月夜に大鎌は翻る
月の煌々とした光が、その場を照らし出していた。三日月よりはやや満ちた、七分ばかりの上弦の月である。とっぷりと暮れた春の夜は月光に満ち、地面や家屋は青く濡れたように見える。
「帰っていろと言ったろう」
「いやあ、たまたま月夜の散歩と洒落こみたなってん。気にせんといて」
そんな夜の片隅に、ヘレナと順四朗はいた。
二人は並んで立っている。言葉は交わすも、目は合わせていない。
いや、正確には合わせるだけの余裕が無いのだ。
「私は別に構わない。用があるのは、そこの魔女一人だがな」
くぐもった声が響いた。
二人の前方、三間余りの位置からである(一間=約1.8メートル)。
その声の主の顔は分からない。黒っぽい頭巾に隠され、かつ、ここが浅草寺の裏手だからである。
月光の生み出した影に、その人物の姿は呑まれていた。
"こいつ......何者だ。何故、私の名を知っている"
緩く息を吐きながら、ヘレナは考える。
神谷バアで視線を感じたが故、店から連れ出す形でここまで来た。
それはいい。だが、相手の素性はまるで分からない。
"悪党どもに名前が知られていない訳ではないが――あの時まで、私に気配すら感じさせなかった"
間違いなく、こいつは強い。
神谷バアで視線を感じはしたが、あれはこの相手がわざと気取られるようにしたからであろう。
それを確かめる術は無い、だがほぼ確実にそうであろうとヘレナは推測していた。
「女性をこっそり盗み見か。あまりいい趣味とは言えないな」
「これは異な事を言う。あんなあからさまな観察ならば、容易に気がつくと思っていただけのことだよ。仮にも鉄旗教会に名を連ねる者ならばな」
その人物の返答が、ヘレナの心を寒からしめる。
自分の名前だけではなく、グレゴリウス鉄旗教会の一員であることすら知っているのだ。
相当こちらについて踏み込んだ知識があると見ていい。
「あのー、緊迫したとこ悪いねんけど」
その場の空気を和らげるように、順四朗が声をかけた。ヘレナも、そして頭巾の人物もやや気勢を殺がれた形になる。
「あ、喋ったらあかんかったかな? 黙っといた方がええ?」
「......面白い男だな。貴女の部下かね」
「部下でもあり恩人といったところさ。許可する、存分に喋れよ」
「そしたら遠慮なく。あんた誰なん」
迷うことなく、奥村順四朗は最大の関心事に斬り込んだ。頭巾の人物は肩をすくめる仕草で、それに応える。
「まさかそちらから聞かれるとは思わなかった」
「誰が聞いたって一緒やろ。ほんで、お名前は? 住所は? ご職業は何を? ああ、一応これ取り調べなんで悪う思わんといてな。見ての通り、まだ勤務中やねん」
ぽんぽんと勢いよく言い放ち、順四朗は自分の制服姿を示すように手を広げた。その間にも、順四朗の目は相手を観察している。
"ごっつ身長高いな、六尺四寸か、五寸辺りか。幅はそうでもないけど、そこそこ鍛えとるんは分かるわ。発音に癖あるし、異国の人間やろうか"
ヘレナと違い、順四朗には魔術や呪力についての知識は無い。その為、戦力分析はあくまで物理的な側面に限られる。
手強そうだが、達人の域ではなかろうと踏んだ。
だが、戦力を隠し持っている可能性は高い。
袖の長い洋服には、暗器を仕込んでいるかもしれない。
懐に短剣を忍ばせている、あるいは格闘術を身に付けている可能性もある。
ヘレナや小夜子を見てきた順四朗だけに、術士は術だけには頼らないことを知っていた。
「勤務中に飲酒ときたか。日本の警察官の勤務態度を疑うね」
揶揄、それ以上でも以下でもない。その口調に乱れはなく、頭巾の人物は平静そのもの。
「おあいにくさま。酒くらいで判断力鈍らせるほど、やわな鍛え方はしてへんねん。まして警官にガン飛ばすような不逞の輩なんか、嫌でも目につくわな」
