魔女と剣士は神谷バアにて
春の闇はどこかに明るさを含んでいる。
それは日中の陽気が逃げず、夜の奥底に漂っているからだろう。
根拠など当然無いこの思い込みを、奥村順四朗が抱き始めたのはいつからだろうか。
"春は曙言うから、季節的にも明るい季節なんやろ。だから多分、それでええねん"
少なくとも自分一人が納得する分には、それで十分であろう。そんなことを考えつつ、目の前の見慣れない酒杯を眺める。
細長い逆三角形の酒杯には、黄色みを帯びた透明度の高い酒が注がれている。
天井から吊るされた洋灯の光がそれを透かし、複雑な濃淡をつけていた。
「どうした、飲まないのか」
「あんまり洋酒は口にせえへんから、つい用心深くなってんねん。飲む気はあるで」
「警戒する程、強い酒じゃないさ。三嶋君や小夜子君だって口にしていたからな」
順四朗が飲まないので、彼の向かいの女が声をかけてきた。
女は黄金色の髪を青い飾紐で後頭部に結い、ごつい硝子のタンブラアを掴んでいた。
言わずとしれた、特務課第三隊の隊長、ヘレナ・アイゼンマイヤーである。
足首まである長い巻きスカアト姿は洒落ており、とても警視庁きっての武闘派には見えない。
「ああ、言うてたな。確かこの店であの二人と出会うたって」
「もう一年前になる。小夜子君が酔っ払っていて、三嶋君が苦労していたな」
ヘレナの微笑混じりの返答を聞きながら、順四朗は酒杯を傾けた。
ここ、神谷バア名物の電気ブランなる酒が喉を転がり落ちる。
焼けると思ったのも束の間、濃い蒸留酒の香りが喉の奥から弾けた。
日本酒には無い熱が、順四朗の胃に駆け抜ける。
「きっつい酒やな。嫌いやないけど」
「基本はブランデエらしい。葡萄を原料とした蒸留酒だから、独特の癖はある」
「あの二人、ようこんなん飲んでたな。初心者にはきついんちゃうん」
「多分、小夜子君が好奇心から飲み始めて、三嶋君は巻き込まれたんだろうよ」
一年前の風景を思い出しつつ、ヘレナもまた酒を煽った。
タンブラアの中の飴色の酒は、ウィスキィである。銘柄は良く知らないので、神谷バアのマスタアに選んでもらった。
カロン、と軽い音が鳴る。タンブラアの中の角氷が、硝子に触れた音だ。
「高城美憂の移送、あの二人に任せて良かったのかな」
ヘレナはぽつりと呟く。
「何を今更。あのお嬢ちゃんにしても、逃走企てるような気力無いやろ。血液呪法は封じてあったし、心配無いって」
電気ブランを一口含みつつ、順四朗が答えた。着替えるのが面倒だったのか、こちらはまだ制服のままである。
「そこは心配はしていない。ただ、何となくだが、嫌な予感がする」
「何となくって、またヘレナ隊長らしゅうないな」
「しょうがないだろう、胸騒ぎとしか言いようが無いのだからな」
「そういう時もあるわな」
相槌を打ちつつ、順四朗はまた一口、電気ブランを飲む。
単なる気のせいであっても、妙に不安を感じる時はある。今日のヘレナが、たまたまそういう状況なのだろう。
喫煙可能であることを確認してから、煙草に火を点けた。
程よく酔いが回り始めた頭に、紫煙が忍び込む。そのせいか、少し口が軽くなった。
「隊長、あの二人見てどう思う?」
「どうとは?」
「鈍いなあ。上手くいきそうかどうかってことや」
順四朗の問いに、ヘレナはすぐには答えなかった。
タンブラアの氷がウィスキィに馴染んだのか、またピシリと鳴る。
それを待っていたかのように、ヘレナはようやく口を開く。
「三嶋君と小夜子君が今後恋愛関係に発展しそうかどうかという点だよな。相性は悪くなさそうに見えるが」
「せやね、己も同意見」
「恋愛関係に踏み出すには、今の関係を突き崩す必要がある。その勇気があの二人にあるかなという点は、不明瞭だ」
「小夜ちゃんから言い出すんは、酷やなあ。けど、一也んから言い出すかどうかって言うと」
「それもまた難しいな。三嶋君は小夜子君をどう思っているのか、そこが分からないから。小夜子君は分かりやすいんだけど」
「一也んて、不能っちゅうことないよな......?」
「......箱根で女風呂覗きかけていたから、それは無いだろうよ」
ヘレナは幾分決まり悪そうな顔になる。
未遂に終わっていたのであの程度で済ませたが、本当に覗かれていたらもっと怒っていただろう。
別に三嶋一也を男性として好きか嫌いかという問題ではなく、けじめの問題である。
「その内、何とかなるさ。小夜子君は可愛いからな、三嶋君もどこかで彼女の良さに気がつくよ」
