一也の約束、小夜子の慟哭
大丈夫だからと。何でもないからと。
本当にそうであれば、どれだけ良かっただろうか。
そう必死に主張すればするほど、どんどん印象は悪くなる。
それが分かっていながら、三嶋一也は愚直に「大丈夫、何でもない」と繰り返し口に出した。
「ちょっと目にごみが入っただけで、本当に何でもないんだ」
「けど、一也さん」
「こんなことよくあるんだ、春だからかな、花粉症なのかも」
下手な言い訳を回らぬ頭でこねくりまわし、たどたどしく口にする。
けれど、小夜子が納得していないのは明らかだった。
怪訝、あるいは不安が彼女の眉を潜めさせている。
「......花粉症って何ですか、一也さん」
失態だった。言い訳を考える事に手一杯で、そこまで頭が回らなかった。この時代には、花粉症という言葉は無いらしい。
「......特定の植物の花粉に対するアレル、いや、拒否反応。くしゃみや鼻水、目の痒みが出るんだけど」
誤魔化しても遅いと判断し、なるべく不自然にならないよう説明する。小夜子は一つ頷いた。
「そういう病気、いえ、体質持ちの方はいますよね。けど、花粉症なんて呼び方は初耳です。一也さん、どこでその言葉を知ったんですか」
「――それは」
「一也さん、色んなことをよく知ってますよね。外国の事情にも通じてますし、英吉利語も少しお話出来ます。時々ですけど、西洋のお料理やお菓子の事も教えてくれるし」
「......」
「私、一也さんがそうしたことを知っている事情について、何となく今まで流してきました。ご家族の事や故郷の事を全然口にされないことも、何か事情がおありなんだろうと思って、あえてお聞きしませんでした。でも、もうこれ以上は」
小夜子の口調は強くはない。
だが、一也は動けなかった。逃げられない。
小夜子は非難するでもなく、責める訳でもない。
どちらかというと、一也を気遣うような静かな口調である。
だが、それ故に秘めた鋭さがある。
「教えて下さい、一也さん。中西廉と話していた時に、帰るとおっしゃっていましたよね。何処へですか。一也さんの故郷って何処なんですか。帰るって......一也さん、いなくなっちゃうん、ですかっ!」
責めはするまいと思っていたはずなのに、小夜子の口調は鋭くなってしまう。
語尾に僅かに嗚咽が混じる。震えた。その小さな体が震えた。
「帰る場所なんか、無いんだ。俺には故郷なんて無い。そんなものは、明治には無いんだよ」
一也の返答もまた震えている。
全てを話してしまえ、と心の片隅で叫ぶ物がある。
だが同時に、まだ止めておけと叫ぶ物もある。
そのぎりぎりのせめぎ合いの中どうにか取り繕う為に、一也は言葉を絞り出す。
「故郷が無いなんて、そんなこと無いですよね。だって、誰かしら何処かで生まれて、育って」
「無いんだよ、俺には。少なくとも帰る事は出来ない。いや、帰るあてが無いっつう方が正しいか。中西さんに帰りたいって言ったのは、ただの願望だ。現実的にはその見込みは無い」
「そんな......じゃ、一也さんは」
その時小夜子がどう言おうとしたのか、一也はよく聞き取れなかった。力なく腰を下ろし、背中に壁をもたせかける。
"もう誤魔化しきれないよな"
自分の感情に蓋をし続ける事も。
小夜子ら周囲の人間に、本当の事を黙っている事も。
もし正直に話したとして、どんな反応が返ってくるのか。
それが怖くないといえば、嘘になる。
狂人扱いされた結果、市中引き回しの刑にでもされるのかもしれない。
流石にそれは考え過ぎかと思い直すも、想像が全くつかない事には変わりは無い。
「話す。俺がどういう経緯で小夜子さんと出会うことになったのか。本当の意味での俺の故郷は、何処にあるのか。何故、俺が小夜子さんの知らない事を知っているのか。そういった事を話すよ」
「......話してくれるんですか」
「うん。だけど少しだけ時間をくれないか。事情が複雑だから、整理してから話したいんだ。花見の時まで待ってくれ。そこで打ち明けるよ」
「分かりました、すいません」
目元を拭いながら、小夜子は頭を下げた。それが取り乱した態度への詫びだろうと推察しながら、一也はのろのろと立ち上がる。
「いや、謝らなくていいから。そうだよな、小夜子さんから見たら不思議に思って当たり前だよな」
「はい......あの、本当の事を知りたいんです。それだけなんです。だけど、ごめんなさい。一也さんに無理矢理話させるような形になっちゃって」
「いいって、その気持ちだけで」
話しながら、二人は食べ終わった食器を片付け始めた。カチャ、カチャと茶碗や皿が音を立てる。
「あの、一也さん」
「どうしたの」
「――何でもないです」
「なら良かった」
小夜子が頭を振り、一也は小さく笑う。その笑顔が、小夜子のささくれた心にほんのりと暖かく灯った。
けれど、その灯りはどこか儚く頼りなかった。
******
長屋の自分の部屋に戻ってきてから、小夜子はへたれたように座りこんだ。
