後日談 西暦1897年 英国
汗、塵、湿った土、そして時折混じる血の匂い。
ごみごみした建物と入り組んだ路地の為、こもった臭気と湿気がその辺りに滞っている。
男は顔をしかめながら歩む。堅い革靴の底が砂利を踏む。その音に驚いたのか、一匹の鼠が逃げていった。
"大英帝国の威光も、こんな底辺地域には関係無しってことか"
壁づたいに歩きながら、男は懐に手をやる。
ここ数年愛用している黒いフロックコオト、その内側に吊るされるは二丁の回転式拳銃だ。
使用歴十年に達する愛銃は、今日も鉄の冷たい感触を指に伝える。
"大丈夫、いつも通りに殺ればいい"
わざと自分を鼓舞するように、男はひゅうと口笛を吹いた。そして、ついと視線を上げる。
伊達眼鏡のレンズ越しに、古ぼけた木の看板がぶら下がっている。
四つ足の蜥蜴に似た生物が赤いペンキで描かれているが、それは明らかに蜥蜴では無い。
"翼があって、火を吐く蜥蜴はいねえだろ"
その生き物を竜と呼ぶことを、男は知っていた。けれど、赤い竜がウェールズの象徴であるという事は、つい最近まで知らなかった。
もっとも知らなかったからといっても、それは恥ではない。知識は更新していけばいい。
ぴたりと壁に背中をつける。左手を壁にそろそろと這わせれば、ある箇所で引っ掛かった。
爪をそこに軽く立て、力を入れる。
キィと小さく軋みながら、壁の一部が外側に開いた。
隠し扉である。巧妙に隠されており、正確な位置を知らなければ発見は困難だろう。
それでも見つけてしまえば、ただの扉である。
開いた空間から、男は慎重に中を覗きこむ。ごく狭い玄関の奥、二階へと続く階段が見えた。
******
「な、何者だ、貴様っ。こ、この私を誰だか知っての仕業か!?」
標的の悲鳴にも似た叫び声にも、男は表情を変えない。
くすんだブルネットの髪を乱しながら、標的はこちらに吠えている。その横でシーツにくるまっている裸の女を認識はしたが、任務の脅威にはなりそうもない。
そう判断して、男は右手の回転式拳銃の安全装置を外した。
ガチャンという重い響きに、ブルネットの髪の男が固まる。
女の方は濃い化粧を施した顔を歪め、口をぱくぱくさせるだけだ。恐怖と驚愕の余り、思考能力が飛んだらしい。
「知っているさ。ウォレス・マクダニエル下院議員だな」
回転式拳銃を構えた男は、吐き出すように言い放つ。
アクセントに微妙に癖があり、聞く人が聞けば英国人のそれではないと分かるだろう。
だが、この倫敦に流入する人種の雑多さを考えれば、さほど不思議ではないのかもしれない。
「あ、ああ、そうとも! いかにも私がウォレスだ。貴様が何者かは知らんが、早くその銃を下ろせ。金なら幾らでも」
「下ろさねえよ。あんた英国の対外通商の窓口を務める一方で、入手した機密情報をウェールズに売っていたんだろ。ネタは全部あがっているんだ。あんたの母親がウェールズ人だってことも含めてな」
全ての懐柔を拒否するかのように、男はウォレスの発言を切り捨てた。
この時、ウォレスは気がついた。
もはや逃れる術は無く、そしてこの男が金でどうにかなる種類の男ではないことに。
暗殺者にも二種類の人間がいる。簡単に言えば、あっさりと金で雇用者を変える人間と、一度受けた仕事は完遂するまで裏切らない人間だ。
ウォレスにとって不幸な事に、男は後者の側に属する暗殺者であった。
ひっと空気が漏れるような悲鳴が、ウォレスの喉から溢れた。
氷のような冷たい視線が、男のかけた眼鏡越しに彼の思考を停止させる。
もし虚をついて動くことが出来たならば、万に一つの可能性であったとしても、ウォレスは助かったかもしれない。
絶望的だが零ではない、そんな儚い確率だけれども。
だが、その僅かな可能性さえも、思考放棄した頭と行動停止した体からあっさりと抜け落ちていた。
「あばよ、裏切り者」
男はそれ以上は待たなかった。
引き金を引き、手に重い衝撃が走り、標的は死ぬ。
何度も見てきた光景が、また目の前で繰り返される。ただ、それだけの事であった。
弾丸は寸分違わず、ウォレスの裸の胸を撃ち抜いていた。ベッドに撒き散らされた血の量を見れば、助かる見込みなど全く無いことは一目瞭然である。
男の仕事は終わった。殺しを終えたというばかりなのに、その表情には全く動揺が無い。