「そう願いたいわな。そういう意味では、今回の横浜への移送を二人だけでっちゅうのは、いい機会ちゃうん」
「そうかもしれないね。大過なく終わらせて帰ってきてくれれば良いんだが」
「あの二人に手出せる奴なんか、そうそうおらへんて。大丈夫、大丈夫」
軽く笑いながら、順四朗は煙草を深く喫う。洋灯の明かりが仄かに照らす店内を眺めながら、ふと頭に浮かんだ疑問を口にした。
「隊長って、独逸に帰国願いとか出してへんの? 前に、国に帰って結婚するとか言うてた気がすんねんけど」
「ん、具体的には申請していない。日本に来てから三年経ったし、ぼちぼちかなとは思ってはいるが。何だ、それがどうかしたのか」
「いや、ふと気になっただけ。結婚への焦りとか無いんかなとか」
「それはむしろ私がお前に言いたいな。今年で二十七歳で独り身だろ、そろそろ身を固めたらどうだ? この国の結婚事情には詳しくないが、いい年齢には違いないだろ」
「うっ、痛いところ突くやん。別に結婚したないわけやないけど、何となく機会が無くてやな」
「見合いでもしてみてはどうだ。何なら私の伝手でも使うか?」
この時ヘレナは半分冗談、半分本気である。順四朗もその意を正確に受け止め、少し考えるふりをする。
「何か隊長経由やと、無理矢理結婚までいかされそうな気がすんなあ。ちょっと考えさせてくれへん」
「それは承諾と受け止めるが、いいんだな」
「今の返事から何でそういう解釈になるねん」
「外国人なんでな。日本語難しい、ワタシワカラナイ」
まるで掛け合い漫才である。無論、順四朗もヘレナも分かっていてやっている。その程度には、付き合いは長い。
"結婚ねえ"
順四朗自身、真剣に考えていない訳ではない。
しかし、どうせならば地元の大阪に帰ってからという気持ちはある。
別に東京の女性が嫌な訳ではないが、やはり関西弁が聞こえてこないのは寂しい。
"そういえば、昔、ヘレナ隊長なんかどうかって警視総監に言われたことあったな。絶対冗談やろけど"
断言出来る。無理である。
別にヘレナが嫌だとか、女性としての魅力が無いとか、そういった理由では無い。
そもそもそういう対象として、全く考えたことがなかった。
文化も人種も違う相手だ。
個人的な親しみは覚えても、お付き合いとなると現実味は無い。
"こいつ、さっさと結婚しないと本当に手遅れになるんじゃないか"
一方、ヘレナの方は順四朗を案じていた。
自分より六つ歳上でありながら、この部下には身を固める気配が無い。
お節介ながら、見合いの一つくらいは企画してやらねばという使命感が湧いてくる。
ウィスキィを喉に流し込みつつ、この男との出会いを思い出す。
"いいところはたくさんあるんだがなあ。優しいし、気は利くし"
そうは思いつつ、順四朗と結婚などあり得ないとだけはヘレナは断言出来た。
端的に言えば、好みでは無いのだ。
そこに国際結婚は面倒だ、歳の差があると理由を重ねれば、全く論外である。
とはいえ、背中を預けられる相手としては申し分無い。
腕も立つし、頭の回転も速い。
第三隊以外を希望するなら、出来る限り推挙してやろうと評価しているぐらいである。
「さて、どうしたものかなあ」
「何がやねん」
「幾つになっても結婚の気配すら見せない順さんを、どうしようかって話さ」
「ほっといてくれへん? あー、昔はこんな嫌みは言わんかってんけどなあ。順さんて素直になついていたのに」
「人を犬みたいに言うなよ。噛むぞ」
いつもの調子のやり取りは、日々の仕事の疲れを酒と共に癒してくれる。
こってりしたレバアパテをつまみに、ヘレナはまた一口ウィスキィを飲んだ。
酒飲みだという自覚はあるが、人に迷惑をかける程飲んだことは数える程しか無い。
「ううん、他人の恋路より自分の結婚心配せなあかんのは確かやな。隊長にいじられるんも嫌やしな」
「その気になれば何とかなるだろうよ。しかしだ」
「どしたん、いきなり真剣な顔になって」
順四朗にすぐには答えず、ヘレナはタンブラアを持ち上げた。飴色のウィスキィの香りを楽しむように、その整った鼻先に近付ける。
「――結婚したら、こんな風に飲み歩くことも出来なくなるな。子供が産まれたら、尚更か」
「そらしゃあないやろ。家で旦那と晩酌したらええんちゃうん」
「順四朗らしくないな。酒は何を飲むかより、何処で飲むかが重要だと思わないのか。いつもと変わらない日常の延長線の上で飲んだって、大した気分転換にはならないだろ? だからわざわざ酒場に繰り出すんじゃないのか」