「順四朗」
ヘレナが引き留めにかかる。自分の右肘に、軽くその手が触れた。退けという無言の合図。けれども、順四朗は。
「どうも隊長と関係ある相手みたいやけど、行かせてもらうわ。捕らえたら必要なことは吐くやろ。そしたら――行くでっ!」
小さな笑みを残して、振りほどく。そのまま一気に踏み込んだ。
刀はその腰には無い。
高城清和との戦闘で破損した為、今は修理中である。
代刀のサアベルを借りてはいたが、それも本拠の倉庫の中だ。
故に無手。一切の武装無しであった。
「速いな、だが読めるか」
くぐもった声が聞こえたと思った次の瞬間、順四朗は体勢を崩されそうになった。
相手の右袖を左手で掴まえたのだが、逆に引っ張られたのだ。
順四朗より反応速度は速く、しかも体格に比例して力も強い。
逆に、相手の左手が順四朗に伸びる。
奥襟目掛けて伸びるその手を、順四朗は右手で払った。体の内から外へ廻すような払い、つまりは空手の回し受けだ。
円の軌跡に手を弾かれ、頭巾の人物が驚いたような声をあげる。
「ほお、やるものだな」
けれども、その言葉に順四朗は惑わされなかった。
下から跳ね上がってきた強烈な膝蹴りを、自分の左膝で防御する。
じんと痺れるような痛みが走るが、腹に直撃しなかっただけましか。
束縛は諦め、袖を掴んでいた左手を放した。
「でかいのにええ動きしとるやん、自分」
「それはどうも。だが、この程度で驚いて貰っては困るな」
仕切り直しとばかりに、二人は睨みあった。
ざわ、と夜風が吹く。
ひらり、とその暗い風に舞うのは、白い桜の花弁であった。
そして散りゆく夜桜に合わせるかのように、凛と響く声がある。
「Danke、順四朗。後は私の役割だ」
「もうええ? ほな交替しよか」
ヘレナであった。下がる順四朗と入れ替わるように、前に出る。
すれ違う瞬間、彼女は軽く頷いた。
自分を気遣って順四朗が先に仕掛けたという事を、分かっていたからである。
"無意識の内に、かっとなっていたな"
かなり高いと思われる相手の実力、そしてアイゼンマイヤーの家名や鉄旗教会の存在への言及。
警戒心が煽られ、ヘレナ自身も気がつかない内に、顔に出ていたに違いない。それを気遣い、順四朗が先に仕掛けたということである。
その真意に謝意を示さぬ程、ヘレナは不義理な人間ではない。
「待たせたな」
頭も冷えた。ごく短い時間ではあったが、順四朗と相手の戦いを観察することも出来た。体も心も整っている。
「ようやく真打ち登場かね。待ち兼ねたと言いたいところではあるが、ふむ......あの祖父の領域にはまだまだと言ったところか」
「――なるほど。祖父が最後に書き残したのは、お前のことか」
相手の顔は頭巾に隠れ、視線一つすらも伺えない。その言葉も嘘かもしれない。
だが、ヘレナの心臓は自然と鼓動を速くする。
自分が日本に来たもう一つの理由、即ち亡くなった祖父の仇らしき相手が目の前にいるのだから。
「ふふ、あの老人には手を焼いたよ。ちょろちょろと動き回り、私の邪魔をしてくれたからな。余計なことさえしなければ、もう少しは長生き出来ただろうに」
「同じ台詞をそっくり返させてもらう。余計な立ち回りで私の怒りを煽らねば良かったとな。心底自分の愚行を呪え!」
ヘレナの激情が急速に発火する。
祖父の死にこの人物が関係しているのは、最早間違いない。
ならば、言葉は不要だ。こいつが現れた理由は分からない。だが、単なる気まぐれだったとしたら、たっぷりと後悔させてやる。
しかしながら、場所が場所だ。
闇に紛れた浅草寺の裏庭とはいえ、人目が無い訳では無い。使える魔術は限定される。
派手な爆発や燃焼は厳禁だろう。ならば、武器を持てばいい。
「我が右手に宿れ。呪いの化身、血を啜る暗闇、万物刈り取る死神の象徴――上位魔術が一つ、黒之大鎌!」