言わなくてはならないことを言ったのだとも思う。ついに言ってしまったのだとも思う。いずれにせよ、後戻りは出来ない。
"分かってるんです、ほんとは"
寂しかったのだ。
一也が自分に何か隠し事をしているという事が。時折、どことなく心あらずといった顔をすることがある。
そんな時の一也の目は、とても切ない。見ていて苦しくなるような――そんな目をしている。
"きっと、話さないと決めた事情が一也さんにはあって、それで私にも誰にも話さずにいたんですよね"
多分、それは悪意では無い。
これまで過ごしてきた時間が、小夜子にそう告げる。基本的に、一也は善良な人間だと思う。
ただ、あの時折見せる顔が、どうしようもなく小夜子を不安にさせてきたのも事実だった。
隣にいるのに、隣を見ている顔ではない。
近くにいるのに、近くを気にしている顔ではない。
影がさした一也の顔に気がつく度に、小夜子は胸騒ぎを覚えてきた。意識的にそれを誤魔化してきたが、それも限界であった。
どっと気疲れした体を押して、のろのろと外出用の着物を脱ぐ。
すぐに眠る気にもなれず、部屋着代わりの薄い綿のどてらを羽織った。
行儀が悪いと思いつつ、部屋の畳にころりと寝転んだ。
天井を見上げている内に、良からぬ考えが頭をもたげる。
"一也さん、いなくなっちゃわないですよね。ほんとの事言ったら消えちゃうとか、そんなことないですよね"
その恐ろしい想像がぞく、と小夜子の肌を粟立たせた。
一也が火之禍津に吹っ飛ばされた時とはまた違う恐怖に、呪法士の少女はたまらず顔を覆う。
「行っちゃ......やですよぉ、一也さん......」
声が勝手に漏れる。喉が張り裂けそうになる。
畳に顔を押し付け、小夜子は必死で泣くのをこらえようとした。涙を溜めた瞼の熱に、心が焼け落ちそうだった。
******
小夜子が去った部屋で、一也は囲炉裏の傍に座っていた。
火箸で灰を掻き回す。季節が春真っ盛りとはいえ、朝晩に火をおこすことはある。灰の中はまだ赤い。
"泣いてたよな、小夜子さん"
小夜子の表情が脳裏に甦る。
少しではあるが、目が赤かった。その意味が全く分からぬ程には、一也も鈍感ではなかった。
だが、それが分かったからといってどうにかなるものでもない。
"俺は何の為に"
ちょうど一年くらいになるか。
その間、無我夢中で生き延びてきた。自分でもよくやったと思うくらいだ。
右も左も分からぬ中、小夜子と出会った。偶然手に入れた魔銃を頼りに、何とか馬鹿でかい野犬を倒した。
"頑張ってきたんだよ"
帝都東京に出てきて、ヘレナと順四朗に出会った。
第三隊に入って、何度も実戦を経験した。
横浜では、かってのサバゲー部の仲間に銃を向けた。
秩父では、久留島子爵と火花を散らした。
"それがいけなかったのか。撃ってきちゃいけなかったのか。ただ元の時代に戻る為に、それしか知らなかったから、俺は"
ぐ、と唇を噛んだ。
自分が撃ち倒してきた者の名前が、姿が、脳裏に浮かぶ。
狙撃眼で捉え、撃ち抜いた中田正の顔が。
ヘレナを助ける為に、遠距離狙撃を成功させた邪馬魚苦――土谷史沖の姿が。
ぎりぎりまで追い込まれるも、大逆転して何とか勝利を拾った中西廉の顔が。
"ここまで引き金を引き続けて、この時代でもがいてきただけなのに"
火之禍津に搭乗し、猛威を振るった九留島朱鷺也の姿が。
その妻であり、死蝋化していた千鶴子の虚ろな目が。
次々に頭の中を駆け抜けては、消えてゆく。
これまで自分が積み重ねてきた犠牲者が、恨めしげに一也を振り返る。
どくん、と心臓が鳴った。声にならない呻きに胸を圧され、その場に顔を伏せる。
「違う、俺は間違っていない! やるべきことをやっただけだ、それが悪いってのかよ!」
短く叫び、土間に走る。水瓶に乱暴に顔を突っ込む。十秒程で顔をあげ、荒い息を吐いた。
ぼたぼたと垂れる水を、乱暴に袖で拭う。その冷たさのお陰で、少しばかり冷静さを取り戻した。
誰かが悪いとか、悪くないとか、そういう話ではないのだと。
そう思うことにした。
そうでも思わなければ、気が狂いそうだったからだ。
"冷静になれ、今出来ることをやらなきゃ。自棄になっちゃ駄目だ"
花見の日に、小夜子に正直に打ち明けよう。
そして、今の自分がやりたいことを、やらなければならないことをやってみよう。
例えそれが馬鹿みたいでも、どれだけそれが無駄に思えても。
自分を支えてくれる人だって、確かにいるのだから。
自分を助けてくれた人だって、確かにいるのだから。
ここで自分が腑抜けになっては、それが全て無駄になってしまう。自分から腐っては、物事は悪くなるばかりだろう。
「......試してみても、いいよな」
窓の外を仰ぎながら呟いた。
春の夜風に揺れる夜桜が、一也の目に映った。
総毛立つ程に美しい花びらが、さらさらと風に流されている。
一也はそれをしばらくの間、ただ眺めていた。




