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曙光静かに夜は明けて

「なあ、順四朗」



「はい? どしたん、怪訝な顔して」



 奥村順四朗は、ざる蕎麦を啜っていた手を止めた。

 彼に呼び掛けたヘレナ・アイゼンマイヤーは、一時的に箸を持った手を止めている。

 ちなみにヘレナの昼食は、親子丼である。

 独逸(ドイツ)でも流行らせたいと言う程度には、彼女の好物であった。



 それはともかく、ヘレナはえらく神妙な顔である。昼食時にしては、似つかわしくない。



「三嶋君と小夜子君、何かあったのか。最近雰囲気が悪くてかなわないんだが」



「知らん」



「えっ、それだけか? お前だって感じてるだろうに」



 ヘレナの顔が軽く非難めいた物になった。

 流石に素っ気なさ過ぎたかもしれないと思い、順四朗は思うところを口にする。



「険悪言う程やないけど、ちょっとぴりぴりしとるゆうか、ぎこちないわな。だから隊長の言うことも分かるで」



「そうだろ? そう思うだろ?」



「けどなあ、一々首突っ込んでたらきりないやん。子供やないねんから、放っておいたらええねん。仕事に支障きたしたら、それとなく注意したら?」



「む......」



 不承不承ながらも、ヘレナもその意見に同意せざるを得ない。

 ちょっと神経質になっていたと反省しつつ、再び親子丼に取り掛かる。

 二口ほど飲み込んだところで、今度は順四朗が口を開いた。



「思い当たる節が無いわけでもないんやけど」



「何だ、あるのか。もったいぶらずに教えろよ」



「小夜ちゃんが月のもので苛々して――痛っ!?」



 目を白黒させながら、順四朗は椅子から飛び上がりかけた。ヘレナに思いきり向こう脛を蹴られたのだ。



「死ね、死んでしまえ! 繊細さの欠片も無い奴だな、お前は!」



「な、何でやねん。女性は毎月大変やなあって、これでも思いきり気を使うてるんやで! 特に二日目が......」



「それ以上何も口にするな、恥ずかしい!」



 顔を真っ赤にしながら、再びヘレナは思いきり蹴りを叩きこんだ。

 さっき蹴られた箇所に寸分たがわず命中し、順四朗がのたうちまわる。

 声にならない呻きが、彼の喉から漏れた。



「冥土の土産に教えてやるよ。お前、女性の前でそういったことを安易に口にするなよ!? 全く恥ずかしいったらありゃしない」



「ちょ、ちょっとした亜米利加(アメリカン)冗句(ジョウク)やろ! 誰も本気で小夜ちゃんが月のもので、しかも二日目なんて言って――」



「だからそれ以上喋るなと言ってるんだ、くそたわけがあああ!」



 口は災いの元とはよく言ったものである。ヘレナの凄まじい剣幕を目のあたりにして、流石に順四朗も沈黙を選んだ。

 ちょっと虎の尾を踏みすぎたかもしれない。そんな騒がしい、もとい賑やかな二人に、飯屋の店員が茶を渡す。



「お客さーん、もう少しお静かにお願いします。はい、お茶お持ちしました」



「む、すまない。ちょっと指導に熱が入ってしまってね」



「ちょっと? いや、文句ありまへん」



 そう、口は災いの元である。

 いらぬ事はこれ以上言うまいと心に誓い、順四朗は茶を飲んだ。

 ヘレナは湯呑みを手にしながら、それをくるくると掌の中で回している。



「花見って明日だよな。誰が来るんだっけ」



「隊長、自分で呼んだのに覚えてへんの」



「う、うるさい! 覚えてるに決まってるだろ、確認だよ確認!」



「へーへー、確認ね。うちら四人に、伊澤警視、谷警部。それに一也んの隣人の高坂姉弟。全部で八人やね」



「へえ、結構いるな。三嶋君一人で場所取りさせて大丈夫かな?」



「その言い方って、絶対誰呼んだか忘れてたとしか思えへんねんけど?」



 順四朗の突っ込みに、ヘレナは視線をわざとらしく逸らす。

「そんなわけあるか、ハハハ」という返事も、どこか空虚であった。

 けれども、順四朗もそれ以上の突っ込みは止めておいた。口は災いの元なのだから。




******




 大きめのござを三枚、くるくると丸めて紐でまとめる。

