味噌汁のある風景
見知らぬ天井が頭上に広がっている。
濃い茶色の木の天井だった。
自宅の白いクロス張りの天井とはあまりに違う――仰向けに寝転がりながら、三嶋一也はそう思わざるを得なかった。
寝転がった体勢のまま、視線を左右に走らせる。色褪せた畳が目に入った。
これもまた、一也に馴染みのあるフローリングの床とは違う。更に言えば彼が寝ているのはベッドではなく布団であるし、着ている物はパジャマではなく浴衣のような簡素な着物であった。
目が覚めたら元通りになっていた......という都合のいい展開は無かったようだ。
仕方なくノロノロと身を起こすも動く気にならず、一也は布団の隅で膝を抱えていた。
部屋は四畳半程度、さほど広くもない。ビジネスホテルの一室ならばこれくらいの広さだろう。
田舎にある祖父母の家に、確かこんな部屋があった気がする。小さい頃、両親と共に祖父母を訪ねたことがあるが、その時は一也は喜んでそういった古い部屋を見て回ったものだ。
長年の日射しや湿気によりどことなく色褪せた色調。
年月のみがもたらす深みのある空気。
幼い一也にとっては、それは心踊るような非日常のひとこまであった。
だが十九歳になった今、彼を取り巻く状況は絵的には似ていても内容は大きく異なる。昨夜、あの紅藤小夜子と名乗る女の子から聞いた話が......もし真実であれば。
"どうしよう"
未だまとまらぬ考えを抱えたまま、ぼーっと布団に座っていた一也だが不意に人の気配を感じた。部屋の片方にはまっている障子に人の影が映る。
「三嶋さーん、おはようございます。起きてらっしゃってましたら、朝御飯召し上がりません?」
紅藤小夜子の可愛らしい声が、微かに一也の心のささくれを慰めてくれた。現状唯一頼りに出来る――頼りにせざるを得ない人に「はい、今行きます」と答え、一也は立ち上がった。
******
昨晩、三嶋一也と紅藤小夜子は歩きながら幾ばくかの会話をした。小夜子からすれば一也は自分を助けてくれた恩人であるので、基本的には好意的に答えた。また、どうもこの奇妙な出で立ちをした男の持つ雰囲気が気になったというのもあった。
見たこともない連射性能を持つ銃もそうであるし、しかもそれは実弾ではない弾丸を放つ。
服装もどうも兵士のそれに近いようだが、ぱっと見た限りでも動きやすさと頑丈さを兼ね備えた機能的な服である。
それでいて一也の言動は要を得ない。まるで世の中に出たこともない少年のように、不安そうな顔をしながら少しずつ小夜子に質問してくるのだ。
これは捨てておけない、と小夜子が判断するまでさほど時間はかからなかった。
どちらにせよ夜も遅かったし、小夜子は一也を自分の住む村へと案内したのである。その道すがら、一也の質問に出来る限り答えてあげることにした。
今は明治二十年、西暦で言うならば1887年であること。そして季節は春、四月十日であること――何故か一也は執拗にその点を確認してきたが。
話の流れから、小夜子は自分が何故野犬の群れと戦っていたのかも話した。
小夜子が住む神奈川県北多摩郡吉祥寺村は、武蔵野にある中程度の規模の村である。維新以前から時折凶暴化した野性の獣が襲ってくることはあったものの、大抵は村の男衆による自警団の防衛で事足りた。
たまに脅威的だと判断されれば、小夜子のような呪法士に要請がかかることもあったがそれも数年に一回という程度のことだった。
野に住まう獣の領域と里に住まう人の領域。お互いに触れあわぬようにするという、いわば暗黙の了解が成り立っていたのである。その上で尚起きる接触は言うなれば風邪を引くような物で、根絶しようとしても無理といえる性質の物だった。
「そのはずだったんですが、二ヶ月くらい前から急にね。さっきの野犬の群れが頻繁に村にちょっかいかけ始めてきたんです」
苦い顔で小夜子は説明を続けた。彼女の言う通り、冬の終わり頃から野犬が村人を襲うようになった。
それもはぐれ犬が一匹、二匹で鶏を襲うなどという小さな規模ではない。十匹以上もの野犬の群れが組織だった動きで、牛や豚などの大型の家畜を狙い始めたのだ。
