傍話 骨の空白
その人との初対面はツツジが綺麗な時期であった。そろそろ春も終盤に差し掛かろうか、という五月晴れのある日の暮れのことだった。
「ごめんくださいー、隣に越してきた者です」
長屋の戸をこつこつと叩く音に続き、若い男の声がした。
姉の弥生に「弥吉、出てもらえる?」と言われ、弥吉は板張りの戸を恐る恐る開いた。滑りの悪い戸はいつも通りに一度ひっかかり、そこからカランと開く。
「あの、どなたですか」
まだ声変わりしていない少年の声で問う。自分より遥かに高い位置に若い男の顔があり、その斜め後ろに髪を左側で結った若い女の姿があった。
男は書生がよく着る白いメリヤスの詰め襟シャツを着込み、その上から着物を羽織っていた。女の方はやや赤みがかった着物である。身なりは普通であり、顔立ちも二人とも良い。
「隣に越してきた者です」
「一也さん、それさっき言いましたよ」
「あ、そっか。すいません、三嶋と言います。これ、つまらない物ですが」
女にたしなめられた三嶋という男は、弥吉に細長い包みをそっと差し出した。
同じような包みを女の方もくれる。「長屋の同じ並びに引っ越してきた紅藤です。宜しくお願いします」という優しい声に、弥吉は「......ありがとう」と返すのが精一杯であった。
「あら、わざわざすみません。昨日引っ越してきた方ですよね?」
弥生が応対を替わる。男――三嶋の方が「ええ、よろしくお願いします」と頭を下げたのが、後ろに下がった弥吉にも見えた。礼儀正しい人らしい。
二言三言、言葉を交わした後、二人は去っていった。「引っ越し蕎麦いただいちゃったわね」と弥生に言われ、弥吉は「うん」と返す。先日空き部屋になった隣が埋まり、何となくほっとした。
新しい隣人は変な人では無さそうだったからか、その晩の眠りはいつもより少し穏やかであった。
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高坂弥吉というのが弥吉の本名である。
今年十歳になる彼がどんな子かと言うと、実のところさして特徴の無い男の子である。
没落華族の両親は三年前の流行り病で命を落とし、今は女給として働く姉の弥生と長屋で二人暮らし――それだけで弥吉についての説明は大体終わる。
幸い両親は没落華族なりに最低限の財産は持っていたので、それを基盤に姉と二人で低所得ながらも底辺ではない暮らしは何とか営めてはいる。
だが弥吉は考える。自分の行く末についたり、幸せとは何ぞやということについて。
黒板に向かい、国語や算術を習うことが何の意味があるのかということについて。
明治になってからの近代化の波を受け、小学校は義務教育となっていた。その為、地方はともかく都会の子供は必然勉強の好き嫌いに係わらず学校に通う。
だが小学校を出てから何をするのか、何をすべきなのかというのはまちまちであった。
商いの家に生まれた者ならば、家を継ぐべく商いの道へと進む。
頭が良い者ならば、中学校へと進み更にまた高校、大学へと進む。
体が頑健な者ならば、工場勤めや船乗りなどになる者も多い。
"けれど何になっても"
級友と話したり、遊んだりと子供らしい時間を過ごしながらも――弥吉の心のどこかは乾いていた。
"死んだらおしまいじゃなかろうか"
そう考える理由も分かっていた。両親が亡くなった三年前......火葬場で黒く煤けたしゃれこうべを抱えたあの時。
弥吉は子供なりに生き方とか命という物について、漠然と考えるようになったのである。
姉の弥生が泣きながら遺骨を骨壺にしまう姿が、七歳の記憶にいやに鮮明に焼き付けたまま――
その日以来、文字通り拠り所を失い家を手放した。姉弟の二人は住み慣れぬ長屋に移り、生活を立て直してきた。その過程で弥吉はひどく覚めた目で世の中を見るようになった。
