寝起き女子にはご用心
三嶋一也は悩んでいた。宿の廊下で腕組みをして、ある部屋の入り口の前で佇んでいる。ちなみに洋風の宿ではないので、入り口は襖である。
悩んでいる理由は単純だ。
そろそろ昼御飯の心配をする時間にもかかわらず、今のところ彼が唯一信頼できる人間がまだ起きてこないからである。
"困ったなー。ぼちぼち起こさないと約束に間に合わねえんだけどなあ"
髪をガシガシと掻きながら、一也は顔をしかめた。
そう、昨夜浅草の神谷バアで一緒に飲んだ女――ヘレナ・アイゼンマイヤーと交わした約束のことだ。
酔い潰れた小夜子は放置して、一也が東京に来た背景を打ち明けたところヘレナが興味を示したのだった。
"神奈川県知事の推薦状付きの銃士と呪法士ならば、うちなら歓迎するぞ。明日来なさい"
ヘレナはそう強く薦めながら、一也の肩を掴んできたのである。美人にこうも強く薦められると、一也も悪い気はしない。
ましてやアルコールが程よく回っているのである。気がついた時にはヘレナから渡された名刺が目の前にあった。
その名刺に記されていた警視庁特務課第三隊という単語――無論、一也にはその意味は分からない。
ただ、何となく格好いい響きだなと感じただけである。
本来ならば大学二回生という身でもあり、安定した印象がある公務員にはちょっと惹かれたりもした。
――来てくれれば悪いようにはしないさ。
ヘレナに見つめられながらそう囁かれれば、とりあえず行ってみようかという気にもなる。
業務内容については治安維持という一言で片付けられたのが気にはなったが、ここで逃したら二度と機会は無いかもしれないのだ。
とはいうものの、小夜子を放っておくほど非情ではない。
昨夜、泥酔しフラフラになりつつも途中で起きてはいたが、恐らく何も覚えてはいないはずだ。
まずは叩き起こして事情説明をせねばなるまい、と覚悟しつつ一也は小夜子の部屋の前にいるのだが――何故さっさと起こさないかというと。
"大体こういう場合ってろくな目にあわねえって決まってるんだよ......"
過去のトラブルからの軽いトラウマ、それが一也をためらわせていた。
小学校の時、プールの授業の前に間違って女子の更衣室に入ってしまったり。
高校では文化祭の時に演劇の衣装が誤ってずれて下着が露出してしまった女子がおり、たまたま通りかかった一也が濡れ衣を着せられたり――ちなみに白だった。
大学ではサバゲー部の合宿時に女風呂へ誤って入ってしまい、女子部員から撃ちまくられたこともある。
いずれもわざとではない。
注意力不足ではあったかもしれないが、誓って悪気は無かった。だが何回かそのような体験が重なった結果、一也は自分にはそういう女難の性質があるのだと思うようになった。
いわゆるラッキースケベという奴だ。望みもしていないが。
そういう過去の積み重ねから、どうにもこの状況で小夜子を起こすのは気がひけるのである。
寝起きの女の子など、危険要素以外の何があるというのか。
あれだけ酔っていたならば寝間着も寝崩れてしまい、あられもない格好になっているだろう。
その結果、それを見た一也に非難の嵐が飛ぶというのは十分ありそうな予想であった。
だからこうして自然に小夜子が起きるのを待っていたのだが――それも待ちくたびれた。意を決して一也は呼びかける。
「小夜子さーん、起きてる? おはようー」
返事は無い。
襖越しなので聞こえないのかもしれず、そうっと細目に開けて中を覗く。
さほど広くもない六畳間のやや窓側に、背を向けて寝る布団の塊......いや、よく見ると長い髪がそこからはみ出していた。
まだ熟睡中らしい。容易には起きないと判断し、一也は部屋に慎重に踏みいった――
「うわわっ!?」
――そのはずだった。
だがその慎重さが足りなかったのか、はたまた部屋の簾が下りて薄暗かったのが災いしたか。
畳の上にはらりと落ちていた一体の紙人形――小夜子が式神として使用しているものだ――それに足を滑らせたのだ。
