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言いたくて、でも言えなくて

 紅藤小夜子は不満であった。

 いつからと問われれば、数日前に横浜へ高城美憂を移送したあの日からである。

 何に対してと問われれば、三嶋一也の態度がである。



 "一也さん、私に何か隠してますよね。あの中西って人とのお話、微妙に変でしたもん"



 そう、理由ははっきりしていた。

 三嶋一也は彼女の同僚でもあり、想い人でもある。

 好きな相手の事なら何でも知りたいという気持ちは自分の我が儘だろう、それくらいは自覚している。

 だが、あの中西との会話はどこかおかしかった。



 "帰るって何なんですか、一也さん。何処に一也さんの故郷(くに)ってあるんですか"



 あの時、一也と中西は帰るという言葉を、何回か口にしていた。

 それがただ里帰りを意味するとは、小夜子にはどうしても思えなかった。

 はっきりと一也に問いただした訳ではない、けれどもあの場の雰囲気から察するにそうとしか思えない。



 書類を書く手を止める。急ぎの仕事は今は無い。お茶でも淹れようと考え、席を立った。



 "私にも話せないことなんですかって聞けたら、どれだけ楽かな"



 目を伏せる。まだ巷では珍しい瓦斯焜炉(ガスコンロ)の火を点けると、南部鉄の鉄瓶はすぐにしゅんしゅんと湯気を吐き出し始めた。

 頃合いを見計らい茶器に注ぐと、茶葉から爽やかな香りが拡がった。少し落ち着く。



 "まるでお茶に慰められているみたいですね"



 ふ、と細いため息が漏れた。



「お茶が入りましたよー、皆さん」



 笑顔を作り、小夜子は振り返る。



「おお、悪いな、小夜子君」



 ヘレナ・アイゼンマイヤーが机から顔を上げた。右手で払った前髪が、黄金色に輝く。



「せやったらお茶菓子出すわ。紀尾井町で買ってきたどら焼きがあんねん」



 いつも通り飄々とした調子で、奥村順四朗は戸棚を開けた。顔に似合わず、順四朗は甘い物には詳しい。



「ありがとう。配るの、手伝うよ」



 そして、三嶋一也もまたいつも通りだ。中西と対峙した時の激情は、今の彼の顔には無い。その顔を見ていると、小夜子はどうしていいか分からなくなる。



 "知らんぷりしていつも通りがいいのかな"



 それとも。



 "思い切って、勇気を出して聞いてみる?"



 迷う。

 迷う度に、決断出来ず、この選択を先伸ばしにしている。

 慎重と臆病の狭間で、心を揺らしながら。



「ありがと、一也さん」



 だがそんな内心はおくびにも出さず、小夜子は微笑むのであった。




******




 胸の内のもやもやとした感覚、それがどうしても晴れない。

 風が吹いても何故か戻ってくる煙のようだ。吹き散らされず、滞る。

 一也の思考の片隅に根を張って、その感覚は自分自身に問いかけてくる。



 元の時代に戻れると、本気で考えているのかと。



 このまま誰にも事情を明かさずに、ずっと生き続けていくのかと。



 "そんな簡単に答えが出たら、苦労しないんだよ"



 一也は寺川、そして中西との会話を思い出す。

 平成(げんだい)に戻ることについて、寺川は半分諦め、中西はそもそも戻る気が無いようであった。

 つまり、自分一人だけが元の時代に戻ることを現実的に考えている。



 "だが、今のところ手段は見つかっていない。明治(こっち)に飛ばされたあの時だって、何が原因だったのかさっぱり分からないしな"