食肉となる豚も貴重だが、乳を生み更には農作業の労働力として期待出来る牛は更に貴重である。農家にとっては財産であり、苦楽を共にする仲だ。
それを何の代価も無しに傷つけられ奪われるというのは、断じてあってはならぬ事態であった。
最初は村の中でもっとも外れにある家が狙われた。
夕方には牛や豚は家畜小屋に入れられるのだが、こともあろうにその小屋を破って野犬が侵入したのだ。
一度に何匹も殺到したのか、牛一頭が鳴き声をあげる暇もなかった。皮膚をずたずたにされ、喉を食い破られ、更には四肢を刻まれた挙げ句に内臓を貪り喰われるという痛ましい殺され方であった。
そんな事件が三回を数えた時、吉祥寺村の忍耐は限界に達した。
直接的な被害に加え、山菜や茸などが豊富に取れる山にももはや容易には近づけない。更に村周りの草むらに、まるで脅すように野犬共はチラチラ姿を見せるのだ。
そのせいで女子供は外に出るのを怖がるようになり、村全体に停滞感が蔓延する羽目になった。統率された野犬の脅威に人間が怯える......悲しいことにそれが吉祥寺村の現況であった。
ここまで小夜子が話したところで、ようやく村の外れにたどり着いた。
もはや夜更けも夜更けという時間帯であり、小夜子は一也に泊まっていくように勧めた。別に女一人の家ではなく、両親もいるのだから気兼ねは無用であった。
相当参っていたらしく、一也もさほど躊躇う様子もなく首を縦に降った。その結果、一晩屋根を貸すことになったというわけだ。
疲労のせいか、澱んだような目で村の様子を一也は探っていた。若干それが気にはなったが、小夜子自身も疲れており彼が大人しくついてくる限りは口は出さなかった。
限りなく現実離れしている青年ではあったが、話し方や物腰はまともであり信用するに足る。小夜子がそう考えていたのもある。
「大体事情は分かったよ。それでついに山狩りをして犬共を倒そうと」
「そうですね。いつ人に被害が出るか知れたものじゃないですし。それでまずは呪法士の私一人で様子を探りに行ったら――」
ばつが悪そうに小夜子は俯いた。一也は小夜子が貸した着物に袖を通している。家に何とかたどり着き、一也の寝る準備を調えながらの会話であった。
「逆に野犬の群れに囲まれた、と」
「面目ありません......式神で牽制しつつ棒で二、三匹は倒したんですが数が多すぎて」
「俺から見たら、女の子があんな数の野犬と戦えるのが凄いよ」
眠そうに目をこすりつつ一也は言ったが、小夜子としては恥じいるしかない。どちらかといえば防御や索敵が得意とはいえ、仮にも呪法士の自分が犬に倒されかけたのだ。一也が偶然助けてくれなければ今頃は奴等の腹の中だろう。
そこで会話は途切れた。
寝させてもらいます、と言って一也は部屋に消えた。
小夜子も自分の部屋に下がり、布団をかぶった。
灯りとして点していた青い炎をふいと吹き消すと、部屋は途端に暗くなる。春の宵闇が部屋に忍び込み、畳の上には月が形作る庭木の影が踊る。
――もし
一つの疑念が生まれる。寝着にしている白い木綿の薄布の服ごと、小夜子は自分で自分を抱き締めた。自分の腕が震えているのが分かる。
――もし、あの巨犬と戦っていればどうなったか。勝てるのか。
野犬の群れがあまりに乱れなく動くため、頭領にあたる犬がいるのではとは予想はしていた。恐らくあの一際大きい奴がそうだろう。一也の放った銃撃を警戒したのか、一先ずあの場からは逃走したが――そうそう容易く狩り場を諦めるようには見えなかった。
むしろ配下の野犬が痛手を被ったことをきっかけに、意趣返しに燃えているかもしれないのだ。
闇の中、小夜子は目をつぶる。人など簡単にその牙で引き裂けそうなあの犬を倒さぬ限り、この村の命運は暗いだろう。
だがどうやって倒すというのか。
仮に小夜子が一対一で戦ったとしても、あれほどの質量を持つ生き物が相手では分が悪い。彼女が護衛として使う式神は、特殊な紙に呪法で命を吹き込んで使役している代物だ。一定の戦闘力はあるが、元が紙だけに大質量を受け止めるのは難しい。
つまり式神ではあの巨犬の攻撃は防げない。少なくとも今の小夜子の力量では無理であった。
――準備さえ出来れば、別の方法で何とかなる?
