すれ違う信条、あるいは別れの握手
空気が重い。寺川との会話が進むにつれ、自分を包む空気が重い。
錯覚だと分かっているのに、どうにも息苦しい。それに耐えかねて、一也はシャツの釦を一つ外した。
「真の意味での四民平等を掲げるだけじゃなくて、それを実行するだって? 寺川、お前それ本気で言っているのか」
「本気だよ。最初は土谷さんに助けてもらった見返りだったけど、今は本気。中西さん達はどういうつもりかは分からないけれどね」
平和だったはずの寺川との会話は、今はその面影は無い。
会話の内容は、徐々に寺川の独白と神戦組に対する考えの吐露になっていた。
神戦組に身を寄せるのは食い扶持をキープするためだけだろう、と一也は考えていたが、どうやらそれを改める必要があるようだ。
寺川の目が変わっていた。穏やかで優しいはずの視線は、鋭く批判的な色を帯びている。
「三嶋君。一つ聞きたいんだけどね、人間にとって平等って何だと思う?」
「機会の均等と実績に応じた評価じゃないか? 人によって考えは色々だろうけどさ」
言外に"そっちはどうなんだ"という含みを持たせ、一也が答える。寺川亜紀の返答は簡潔だった。
「そうね、それも正解の一つだと思うよ。でも私はまた違う考えかな」
数瞬だけの沈黙は唐突に破られた。
僅かに紅をさした唇は、それに似合わない痛烈な言葉を吐く。
「人の命は平等だって言うよね。命の価値に軽いも重いも無いって。だけど、三嶋君はほんとにそう思う? 実際にはさ、より社会的な地位が高い人やよりお金を持っている人が優遇される。同じ権利は与えられない。
例えば命に関わる病気になったとしても、そこから助かる為の投薬や手術を受けることが出来る人って、やっぱりごく一部なんだよ。そしてそれは大抵地位や財力......言い換えれば世俗的な権威や力に左右されるの」
「だからそんなもん無くしてしまえってのか」
「そうだよ」
一也の発言を断ち切るように寺川は言い放つ。その語調の強さに驚いた。
「そうだよって、そんな簡単に言うなよ。極端過ぎだろ。自由競争は資本主義の原理原則だ。それを否定するってことは、俺達が暮らしていた世界を否定するってことなんじゃないのか」
「競争なんかなくなればいい。私はそう思ってたよ。ずっと、ずっとね。だってしんどいもの。試験の点数、学校の偏差値、就職活動、付き合う異性の見た目や頭の良さ、結婚相手に求める条件......自分を取り巻く全ての要素で評価され、判断され、格付けされていくんだよ。
しかも自分の責任じゃないのに、生まれついての頭の良さとかルックスとかがその勝ち負けに大きく影響するの。これで成果に応じた評価って言われても、納得出来ない。それにしんどいよ」
寺川の熱弁に圧倒され、一也は黙りこむ。
一部頷けなくもないが、だからといって「はい、そうですか」と肯定する気にもならなかった。
どちらかと言えば、寺川はルックスを中心に勝ち組っぽい要素が多い。
その彼女が内心で競争社会をこれほど嫌っていたこと自体に、一也は少々驚いていた。
「だけど自分の中で上手くまとまってなくて、そういう気持ちを表現出来なかったの。それがまとまったのが、神戦組に入ってからだった。ううん、違うかな、江戸時代からの身分制度が撤廃しきれていないこの時代の人達を見て――それから土谷さんに会って、神戦組に入ったからかな」
「後悔はしてないみたいだな」
「してないよ、少なくとも今のところは。三嶋君の視点からこの時代の人達を見て幸せそう? 教えてほしいよ」
「難しい質問だな。正直に言えば、そう見える時もそうでない時もある」
一也の返答は予期していた範囲だったのだろう。寺川は笑みすら浮かべて答える。
「そう。それも事実かもね。維新を経て新時代に乗り出した明治時代、そこには光と影があり――だけどね、私にはこの時代が競争社会の発端に見えたんだ。せっかく四民平等とかいっても、貧しい人はますます使われる一方でしょ。資本の概念を手に入れた元華族の中には、平成まで残る財閥のベースを作る人だっているもの」
「それは否定しないが、そういう社会が一概に悪いって訳じゃないだろう。競争は全体の発展には不可欠じゃないか」
「私は嫌なの」
「嫌って......」
「誰かと競いあい、落としあい、比べあうことから逃れられない社会に疲れてて。そんな時にこの明治という時代を見て、思ったの。もし、もし、この時代で真の平等という物を根付かせることが出来たら」
雲が垂れ込めたのか、寺川の顔に影が射した。陰影に切り取られた世界から、彼女は一也に語りかける。
「戻った時に、競争の無い楽な住みやすい社会が出来てるかもってね。だからその為に、私は戦うことに決めたんだ。私みたいな小娘の知識でも、この時代なら何かの役に立つみたいだし」