「ひ、人殺し! あんた、自分が何をしたのか、分かってんの!?」
シーツを巻き付けたまま、女が叫ぶ。
細く今にも途切れそうな声ではあるが、気丈とは言えよう。
暗がりに白い肩や胸元がちらつき、見ようによっては扇情的だ。
けれども、男にはただ煩いだけであった。
「はあ、気絶でもしてくれりゃ見逃してやったのにさ」
「な、何よっ、あ、あんた、私の恋人を殺しておいて――」
「はっ、恋人兼情報源の間違いだろ。まあいい、これ以上時間は無駄に出来ない」
簡潔に言い捨て、男が翻したのは左手である。
確かにさっきは左は素手であったのに、女の額に向けられた左手には回転式拳銃が握られている。
二挺使いと女が悟った時は、もう手遅れであった。
「......正直、破壊力高過ぎるな」
銃口を布で拭きながら、男はぽそりと呟いた。
裸の背を晒し、女はウォレス・マクダニエルに覆い被さるように倒れている。
その頭部はほとんど原形をとどめておらず、まるでトマトが潰れたようにも見えた。
******
ごみごみしたスラム街を抜け、石畳の雑踏を急ぐ。
倫敦名物の霧の中、男は街の一部に溶け込んだ。石造りの街並みを、瓦斯灯の黄色っぽい光が照らし出す。
世界に冠たる大英帝国、その首都である倫敦は、どこか陰鬱な雰囲気を纏っている。
そんな街を歩いている内に、男は一軒の屋敷に辿り着いた。
その屋敷は、ヘイマーケット通りから一本折れた路地に面している。
女王陛下劇場の裏手にあたる為、かの有名な劇場がよく見えた。
けれども、男は劇場の方はちらりとも見ない。
屋敷の正門は僅かに開いており、そこから入りこんだ後は庭をまっすぐ突っ切る。兎や鹿の形に刈り込まれた植木には目もくれない。
十歩も歩けば、玄関である。
一度だけ青銅のノッカーを鳴らし、男はさっさと中へ入った。
施錠されていないのは単なる不用心なのか、それとも別の理由からか。
「お帰り、ニック。いつも通り、事は運んだ?」
「ああ。ウォレスは始末した。ウェールズ側の情報受取人もな。問題ない」
屋内に入った途端、男は声をかけられた。
いつもの位置からだ。玄関から見て、左側の壁に視線を向ける。
背を壁にもたせかけ、腕組みしている女が見えた。
白っぽい金髪を結い、顔の右半分は長く垂らした前髪で隠れている。
細い体を女物の赤い乗馬服で包んでおり、見るからにしなやかな雰囲気を放っていた。
「流石ね。疲れたでしょ、着替えてきたら? 軽く一杯やりながら、報告を聞くわ」
「了解」
女のさりげない気遣いに感謝しつつ、男はフロックコオトを脱いだ。
霧の街の湿気を吸い込んだコオトは重く、これを脱げるだけでも有り難い。
そんな男に、女が首を傾げる。琥珀色の左目を瞬かせながら、男の顔を覗きこむ。
「顔に何か付いているか、エリス」
「ううん。そういえば、いっつもニックの正式な名前忘れちゃうなあと思って。日本人の名前、難しいのよね。ナケネスだっけ?」
「かすめちゃいるが、違う。ナカニシだ」
男――中西廉は伊達眼鏡を外しながら、微かに笑った。
もうその名前で呼ばれることも随分少なくなったと思いながら、肩についた埃を払った。
******
エリス・ケインズはしげしげと中西を見る。
ナカニシという発音は難しい為、彼女は彼をニックと呼んでいる。
身長は5フィート5インチ程しかないだろう。英国人の群衆に紛れると、まるでその中に消えてしまいそうだ。
"だけど、腕は良いのよね"
子羊のシチュウをよそって差し出すと、中西は礼を言ってそれを受け取った。
今年で三十歳になるというが、とてもそうは見えない。
東洋人は若く見えるというが、ともすれば成人前かと思うくらいである。
外見からは、中西廉の職業を推し量るのは困難だろう。
「今夜の仕事、どうだった?」
「何も困難な点は無かった。事前に受け取った情報は正確で、人にも見られてはいない。二発で片がついたよ」
エリスの質問に、中西は淡々と答える。彼はちぎったパンでシチュウをすくい取りながら、グラスに注いだウィスキィを煽った。モルトのきつい芳香が漂い、エリスの鼻をくすぐる。
「一応裏は取るけど、無事に終結しそうね。大したものだわ、英国情報局に勤めて三年だっけ? 今では押しも押されぬ腕利きだものね」
