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いざ、神谷バア

 平日であってもどこか祭めいた雰囲気が漂う町、それが浅草である。浅草寺の宝蔵門からまっすぐ雷門まで伸びる仲見世通りには、江戸の頃より土産物屋がひしめき活気を醸し出していた。

 参勤交代の変わり目においては、各地の大名がこぞって江戸土産をこちらで買い求めたものである。

 長らく会わなかった郷里の家族に土産の一つもという気持ちを胸にすれば、自然財布の紐も緩んだであろう。



 日本人形、陶器、紙細工、木工の玩具、着物......さほど広くもないスペースにそれらの商品が陳列されている。

 この時刻には、既に宵闇が町を覆いつつある。

 仲見世通りにも提灯が掲げられており、行き交う客、愛想笑いを浮かべる店主、その間でじっと並ぶ商品の三角形(トライアングル)を仄かな明かりに浮かび上がらせていた。



「この市松人形、幾らだい?」



「そいつは物がいいですからね。そうさね、その小さいので一つ四十銭、大きいのが一つ八十銭でさあ」



「何とかまけてくんねえか? 郷里に子供が五人もいてよ、皆に買っていってやりてえんだよ」



「あちきも鬼じゃねえからねえ......よーし、小さいの五つで二円二十銭でどうだい!」



「値上がりしてんじゃねえか!」



 どこの誰とも知らぬ客と店主の漫才のような掛け合いである。

 たまたま側を通った一也は緩む頬を抑え、人混みを潜り抜けた。小柄な小夜子が埋もれぬよう、さりげなく前に立ち道を開く程度には紳士である。



「すみません、それにしても」



 一也の後ろを小夜子がちょこちょことついてくる。



「夜なのにこんなに人がいるんですね。びっくりしました」



「浅草は特別なんだろう。ところでこっちでいいの?」



 一也は振り返らずに通りを右に一つ折れた。小夜子に事前に教えられているのである。角を一つ曲がっただけで、仲見世通りの喧騒が急に落ち着く。



「はい、こっちのはずです......あ、ほら、あの看板がそうですよ」



「ああ、確かにね」



 まだ江戸の息吹きを残した町並みの中、ポウと橙色の光を投げ掛ける一角がある。

 この時代には珍しく電灯――アーク灯と呼ばれる電灯に照らされる看板を読むと、"神谷バア"と墨で店名が記されていた。

 白い漆喰の壁はまだ年月の経過を感じさせず、店に向かって左側に備えられた扉は重厚な黒檀であった。なるほど、店構えからしてもシックである。



 エスコオトするように一也が扉をゆっくり押すと、小夜子が頭を下げつつ店内に滑りこんだ。




******




「うわあ、格好いいですね」



「雰囲気あるな」



 小夜子と一也は声を潜めて頷いた。程よく混み合う店の一隅、そこの二人がけの席に誘導されたのである。他の客に失礼にならぬよう静かに店の中に視線を走らせる。



 いわゆるバーという店に一也は入ったことがない。

 無論、そこがどんなものかは大体想像はつくが所詮はしがない大学生である。

 だが、この神谷バアの店内の様子は、何となく一也が思い描いていたそれと見事にマッチした。



 天井から吊るされた幾つかの洋灯(ランプ)は、スモークがった硝子から穏やかな光を揺らしている。

 それに照らし出された店内の客は、大体が男女の連れだ。

 分厚いブナの一枚板で作られたカウンターの向こうには、どんと壁に備え付けの棚がある。

 そこに並べられた洋酒のボトルやカクテルグラス――それらは一夜一杯の夢を届ける酒神(バッカス)からの粋な贈り物とも言えた。



 客の一人がコトン、とグラスをカウンターに置く。分厚い木とそれに負けない重厚なグラスが触れあい、何とも言えない余韻がアルコオルの気配が漂う空気に響いていくのが分かった。



 "なるほど、これが大人の社交場か"



 "――ふぅむ、やっぱり来てみないと分からないですよね"



