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カウンターにて

 店内の空気がざわついているのが一也に伝わってくる。

 あからさまに声をあげる者こそいないが、小さく潜めた声と忍びやかな視線を感じとるのはそう難しくは無い。

 微かに苛立つものの、一也の注意力の大半は真正面に注がれていた。



 小夜子がまたグラスを持ち上げる。電気ブランが満たされたグラスを持つ手は白く、それとは対照的に顔は赤い。

 だが上気したようなその顔色とは別に視線自体はしっかりしている。それがまた怖い。



「小夜子さん」



「何でしょう、一也さん」



「そろそろ止めておいた方が――」



 制止の声は小夜子の笑みで遮られた。ウフフ、という華やかな笑い声が二人の卓を彩る。



「あらいやだ。私、まだ酔っていませんよ?」



 酔っぱらいのお決まりの台詞である。

 だがあまりにきっぱりと言われたので、一也も気勢を削がれた。鯨飲という程では無いが、結構なペースで小夜子のグラスは空になっている。

 ちなみに一也のグラスは二割ほど減っているだけだ。

 おかげさまでほとんど素面である。しかし、その分だけ気苦労が絶えなさそうであった。



 コクリとグラスが傾き、小さな唇に触れる。白い喉元を洋灯(ランプ)の光が照らし、それが微妙に艶かしい。

 だが――そう考えるよりも、異常なまでに強い小夜子の酒への耐性、言い換えれば肝臓の強さの方が遥かにインパクトが大きかった。

 それは周囲も同様なようで、先程から小夜子が注目を集めている次第である。



 無理もない。

 未成年に酒を禁じるような時代でも無いが、それでもやはり、小夜子のような年若い娘は神谷バアにはほとんどいない。

 それが結構な勢いで電気ブランのような強い酒を飲み干しているのである。



 コクリ、コクリときっかり二口分だけ電気ブランが減った。

 飲めばまるで電気に痺れたが如く酔う――その名称の由来を木っ端微塵に打ち砕くように、小夜子はまだ平静であった。



 "きっと肝臓がブラックホールなのか、あるいは飲んだ瞬間ジュースに変わっているんだ"



 一也は無理矢理そう思い込んだ。そうでも無ければ、目の前の光景の説明がつかなかったからだ。

 人生には理屈に合わないこともあるとある種の割り切りをするには――恐らく彼はまだ少し若すぎたのだろう。

 タイムスリップは認めても強いアルコール耐性は認めないのは矛盾しているのだが、若さとはしばしば不公平で不均等な物である。



 気を取り直して一口だけ電気ブランを含む。強い――蒸留酒独特のどこか薬品めいた香りが鼻に抜けた。



「美味しいですね。美味しいですよね? あ、あれ、一也さんどうしたんですか?」



「――大変美味しゅうございます」



 そんなに美味いだろうか、とは口が裂けても言えなかった。小夜子の満面の笑みを前にしては。




******




「だから言わんこっちゃない......」



 憮然とした顔で三嶋一也は呟いた。酒のあてとして頼んだコオンビイフをフォークで突つきつつ、途方に暮れたように視線をさ迷わせる。

 端的に言えば、小夜子が酔い潰れたのである。

 卓に上半身を乗せ可愛い寝息を立てている。店内に入るまではおぶってでも帰る覚悟ではあったが――やはり実際にやるとなると気が引けた。

 しんどいし、着物姿の女の子をおんぶなど些か気まずくなりそうだ。



 店の柱にかかっている柱時計を見ると、入店してから二時間以上が経過していた。

 小夜子の飲むピッチを考えれば、相当な量を飲み干しているだろう。しばらく目覚めないかもしれない。



「もし、お客さま」



「はい?」



 先程の女給仕が声をかけてきたので、慌てて対応する。見ると相手は困ったような顔である。



「あの――実はそろそろ予約のお客様がいらっしゃるので、こちらの卓を空けていただきたく存じまして。申し訳ありません」



「え......」



 それは小夜子を抱えて店から出ろ、ということだろうか。だがそこまで神谷バアは薄情な店では無かった。



「大変申し訳ありませんが、あちらのカウンターに移動していただけませんでしょうか」



 そう言われれば従うより他は無い。

 意識を無くした小夜子の肩をかつぎ、よろよろと一也は席を移った。

 案内されたのはカウンターの隅の席だ。どっかりと分厚い木製のカウンターに肘をつき、一也は安堵のため息をついた。



 "もういいや、とりあえず小夜子さんが目覚めるまでここにいよう。おぶって帰るとか面倒だし"



「いやいや、いい飲みっぷりのお嬢さんだね。青年、君も大変だ」



 いきなり自分にかけられた伸びのある声に、ピクンと一也の体が反応した。

 右、カウンターに倒れ伏した小夜子の体の向こうに声の主がいる。移動していた時に視界に入っていたはずだが、そちらに気を回す余裕が無かった。



 第一印象を語るならば......奇妙なほど絵になる女、であろうか。神谷バアのどこか絵画的な雰囲気に無理無く溶け込むその様子は、まるで彼女自身が絵画の1ピースであるかのようだ。



