表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
122/125

後日談 西暦1897年 英国

 汗、塵、湿った土、そして時折混じる血の匂い。

 ごみごみした建物と入り組んだ路地の為、こもった臭気と湿気がその辺りに滞っている。

 男は顔をしかめながら歩む。堅い革靴の底が砂利を踏む。その音に驚いたのか、一匹の鼠が逃げていった。



 "大英帝国の威光も、こんな底辺地域には関係無しってことか"



 壁づたいに歩きながら、男は懐に手をやる。

 ここ数年愛用している黒いフロックコオト、その内側に吊るされるは二丁の回転式拳銃(リボルバー)だ。

 使用歴十年に達する愛銃は、今日も鉄の冷たい感触を指に伝える。



 "大丈夫、いつも通りに殺ればいい"



 わざと自分を鼓舞するように、男はひゅうと口笛を吹いた。そして、ついと視線を上げる。

 伊達眼鏡のレンズ越しに、古ぼけた木の看板がぶら下がっている。

 四つ足の蜥蜴に似た生物が赤いペンキで描かれているが、それは明らかに蜥蜴では無い。



 "翼があって、火を吐く蜥蜴はいねえだろ"



 その生き物を竜と呼ぶことを、男は知っていた。けれど、赤い竜がウェールズの象徴であるという事は、つい最近まで知らなかった。

 もっとも知らなかったからといっても、それは恥ではない。知識は更新していけばいい。



 ぴたりと壁に背中をつける。左手を壁にそろそろと這わせれば、ある箇所で引っ掛かった。

 爪をそこに軽く立て、力を入れる。

 キィと小さく軋みながら、壁の一部が外側に開いた。

 隠し扉である。巧妙に隠されており、正確な位置を知らなければ発見は困難だろう。

 それでも見つけてしまえば、ただの扉である。



 開いた空間から、男は慎重に中を覗きこむ。ごく狭い玄関の奥、二階へと続く階段が見えた。

 



******




「な、何者だ、貴様っ。こ、この私を誰だか知っての仕業か!?」



 標的(ターゲット)の悲鳴にも似た叫び声にも、男は表情を変えない。

 くすんだブルネットの髪を乱しながら、標的(ターゲット)はこちらに吠えている。その横でシーツにくるまっている裸の女を認識はしたが、任務の脅威にはなりそうもない。

 そう判断して、男は右手の回転式拳銃(リボルバー)安全装置(セーフティ)を外した。



 ガチャンという重い響きに、ブルネットの髪の男が固まる。

 女の方は濃い化粧を施した顔を歪め、口をぱくぱくさせるだけだ。恐怖と驚愕の余り、思考能力が飛んだらしい。



「知っているさ。ウォレス・マクダニエル下院議員だな」



 回転式拳銃(リボルバー)を構えた男は、吐き出すように言い放つ。

 アクセントに微妙に癖があり、聞く人が聞けば英国人のそれではないと分かるだろう。

 だが、この倫敦(ロンドン)に流入する人種の雑多さを考えれば、さほど不思議ではないのかもしれない。



「あ、ああ、そうとも! いかにも私がウォレスだ。貴様が何者かは知らんが、早くその銃を下ろせ。金なら幾らでも」



「下ろさねえよ。あんた英国の対外通商の窓口を務める一方で、入手した機密情報をウェールズに売っていたんだろ。ネタは全部あがっているんだ。あんたの母親がウェールズ人だってことも含めてな」