 それがばらつかないように、太い紐で一つにまとめて肩に担ぐようにする。

 そこまで重くはない。けれど軽くもない。



「じゃ、場所取りに行ってきます」



「あ、えと、頑張ってください。場所決まったら、渡した式神で連絡してくださいね」



「分かった、そうする」



 小夜子に答えながら、一也は荷物を確認する。

 花見の場所は隅田川沿いであり、他にも場所取りをする者は多いだろう。

 愛用のインバネスコートだけではなく、襟巻きも持ってきた。

 四月とはいえ、朝晩の屋外は冷える。



「それじゃ、明朝に」



 普段通りにと思いながらも、やはりどこか小夜子とのやり取りはぎこちなくなる。仕方ないことではあるが、気が重かった。



「はい。お弁当は任せておいてくださいね」



「頼んだよ、それだけが楽しみなんだから」



 それだけ言い残して、席を立った。第三隊の拠点から隅田川までは、乗り合い馬車を使うつもりだ。歩くには若干遠い。

 ヘレナと順四朗は既にいない。明日の花見に備えて、早めに帰宅したのである。

 したがって、ここには一也と小夜子しかいない。



 この二日間、小夜子との会話はどことなくぎくしゃくしていた。

 それまでとは違い、二人のやり取りはどこか噛み合わない。気まずい。

 だが、それも明日になれば分かることだ。

 一也が小夜子に自分が何者なのかを打ち明ければ、少なくともこの緊張感からは解き放たれる。



 その後どうなるのかは、今の一也には全く予想も出来なかった。



「......一也さん」



 小夜子の声に、一也は振り向いた。真正面から小夜子と対面する。視線と視線がぶつかった。



「どうかしたかい?」



 なるべく優しく聞こえるように、笑顔を作る。

 空々しくてもいい、小夜子を怖がらせたり不安にさせたくはなかった。



「明日、話していただけるんですよね」



「約束したからね。包み隠さず話そうと思う」



「分かりました。あの、一也さん」



 そう言いつつ、小夜子はそれ以上は何も話そうとしない。

 何を話せばいいのか迷っているのか、目を伏せる。

 けれど、すぐに彼女は顔を上げた。



「お花見、一緒に楽しみましょうね。中々無い機会ですもの」



「そうだな。その為にも場所取り頑張るよ。あ、小夜子さん。一つ頼みたいことがあるんだけどさ」



「私にですか?」



 首を傾げる小夜子に、一也は頷いた。



「ああ。明日、頼もうと思ってる。難しいことじゃないけど、俺にとっては大事な事なんだ。だから頼む」



「いいですよ。やだ、そんな神妙な顔しないで下さい。一也さん、いつだって私を助けてくれたじゃないですか。私に出来ることなら、やってみせますから」



 返事と共に、小夜子は笑った。

 裏表の無い笑顔に、一也はほっとする。

 それは信じるに値する、優しい笑顔であったから。




******




 暗い色に染まった水平線を眺めていると、どこか不安な気分になるものだ。

 まだ出港していないにもかかわらず、船は時折ゆらりと揺れる。大きな、ゆっくりとした波が岸に寄せられるからだ。

 ざぶんと腹に響くような音が鼓膜を叩き、男は眼下に白い波を微かに見た気がした。



「船が珍しいのか、中西?」



 波間を縫うように、くぐもった声が聞こえてきた。

 甲板の縁から海面を見下ろしていた男――中西廉は、気だるげにそちらに首を回す。

 まだ明けぬ空の下、黒々とした人影がそこに立っていた。

 いや、よく見れば、それは長身の人間の姿だとは分かる。

 だが、船の甲板に吊るした角灯に照らし出されると、黒い影が立っているようにしか見えない。



「今まで余り乗る機会が無かったからな。しかし、こんな小さな蒸気船で大丈夫なのか? 今更降りる気も無いけどな」



「これでも中型船だぞ。大陸まで行く程度、訳は無い」



「その言葉を信じさせてもらうよ、導師」



 声をかけつつ、中西は船室の外壁へと背中をもたせかけた。

 東の空を眺めてみると、少し明るくなってきたようだ。

 青黒い水平線に白い光がすっと射し、それが少しずつ夜を侵食していく。