一也の視界が一瞬天井を向き、仰向けに倒れそうになる。それを無理矢理力づくで立て直したところまでは良かった。
が、そこまでだった。
反動のついた体は前のめりになり、まだ踏んだままの紙人形が足元をすくう。
その結果、一也は前に倒れこんだ。そして更に運が悪いことに。
「~~ん、うにゃあああっ!?」
こちら側に小夜子が寝返りを打ったのは単なる偶然。ただしタイミングとしては最悪だった。
寝返りの瞬間にはだけた掛け布団、着崩れかけた浴衣のような寝間着が一也の視界に入り、そしてそれが暗転した時。
顔を何やら柔らかい物にぶつけた衝撃と"やっちまった"という思考、それらが一也を襲った。
薄い寝間着の生地一枚を通し、むにゅと柔らかい小夜子の体が一也の顔に触れている。
数々の不幸が組合わさった結果、仰向けになった小夜子に一也が倒れこんだような形になっている。
しかも敷き布団の上で、小夜子の胸に顔を埋めるような形で。
二人の格好だけ見れば、完全に恋人や夫婦間で行う行為の直前だった。
硬直したような小夜子の体と、ひきつった一也の顔がそんな甘い妄想を破壊していたのだが。
「......お、おはよう、ござ」
「痴漢強姦魔不埒者ぉおおおお!」
「いや、これには深いわけがっ!?」
一也の弁解はあっさりと無視され、顔を真っ赤にした小夜子に吹っ飛ばされてしまった。
襟元の乱れを左手で押さえて、羞恥で顔を赤くした小夜子の姿は正直萌えなくもない。
しかしそんな色ボケに浸る暇もなく、一也の体はいつの間にか背中にしがみついていた式神に引き起こされていたのである。
操る呪法士の感情が乗り移ったのか、巨象に引っ張られでもしているかのような物凄い剛力だった。
「わ、私が寝ているのをいいことにて、て、て、手込めにしようとしたのですね!?」
「いやっ、それは大きな誤解でっ」
「お、お嫁に行けない体になっちゃったじゃないですかあっ! どうしてくれるんですかあっ!?」
涙目で詰め寄る小夜子の迫力に、一也は黙るしかなかった。
ちなみに小夜子の身長が低いため、寝間着の襟元から胸の谷間がちらちらするのが目に毒である。さっきの感触が初撃ならば、第二撃である。
まずい。何か言わねば、自分は悪気があったわけでは無いと伝えなくてはならない。
コミュニケーションはいつの時代だって重要だ――式神にがっちり捕獲された体勢で必死に一也は考える。
何か、何か小夜子の怒りを解く一言が必要だと。
「黙っているのは心にやましいところがあるからですねっ」
「......な、あと」
「ん?」
首まで式神に絞めつけられた一也の口調がやばいことに気がつき、小夜子は拘束を緩めた。
ちなみに一也の顔は青くなっている。呼吸困難になりかけである。
少々頭に血がのぼっていた、と小夜子は反省した。
しかし、それも長くは続かない。
息をついた一也の「......意外とあるなあと思った」という一言で、そんな殊勝な気持ちは三千世界の彼方に消し飛ばされた。
「か、か、一也さんの馬鹿あっ! 助平っ!」
ビッターン! と擬音が聞こえてきそうなビンタの音が部屋に鳴り響き、一也の顔が横を向く。
不幸な銃士の視界は暗転し、左頬に真っ赤な紅葉が烙印された。薄れゆく意識の中で一也が思ったのは"何がまずかったのだろう"という後悔の念であった。
――女の子って誉めれば機嫌直すんじゃないのか。
――胸はないよりあった方がいいじゃないか。
――いや、そうか、いくら誉めてもそれはイケメンが言わないと駄目なんだ。
――ただしイケメンに限るは明治時代でも有効なのか。
無念の想いと共に一也の意識は霧散した。何やら小夜子が叫んでいた気がするが、それも定かでは無かった。
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「というわけでさ、けしてわざとじゃないんです」
「......もうそれは分かりました。それに酔い潰れた結果、あんな時間まで寝てた私も悪いです」