とどのつまり、死んだらおしまいであり、人間は必ず死ぬ以上、何をやっても無駄ではないかと。結末が決まっているならば、どう生きても空虚ではないかと。
無論、始終このような生死論に頭を染めている訳ではない。普通に生活している時間帯の方がよほど多い。
それでも時折、弥吉の胸に去来するのは――あの日胸に抱いた焼け焦げたしゃれこうべの固い白色であり、それが容易に連想させる空白であった。
「姉様は何か人生の目標ってある?」
「難しいこと聞くのねえ。うーん、あなたが元気に大きくなってくれることかな!」
いつぞやか弥吉が問うた時、弥生は笑いながらそう答えてくれた。笑ってくれたことは嬉しかったが、反面、水仕事で荒れた手を時折かばう姉は......楽しみなどどこにも無いように見えるのも事実であった。
そして弥吉の人生に対して斜めに構えた姿勢は、ひっそりと彼の中で確かになっていったのである。
しかし弥吉のことなど、個人の小さな変化など、時の流れにとっては些細なことでしかない。
隣人が引っ越し蕎麦を持ってきた日からいつしか数ヵ月が経過し、季節はもはや晩夏となっていた。人から汗を絞り出す季節もそろそろ終わりの頃である。
「弥吉ー、お前墨田川の花火大会行かねーのかー」
真夏の空の下、共に遊んでいた級友の声が響く。人影少ない校庭の木陰に隠れ、弥吉と他三人の小さな姿が更に濃い影を木の下に作っていた。
もったいぶった訳ではないが、弥吉はすぐには返事が出来なかった。「花火なあ」と呟き、空を見上げる。突き抜けるような入道雲、それが空を支配するかのように沸いている。
「誰ぞと一緒に行く約束でもあるんか?」
「もし予定ないんなら俺らと行かへんか。ええ穴場見つけたんや」
「四人くらいなら全然行けるよなー。な、一緒に行こう、弥吉」
友達の誘いは無論嬉しい。
勇壮華麗を以て鳴る墨田川の花火大会は、江戸の頃から夏の終わりを告げる風物詩である。
花火師達にとっては新作の御披露目会でもあり、赤青緑黄紫などの華やかな色彩が夜を飾る様は腕の見せ処であった。
観客が数千にも及ぶ大規模な花火大会は、聞きしによれば支那にも無いという。それを友人と見に行くのは、やはり素直に心踊る物がある。
だが、今日は駄目であった。
「ごめんな、今日は無理だ。姉様と約束があるんだ」
「ああ、そしたら無理やなあ」
「うん、すまん。来年一緒に行こ」
軽く頭を下げつつ、弥吉は重い腰を上げた。嘘では無い。今夜は弥生と花火を見に行く約束をしている。ただ全てを告げていないだけである。
"弥吉、今年のね、花火大会"
"何、なんかもったいぶってるよな、姉様"
先日かわした会話がぽかりと胸に浮かぶ。それがそのまま空に浮かべば何の色をしているだろうか、と。弥吉はふとそんなことを思う。
"うん。今年もあんたと見に行くんだけど、一緒に行きたいって人がいるのよ"
"――?"
そう告げる姉の顔はどこか恥ずかしげであり、同時にどこか嬉しそうでもあった。仄かに紅い頬はまるで薄化粧が乗ったかのようで、弥吉は目を瞬いた。
"うん、分かった。その、一緒に行きたい人って誰?"
"花火大会の時まで秘密よ"
秘密、と唇に指を当てて弥生が囁く。その様が常よりも随分と艶めいており、弥吉の心を僅かにざわめかせた。
ああ、これは何か良いことなのだろうと脈絡も無く感じる。
ああ、姉様が気分が良いということはきっと吉兆なのだ、と胸に仄かな熱が生じた。
"だから今日は皆とは行けないんだ"
くたりとした草履で家路に着きながら、弥吉は思い出す。そして期待する。誰が一緒に花火大会に行くのだろうかと。
姉様の機嫌が良いのだから、きっといい方なのだろうと。
花火の前に浴衣に着替えるため、帰る少年の足取りは軽い。その背を蜩の鳴き声がそっと押す。
かなかなかな......かなかなかな.....かなかなかな......