答の出ない思考に一瞬身をゆだねつつ、小夜子は目を閉じた。巨犬への恐怖も、それに対する対策を講じる意志も己の仲で確かに重みを持って存在するのだが、それを維持するには些か疲れていたのだ。
自然と意識は闇に落ちていく。
たゆたうような浮遊感の中、最後に小夜子の頭を掠めたのは......正体不明の銃であっという間に野犬を蹴散らした三嶋一也の姿であった。
******
大変な夜だったなと思いつつ、一也はポリポリと沢庵を咀嚼する。自分が知る黄色が濃い沢庵ではなく、もっと色が薄い。
普段は漬け物はあまり食べないが、他におかずも無い。
それに出された物を残すのは良くないという程度には、良識も持ち合わせていた。
これから大変になるな、と思いつつ、小夜子はズズと味噌汁を啜った。
赤味噌である。大豆の香りがプンと強く残る癖のある風味の赤味噌は人によっては好まれず、より風味が柔らかい白味噌の方を好む人もまた多い。
小夜子は両方いける派だったが、今日は田舎くさいとも言われる赤味噌の味が暖かかった。
二人は差し向かいで朝御飯の最中である。
男女二人がそのような状況にある、と書くと何やら色恋の香りがするが無論それは誤解である。
険悪にはほど遠いが、親しいというにも同じくらい遠い――というより、昨晩出会ったばかりの一也と小夜子は限りなく他人に近い仲であり、雰囲気も何もあった物ではない。
「おかわり要ります?」
「あ、すいません。じゃあ軽く」
とは言うものの、二人とも同年代の異性とこのように食事――それも朝御飯である――を共にする機会はほとんど無く、若干の気恥ずかしさと気まずさはあった。
それでも一人で食べるよりは余程良い。
特に大学入学以来、授業とバイト、サバゲー部の掛け持ちで不規則な日々を送る一也は特にそう感じるのであった。酷い日など深夜のコンビニバイトを早朝六時までこなし、それから帰宅して昼過ぎまで寝るのである。
まともな朝飯があり、それを一緒に食べる人がいるというのはちょっとしたサプライズではある。
両親と共に住んでいるという小夜子の言葉に嘘は無く、起きた直後に一也は二人と顔は合わせていた。
「娘を助けていただきありがとうございます」と礼を言われたのは良いが、二人とも忙しいらしくそそくさと立ち去ってしまった。小夜子に聞くと午前中は農作業だとのことであった。
それはともかくとしてだ。
「......お口に合いませんか?」
「いえ、美味しいです!」
知らぬ内に眉をひそめていたことに気がつき、一也は慌てて頭を振った。
彼が考えていたのは"今後どうするか"ということであり、朝飯にいちゃもんをつける気など毛頭なかった。正確に言うと味覚に十分気を回す余裕がなかっただけだが。
"明治時代ねえ......まじか?"
畳に直に座り、あぐらをかいて朝御飯を取っている。一也の目の前には盆が置かれ、茶碗に盛られたご飯に赤い椀に入れられた味噌汁、添えられた沢庵という何ともクラシカルなメニューが並ぶ。
リビング兼ダイニングらしきこの部屋の中央には囲炉裏が据えられ、その向こうに着物姿の少女が行儀よく朝御飯を咀嚼しているのだ。
今がもし仮に明治時代、小夜子の言葉を信じるならば明治二十年だというならば、自分の視野に入るこの様子は恐らくどこの家庭でも見られる物なのだろう。
一也は日本史には強くないが、それでも何となく明治時代の家庭の様子は想像は出来た。
ベースにあるのが教科書の挿し絵だったり映画やドラマであるので、学術的な知識ではない。それでも部屋の様子にどことなく明治っぽいと感じる物はある。
例えば、小夜子がそのサイドテールを結ぶリボンがそうである。 部屋の片隅にある白黒写真――家族写真らしい――もそうである。
平仮名で"かれんだあ"と書かれたカレンダーが柱の一つに掛かっているのもそうである。
これらは江戸時代には一般家庭には無いだろうな、と漠然と一也は思い、それでも釈然としないまま朝御飯を腹に納めていくのであった。
――さて、どうするべきか。
「ご馳走さまでした。ありがとう」
「いえ、お粗末様でした」
一也の礼に深々と小夜子がお辞儀を返す。その可愛らしい様子を微笑ましく思いつつも、"今後の自分の方針を決めねばならない"と一也は食後の番茶を啜るのであった。