魔女の手に顕現するは、闇を煮詰めたかのような漆黒の大鎌であった。
自分の身長よりも遥かに長い柄を握り、ヘレナはその長尺武器を横に伏せるように構える。
これならば、夜間に目立つことも無い。
寸法に目を瞑れば、闇に溶け込む暗器と言えなくもなかった。
「ほう、中々大層な武器を使う。武装魔術か、流石にそれを相手に素手は無謀――」
頭巾の奥から、相手はくぐもった声をあげた。
それが詠唱も兼ねていたのだろう。相手の右手周辺の空間が歪み、赤黒く彩られる。
どくん、と鈍い音が一つ。それが合図であったのか、相手は空間から武器を取り出した。
まるで不可視の鞘から抜刀したかの如く、その右手は一本の剣を掴む。
「――使わせてもらうぞ、アイゼンマイヤーの娘」
細く、先端に近づくにつれて僅かに幅を狭める形の長剣であった。
刃は三尺に僅かに足りないか。
高城清和が使っていたような、幅広く重さで叩き斬る長剣では無い。一見破壊力は無さそうだが、相手はまるで意に介していないらしい。
現にヘレナの大鎌を前にして、全く怯んだ様子が無い。
「好きにしろ。どの道、洗いざらい吐いてもらうまでは、付き合ってもらう」
「よろしい、その挑戦受けた。魔女の血脈の力、楽しませてもらおうか」
闇が揺れた。
ヘレナと頭巾の相手が、同時に一歩踏み出す。
この戦いを見守るべく、順四朗はかなり距離を空けている。
素手の彼が踏み込める領域ではない。
お互いの闘志がぶつかり、見えない火花を散らす。そして唐突に、戦いの幕は切って落とされた。
まず間違いなく、相手は男だろう。そうヘレナは踏んでいた。
身長、声音、体の輪郭から考えれば、妥当な推測である。
仮に相手が女であっても容赦はしないが、男ならば尚更遠慮は無用というものだ。
「削られろ!」
滑るように、相手の間合いへ侵入する。そこから間髪入れず、黒之大鎌を薙ぎ払った。
武器の尺を生かし、遠目の間合いから切り刻もうという目論みだ。
しかし、それでもその一撃はやや遠すぎるように思えた。
「むっ!?」
だが、相手は構えた。大鎌の黒い刃が届かないのに、その細い剣身に重圧がかかる。空気そのものが塊となり、こちらを押し潰すようである。
黒之大鎌の特性、それは周囲の空間を巻き込み、根こそぎ切り裂くという追加効果だ。
当たる、少なくとも掠めるだろうとヘレナは予想していた。
だが、いなされる。
相手の細身の剣の一振りで、荒れ狂う空気の刃は止められた。
それどころか、続く返しの一撃がヘレナを襲う。
その長い腕を最も生かせる攻撃、即ち突きだ。
「くっ!」
ヘレナはこれを防御した。
引き戻した鎌の柄で、横に弾いたのである。
だが、相手の二撃目、三撃目が立て続けに襲ってくる。
黒之大鎌の空間防御でこれをかわすも、危うく体を掠めそうになった。
「やれやれ......やはりまだまだ摘むには早いか!?」
やる気の無さそうな呟きとは裏腹に、四撃目は更に速度と威力を増した。
斬撃よりも突きに向いた剣なのか、闇を切り裂く銀光はさながら雷光を思わせる。
ほとんど勘だけで、この一撃をヘレナは交わした。
大きくのけ反り、そのまま間合いを突き放す。
くるりと後方に反転しながら、無我夢中で大鎌を振り回した。
足止めくらいにはなったのか、相手の追撃は無い。だが、身軽に着地するヘレナの背を戦慄が走る。
着地した自分の右足のすぐ手前、そこが酷くへこんでいた。
着地した時に、自分の靴の爪先が抉ったかと思ったが、明らかに違う。
鉄球を落としたかのように、地面がひしゃげているのだ。
「空間の圧削を跳ね返した、だと」
「正解だ。あわよくば当たるかと思ったが、流石に外してしまったがな」
いとも簡単そうに相手は言うが、ヘレナにしてみれば冗談では無い。