蜩の鳴き声が聞こえる中、弥吉は家へと急いで帰る。
******
見上げた空は暗い。黒い。
視線を下げると滔々と流れる墨田川の水面が見える。帝都の灯りを反射するため、川の流れがそこにあると夜でも分かった。見慣れた風景である。
「弥吉君は墨田川の花火大会は何度か来たのかい?」
「はい。昔から近くに住んでいましたから」
「そうか、そうか。ああ、良かったらりんご飴食べる?」
見慣れないのは――傍らの男の姿であった。当たり障りの無いことを話しかけてくる彼に、弥吉はやはり当たり障りの無い返事をする。互いの距離感を測るような微妙な駆け引きがあった。
「田仲さんはね、私が働いているお屋敷で一緒に働いているのよ。今日、墨田川の花火大会に弟と行くと話したら、一緒に行ってもいいですかって」
弥吉の左に座る弥生が口を開いた。ちょうど弥吉を挟んで、右に田仲、左に弥生という並びである。
川原にござを敷いて座る三人の周りは、やはり同じように並ぶ人達で埋まっていた。皆、花火が始まるのを心待ちにしているのだ。人のざわめきと熱気が――浴衣越しに肌を刺すかのようだった。
弥吉は人見知りをする方ではない。大抵の初対面の相手とも、よほど相手が堅物で無ければ話を合わせるくらいは出来る。
だが、どうもこの田仲という若い男は苦手であった。
"何が嫌なんだ"
ぱっと見たところ、感じの悪い人間ではない。後ろを刈り上げたざんぎり頭にと絣地の浴衣というこざっぱりした身なりも、垂れ目の風貌も人好きするどちらかというと好印象を与えている。事実、最初に挨拶した時には弥吉は特に何も思わなかった。
相手が悪いわけではないのだろう。
だが、ならば何が自分を居心地悪くしているのか。
助けを求めるように、弥吉は弥生の方を見た。「ん? どうかした?」と弥生が首を傾げる。
いつもの姉でありながら――どこか、違うと感じた。
違和感と言ってしまえばそれまでだが、それを上手く言葉にするには弥吉の語彙はまだ幼すぎた。
ただ、このような華やいだ雰囲気を醸し出す弥生は久方ぶりであり、それが弟の身としては嬉しくも戸惑う。
「弥吉君、弥生さんはね、とても親切で優しい人なんだよ。僕も僕の同僚もよく助けてもらっているんだ」
「あら、そんなことないですよ。田仲さんだって良く他の方の手伝いをされてるじゃありませんか」
弥吉が答えるより前に弥生が返事をする。
「そうでもないと思うけど」
「本人が気がついてないだけですわ」
弥吉の頭越しに――会話が続いた。微かにイラリ......と燻る物がある。
早く花火が始まればいいのに。そうすればこんな二人の会話を聞かなくて済むのに。
「姉様、花火まだ? 俺、待ちくたびれたよ」
「もうそろそろじゃないかな。ほら、あっちで花火師の人達が集まっているからね」
弥吉の言葉に答えたのは、田仲であった。違うのに、と思いつつ弥吉は「はい」と返答する。
だがそのせっかくの返答も「あら、ほんとね。大筒が準備されてるわ」という弥生の声にかき消された。
じわり、と弥吉の中に空白が生まれる。
空虚な白の感覚が――何故今生まれたのか、分からないまま。弥吉は言葉少なに二人の間で夜の黒を見上げていた。
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気がつけば走っていた。草履の底が道を蹴り、弥吉の体を前へとでたらめに進ませる。息は荒い。
ゼハッ、ゼハッ、と喉を鳴らす。目が回りそうになりつつも、それでも足は止まらない。いや、止められない。