 席に着き、一也と小夜子はそれぞれの想いを巡らせた。

 もっとも二人の感想は似ているようで非なる物だ。

 一也の目から見れば、幾分レトロな服装に身を包んだ紳士淑女がグラスを片手に静かに語らうこの空間は懐古趣味をまぶした時代の艶がある。

 しかし小夜子からすれば、単純に村では絶対に味わえない雰囲気がたまらない。



 男女差からくる感受性の違いとは呼べない、コミカルなようで実は深刻な差がそこにはあった。

 当人である二人がそれを察することは無かったが。



「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか」



 女給仕がこちらに声をかけてきた。場所が場所だからか、黒いベストに同色の細身のパンツという格好である。

 この店の雰囲気によく合っていると思いつつ、一也は電気ブランを二つ頼んだ。



「一也さん、こういう店に来たことあるんですか?」



 女給仕が去った後、小夜子が声をかけてきた。

 一也は「無い。なんで?」と短く答える。



「なんか......すごく慣れてるように見えましたから」



「気のせいだと思うよ」



 嘘では無い。

 強いていうとすれば、外食の機会が小夜子に比べれば相当多いことと、ドラマや映画などでバーという店を知っていることが理由だろうか。

 小夜子もそれ以上は聞かず、口を閉じた。逆に一也が口を開く。



「今さらだけど、小夜子さんて飲めるの」



 何気に気になっていたことを一也は聞いた。

 自分から神谷バアに行きたいと言った以上、飲めない訳はなかろう。

 だが冷静に考えたらまだ十六歳である。自分も未成年であるから、飲酒は二十歳からなどと固いことを言う気はまったく無い。

 無いが、そもそも飲酒経験があるのか、肝臓は大丈夫かというのは聞いておかねばなるまい。



「飲めますよ。お父さんから少しもらったりしていましたもの」



 不安感を煽る返事である。

 更に聞いてみれば、一度に猪口二杯か三杯だという。

 飲酒に緩いこの時代とはいえ、流石に年端もいかぬ娘にがんがん飲ませるほど紅藤家はたがが外れてはいないようだ。



 ――つまり、小夜子が飲み慣れない酒を、それも聞いた話だとアルコオル度数30度だか40度ある電気ブランを飲んでぶっつぶれる可能性はかなり高いということだ。

 "俺は酔い潰れる訳にはいかないよなあ"と、一也は密かに覚悟する。

 二人して知らない店で意識不明になるほど危険なことは無い。隅田川沿いに歩きながら交わした会話を思い出しつつ、嫌な予感は的中するようだと内心ため息をついた。



 そうこうしている内に、二人の前に注文した電気ブランが運ばれてきた。

「ごゆっくり」という言葉と共に運んできた女給仕は去り、向かい合う二人の男女の前には二つのグラスが置かれる。

 ただし、そこには年頃の男女と酒が醸し出す艶っぽい雰囲気は微塵も無い。



「......綺麗な色ですね」



 小夜子が目を細めながら呟いた。

 洋灯(ランプ)の光を受けて、細長いグラスの中の液体が透明感と深みを両立させた影を描いている。

 しげしげと小夜子はその色合いを観察した。橙色を帯びた飴色とでも言おうか。

 ブランデエなる葡萄を原料とした酒をべエスにしたカクテルだという。

 そう聞いても、そもそもカクテルとは何ぞや状態であり、さっぱり小夜子は分からない。とりあえず葡萄の紫色が全く無いことだけは分かった。



 細長いグラスは飲み口の辺りが少し広がっている。単純な円筒形よりこちらの方が飲みやすく、また香りの広がりがあるからだろうとは想像がついた。

 試しにグラスを少し持ち上げ、鼻に近づけてみた。

 鼻孔をくすぐる未知の酒の香りは――何とも言えない。

 日本酒しか知らぬ小夜子の乏しい語彙では到底表現出来ない香りであった。強い、だがどこか透明感のある爽快感のある香りにむせそうになる。



 小夜子は知らぬことではあるが、そもそも米を原料とした醸造酒である日本酒と、葡萄を原料とした蒸留酒であるブランデエでは比べること自体が難しいのだ。

 これがワインであれば葡萄を原料とした醸造酒なので、まだ多少は日本酒に似た部分があると思えたかもしれない。

 だが蒸留酒であるウィスキーやブランデエは突き抜けた独特の香り高さがあり、初心者にはとっつき難い部分がある。アルコオル度数も高い。



 "うわあ、これが大人のお酒なんですね"



 だがそうした知識も無く、また神谷バアの雰囲気自体に酔っていた小夜子は酒に対する警戒心を無くしていた。

 複雑かつ豊潤な香りとシックな店内に調和した電気ブランの色合いは、十六歳の心を浮かれさせるには十分であったのだ。



「では――参ります」



 まるで果たし合いに挑む剣豪のような声と共に、小夜子は意を決してグラスを再び持ち上げた。

 電気ブランという酒自体が文明開化の象徴のように思えたのだ。これを試さぬことには自分の東京に来た意味は無いのではなかろうか。

 このように考えること自体、明らかに雰囲気に酔っている。間違った覚悟が小夜子の胸に充ちていた。



 グラスを傾ける。喉へと一気に飴色の液体が流れ込む。

「おい、ちょっと!」と焦ったような一也の声が聞こえてきたが、途中で止められる物でも無かった。

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