後日談 西暦1916年 露西亜 前編
分厚い窓硝子を隔てても、吹雪の音を完全に遮ることは難しい。
ヒュウという鋭く、そして透き通るような音が、窓辺に立つ者には聞こえてくる。
凍土が広がるこの国では、全ての人間が吹雪の影響から逃れられない。
幾度も冬を迎える度に、魂までも変質しそうな......そのような錯覚すら覚える。
"何度経験しても、この寒さだけはうんざりだな。中西を責めるのも酷か"
男は窓辺から離れ、椅子に座った。
ごわごわした黒い長髪は肩にかかり、細い目と鷲鼻がきつい印象を与える。
常人を遥かに上回る長身を幾分もて余すようにして、広い円卓を見渡す。
円卓には彼以外は誰もいない。
男の名は、グレゴリー・ラスプーチン。
この広大な露西亜を統べるロマノフ王朝の中枢に、彼は大きく食い込んでいる。
皇后アレクサンドリアなどは、ラスプーチンの進言ならば返事二つで了承する程だ。
夫であり、現皇帝であるニコライ二世も、それに近い信頼を彼に抱いていた。
当然そのような待遇には、しかるべき理由がある。
彼らの息子である皇太子アレクセイの病気――血友病を治療することで、ラスプーチンは現在の立場の足掛かりを得たのである。
"アイゼンマイヤーの血が手に入らなかった事は残念だが、それも今やどうでも良いわ。確実に皇族共は私の傀儡になりつつあり、完全にこの国を手中に収めるのも時間の問題だ"
髭の下で唇を歪め、ラスプーチンは微かに笑う。危ない橋は渡らず、じわじわと時間をかけてこの国を掌握してきた。全ては順調に進んでおり、今更焦ることも無い。
「ラスプーチン様、いらっしゃいますか」
吹雪の音を遮るように、女の声が聞こえてきた。女の姿は見えない。いつもの通り、廊下から室内に声をかけてきたのである。
「うむ。会議の用意は整ったか?」
「はい、お待たせして申し訳ございません。資料の準備に手間取りまして」
「構わん。それでは早く入りたまえ。年を越す前に、面倒な案件は片付けようではないか」
ゆったりと威厳のある声を響かせながら、ラスプーチンは女を促した。
彼女の背後には、資料を携えた文官達が並んでいることだろう。
寒さが忍び込む廊下にいつまでも立たせていても、ラスプーチンにも彼等にも良いことなど無いのだ。
時刻は夕刻、屋外も暗い時間帯である。
扉がゆっくりと開く。
軽く頭を下げ、まず女が入室してきた。栗色の髪を後頭部でまとめ、男物の丈の長い上衣を羽織っている。
ニコライ二世の信頼も厚いこのカタリナという名の女性秘書官には、ラスプーチンも色々と助けられていた。
そしてカタリナに引き続き、ぞろぞろと男達が入室してくる。その手に持った紙の束に、ラスプーチンは些かうんざりとした。だが、それを表情に出してはならない。
「ご苦労、皆の者。それでは早速始めるとしよう。寒い中、時間を浪費することもあるまい」
会議開始を告げるラスプーチンの声が、円卓の上を滑る。魅了の魔術により、この声一つさえも人をたぶらかす効果がある。
何年もかけて囁き続けてきた結果、今や宮廷内の主な人間は、ラスプーチンに魂を掴まれているも同然であった。
「おっしゃる通りです、ラスプーチン様。それでは皆様、始めましょう」
カタリナが円卓を見渡した。文官達が頷く。
だが、この時全員が同時に自分を見つめた事に対して、ラスプーチンは注意を払うべきだったのだ。
「――ロマノフ王朝にはびこる汚物の排除をな!」
いきなり鋭くなったカタリナの声に続き、文官達が席を蹴るように立ち上がった。
あまりの事態の急転に、流石のラスプーチンも呆気に取られる。
自分に絶対服従しているはずの文官達が向けているのは、黒々とした小銃の銃口だ。
明かりに照らし出された銃口は、この上なく不吉な光を放つ。
「貴様ら、これは何の真似だっ!?」
「撃てえっ!」
ラスプーチンの抗議の声を、カタリナの号令が断ち切る。次に会議室を満たしたのは、猛然と放たれた銃弾と硝煙であった。
もしラスプーチンが構えていたならば、ある程度はかわせたであろう。だが、完全に虚を突かれた形となった。
轟音が冬の静寂を引き裂く。窓硝子が盛大に割れた。
弾丸を浴びせられたラスプーチンの長身が、そこから外に飛び出した。
吹き付ける白い雪を乱しながら、怪僧と呼ばれた男は二階から放り出される。
その黒い僧衣は銃弾によってボロボロにされていたが、驚くべきことにラスプーチンはまだ死んではいなかった。
"八発命中かっ、くっ、おのれっ!"