 全ての懐柔を拒否するかのように、男はウォレスの発言を切り捨てた。

 この時、ウォレスは気がついた。

 もはや逃れる術は無く、そしてこの男が金でどうにかなる種類の男ではないことに。



 暗殺者にも二種類の人間がいる。簡単に言えば、あっさりと金で雇用者を変える人間と、一度受けた仕事は完遂するまで裏切らない人間だ。

 ウォレスにとって不幸な事に、男は後者の側に属する暗殺者であった。



 ひっと空気が漏れるような悲鳴が、ウォレスの喉から溢れた。

 氷のような冷たい視線が、男のかけた眼鏡越しに彼の思考を停止させる。

 もし虚をついて動くことが出来たならば、万に一つの可能性であったとしても、ウォレスは助かったかもしれない。

 絶望的だが零ではない、そんな儚い確率だけれども。



 だが、その僅かな可能性さえも、思考放棄した頭と行動停止した体からあっさりと抜け落ちていた。



「あばよ、裏切り者」



 男はそれ以上は待たなかった。

 引き金を引き、手に重い衝撃が走り、標的(ターゲット)は死ぬ。

 何度も見てきた光景が、また目の前で繰り返される。ただ、それだけの事であった。



 弾丸は寸分違わず、ウォレスの裸の胸を撃ち抜いていた。ベッドに撒き散らされた血の量を見れば、助かる見込みなど全く無いことは一目瞭然である。

 男の仕事は終わった。殺しを終えたというばかりなのに、その表情には全く動揺が無い。



「ひ、人殺し! あんた、自分が何をしたのか、分かってんの!?」



 シーツを巻き付けたまま、女が叫ぶ。

 細く今にも途切れそうな声ではあるが、気丈とは言えよう。

 暗がりに白い肩や胸元がちらつき、見ようによっては扇情的だ。

 けれども、男にはただ煩いだけであった。



「はあ、気絶でもしてくれりゃ見逃してやったのにさ」



「な、何よっ、あ、あんた、私の恋人を殺しておいて――」



「はっ、恋人兼情報源の間違いだろ。まあいい、これ以上時間は無駄に出来ない」



 簡潔に言い捨て、男が翻したのは左手である。

 確かにさっきは左は素手であったのに、女の額に向けられた左手には回転式拳銃(リボルバー)が握られている。

 二挺使いと女が悟った時は、もう手遅れであった。



「......正直、破壊力高過ぎるな」



 銃口を布で拭きながら、男はぽそりと呟いた。

 裸の背を晒し、女はウォレス・マクダニエルに覆い被さるように倒れている。

 その頭部はほとんど原形をとどめておらず、まるでトマトが潰れたようにも見えた。




******




 ごみごみしたスラム街を抜け、石畳の雑踏を急ぐ。

 倫敦(ロンドン)名物の霧の中、男は街の一部に溶け込んだ。石造りの街並みを、瓦斯灯の黄色っぽい光が照らし出す。

 世界に冠たる大英帝国、その首都である倫敦(ロンドン)は、どこか陰鬱な雰囲気を纏っている。



 そんな街を歩いている内に、男は一軒の屋敷に辿り着いた。

 その屋敷は、ヘイマーケット通りから一本折れた路地に面している。

 女王陛下劇場(ハー・マジェスティシアター)の裏手にあたる為、かの有名な劇場がよく見えた。



 けれども、男は劇場の方はちらりとも見ない。

 屋敷の正門は僅かに開いており、そこから入りこんだ後は庭をまっすぐ突っ切る。兎や鹿の形に刈り込まれた植木には目もくれない。

 十歩も歩けば、玄関である。

 一度だけ青銅のノッカーを鳴らし、男はさっさと中へ入った。

 施錠されていないのは単なる不用心なのか、それとも別の理由からか。



「お帰り、ニック。いつも通り、事は運んだ?」



「ああ。ウォレスは始末した。ウェールズ側の情報受取人もな。問題ない」



 屋内に入った途端、男は声をかけられた。

 いつもの位置からだ。玄関から見て、左側の壁に視線を向ける。

 背を壁にもたせかけ、腕組みしている女が見えた。

 白っぽい金髪を結い、顔の右半分は長く垂らした前髪で隠れている。

 細い体を女物の赤い乗馬服で包んでおり、見るからにしなやかな雰囲気を放っていた。



「流石ね。疲れたでしょ、着替えてきたら? 軽く一杯やりながら、報告を聞くわ」



「了解」



 女のさりげない気遣いに感謝しつつ、男はフロックコオトを脱いだ。

 霧の街の湿気を吸い込んだコオトは重く、これを脱げるだけでも有り難い。

 そんな男に、女が首を傾げる。琥珀色の左目を瞬かせながら、男の顔を覗きこむ。



「顔に何か付いているか、エリス」



「ううん。そういえば、いっつもニックの正式な名前忘れちゃうなあと思って。日本人の名前、難しいのよね。ナケネスだっけ?」



「かすめちゃいるが、違う。ナカニシだ」



 男――中西廉は伊達眼鏡を外しながら、微かに笑った。

 もうその名前で呼ばれることも随分少なくなったと思いながら、肩についた埃を払った。




******




 エリス・ケインズはしげしげと中西を見る。

 ナカニシという発音は難しい為、彼女は彼をニックと呼んでいる。

 身長は5フィート5インチ程しかないだろう。英国人の群衆に紛れると、まるでその中に消えてしまいそうだ。



 "だけど、腕は良いのよね"



 子羊(ラム)のシチュウをよそって差し出すと、中西は礼を言ってそれを受け取った。

 今年で三十歳になるというが、とてもそうは見えない。

 東洋人は若く見えるというが、ともすれば成人前かと思うくらいである。

 外見からは、中西廉の職業を推し量るのは困難だろう。



「今夜の仕事、どうだった?」



「何も困難な点は無かった。事前に受け取った情報は正確で、人にも見られてはいない。二発で片がついたよ」



 エリスの質問に、中西は淡々と答える。彼はちぎったパンでシチュウをすくい取りながら、グラスに注いだウィスキィを煽った。モルトのきつい芳香(フレイバア)が漂い、エリスの鼻をくすぐる。