「よく見ておくんだな。日本で見る最後の夜明けかもしれんのだから」



「ふん、縁起でもない事を」



 伊達眼鏡のブリッジを指で支えつつ、中西は顔をしかめた。

 確かに異国の地で露と消えるかもしれないが、それを考えても仕方あるまい。



「ところで、あんたは日本を離れて問題ないのか。あのヘレナ・アイゼンマイヤーを放置していく訳だが?」



「ふふ、構わんよ。力試ししてやったが、まだまだ物足りん。あれはまだまだ未熟だ。しばらく放置しておくことにした」



「へえ......あの女で未熟ね」



 直接戦った訳ではないが、ヘレナの力量はある程度想像はつく。

 まだまだ謎の多いこの人物がどれ程の力を秘めているのか、中西には想像もつかなかった。



 徐々に辺りが明るくなってくる。

 黒頭巾を被った人物は、岸辺の方を見た。

 日の出と共に、船員達も動き始めたようだ。金さえ出せば、この蒸気船のように密航者を運んでくれる船はある。

「有り難い限りだ」と呟きながら、河口の方へと視線を移す。何とはなしに、中西もそちらの方を眺めた。



「ここは確か、隅田川の河口だったな。遡れば浅草か」



「そうだ。何か思い入れでもあるのかね」



「全く無いわけじゃないが......そんなことを言えば、どこにだって思い出の一つ二つはある」



 外套の前を合わせつつ、中西は胸中の感傷を振り払う。

 懐の回転式拳銃(リボルバー)がカチャと鳴った。

 銃火器を常備携帯するような生活が日常となってから、もう何日経過しただろう。



 "自ら望んでのことだ、悔いはない"



 思い出を断ち切る。

 まだ辺りは暗いが、人足達が岸辺にちらほらと見え始めた。出港前の最後の準備といったところか。

 ふと悪戯心が起こり、中西は黒頭巾の人物へ声をかける。



「日本におさらばするなら、本名を隠す必要もないんじゃないか? グレゴリー・ラスプーチンさん」



 その時、一際強い潮風が吹いた。

 黒頭巾が煽られ、その中に隠されていた人物の顔が露になる。

 張り出した額の下、細い目がぎょろりと中西の方を向いた。鼻から下は、ごわごわした髭に覆われている。



「みだりにその名を口にしてはならん。誰が聞いているか、分からんのだからな」



「すまん、気をつけよう」



「分かれば良い」



 肩まで伸ばした長い焦げ茶色の髪を、その人物――ラスプーチンは再び黒頭巾の中に押し込む。

 喋りすぎたと思ったのか、それきりラスプーチンは口をつぐんだ。

 六尺五寸の長身はただ厳然と甲板に存在し、それはまるで去り行く夜の名残のようにも見えた。



 "ロマノフ王朝に落日をもたらした怪僧と行動を共にするとはね。幸運なのか、不運なのか"



 苦笑いを唇に忍ばせ、中西はもう一度だけ隅田川の方を見た。

 その暗い水面すれすれを、一羽の白い水鳥が滑るように飛んでいく。その鳥の行く末を、中西廉はただ静かに見つめていた。




******




 視界に飛び込んできた微かな光、それが眠りから目覚めさせる。まだはっきりしない意識のまま、三嶋一也はゆっくりと頭をもたげた。ござにくるまって寝ていた為か、体の節々が軋む。



 "いてて、野宿って辛いんだな。体が強張ってやがる"



 呻きつつ、空を仰ぐ。

 どうやら夜は明けたようだ。周囲は暗いものの、全く見えぬ程でも無い。

 一也と同じように場所取りをしているらしく、見渡せば何人も同じように寝転がっている。

 この春最後の花見を皆、楽しみにしているのだろう。江戸の頃から、隅田川沿いは花見の名所として名高い。



 ぼんやりと川の方を見た。

 水面すれすれに、一羽の白い水鳥が飛んでいた。海の方から来たのだろうか、それは糸を引くようにまっすぐに飛び、そしてふわりと上昇して消えていった。



 "皆が来るまで、まだ少し時間があるよな"



 小さくなった鳥を見送りながら、一也は肩をぐるりと回した。

 朝と夜の境界に立ちながら、銃士は軽く肩を回す。

 全てを話そうという決意は、小揺るぎもしていなかった。

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