十挺以上の小銃の一斉射撃に、胸、肩、手足が撃たれている。
それだけの手傷を負い、更には二階から落ちたというのに、最低限の受け身を取れたのはこの男の非凡に他ならない。
傷口から血を流しながらも、ラスプーチンは立ち上がる。
彼の焦げ茶色の目は、怒りに燃えていた。
いつしか日は落ちており、その黒衣は闇に溶け込んでいる。
反撃するはずであった。
だが、その怒りは警戒へと変化する。雪混じりの強風を通して、確かな敵意が自分へと向けられていることに気がついたのだ。
先程自分を撃った連中ではない。地上に降りてくるには、時間が足りない。
"まさか、事前に兵を伏せて――"
恐ろしい想像が脳裏に浮かぶと同時に、後方に体を投げ出した。一瞬前まで自分がいた空間を、数発の銃弾が通過する。「いたぞ!」という誰かの叫びが聞こえ、ラスプーチンは悟った。
"ごく一部の者が私に歯向かった訳ではない。これは......完全に包囲網を築きあげ、狩りに来ている"
白い雪を蹴散らし、恥も外聞もかなぐり捨てて逃げる。
幾多の弾丸を浴びせられたとは思えぬ程、その動きは素早い。
けれども、流石の怪僧もこれだけ手傷を負わされては、平常とはとても言えない。
息が乱れる。
いきなりの奇襲によって、肉体は無視出来ぬ程に傷つけられた。
魔術により反撃しようとするも、藪や木々に紛れた追っ手がその隙を与えてくれない。
またも小銃の弾が唸り、ラスプーチンの二の腕を掠める。
逃げる。転びながら、呪詛の言葉を吐きながら、ひたすらに逃げる。雪が積もる森の中を、黒衣の男は必死で逃げた。
******
「く、くそっ、何故だ! 何故、あれほど完璧に私の制御下に置いた連中が、こうも歯向かう!? 一体何がっ」
一本の大木に背を預け、ラスプーチンは毒づいた。
訳が分からない。自分の計画は完璧だったはずだ。
王朝奪取というチェス盤において、チェックメイトに手がかかっていたのだ。
それが一夜にして、ひっくり返された。
ぜぇぜぇと荒い息が、彼の喉から漏れる。
肺に負荷がかかっている。だが、銃による傷からの流血は、半ば止まりつつあった。
様々な魔術を重ねがけして、人間離れした回復力を手にいれたお陰である。青酸などの猛毒にさえ、ラスプーチンの肉体は耐えきるのだ。
時間をかければ、ろくな治療器具や薬がなくとも回復出来よう。
「やはり、あの程度ではどうにもならないか。いや、殺し甲斐があると言った方がいいかな、こういう場合は」
だが、その反撃の望みを、静かに断ち切る声があった。反射的にラスプーチンは構える。
いつの間にか、雲が晴れている。その隙間から覗く三日月が、ラスプーチンが隠れていた森に射し込む。
銀色の月光の中、声の主の輪郭が浮かび上がった。
「カタリナ、貴様か。奴らを煽動し、私を排斥しようとしたのは」
二十歩程離れた位置に立つ女を、ラスプーチンは睨む。
憎悪とも殺気とも取れる、暗い感情がとぐろを巻いていた。
それは体内で溢れるだけでは足りず、黒い魔力となって雪の上へと零れていく。
「ああ。七年がかりで仕掛けた罠だよ。全くじれったいったら、ありゃしないさ。仇敵が手の届くところにいるのに、地道に力を削ぎ続けるしかなかったのだからな」
「何だと。貴様、何者」
「まだ気がつかないのか? 悲しいなあ、こっちはお前の首を追い求めて、独逸から日本まで赴いたというのに」
微笑を浮かべながら、カタリナが一歩近づく。
その栗色の髪が、輝くような金髪へと変わっていた。月光による錯覚かと思ったが、そうでは無い。
加えてカタリナの青い目には、緑がかった光が加わっている。
稲妻のように、ラスプーチンの脳裏に閃く物があった。
「......なるほど、流石に驚いたよ。今でもまだ、私をつけ狙っていたとはな」
「ようやく気がついたか。この日を待ちわびたぞ、グレゴリー・ラスプーチン。"制裁"の二つ名にかけて――」
カタリナ、いや、そう名乗っていた女は、右手を月光にかざした。
白く輝く光が掌から吹き上がり、一本の剣を形作る。
女がそれを一振りすると、雪煙が立ち上る。
「祖父の仇、ここで討たせてもらう!」
青緑色の眼光も鋭く、ヘレナ・アイゼンマイヤーが雪景色に舞い降りた。
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"長かった"
闘光剣を構えながら、ヘレナは今日までの日々を振り返る。
それは苦難の連続だった。
一度、日本から独逸へ戻った。相手との力の差を感じていたこともあり、すぐに探索へ乗り出すのは止めた。
祖国の土を踏み、敢えて一息入れたのである。
"あの頃の私がいるからこそ、今の私がいるんだ"
三ヶ月ほどの休暇の後、一人の男性と知り合った。
新聞社に勤めているというその男性との出会いは、仕事を通しての物だった。日本への渡航経験がある人物との談話という企画に、何故かヘレナが参加する事になったのだ。
最初は渋っていたヘレナだが、企画の目的を聞いている内に根負けした形であった。それをきっかけとして、二人の仲は交際へと発展していった。
脳裏をよぎる家族の顔を封じ込め、ヘレナは戦いに意識を移す。
露西亜という余りにも漠然とした手がかりだけを頼りに、何とかここまで辿り着いたのだ。
特殊な化粧で顔の印象を変え、魔力を変調することで髪の色も変色する事に成功した。
そうして、ロマノフ王朝に潜り込み、名前も知らぬ仇敵を探し求めたのである。
「カタリナという偽名まで使って、私が気づかない間に近づいていたとはな! 随分と回りくどい手を使うものだ!」
「二度とお前を逃がさない為ならば、忍耐強くもなるさ! 銃弾の味は気に入ったか、ラスプーチン!?」
舌鋒には舌鋒で返しつつ、ヘレナは闘光剣を翻す。
当然ラスプーチンも、ただ黙って切られる訳にはいかない。その右手を一振りすると、黒い長剣がいつの間にか現れていた。
舞い落ちる雪の中、実に三十年近い歳月を経て、二人の刃がぶつかり合った。




