噛み締める現実
茶を飲み終えると一也は暇になった。当面やることが決まっていないからだ。
無論、この不可解な状況を脱して早く家に帰らねばとは思う。思うのだが、どう考えてもすぐにどうこう出来るとは思えないのも確かであった。
タイムスリップに巻き込まれた。真面目に考えるのも馬鹿馬鹿しいが、そうとしか思えない。SFの世界ではポピュラーな現象であるタイムスリップとは、一般的には次のように定義されるだろう。
"ある人物またはある物体がその状態を保持したまま、過去または未来にいきなり転移すること"と言えば、大体の意味で正確だろうか。
噛み砕いて言えば、本人がいるはずの無い時代にいきなり飛ばされて右往左往している――これがよくあるタイムスリップの現象だ。
(どう考えてもタイムスリップなんだよな)
一晩経過した今、一也はそう結論づけた。そうした事象が発生した原因は分からない。何故自分が巻き込まれたのかも分からない。 仮にこれがサバゲー部の部員が企んだドッキリだとしたら――かなり無理がある推測だとは一也も承知だが――手が混みすぎている。
それに人間だけならともかく、あの野犬の群れはどう説明するのか。念のためにこの現実味を欠いた推測を考察はしたが、十秒足らずでその可能性は一也の頭から排除された。
「あの、三嶋さん」
「はい?」
紅藤小夜子の呼びかけに、一也は慌てて反応した。朝食が終わり手持ちぶさたになったので、縁側にこしかけて外を見ていたのだ。
先程食事を済ませた部屋に属する縁側である。後片付けをする小夜子に一時放置された形となり、仕方なく一也はそこから庭を眺めていたのであった。
春らしく菫や芝桜が咲く小さな花壇があり、竹製の生け垣越しには村の他の家が見えた。時折緩やかに風が抜けていき、庭木の枝葉を揺らしていく。何とも穏やかな春のひとこまである。
だが小夜子に声をかけられた瞬間、そんなのほほんとした空気は吹き飛んだ。
この時一也の頭の中を占めていたのは、どうにかして自分がいた時代に帰る方法を見つけること、そしてその為の時間を稼ぐために当面の生活拠点を確保しなくてはならないという二点だったのだ。
これを一人でやらねばならないのか、と思っていた時に小夜子に声をかけられた。意識の外からの不意打ちになり、一也としても驚いたという次第である。
縁側に腰掛ける一也の隣に、ちょこんと小夜子が座った。昨日は夜中だったのでそこまで観察していなかったが、かなり一也より背が低い。
恐らく150センチは無いだろう。体のバランスがいいので身長の割りにチビっ子という感じはしないが、174センチある一也からすれば下手したら小学生に見える。
だが、これは別に小夜子が特別に背が低いわけではないのだとすぐに気がついた。
うろ覚えではあったが、日本人の平均身長は江戸時代から平成にかけてかなり伸びていたはずだ。江戸時代末期で男性の平均身長が確か150センチの半ばかそこらである。
そう考えると、もし今が明治二十年であるならば――女性の平均身長は150センチくらいでもおかしくはない。
"平成の常識を当てはめるのは危険だな"
気をつけようと自らを戒め、一也は隣に座る小夜子を見た。
今日も着物姿であるが、昨日とは違いやや紫がった灰色という渋い色調である。紅藤という姓だからといって、別に赤系統の服しか着ないわけでもないらしい。
「何か」
「――単刀直入にお聞きします。三嶋さんは、実は名の知れた銃の名手でいらっしゃったりしますか?」
互い僅かに間を置いて、二人の男女は言葉を交わす。
小夜子の問いに含まれた真剣な響きを感じとり、一也は数瞬の躊躇いの末にゆっくりと答えた。
「何を期待しているのかは分かりませんが......違います。俺はただの学生ですよ」
嘘ではない。立候大学法学部の二回生である。この時代ではまるで役に立たぬ肩書きではあるが。
「が、学生さんなんですか!? でも昨日あんな凄い銃で一瞬で野犬の群れを――」
「あれは本物じゃないんです。簡単に言うと玩具の銃なんですよ。俺は本物の銃には触れたことは無いです」
小夜子が何を期待しているのかが分かるだけに、正直に答えなければならないのが一也には辛かった。
今の自分は何だ。
訳の分からぬまま、サバイバルゲームの装備一式だけを共にタイムスリップに巻き込まれた。ただそれだけの男だ。
そんな自分が出来ることなど――何がある。知り合いもつてもおらず、今にも路頭に迷う寸前の自分が――何が出来ようか。
一也にしてみれば、正直泣きたかった。身ぐるみ剥がされて砂漠のど真ん中に放り出されるよりは百倍ましだが、明日への展望が見えないという点ではさほど変わりがないかもしれない。
これがゲームならば、いきなり異世界にぶっ飛ばされても魔法や伝説の武器でどうにかなるのだが――自分にはそんな幸運は訪れなかったな、と自嘲する。
だがそんな一也の内心を知らぬまま、小夜子の目は真剣であった。一度断られたくらいでは折れぬ、という固い意志が少女に凛々しさを添えている。
「力を貸して欲しいんです。あの銃が玩具だなんて私には信じられないですけど、でも」
「でも?」
「仮にそうだったとしても、三嶋さんは銃を使える技術はあるんですよね?」
「......紅藤さん。その問いに答える前に聞かせて欲しいんだけど」
そろそろはっきりさせておくべき、と判断して一也は踏み込んだ。紅藤小夜子の真剣さは伝わった。ならば、尚のこといい加減な返事は出来ないだろう。
小夜子の大きな黒い目と向き合うと、気圧されそうになる。
これはぬくぬくと平和な時代に生きていた自分と、まだ命の危機がリアルさを持って生活の近くに存在していた時代に生きる者の差かと一也はほんの少し考えた。その考えは鋭い刺となり、一也の心に突き刺さる。
