歩、ヘレナは前に出た。
邪馬魚苦は後退こそしないものの、ヘレナの全身から迸る覇気をまともに受ける。
そのただならぬ気配は、けして軽視出来ない物だった。
「三嶋君が切り込み」
危険な先鋒を買って出た銃士は、たった半年しか在籍していないのに今や代わりがいない戦力であり、仲間である。
「順四朗が危険を冒し」
一人後方に回り込み敵の背後を突くという任務は、誰でも出来る訳ではない。だがあの飄々とした男は、進んでそれを引き受けた。
「小夜子君が私を守り、貴様へと届けてくれた」
手持ちの式神全てを使い、あの小さな身体で戦場に立ってくれた。本来、支援が本業にもかかわらずだ。
「――全て、私の剣をお前の喉元に突きつける為だ。皆の力が私の背を押してくれるのさ。故に人としての誇りを失い、力に溺れた貴様など恐るるに足らないんだよ。浅い考えで内乱を起こし、そして今や誰一人として周りにはおらず、たった独り醜い魔獣と化した貴様などな」
ヘレナの言葉自体が刃と化した。一言ごとに、それは邪馬魚苦の、いや、土谷史沖の自尊心を削る。
圧倒的な力に酔いしれ、勝利を目前としているはずの魔獣は怒りの咆哮を上げた。
「しゃらクサイ......いいダロウ、そこまで言うならばミセテミロ、貴様ら第三隊の力とやらヲ! 全てこの邪馬魚苦の力で斥けてヤル!」
魔獣が吠えた。
大地を揺るがすような声が響き、それと共にその巨体の周囲の空気が巻き上がる。
濃緑色の皮膚が毛羽立ち、荒れ狂う風が体内にじわじわと吸い込まれていく。
足元を崩されそうになり、ヘレナが後方に跳ぼうとするがそれすらもままならない。
「今まで身軽に避けてキタガ、もうそうはサセン。風に囚われ、毒に犯サレロ!」
ゆっくりと邪馬魚苦はその顎を開いた。真っ黒な気体がゆらりとその口腔で蠢く。
間違いなく、その質量はこれまでで最大だ。
しかもヘレナは足元を逆巻く気流に取られ、回避体勢は取れそうもない。
必中の一撃を放つため、魔獣の首が一度後方に振られた。長い首がしなり、その弧が頂点で一瞬だけ止まる。
勢いをつけて、それが前へと振られようとした瞬間――空を貫いたのは一条の閃光、そして銃声だった。
邪馬魚苦の首が大きく横へと吹っ飛ばされた。右から左へ、いきなり張り飛ばされたかのようにである。
ゴフッという鈍い音を立てて、毒の煙で満たされた顎が開く。万全とはほど遠いとはいえ、勢い余って漏れ出た禍々しい煙がヘレナ目掛けて吐き出された。
だが――それも届かない。
魔獣の右後ろ脚が深々と切り裂かれていたのである。その為、方向がずれたのだ。
鮮血が迸り、邪馬魚苦の体が揺らいだ。
「ぎりっぎり間に合ったやろ?」
駆け抜けながらの抜刀術――その真髄を見せた奥村順四朗は不敵に笑い、狂桜を一振りする。血糊が舞い、風に散った。
「――命中てやったぜ」
死闘の中心地から離れること、凡そ二町をやや超える遠い間合い。
そこから渾身の一発を邪馬魚苦の首筋に叩きこんだのを確認して、三嶋一也は魔銃を下ろした。
最後の集中力を使い果たし、その右目をそっと閉じて。
一町=約109メートルです。