小さな惨劇の約一時間後、一也と小夜子は屋外を歩いていた。
浅草から八重洲までの市街地である。
多少の賑わいはあるものの、一番大きな建物でも黒い瓦屋根の二階建ての商家だ。
一也の目からすれば玩具の町のようである。道自体も固められた土であり、昔の小学校のグラウンドを思わせた。
無理もないが、二人はお互い気まずい表情である。一也のラッキースケベの発動の結果である以上、これは彼が悪いと言えなくもない。
だがそもそも二日酔いしていた小夜子が悪いと言われればその通りであるし、それにいくら胸に触られたからといっても気絶するほどビンタしたのはやり過ぎかもしれない。
幸いまっすぐ歩いているので、お互いを直視せずに済む。それだけが救いであった。
威勢のいいかけ声をあげながら、二人の横を黒い人力車が通りすぎる。現代でいうところのタクシーかと一也はそれを見送った。
「――なんかさ、昔からそうなんだよね」
ぽつりと一也は口を開いた。小夜子が僅かにこちらを見たのが分かった。
「自分ではさ、覗きとかする気全然ないのに。なんかそういう機会がよくあるんだよ」
「と言われても、何て言っていいか分からないです」
困った顔をしたまま、小夜子がサイドテールをいじる。春風に誘われるように左肩の上を結われた黒髪が流れた。
一也の説明で納得しているので、警視庁を訪ねる為に多少小綺麗な格好をしている。
いつもはしない薄化粧が映える様は、どこから見ても可憐であった。
「まあ、あれだ。友人曰くラッキースケベってやつらしい」
「らっきい? 何のことですか?」
「ん、ああ、英語、いや英吉利語で幸運な、運がいいって意味」
一也の説明に小夜子は微妙な顔をした。
「女の子の方は不運だと思いますけど?」
「面目無い......」
「それに一也さんだって、濡れ衣着せられて怒られたりとか嫌じゃないですか。皆不幸ですよ」
ある意味小夜子の言う通りであり、一也はため息をつくしかなかった。確かに男である以上、嬉しくなくもないが失う物が多すぎる。
不幸、か。
見方によっては確かにそうなのかもしれない。
そもそも訳のわからぬまま、いきなりこの時代に迷いこんだ事自体が相当不幸である。
割と柔軟に溶け込んではいるが、早いとこ帰れるものなら帰りたいのだ。
どんな理屈でタイムスリップが発生するのかは知らないが、ぱっとしない日常ではあっても一也にとっては馴染みある日常が今は無い。それが寂しい。
だが不幸を呪うのは、それはまた違う気もする。
教科書でしか知らない時代の空気が新鮮なのは事実だし、紅藤小夜子という信頼できそうな子とも知り合えた。
それに自分が唯一人に勝る銃を使うスキルは、どうにか価値がありそうだ。
失った物が埋めきれないにしても、違う物に意味を見いだすことは出来るだろう。
「俺が不幸だと決めつけるのは、まだ早すぎる」
小夜子にすら聞こえないほどの小声で呟き、一也は肩にかかった二挺の銃を担ぎ直した。
僅かずつではあるが、この重さにも慣れつつある。それが自分の成長であると信じつつ、今はやれることをやるしかない。
先日訪れた日本橋の辺りを掠めるように進むと、八重洲はもう目の前である。
乾物や着物など種々の商品を扱う問屋街を横目で見つつ、一也はもらった名刺を確認した。
もうすぐ近くのはずだと辺りをぐるりと見渡し、そして見つけた。
「あれか? いや、でもさあ」
「洋風のお家......ですよね」
二人の視線の先にある一軒屋、それは青い屋根に白い漆喰作りの壁が目立つ、何ともメルヘンチックな造りであった。
家の外壁には金属の呼び鈴がかけられているし、表札らしき煉瓦作りのプレートにはアルファベットで何やら記されている。
緑の蔦が家の壁をはっているのも、西洋っぽい雰囲気を高めていた。
「可愛い、かも」
「ま、それは後にしてさ。いきますか」
小夜子をたしなめつつ、一也は呼び鈴の紐を引いた。