 長袖の黒いシャツを身にまとい、それに合わせるように丈の長い黒いスカートを履いている。その黒いシャツの肩に鮮やかな金髪が流れていた。

 一也は思わずまともにその女の目を見る。青とも緑とも言いかねる深い森の奥のような目だった。



「異国の人間が珍しいのかな、青年?」



「......いえ、失礼しました。ちょっと意外だっただけです」



「それは女一人で飲んでいるのがかな、それとも私が日本語を話せるのが?」



「後者ですね」



 一也がそう答えたのも無理は無い。ほんの僅かにイントネーションに癖があるものの、女の日本語はほぼ完璧であった。とても外国人の話すそれではない。



 日本語の上手な外国人ならば外交関係の人間かと推測したが、一也の乏しい知識ではそれ以上は分かりかねた。

 牽制するように「連れが失礼しました」とだけ言う。

 相手が誰なのか正体が分からない以上、迂闊なことは言えないからだ。



 一也の言葉に微かに女は笑ったように見えた。白磁を思わせる白い顔は静脈さえ透けそうで、引き込まれそうな魅力がある。



「そう警戒することは無いよ。それにこのお嬢さんの飲みっぷりをこちらで見ていて――」



 カウンターに置かれた自分のグラスを指で弾く。茶目っ気のあるウインクからは敵意は無さそうに思えた。



「――若いとは良いものだなあ、と感嘆していたところさ。なあ、マスター、そうは思わないか」



 呼びかけられた店主――この神谷バアのマスターらしい男はカウンターの向こうで氷を削っている。

 首を傾げながら小粋な口髭を撫で「おやおや」と肩をすくめた。場所柄なのか、西洋人に受けそうな大きなジェスチャーであるが板についている。



「ヘレナさん、貴女だって若いでしょうに。何故また若者は一年二年経ったくらいで妙に年寄りぶるのか......」



「それはね、若者の一年二年は中年になってからの一年二年とは重みが違うからだよ。まして私のように外国で暮らす人間なら尚更さ」



 二人の話に割って入れなかった一也だが、ヘレナと呼ばれたこの外国人の女が神谷バアの常連らしきことだけは分かった。

 でなければマスターがこうも親しくは話さないだろう。とりあえず警戒はしなくても良さそうだ。

 それと同時に日本語が並外れて上手い理由も何となく分かった。

 少なくとも一年以上は日本に住んでいるらしい。どこの国から来たのだろうか。小夜子が酔いつぶれて暇になったこともあり、好奇心が一也の中で首をもたげた。



「あの――もしさしつかえなければ」



「ん、何かな?」



 ヘレナが一也の方を振り返る。先の方だけ緩く癖がついた髪が洋灯(ランプ)の光を受けて煌めいた。



「どちらの国からいらしたのか教えていただいても?」



「どこだと思う、青年」



 数秒だけ一也は考えた。

 手がかりらしき物はヘレナという名前と、入試の為に詰め込んだ日本史の知識の残りかすくらいだ。そっと彼は口を開く。



独逸(ドイツ)ですか」



 それが正解だったと分かったのは、ヘレナがマスターに「私の奢りで」と明るい声で注文したからである。

 慇懃に頷きながらマスターは一也の方を向いた。



「ご注文は?」



麦酒(ビール)ありますよね。黒ビールを。それを二つ」



「中々に飲兵衛で――」



「いや、一つはヘレナさんに僕の奢りで」



 横目で見るとヘレナと目が合った。「中々粋なことをする」と独逸の女は小さく笑い、黒髪の青年は「それほどでも」と肩をすくめた。



 程なく黒ビールの注がれたビアグラスが運ばれ、二人の手に渡る。

 店の居心地良さが初対面の緊張感をほぐしたか、一也とヘレナはごく自然にビアグラスをぶつけた。「「乾杯(プロージット)!」」と勇ましいかけ声がカウンターの片隅に響く。



「申し遅れました。三嶋一也です。こちらで突っ伏しているのが紅藤小夜子」



「ご丁寧にどうも。ヘレナ・アイゼンマイヤーという。これも何かの縁、まずは一献」



 普段ならば、一也は見ず知らずの人間とこのように気さくに話すことは無い。

 だが今夜に限って警戒心を緩め、多少なりとも他人と触れ合う気になったのは神谷バアの雰囲気とこの独逸(ドイツ)人女性の気さくな性格の為だろう。

 美人だがそれを鼻にかけた感じが無く、人当たりがいい。



 酒が進むにつれ、ぽつぽつと会話も進む。

 その会話が途切れたふとした瞬間、一也はヘレナの手を見る機会があった。

 利き手らしき右手――手自体は華奢だが人差し指、そして親指の付け根にタコのような物が見える。

 微かに感じた違和感の正体......すぐに記憶に触れる物があった。剣道部の部員がああいう手をしていなかったか。



 "この人、武道の心得が?"



 飲みながらさっとヘレナを観察する。黒い上下に包まれた体は、女性らしい曲線を描いている。

 だがピンと張った背筋、それに時折見せる視線の鋭さに気がつく。ふと何者なのかという疑問が心の中に生まれた。



「ヘレナさんは――独逸(ドイツ)から留学か何かで日本に?」



「いいや、違うよ」



 一也の問いを否定し、ヘレナは思わせ振りに間を空けた。長い足を組み、青緑色の瞳を一也へと向ける。透き通るようなその眼に思わず一也の背筋が伸びた。



「こう見えてね、警視庁の一員なのさ。日本国民の安全を守る、ね」

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