魔術で形成した武器の効果を跳ね返すには、卓越した見切りの技術と豊富な魔力操作が必要となる。
それをいとも簡単にやってのけられた。それは即ち、相応の実力差があるということである。
「どんな気分かね。自分の武器の効果が自分に向かってくるというのは?」
相手の声が、夜を通して聞こえてくる。
悪夢にも似た状況、けれどもヘレナの眼光に怯えは無い。
肌にぴりぴりと刺さるような緊張はあっても、恐怖に駆られてはいなかった。
「最悪だよ、と正直に言っておく。だが、ここで退く程素直ではないんでな」
「あくまで諦めないか。それも結構」
「仇を前におめおめ逃げるような孫では、冥府の祖父に会わせる顔がないのでね」
両者の間に、再び緊張が張り詰める。濃密な魔力と闘志が混合する。
その両者の対峙に、順四朗は数歩下がらざるを得なかった。危険な事態だと、彼の経験が告げている。
「やばいんちゃうんか、これ」
口から独りでに漏れた呟きより早く、大鎌と長剣が唸りをあげた。
******
"馬鹿な"
手を見る。そこには無い。自分の切り札の一つ、万物を切り裂く黒之大鎌が無い。
"消滅させられたなど、そんな馬鹿な"
ぐるぐると混乱が頭の中を駆け巡る。
がくんと膝が折れる。
巻きスカアトの生地を通して、寺の敷地に敷かれた砂利の感触があった。
"ここまで戦力差があるなど"
「これが現実だ。アイゼンマイヤーの娘」
冷ややかな声に、ヘレナは俯いていた顔を上げる。
眼前に突きつけられるは、鋭く研がれた剣の切っ先。
その先を辿れば、ヘレナの視線は相手の頭部に向かう。まだ頭巾に隠れているため、顔は分からない。
だが、自分を見下ろす視線だけは何故か分かった。
「まだ力不足だな。我が糧とするには、物足りないか......」
醒めた声と同時に、剣が引かれた。
それでもヘレナは動けない。体への傷はしれているが、心が折られていた。
これ以上無い程の完敗を刻み込まれた。
体と心が切り離されたかのように、手足が言うことを聞かない。
"これ程までに歯が立たなかったのか"
折れた心が更にひしゃげた。
「さて、ここで命を奪うのは簡単だが......おっと、待ちたまえ、そこの男。本当にそうする気は無い」
思わず身じろぎした順四朗を制し、相手はヘレナを見下ろす。右手の長剣を消しながら、言葉でヘレナの心を抉る。
「今のお前に価値は無い。もう少し時間をやる、精々強くなってみろ。そして私を探し出せ。頃合いと見たならば、その時こそが真に雌雄を決する時」
「......く、ぐぐ」
「届かぬ刃では、仇を取ることなど到底無理だ。追ってこい、正当なる魔女の血脈者。手掛かりだけはくれてやる。お前にその気があるのなら、私と貴様は再び運命の十字路にて交差する」
相手の大きな手が、何かをつまみ上げた。鈍い光を放つのは、その首から鎖でぶら下げていた十字架だ。まるで詩の朗読でもするかのように、深く低い声が響く。
「名は明かさぬ。だが、私は露西亜正教の後継者にして、ロマノフ王朝の最後を看取る者。それだけ覚えておけば、いずれお前は私を見つけられよう。アイゼンマイヤーの娘よ、今宵は良い夜であったな」
急速に声が遠退く。
目眩を覚え、順四朗は慌てて首を振った。その時には、既にあの謎の頭巾の相手は消えていた。
足音一つ立てず、特務課第三隊の二人の前から、いともあっさりと消失したのである。
「隊長、動けるか」
順四朗の声に、ヘレナの背がぴくりと反応する。
振り返らない。順四朗の目は、うずくまったままのヘレナの背しか見えなかった。
鉛を詰め込んだかのように、体は重い。心は泥にまみれている。
けれども、やがてヘレナは顔を上げた。ゆっくりとだが、視線を地面から上空へと向ける。
「露西亜、か」
青く濡れた月を仰ぎながら、魔女は小さく呟いた。