「暗殺稼業のな。世間に表沙汰には出来ない稼業だ、そんなに褒められるような事じゃないさ」
エリスの賛辞にも浮かれた様子は見せず、中西はやはり淡々と答えた。
今は伊達眼鏡は外しており、その黒い目が露になっている。時としてその目は、黒真珠を連想させる深い色を思わせる。
口に出した事は無いが、エリスはその目が好きであった。
「そんなに卑下する事ではないわ。政治の世界では、表沙汰に出来ない事がたくさんあるんだから。今回の件だってそうよ」
「分かってるよ。ウォレスを現職に推したのは、女王陛下自らだ。そのウォレスがウェールズへ情報を横流ししていたなんて知れたら、国の内外から何を言われるか、たまったもんじゃない」
「そういうこと。だから早めに闇に葬るべきなのよ、こういう面倒事はね」
「ああ。その為に俺のような男がいるってだけのことさ。ところで、ご馳走さま。いつも通り洗っておくよ」
ちょうどシチュウを食べ終えたらしい。エリスに声をかけながら、中西は椅子に深く背を預けた。疲れたのか、しきりに目元を揉んでいる。
「分かったわ、戸締まりだけ気をつけて。じゃ、お先に帰るわね」
それだけ言い残し、エリスは中西に背を向ける。けれども予想外の一言に、束の間足を止めることになった。
「このシチュウ、美味しかったよ。ありがとう」
「どういたしまして。おやすみなさい」
微笑み、そして今度こそエリスは立ち去る。いつもよりその足取りは、ほんの少しだけ軽かった。
******
途端に静かになった屋敷の中で、中西は長椅子に寝そべっていた。先程までいた食堂を出て、隣の部屋に移動したのだ。そこは簡易的な応接間となっている為、くつろぐには向いている。
エリスにかけられた言葉が、妙に頭の片隅に引っ掛かっている。三年、そう、もうこの仕事に就いて三年になる。日本を出たのは九年前だったと数えながら、また一口ウィスキィを啜る。
"ラスプーチンの奴、今頃何しているんだろうか"
軽い酔いに身を任せながら、ふとあの髭面を思い出す。
ラスプーチンの元から離れた理由は、幾つかある。
極寒の露西亜の地に嫌気が差したことも、その理由の一つだろう。
徐々に傲慢さを増していくラスプーチンに対し中西自身が反発を覚えたことも、理由に含めていいかもしれない。
だが一番の理由は、中西自身の若さであった。
この時代、最も開明的と言われていた英国へ行ってみたい――その願望を抑えきれなかったのである。
"円満退職って言っていいのかどうか。手切れ金はくれたから、ましな方か?"
瓦斯洋灯の光に、懐から取り出した貨幣を透かす。
露西亜の通貨の一つ、5ルーブル金貨だ。
英国に辿り着いた時、ほとんどのルーブルは英国の通貨であるシリングとポンドに両替したが、これだけは手元に残している。
つまり、露西亜で五年間暮らした記念のような物だ。
目を閉じる。目を開く。それを何度か繰り返す。
ぼうっとした光と影の重なりに、凡そ四年間の英国生活が甦る。
最初の一年は、拳銃の腕を活かして用心棒まがいの稼業に精を出した。
倫敦では東洋人が珍しかったのか、中西の存在は裏社会に急速に広がった。
そしてスカウトをかけてきたのが、今の勤め先である英国情報局という次第である。
悪い職場ではない。給料も自分の扱いも悪くない。国の密命を受けて動くという仕事は、中西自身の誇りを刺激してくれる。
だが、いつまでも続けられるかという気もしなくはない。
体力と気力が落ちてきた時には、自分があっさり切り捨てられるのではないか。
追放だけならともかく、口封じに消されるのではないか。
その懸念は確かにある。
「ふん、そうなる前に」
おさらばするか。
それとも、追われることが出来ない位にこの国に根を生やすか。
二つに一つ、他に選択肢は無いのは明らかだった。
立ち上がり、窓辺に近寄る。
カーテン越しに街を覗けば、白い霧が夜を侵食し始めていた。
霧に濡れた夜道を歩くのは億劫だと感じ、中西は屋敷にとどまることにした。
誰も待っていない自室に帰っても、別にやることはない。
二挺の回転式拳銃を卓の上に慎重に置く。秋の夜長は、銃の手入れにはもってこいだ。
将来への展望と僅かな孤独を両肩に背負いながら、中西廉は愛銃の煤を払った。