「もし俺にあの野犬を退治する手伝いをして欲しいなら、それは無理ですよ」
刺の正体――こちらの時代では所詮一人の迷い人であることへの後ろめたさだ。
一也は視線を小夜子から外し、庭へと投げた。山が近いだけに肌寒さは微かにあるものの、午前の日差しが草木に溶け込むような気持ちのいい空気である。今日は四月十一日か。時代も季節も変わってしまったようだ。
冷静であらねばならないという意志。
叫びだしたい焦燥。
その二つの狭間から、一也は言葉を絞り出す。
「確かにある程度銃の扱いには慣れている。玩具とはいえ、リアル、ごめん、現実にかなり近い作りではあるから。でも実弾を撃ったことは一度も無いんだ」
淡々と事実を整理していくように述べた。次第に小夜子の顔が暗くなっていく。だが一也にはどうしようも無かった。
「銃の技術についてはその程度の実力しかない。それに実戦経験も無い。あんな怪物みたいな野犬を倒す役には......立てそうもない」
ごめん、と付け加えて一也は立ち上がった。草履を借りて庭に出る。今の自分の顔を見られたくは無かった。
「無理......ですか」
「だと思います」
背中にかかる声に振り向かず答える。
「――こんなこと言ったら怒るかもしれませんが、私は無理だとは思いません」
意外な小夜子の言葉にピクリと一也の肩が震えた。自制心がもう少し低ければ、お前に何が分かると怒鳴り付けていたかもしれない。そうしなかっただけましだが、今はこれ以上全うに話す気にはなれなかった。
「何故、そう思うんです? 所詮通りすがりの見知らぬ男に過ぎないでしょう、俺は。ちょっと銃が使え......」
「貴方の銃は未知の銃でした」
一也の反論を小夜子は遮った。その語調の強さに思わず一也は振り向く。
サイドテールの少女は縁側に座ったまま、その視線を受け止めた。未だ彼を異邦人とは知らぬまま、小夜子はきっぱりと言い放つ。
「もしかしたら、三嶋さんならあれが使えるかもしれません。そう思ったから、こうしてお願いをさせていただいています」
「......あれ、とは」
ツ、と一也の細い眉が寄る。
軽く茶色に染めたその髪が春の微風にそよぐのを見てとり、"異国の人のようだ"とふと小夜子は思った。ああ、だから――だから、この人はあんな銃を使えるのだろうか。異国の銃を使う技術があるから......ならば、尚更のこと。
「この吉祥寺村に長年保管されている銃が一挺あります。三嶋さんなら――あれを使えるかもと」
「――長年保管されている銃、ですか。誰も今は使っていないと?」
「はい」
思わぬ話の展開に、三嶋一也は一声唸り慣れぬ着物のまま腕を組んだ。紅藤小夜子は彼の背中を押すように言葉を紡ぐ。
急かさず、だが熱意を持って。
「その銃の由来は正式には分かりません。ただ、厳重に白布にくるまれて、今は村長の屋敷に保管されています。普通の猟銃ならば狩猟などに使えますが、誰も見たこともない造りで――」
見るからに精巧で、軍用銃であることは間違いないのだが使い方や機構が既存の銃と余りに違う。
その銃の由来は誰も分からず、古くは戦国時代から伝わっていると言う者もいれば、いや、徳川幕府の御代に将軍家から賜ったと言う者もいるが未だ謎のままである。
はっきりしているのは、今は村長が屋敷に保管しているということだけだ。
眉唾物だな、と一也は思ったがそれは表情にも口にも出さなかった。それにサバイバルゲーマーの端くれとしては、実弾を放つ銃に興味はある。
先行き不安定で今後どうなるかは分からないが――いや、そんな不安定な状況だからこそ、興味引かれる物があるならそれをまずは見てもいいのかもしれない。
結局、小夜子が村長に昨夜からの経緯を話すことを含めて一也がその銃を見ることの許可をもらってくる、ということで話は落ち着いた。
村の寄り合いがあるから、昼過ぎには話す時間があると嬉しそうに言う小夜子に一也は「とりあえず見るだけだよ」と無愛想に答えただけだった。
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一也と小夜子が庭で話していた同時刻。二人のいる場所からおおよそ一里、約四キロ、離れている場所で、木々の中でうずくまる者がいた。
赤と黒の中間色のような毛を纏う体を丸め、それは隠れるようにしている。
獣だ。尋常ならざる大きさをしている一匹の野犬がそこにいた。それは、昨晩一也と小夜子が遭遇した巨犬に相違なかった。
寝てはいないらしく、地に伏せる体が規則的に上下している。グル......と低い唸り声が大きな口から漏れていることからも、それは伺えた。
見たところ大人しいが、恐らくそれは表面的な物なのだろう。見る人が見れば、その二つの目がギラギラとした光を放っているのが分かる。
それはどうにも不満そうで。
それはどうにも苛々しているようで。
そう、配下の野犬が蹴散らされたことに、この巨犬は怒っているのであった。
じわじわといたぶるように一つの人間の村を侵食していたというのに、昨日は手痛い反撃を被ったのだ。群れを率いる巨犬からすれば面白くはない。
警戒して一度は引いたが、このまま放置しておくのは腹が立つ。
やられっぱなしでは舐められる。それが野生の獣が生きる世界の掟であった。
ふつふつと煮えたぎるような怒りがその身を満たしきった時、巨犬はのっそりと立ち上がった。
あの人間を――男と女の二人連れであったか――捨て置くのは許せない。その首に牙を突き立てたいという欲求がヌルリと胸中に沸き、逞しい四肢へと伝わっている。
そしてそれは一声吠えた。