「一応裏は取るけど、無事に終結しそうね。大したものだわ、英国情報局に勤めて三年だっけ? 今では押しも押されぬ腕利きだものね」



暗殺稼業(ウェットワーク)のな。世間に表沙汰には出来ない稼業だ、そんなに褒められるような事じゃないさ」



 エリスの賛辞にも浮かれた様子は見せず、中西はやはり淡々と答えた。

 今は伊達眼鏡は外しており、その黒い目が露になっている。時としてその目は、黒真珠を連想させる深い色を思わせる。

 口に出した事は無いが、エリスはその目が好きであった。



「そんなに卑下する事ではないわ。政治の世界では、表沙汰に出来ない事がたくさんあるんだから。今回の件だってそうよ」



「分かってるよ。ウォレスを現職に推したのは、女王陛下(ハーマジェスティ)自らだ。そのウォレスがウェールズへ情報を横流ししていたなんて知れたら、国の内外から何を言われるか、たまったもんじゃない」



「そういうこと。だから早めに闇に葬るべきなのよ、こういう面倒事はね」



「ああ。その為に俺のような男がいるってだけのことさ。ところで、ご馳走さま。いつも通り洗っておくよ」



 ちょうどシチュウを食べ終えたらしい。エリスに声をかけながら、中西は椅子に深く背を預けた。疲れたのか、しきりに目元を揉んでいる。



「分かったわ、戸締まりだけ気をつけて。じゃ、お先に帰るわね」



 それだけ言い残し、エリスは中西に背を向ける。けれども予想外の一言に、束の間足を止めることになった。



「このシチュウ、美味しかったよ。ありがとう」



「どういたしまして。おやすみなさい」



 微笑み、そして今度こそエリスは立ち去る。いつもよりその足取りは、ほんの少しだけ軽かった。




******




 途端に静かになった屋敷の中で、中西は長椅子に寝そべっていた。先程までいた食堂を出て、隣の部屋に移動したのだ。そこは簡易的な応接間となっている為、くつろぐには向いている。



 エリスにかけられた言葉が、妙に頭の片隅に引っ掛かっている。三年、そう、もうこの仕事に就いて三年になる。日本を出たのは九年前だったと数えながら、また一口ウィスキィを啜る。



 "ラスプーチンの奴、今頃何しているんだろうか"



 軽い酔いに身を任せながら、ふとあの髭面を思い出す。

 ラスプーチンの元から離れた理由は、幾つかある。

 極寒の露西亜(ロシア)の地に嫌気が差したことも、その理由の一つだろう。

 徐々に傲慢さを増していくラスプーチンに対し中西自身が反発を覚えたことも、理由に含めていいかもしれない。

 だが一番の理由は、中西自身の若さであった。

 この時代、最も開明的と言われていた英国へ行ってみたい――その願望を抑えきれなかったのである。



 "円満退職って言っていいのかどうか。手切れ金はくれたから、ましな方か?"



 瓦斯洋灯(ガスランプ)の光に、懐から取り出した貨幣を透かす。

 露西亜(ロシア)の通貨の一つ、5ルーブル金貨だ。

 英国に辿り着いた時、ほとんどのルーブルは英国の通貨であるシリングとポンドに両替したが、これだけは手元に残している。

 つまり、露西亜(ロシア)で五年間暮らした記念のような物だ。



 目を閉じる。目を開く。それを何度か繰り返す。

 ぼうっとした光と影の重なりに、凡そ四年間の英国生活が甦る。

 最初の一年は、拳銃の腕を活かして用心棒まがいの稼業に精を出した。

 倫敦(ロンドン)では東洋人が珍しかったのか、中西の存在は裏社会に急速に広がった。

 そしてスカウトをかけてきたのが、今の勤め先である英国情報局という次第である。



 悪い職場ではない。給料も自分の扱いも悪くない。国の密命を受けて動くという仕事は、中西自身の誇りを刺激してくれる。



 だが、いつまでも続けられるかという気もしなくはない。

 体力と気力が落ちてきた時には、自分があっさり切り捨てられるのではないか。

 追放だけならともかく、口封じに消されるのではないか。

 その懸念は確かにある。



「ふん、そうなる前に」



 おさらばするか。



 それとも、追われることが出来ない位にこの国に根を生やすか。



 二つに一つ、他に選択肢は無いのは明らかだった。



 立ち上がり、窓辺に近寄る。

 カーテン越しに街を覗けば、白い霧が夜を侵食し始めていた。

 霧に濡れた夜道を歩くのは億劫だと感じ、中西は屋敷にとどまることにした。

 誰も待っていない自室に帰っても、別にやることはない。



 二挺の回転式拳銃(リボルバー)を卓の上に慎重に置く。秋の夜長は、銃の手入れにはもってこいだ。

 将来への展望と僅かな孤独を両肩に背負いながら、中西廉は愛銃の煤を払った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