「戦うって誰となんだ。軍部? それとも政治家か?」
「そうね、敢えて言うのなら――時代の波と、かな。この急速に近代化する時代の波に呑まれ、溺れていく人達も確かにいる。その人達を助けることが、自分の欲する社会に繋がるの。だから戦うって決めたの」
「寺川」
熱くなりかけた寺川亜紀を遮ったのは、三嶋一也の冷静な呼び掛けだった。
寺川の言う戦いという物が一体どんなものかは分からないが、この場の雰囲気に流されてはいけないという危機意識だけはしっかりと働いた。
一也は改めて真正面から寺川を見る。
「お前の言う時代の犠牲になる人達は、確かに存在するだろう。四民平等なんて嘘っぱちだってのも、頷ける部分はあるよ」
偶然に近い形で警察官になって半年である。
まだまだ新米ながらも、一也もその間に思うところはあった。
世間の闇とやらは確かに存在する、それは実感としてある。
「そうなんだ」
「ああ、でもな」
一也の反応に寺川の顔が曇った。
「でも、何なの?」
「俺は神戦組の思想には賛成出来ない。それだけははっきり言っておく」
大層な信条を持っている訳ではない。
どちらかと言えば、それは至って個人的な人間関係と経験が生む感情に過ぎないだろう。
それでも一也にとってはそれが全てであり、譲れない物であった。
「理由聞かせてくれる?」
「この時代は幕末の戦火を乗り越え、幾多の死者を出したその上で成り立っている時代だ。俺達と同年代の人達も多数命を落としたと聞いている」
歴史の知識に、実際に小夜子や順四郎から聞いた話が積み重なった結果である。
それに帝都を巡回していれば、そのことは嫌でも分かる。
寺川の考えを理解しつつも、一也はそれに自分の考えを重ねられなかった。上手く言葉を選べるよう願う。
「――そりゃ悪い点だってあるよ。格差だって平成のそれより酷いだろう。だけど、そういう悪いことも含めたこの時代全てが......日本の将来を案じて血を流して、皆が必死で選んだ結果なんじゃねえの。それを簡単に全否定するのは、やっぱ違うと思う」
一也は別に自分が優等生とは考えてはいない。
時代の平和を守る為に、銃を撃つなどとまでは思ってはいない。
それでもこれが素直な気持ちであった。
第三隊の面々と過ごしてきた時間は、単なる一介の大学生に"自分は何が大事なのか"を考える機会を育んできたのだ。
いつかはこの時代にサヨナラを言って、元の時代に戻りたい。
だが、だからといって後ろ足で砂をひっかけるような真似は出来ない。
それは明治という時代を選択した日本の歴史に対する冒涜であり、この時代を懸命に生きようとする人々に失礼だからである。
喉の乾きを紅茶で潤す。いつしか天気は下り坂となり、空には厚い雲が垂れ込めてきていた。
「そっか、三嶋君はそういう考えなんだ。現体制派ってことなんだね」
「二つに分けるとしたらそうなるな」
「ん、分かったよ。残念、ほんとは今日ね。三嶋君を誘いに来たの。私達と一緒に行動しないかって。神戦組に入ってとまでは言わないから、こんな思想もあるよって伝えた上でね」
寺川亜紀は微笑んだ。綺麗な、だがどこか寂しい笑いで。
「勧誘だったら悪いけどお断りだ。俺、セールス嫌いだし」
「元同じサバゲー部の人間の誘いでも嫌かな?」
「悪いけど止めとく」
「そっか、振られちゃったね、私」
自嘲めいた呟きが一也の心に響く。
もしこの時、一也に少しばかり勇気か洒落っ気があったならば、自分の想いを伝えることも出来ただろう。
即ち、多少の好意は抱いていたと。
しかしそれを口にするのは何やら未練がましい気がして、結局何も言えなかった。その代わりに任務に忠実であろうとする。
「土谷史沖ってのは一体何をどうしようとしているんだ?」
「教えてあげないけど、そうね、ヒントくらいは。土谷さんは私達四人が銃が使えることを知った上で傍に置いている。今はこれしか言えないかな」
「......もし、万が一、俺が神戦組と戦うことになったら。その時はよろしく」
「三嶋君はそういう立場の人なんだね」
無言は肯定と同義である。
そうと知りつつ、一也は沈黙を選んだ。
ポツリ、と雨が一滴落ちた。女給が急いで近寄り、二人を店内に促した。
席を立ちながら、一也はそっと右手を寺川に差し出した。「ありがとう」と寺川はその手に引き起こされるように席から立つ。
「ごめん、寺川。俺は......君とは、中西さん達とは一緒には無理だ」
「謝らないで、三嶋君。今日はありがとう。楽しかった」
徐々に強くなる雨の中、二人の言葉は互いに届いてそして消えた。