目の前に伸びる道がパッと明るくなった。背後で花火が上がったのだろう。
一瞬遅れてドゥン、パチパチパチという弾けるような音が聴こえてくる。
ドゥン、パチパチパチ......また、ドゥン、パチパチパチ。
華やかな音、そして華やかな光。互いが互いを生み出し引き立て消えて、また生まれる。僅かな間しかおかずに、次々に花火が打ち上げられているのが分かる。
しかし、あんなに楽しみにしていたのにも係わらず、弥吉は背を向けていた。のみならず、一人でその場を離れていた。
瞼の裏には弥生と田仲の姿が焼き付いている。二人の目は弥吉を映すようでいて、違う。言葉もどこか上滑りであった。少なくとも弥吉はそう感じていたのである。
だから一人で帰っている。
「家、もうちょっとだ」
汗だくになりながらも、弥吉は足を止めなかった。止められなかった。また一つ、花火が鳴った。
弥吉が走る道が一瞬空中から照らし出され、また暗くなる。光と闇が交互に入れ替わる道を少年は精一杯駆ける。まるで花火から逃れるかのように。
ガコン、と木戸が鳴った音に思わず「あ、しまった」とため息が漏れた。
どうにも居心地が悪くなり一人で帰ってきたものの、長屋の鍵を持っていないことに今さら気がついたのだ。弥生に預けてあることを失念していた。
駄目元で木戸を引いたり押したりしてみたが、いくら粗末な木で作られているとはいえその程度ではどうにもならない。それ以前に無理に開けて壊したら大事である。
「はぁ、俺、何やってんだ――」
ぐしゃりと背中を戸に預け、弥吉はその場にへたりこんだ。
肺はまだ空気を求めて荒い息を産み、何度ももつれた足は下手すれば痙攣しそうである。
花火の夜に一人汗にまみれ、疲れ果てた自分が馬鹿のようであった。いや、間違いなく馬鹿で惨めだろう。
「~~~!」
無言のまま、地面を拳骨で殴る。苛立ち、怒り、そして悲しみが弥吉の拳を勝手に動かした。
何故自分が今、自分で選んだ行動の結果こうなっているのか。
理屈だてて説明をつけられないまま、ただ感情だけが少年の体の中を血に乗って暴れていた。
もう一つ、拳を地面に叩きつける。
固い反動に手が痺れ、大きく息を吐いた。
八つ当たりのようにぶつけた分だけ気持ちは楽になったが、ぐつぐつと沸騰しそうな物がまだ血の底を這っている。
「あれ、弥吉君? 花火大会見にいったんじゃないのか?」
その時いきなり頭上から降ってきた声に、弥吉は面を上げた。
声の主は肩掛け鞄一つの軽装でこちらを見ている。見知った顔に「三嶋さん」と自然に声が漏れた。
「どうかしたの。花火大会の夜にさ、自分の長屋の前で座りこんで」
「鍵がなくて、それで」
「失くしたのかい?」
三嶋の問いに弥吉は首を横に振った。「姉様が持ってる。一人で帰ってきたから入れない」と力無く答えると、長屋の隣人はちょっとだけ目線を反らした。何やら考えているようである。
「あのさ、もし良かったら俺の部屋来るかい。お姉さんが帰ってくるまで待っていたらいいよ」
意外な申し出に対し、弥吉は咄嗟には返事が出来なかった。それを遠慮と見てとったのか、更に三嶋は言葉を重ねる。
「見たとこ酷く疲れているようだし、それに何だか話したいことでもあるような――そんな顔してるよ、君」
余計なお節介かもだけど、と付け加えながら三嶋は自分の部屋の木戸を開けた。カラリ、と乾いた音が鳴る。
「入りなよ」と手招きされ、ふらふらと弥吉は敷居を跨いだ。
実際地べたに座るのは疲れるし、それ以上にこの男ならば――今日あったことを話せそうな、そんな気がしたのである。