 本庁の資料室を訪れ、タイムスリップが関係するような事件が無いか調べたりもした。

 全くの無駄という訳ではなかった。いわゆる昔話に出てくるような、神隠しや隠れ里への転移といった話は幾つか発見した。

 ただ、どれも民間伝承の範疇は出ず、結果的に一也を落胆させるだけだった。



「......也さん、一也さん」



 気がつくのが少し遅れた。視界の左、小夜子の顔が見えた。



「あ、うん。ごめん、何だっけ」



「何だっけじゃないですよー。お豆腐何丁にします? お店の人、困ってますよ」



「そうだった。すいません、木綿豆腐二丁でお願いします」



「はいよ、木綿二丁ね! 毎度あり!」



 豆腐屋の店主の威勢のいい声を聞きながら、一也は懐から小銭を取り出す。

 軒先には、大きな木桶が幾つか並べられている。

 透き通るような水の底には白い豆腐が横たわっており、水と大豆が溶け合った匂いがふわりと漂ってくる。



「これからもご贔屓に。しかし、あれだねえ、お二人さん最近は早いねえ」



「そうですか?」



「おうよ。ここんところ、帰りによく寄ってもらってるじゃねえか」



「そういやそうかな」



 店主に言われて気がついた。

 確かに春先までは、浄霊祭や秩父遠征で帰りが遅くなりがちだった。

 仕事帰りにこうして買い物をすることも、中々難しかった。



「あの頃、忙しかったですもんね、一也さん」



「そうだな。今はそうでもないけど」



「落ち着いたんなら何よりだな。そういや、今日はあの幽霊の姉ちゃんはいないのかい?」



 店主の何気無い問いに、一也と小夜子は、ほんの少しだけどう答えたものか迷う。けれど、その迷いはごく短かった。



「時雨さんなら、無事に成仏しまして。もう俺からは離れました」



「そうそう、元気に成仏されたんですよ! おじさんにもよろしく言ってました!」



「そうかい、そりゃ良かった。いやあ、しかしあの別嬪の幽霊の姉ちゃんがいないと、ちょいと寂しいやな」



 一也と小夜子の返事に、ははっと店主は笑う。一也もまた表情を緩めた。嘘だ。罪の無い嘘ではあるが、自分はまた嘘をついている。



「そんなこと言ってたら、おかみさんに叱られちゃいますよー......あ、そろそろ帰らなきゃですね。一也さん、行きましょうか」



「ああ。じゃ、失礼します」



「あいよ、また来てくれよな」



 豆腐屋の店主に頭を下げ、一也は歩き出す。豆腐が水に沈んだ小さな木桶を、小脇に挟む。小夜子がその横をてくてくとついてくる。



「本当に無事に成仏してくれてたなら、どれだけ良かったかな。今更言っても仕方ないけどさ」



「そうですけど――でも、時雨さんなら、もしかしたら、どこかで元気にしていたり」



 一也の自嘲混じりの言葉に、小夜子は上手く答えられない。

 一也の蘇生と引き換えに、時雨は自分の消滅を選んだのだ。

 下手に希望じみた事を言えば、その尊い選択を汚してしまう気がした。



「ごめん、こんな事言われても困るよな。小夜子さん、今日うちで食べていく? 甘藍(キャベツ)が大量に余ってるんだけど」



「え、いいんですか!? じゃ、遠慮なく!」



「ほんと、食べる事には遠慮無いよな」



 一也は少し呆れつつ、それでもそれ以上は言わない。一人で食べるよりは二人の方が美味しい、それは間違いないからだ。




******




「出来た」



「早いですよね、一也さん」



 小夜子が目を丸くする。

 確かに凝った料理ではない。ご飯、味噌汁、冷奴、そして主菜の甘藍(キャベツ)と鶏のぶつ切りの味噌煮込みである。

 手の込んだ部分は無い、けれどもとにかく手早い。傍らで見ていて、慣れているなあと思った。



「いつも似たようなもんばっか、作っているからな。もう手が自動的に動くよ」



「ああっ、私もお料理の種類が広がらないんですよね。蛤のお吸い物くらいしか、最近手を出してなくて。頑張らないとです」



「へえ、俺はあさり止まりだな」



 そう答えつつ、一也は土間の水瓶からサイダアの瓶を二本取る。晩酌の気分ではないので、今日はノンアルコールと決めていた。一本は小夜子の分だ。



 箸や茶碗もきちんと二人分ある。

 お互いに自分の分は部屋から持ってきて、食べ終わったら持って帰る。

 それを暗黙の了解として、最近になって時々一緒に食べるようになった。

 その意味では、二人の距離は少し縮まったのかもしれない。



「もうちょっと料理上手なら、ロールキャベツとか作れるんだけど。ちょっと俺には無理かな」



「えっ、どんなお料理なんですか?」



「挽き肉を丸めて、それを甘藍(キャベツ)の葉っぱでくるむ。それをスープで煮込む。煮崩れしないようにするのが難しい」



「わあ、美味しそうですね。ロウルキャベツかあ」



 一也の説明に目を輝かせながらも、小夜子はどこか腑に落ちない。

 こんな風に、一也は時々自分の知らない事を知っている。それは料理だけではない。新しい技術であったり、政治経済の事であったり、外国の事情であったり多岐に渡る。



 "今までは、一也さんは物知りなんだなと単純に思っていましたけど"