******
ホウ、ホウとどこかで梟が鳴いている。
二階の部屋の窓を僅かに開け、一人の青年がその声に耳をすませていた。
明かりは僅かに蝋燭一本のみであり、部屋の中は暗闇が占める割合の方が大きい。
だが青年はそれを意に介する様子もなかった。
年の頃、まだ二十歳になるかならずかというところか。
髪は綺麗に後ろに撫で付けられており、そのため色白の顔がよく見える。この頃の日本人にしては頬骨が高く全体的に彫りが深い顔立ちだ。
身長は六尺―約182センチ―を僅かに割りこむかと見受けられた。特務課第三隊の奥村順四朗がいれば「己と大体同じやね」と評していただろう。
白い生成りの着物をゆるりとまとい、浅く腰かけている。
姿形から何者であるかを推し量るのは難しいが、注意深く部屋の内部を観察すれば、青年の背後、つまり窓際に一本の刀が立て掛けてあるのが分かる。
鍔の拵えも見事であり、一見にして業物らしいと伺えた。
それまで沈黙を保ち微動だにしなかったが、不意に青年が視線を部屋の反対側へと動かした。
粗末な作りの扉がその視線の先にある。
「中西君、もういいよ。待たせたね」
青年が小さく扉に声をかけると、一拍置いて扉が開いた。
スッと部屋に滑り込んで来たのは、中西廉である。
夜中というのに黒を基調とした洋装であり、白い着物姿の青年とは対照的であった。
「夜分に失礼するよ、土谷氏。精神鍛練中に済まない」
「いや、そろそろ終わろうかと思っていた頃だ。気を使う必要は無いよ。ところで、この時間に僕を訪ねるということは例の件かな」
青年――土谷史沖は手近な椅子に腰掛けるよう促した。素直に中西はそれに従う。
そう、神戦組組長である土谷史沖に対しては、彼は逆らうことはしない。土谷が自分の意見を尊重することを知ってはいるが、それで図に乗り調子に乗ることは無い。
「ああ。うちの寺川亜紀を三嶋一也に接触させた。結論から言うと、勧誘は失敗だ。あいつは神戦組には入らない」
「ふむ。予想の範囲内だ、残念ではあるが仕方ない。君が高く評価していた人材ならば、是非欲しかったけれどね」
「単純な銃撃戦のスキルだけなら、あいつは俺に次ぐからな。半年前の話だが」
「サバイバルゲームという奴だね。僕も機会があればやってみたいものだよ、命の心配をせずに銃が撃てるんだろう?」
面白がるような顔をする土谷に、中西は頷いた。
命拾いした時に、土谷には自分達がこの時代の人間では無いことを打ち明けている。
土谷の持つ何やら常人離れした雰囲気に賭けてみたのだが、意外にあっさり理解してくれて助かっていた。隠し事をしなくて済むのは楽だ。
中西は今日の出来事を脳裏に浮かべる。
雨が降りだしたことがきっかけになったのか、そこで二人の会話は中止となった。
店内で様子を伺っていた中西らも、そこで観察は打ち切りである。だが満更無駄だったわけでもない。
「俺達と同じように二人を監視――偵察かな、していた三人組がいた。多分あれがヘレナ・アイゼンマイヤー率いる警視庁特務課第三隊だろう。顔形が報告と一致する」
「ほう、それはそれは......顔を見たのかい。かなり近距離だったのだね」
「一瞬だけな。あっちも気がついたんじゃないのか」
土谷が僅かに眉を上げる。
だが「少々不用意と言いたいところだが......こっちも観察出来たならば見過ごそう」と諦めたような顔になる。
そして仕草だけで更に話すよう、中西に求めた。
「女二人、男が一人。これは事前の報告通り。手合わせもしていないため、力量は不明。雰囲気と俺の勘から、かなり出来るとは推測している」
「報告の内容が間違いでないことが分かっただけでも価値はあったか。他には、と言っても大して話すこともないか」
「ああ、そうそう。女二人だが美人だったぞ。土谷氏の好みかどうかは知らないけれど」
冗談めかした中西の報告に、土谷は肩を竦める。
着物姿であるのに、そのような西洋人めいた仕草が似合うのは体格が良いからだろう。
「警視庁に女性というだけでも驚きだが、美人とは付加価値が高いな。他に選ぶ道はいくらでもあったろうに」
「俺がいた時代では、美人でも普通に働いていたけどね?」
「この時代では違うのだよ。男尊女卑は簡単には是正されず、ましてや四民平等など絵に描いた餅に過ぎない」
歳に似合わない老成した声であった。
そのまま土谷は思考する。
あまり情報が伝わってはこないが、特務課第三隊は腕利きの集まりと聞いている。
事を構えるのは少々時期尚早とも思うが......だが、彼らだけが単独でこちらを探っているならば、むしろ今の内に摘んでしまうか。他の部署や陸軍と連携されるより先にだ。
「それも一興か」
土谷は呟いた。また梟がホウと鳴いた。