「そやな。けど、所帯持ちの先輩方見てたら、たまに不満こぼしつつも概ね幸せそうやで。二条さん、覚えとる? 剣道教えてくれた人」
「ああ、親切な人だったな。その二条さんがどうかしたか」
「あの人な、いつも買う酒同じやねん。多摩の出身やねんけど、そこの地酒の一升瓶。飽きないんかな思て、一回聞いたことあんねん」
「ふむ、それで?」
「飽きへんねんて。家で奥さんとぐい飲みで一杯、いつも同じ酒。それで十分やねんてさ」
話しつつ、順四朗は電気ブランを舌に転がした。
ふわっと葡萄らしき香りが口中に拡がり、それを楽しむ。
付き合うように、ヘレナもウィスキィを飲む。
周囲のざわめきに耳を傾けつつ、互いに自分の酒を楽しんだ。
「結婚したら私もそうなるのかな」
「さあ、けど多かれ少なかれそうやろな。結婚して全く変わらへんままやったら、別に一緒になる必要ないんちゃう」
「へえ、意外だね。結構真面目に所帯持ちになる意味を考えてるんだ」
「ぼちぼち親父やお袋からも手紙で急かされとんねん。はよ孫の顔が見たい言われたら、嫌でも考えるやろ」
「はは、苦労してるじゃないか。マスター、お代わり。彼と私に同じ物を。そうだな、ポオトワインを」
ぱちりと指を鳴らして、ヘレナが注文を追加する。
神谷バアのマスターは頷き、すぐに注文の品を持ってきた。
滑るように卓上に置かれた硝子のワイングラスに、トクトクと赤い葡萄酒が注がれる。
「甘口ですが、ご注意を。では、ごゆるりとお楽しみ下さい」
折り目正しい笑みとお辞儀を一つ、マスターはすぐに下がる。それを見送ったヘレナは、片方のワイングラスを順四朗に勧める。
「将来の切実な悩みは、今夜の酒が忘れさせてくれるさ。口直しにはうってつけだぞ」
「奢ってくれるん? 優しいやん、隊長」
「おいおい、私はいつも優しい上司だと思っているんだがな」
順四朗はにやりと人の悪い笑いを浮かべ、ヘレナもまた同じような笑いを浮かべる。
細い杯脚を指で摘まみ、二人はワイングラスを傾けた。ポオトワインの深い赤紫色が、洋灯の光に透き通る。
「ほな、お互いにええ相手と結ばれるように」
「前祝いと洒落こもうか。乾杯」
チン、と澄んだ音が響き、穏やかな店内の空気に溶けていった。
******
程よく酔いが回っていた。問題にならない程度に気持ちが良くなり、疲れが抜けた状態だ。
ヘレナは自分の手を見た。少し赤い。血の流れが良くなった為だろう。
「ぼちぼちお開きの時間やんな。これ以上飲んだら、二日酔いやろ」
対面の順四朗が最後の一口を飲み干し、煙草に火を点ける。ヘレナとしても異論は無い。
「そうだな、ここらで十分だ。会計済ませてくる」
「えっ、全部持ってくれるん? そりゃちょっと悪いやろ」
「構わない。その代わり、次はお前持ちな」
そう言い残して、席を立とうとした時だった。
"――何だ、この圧力は?"
ヘレナの動きが止まる。
急に自分の周囲の空気が重くなった。いや、それは錯覚だろう。現に周囲の様子は変わらない。
歓談する者、注文する者、給仕する者、酒にくだを巻く者、こちらを注視する者――注視だと。
一人の人物が、ヘレナの注意を惹いた。
カウンタアの隅。壁際の席に座り、一人で酒杯を傾けている。
姿勢が姿勢だけにはっきりした体格は分からないが、それでもかなり大柄なようであった。その人物の視線を感じたのだ。
"やれやれ、やっと気がついてくれたか"
ヘレナの意識に何かが触れた。男性らしき声だと思ったが、すぐに思念の類と気がつく。
耳からではなく、頭の中に直接響くようなこれは、魔術や呪法を使う者ならば馴染みはある。
"――何者だ"
視線があった件の人物を声の主と断定し、ヘレナは無言のまま答える。
的はずれであれば笑い者だが、どうやらそれは免れたらしい。
視線の持ち主がカウンタアから立ち上がる。黒く染めた詰め襟の服、その首からぶら下がる鎖付きの十字架が見てとれた。
顔は頭巾を被っている為、確認出来ない。
"アイゼンマイヤーの娘ならばもう少し使えるかと思ったが、期待外れであったかな"
重く、それでいて嘲笑を含んだ無言の笑いに、ヘレナの警戒心が一気に跳ね上がった。
酔いが吹っ飛ぶ。伝票を卓に起き、その人物へと体を向けた。
「どしたん、怖い顔して?」
「順四朗、先に帰っていてくれ。どうやら」
ヘレナの声が微妙に震えていることに、奥村順四朗は気がついた。そして、同時に視界に捉える。ヘレナの視線の先に立つ、黒っぽい服を着た人物を。
「今夜は長くなりそうだ」
魔女の双眼が、青緑色に煌めいた。