 だが、果たしてそれだけなのか。今まで不思議に思うことが無かった訳ではない。

 けれど、小夜子は自問する。一也は、三嶋一也は、いったい誰なのかと。



「もし上手になったら作ってみるよ。今日のところは勘弁な」



「はい。では、いただきます」



 不定形の不安を胸の奥に押しやり、小夜子は茶碗を手にした。上手く炊けた米の匂いが、胃を刺激する。悔しいが、食欲を優先せざるを得なかった。






 座っているのは、椅子ではなく畳の上の座布団の上である。

 料理に使う動力は、IHインバーターではなく薪である。

 物を冷やすのは、冷蔵庫ではなく水瓶の水だ。



 "こんな生活にも慣れちまったけどさ"



 差し向かいにいるのは、着物姿の小夜子である。サイドテールに結った髪だけが妙に現代的であり、一也は目を瞬かせた。



「どうしたんですか、一也さん?」



「ん、小夜子さんのその髪型っていつ頃からかなと思って」



「あ、これですか? 六歳くらいかな、それまではおかっぱだったんです。けど、お母さんが伸ばした方が女の子らしいって言って、そこからですね。飾紐(リボン)でくくれば、動く邪魔にもなりませんし」



「へー、じゃあ小さい頃からなんだね」



 小夜子の返答に、ちくと一也の心は痛んだ。思い出を共有する相手が、今の一也にはいない。

 不用意な質問だったと後悔しながら、締めのお茶漬けを啜る。具は、昨夜の残りの塩鮭を乗せただけ。シンプル極まりないが、塩気が緑茶に溶け込んで妙に旨い。



「はい、もう慣れちゃいました。たまには違う髪型にしようかなとか思うんですけど、結局これに戻っちゃいます」



「そっか。似合っているし、いいと思う」



「えへへ、そうですか? ありがとうございます」



 嬉しそうに笑いながら、小夜子はお茶を一口飲んだ。

 いつしか日は暮れており、窓の外は暗くなっている。

 おもむろに一也は立ち上がり、窓の外を覗いた。ひらひらと視界を横切る物がある。

 桜であった。うっすらと紅を纏った白い桜の花びらが、春の夜風に舞っている。



「何見てるんですか、一也さん?」



「ん、ああ、夜桜。そういえば、第三隊でいく花見ってそろそろだったよね」



「三日後ですよ。一也さん、場所取り任されてたでしょ? しっかりして下さい」



「悪い、思い出したよ」



 小夜子の方へと振り返りながら、一也は花見の件を思い出す。

 そろそろ散り始めた桜を最後に楽しもうということで、ヘレナが企画したのである。

 新人である一也が場所取りを命じられるのは、仕方が無いことだった。



 "花見か。サバゲー部でも行ったなあ"



 もう一度、窓の外を見る。夜風の悪戯か、数枚の桜の花びらが部屋の中へと落ちた。

 畳の上に散った白い花びらが、何故か今日に限って郷愁を刺激する。



 "家族でも何回か行ったっけ。母さんが弁当作ってくれて"



 別に特別な場所へ行ったわけではない。家から車で三十分の距離にある、県営の公園である。キャンピングシートを敷いて、そこに座った。

 あの時は確か自分は八歳くらいか。風が吹く度に桜が散って、その度に大声をあげて。



「......あの、一也さん」



 小夜子の遠慮がちな声が聞こえる。

 けれども、一也は小夜子の顔を見ることが出来ない。

 畳に散った桜の花びらだけに視線を落とし、顔を上げることを拒否する。



「――何でも、ない」



 それしか、言えなかった。

 喉の奥から絞り出した声が普段通りでは無いことくらい、自分が一番良く知っていた。

 畳の上の桜が、酷く滲んで見えた。

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